別冊NHK100分de名著 メディアと私たち (教養・文化シリーズ)

  • NHK出版
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  • Amazon.co.jp ・本 (176ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784144072376

感想・レビュー・書評

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  • ※テレビ本編の方の感想です。
    再放送されていたのを観たけどサイコーでした。めちゃくちゃ面白い!
    ちなみに朗読は滝藤賢一さんで、初回放送は2年前なのでまだ島津アナの頃。

    『100分de名著』自体良い番組だけど、たまにある100分間1本勝負スペシャル。この『メディアと私たち(メディア論)』は特異で、番組制作スタッフの「意思」がものすごく感じられる「作品」になってる。「俺たちはこういう番組を作りたいんだ!」「視聴者の皆さんと一緒に考えていきたいんだ!」と。
    そしてやはりギャラクシー賞やATP賞など受賞している。観て面白かった、良い番組は受賞してることが多いです。

    この番組(と書籍化×2回)の内容はものすごくわかりやすくて面白い、知的好奇心をビリビリと刺激するものだったんですが、レビューで内容を説明するのは難しい……「とりあえず観て!もしくは書籍版を読んで!」としか言えない。なので私なりに軽く説明します。


    私は映画をわりとよく観てるんですが、数年前に気づいたことがあって。
    それは「映画は観客が観たがるものを観せている」ということなんです。これはホラー映画、エロ、バイオレンス……などなど、マトモな人には嫌悪されがちな(そして私は大好きな)ジャンルを考えていて気づいたことでした。そしてこういうジャンル以外にも、恋愛映画やドラマ映画など全てに当てはまることだと思います。

    これらは社会の投影であると同時に、観客(大衆)が意識的or無意識的に観たがっているから作られるんです。
    つまり、大衆がバカだとバカみたいな映画ばかり、儲け優先でつまらない映画ばかりが作られることになります。
    そして、メディアによって大衆は簡単に影響される。(いちおうまだ新しいメディアの)インターネットでデマが拡散してしまう…なんてのはよくあること。

    さらにもう一歩進めて、「これって民主主義の政治と似てね?」と思っています。政治家を選んでいるのは我々大衆で、見たいものを見せる。
    だから民主主義というのは、国民が意識を高くもって、常に政治を監視していないと危険でもある。

    導入部、1冊目に紹介されたリップマンの『世論』の話では、映画というメディアについても語られます。
    (出てきたのは例のグリフィスの『國民の創生』。なので町山智浩『最も危険なアメリカ映画』と、スパイクリー監督の『ブラッククランズマン』がおすすめです。)

    100分de名著スペシャルではいつも、4人の紹介者がひとり1冊、計4冊紹介&解説されます。
    今回は
    ・ウォルターリップマン『世論』(堤未果さん)
    ・エドワードWサイード『イスラム報道』(中島岳志さん)
    ・山本七平『「空気」の研究』(大澤真幸さん)
    ・ジョージオーウェル『1984年』(高橋源一郎さん)
    の4冊。

    この中で読んだことがあるのはオーウェルの『1984年』のみ。私はオーウェルのファンで、元々彼の本を読みたくて読書趣味が始まりました。他にも何冊か読んでいます。
    だから、この番組のトリが『1984年』というのはすごく興奮しました。

    サイードについては、イーライロス監督の『ホステル』というスプラッタ映画の、町山智浩さんのブログにて知りました(正確には山形浩生が町山ブログにツッコミ、いやいちゃもんをつけてて知った)。それは「オリエンタリズム」についてで、あーあの人か!と。
    番組を観るまでサイードがどういう人かはよく知らなかったのだけど、現代イスラム史、特にイラン革命〜アフガン紛争以降はすごく興味があるので、めちゃくちゃ読みたくなりました。
    (ちなみに私が今まで読んだのは
    長倉洋海『マスードの戦い』
    内藤正典『となりのイスラム』
    銃撃されて亡くなられた中村哲さんの『天、共に在り』
    など。『マスードの戦い』と『天、共に在り』はすごく面白かったのでおすすめです。)

    話の中で夏目漱石の『倫敦消息』などからの引用も出てきまして、ちょうど『倫敦塔』を読んでいたところだったので面白かったです。

    サイードが「オリエンタリズム」を提唱したのは先にも書いたけど、「ステレオタイプ」という言葉はリップマンから。それから「冷戦」という言葉はオーウェルが言い出してリップマンが広めたそうなので、この作家たちの重要性が窺い知れます。

    山本七平さんについては、読書会で知り合った同い年の方が好きだと言ってたような……。うろ覚えだけど、その人の読書の趣味はすごく好きなのでこちらも読みたいです。
    番組の内容から、以前から読みたかった『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』を連想したのですが、Amazonで『「空気」の研究』を検索すると「この商品を買った人はこんな商品も…」に出てきてウケました。ビッグブラザーに監視されているのか……。

  •  私たち自身がどのような視点やバイアスを持ってメディアやネットの情報に接しているかを考えさせられる。特に日本人特有の「空気」について論じた『「空気」の研究』に興味を持った。戦艦大和の出撃が決定された「空気」や、身近なものでは会社の会議で最高決定権を持つ人の発言への忖度など、個人の意思に反していても集団になると正反対の決定が下される恐ろしさときたら。『世論』も皮肉なことにナチスドイツが研究し、悪用されてしまった事実が悲しいが、それこそが良書の証なのだろう。『一九八四年』は言わずもがな。未読の3冊すべて読みたくなる。

  • 600

    堤 未果(つつみ みか)
    ジャーナリスト、東京生まれ。ニューヨーク市立大学大学院で修士号取得。2006年『報道が教えてくれないアメリカ弱者革命』で黒田清日本ジャーナリスト会議新人賞を受賞。2008年『ルポ 貧困大国アメリカ』で日本エッセイスト・クラブ賞、新書大賞を受賞。

    別冊NHK100分de名著 メディアと私たち
    by 堤 未果、中島 岳志、大澤 真幸、高橋 源一郎
    知識層の情報源だった新聞も、当時はまだ大衆が読むものではありませんでした。今でもアメリカ人は、特に田舎では新聞をあまり読みません。アメリカの本質は田舎にあるのですが、地方の町では情報は教会で得るのです。コミュニティの情報交換の場である教会のタウンミーティング(*9) で、新聞を読んだ知識層が話すことを、人びとは「立派な、教養のある人が言うことだから」と信じて大きく影響を受ける。この構図が、のちにリップマンが確立する、プロパガンダの基本となってゆきました。

    第一次大戦の敗戦国であるドイツでは、アメリカのプロパガンダが短期間に驚くべき成功を収めたことに感動したヒトラーが、ウィルソン政権の世論操作が詳細に書かれているこの本を絶賛しました。その後、巧みな宣伝効果によるナチスのプロパガンダがドイツで成功したことは、歴史が証明しています。  そういう意味では、これは世に出てはならない本だったのかもしれません。  しかしだからこそ、この本はジャーナリストにとって必読の書なのです。

    メディアとステレオタイプの問題は、リップマンの時代よりも、現代はさらに強化されている可能性があると思います。それはSNSとかインターネットという問題で、私たちはインターネット上でどういう情報を得るかというと、自分と真逆の意見を述べているメディアをあんまり見なくなるんですね。SNSで、特にツイッターですと、フォローをした人の情報が流れてくるのですが、それは自分にとって心地のよい、仲間意識のある人たちの意見で、そういう意見ばかりが自分の周りに流れてきて、それが世界の真実だと思いがちになる。ですから、リップマンの時代よりも、SNSとメディアが補完的な時代になっている今の方が、ステレオタイプが暴走する可能性は大きいですね。

    テレビは、いろいろなところで槍玉に挙げられていますが、僕がテレビに大きな可能性があると思っているのは、いくら政治家についてプロパガンダのような番組をつくろうとも、そしてその政治家がよい政策をやりますと言ったとしても、我々はカメラが撮っているその政治家の頰に一筋の汗が映った瞬間、「こいつ噓を言っているな」と見極めることができる。新聞だとその行間を読むのは難しいけれど、テレビは私たちの経験値の中で、「こいつおかしいぞ」と見極められるような媒体でもあるんですね。

    僕は社会学者として、動物の社会、動物の世界にも興味を持っています。特に人間に近いチンパンジーやボノボ(* 27)、ゴリラなど。チンパンジーは非常に賢いのですが、人間とチンパンジーの決定的な違いは、人間は他者を信じやすい。チンパンジーは他の個体に対して強い不信感を持っていて、基本的に競争モードです。「あいつが俺に得なことをわざわざ言うはずがない」と思っている。チンパンジーは何の理由もなしに得なことは教えてくれないし、明らかに利益があるときしか助けてくれない。でも人間は、基本的に人は自分を助けてくれるもので、正しい情報を与えてくれるものだと思っている。だから、例えば道に迷って知らない人に道を教えてもらったら、その人が噓を言っているかもしれないとは思わず、必ず信じます。言葉を話す前の赤ちゃんの段階から、人間の信じやすさというのはずば抜けているんですね。そのおかげで人間は自分が経験していないことについても知ることができ、世界が広がったんです。それは人間の圧倒的な強みなんですね。その部分が逆に弱点になってしまっているのが現状の問題なのですが、まずは我々人間にとっては極めて必要な、強みであったことを押さえておく必要がある。

    そのうえで、こう思います。人間は自分が何かの考えを持っているときに、自分と同じ考えの人にそれを話したくなるんです。「そうだね」と言われたくてしょうがない。逆に違う考えの人と話すのは難しい。お互いにAだBだと言い合ってしまう。強いて言うと、中立の人、どちらでもいいと思っている、あるいはどちらか決めかねている人に、自分の考えをもって説得してみたらいいと思う。例えば、沖縄の米軍基地を縮小しなくちゃいけないと思っている人が、それをよくわかっていない人に話して、「なるほど」と思わせられるかどうか。そうすることによって、自分の考えがある種の偏見に基づいていたことに気がつくとか、当たり前だと思っていたことがそうではないと気がつくわけです。

    それからもう一つ重要な要素は、縦の時間軸、つまり「歴史」です。情報が手軽でスピーディーに手に入るようになると、どうしても私たちは点でニュースを見てしまいがちですが、過去に遡ってその点をつないでいくと、必ず何か一定のパターンが見えてくる。一つのニュースを少なくとも二十~三十年くらいのスパンで見ることが大切です。そして横の軸として、歴史を輪切りにし、そのとき他の地域で何が起きていたかを意識することで、全体を立体的・横断的に見ること。歴史の授業ではこういう風には教えてくれませんが、そのときアジアは、中東は、ロシアはどうだったかを見る。そうすると物事の流れが本当によくわかります。

    アメリカでは今、次々に暴露されるマスコミと権力との癒着や、巨大化したSNSの影響、ツイッターを駆使する大統領の存在などによって、メディアに対する信頼がどんどん失墜しています。トランプ大統領とメディアはお互いを「フェイク」と言い合っていますが、メディアの側もしたたかで、この争い自体をちゃっかりビジネスに利用している。ただし大手メディアにはまだ自浄作用があって、明らかなフェイクニュースを流したことが発覚した時は、その記者は処分され、時には謝罪記事も出ます。組織としては企業の所有物でも、個々の記者たちの間には、今も「フェアネス(公正)」や「ジャスティス(正義)」に対する信奉があるのでしょう。

    今どんどん部数が減ってしまっているものの、新聞などの活字媒体には、主体的な深い思考を促すという利点があります。かつてナチス・ドイツに洗脳道具として使われた過去を持つ「ラジオ」もまた、聴覚に集中することで…

    情報が一方通行で反射的になりやすいテレビも、例えばNHKにはドキュメンタリーやEテレの番組を含め、つくり手が見る側の中に深い思考材料を提供するような良質な番組がたくさんあります。公共放送なのですから、時の政府に 忖度 したり、視聴率を気にして民放の真似などせずに、純粋に「公益性」だけをコンセプトとするべきです。上から下への情報の垂れ流しではなく、視聴者の中に問いを生み出していくような番組をつくり続けてほしい。…

    イラン革命のニュースでは、テロや戦闘のシーンが何度も繰り返されました。「闘争的で危険なイスラム」をイメージさせる情報が、イスラムに関するニュースのすべてだったのです。しかしそのニュースが伝えるイスラムは、イスラムの姿のほんの一部でしかありません。

    ニュースが伝えたのは、戦闘シーンや過激派に特化した、非常に特殊なイスラムだけであり、それが本来のイスラムの姿を隠蔽していました。「カバーリング・イスラム」というタイトルからは、イスラムの多面的な姿を隠蔽しているものは一体何なのかをこの本で解き明かす、というサイードの意図を読み取ることができるのです。  アメリカのメディアがイスラムを隠蔽し、常に紋切り型の危険な他者として描くことには、ある目的がありました。それは、西洋がイスラムに対してさまざまな政治的、暴力的な介入を行うことは正しい、という考えに根拠を与える、というものでした。

    西洋こそ(その筆頭は合州国である)啓蒙化された現代性の標準であるという考えで自らの利害を構成する個人や集団は、イスラームに対して容赦ない文化的、宗教的攻撃を行っている。西洋による正当な支配などという考えは、「西洋」なるものを決して的確に描写などしておらず、現実には西洋の パワー の無批判な偶像化にすぎない。

    アメリカは、激高して理性を失い、感情的で神経症のような存在であるイランに追い詰められている。アメリカ大使館が占拠されたように、イランによって正しい民主主義が追いやられようとしている──。イスラム経験のない記者による情報を浴び続けたアメリカ人は、そういう印象を持つようになりました。「私たちはイスラムに包囲されている」という危機感は、時代を経て、具体的な暴力に結び付きます。アメリカはこののち、中東に直接的な軍事介入を行い、それがビンラディン(*7) によるテロリスト育成の契機につながっていくのです。

    簡単に言うと、日本人は、あんまりイスラムに興味がない。サイードが、「アメリカに比べればヨーロッパの方が少しはまし」とアメリカを批判したのはもっともなのですが、僕がこの本を読んで一番に思ったことは、日本はアメリカをはるかに下回っているということ。世界情勢を見るとき、日本は基本的に、アメリカの観点で見ている。いわば、アメリカに丸投げしているような状態です。そのアメリカがこれだけひどいということは、そこに〝外注〟している日本は、もっともっとひどい。そもそも自分で知ろうともしていない。これは今でも続いている。

    九・一一のとき、私はアメリカにいました。日本人なので事件に対する立ち位置は少し違いましたが、周りのアメリカ人を見ていると、「アメリカが初めて攻撃された」という事実にものすごいショックを受け、恐怖が国中を覆っていました。その時に強い違和感を持ったのは、裏付けや検証がされないままに、ターバンを巻いてヒゲをたくわえたイスラム系の人物の顔と名前を載せた写真や映像が、そこら中に流されていたことです。リップマンの『世論』が論じるプロパガンダの話にも通じますが、世論操作というのは、ターゲットが恐怖を感じた時に、最も効果的に浸透するんですね。アメリカ国民の間に、ニュースが描く「イスラム=犯人」のイメージが瞬く間に広がっていきました。普段リベラルなアメリカの友人たちまで、問答無用に「イスラムが危険だ」と言い出し

    そうこうしているうちに、全然関係のないパキスタン人の主婦が、スーパーの駐車場で酷い暴行を受けるという事件が起きてしまいました。そんな時期にサイードの『イスラム報道』を読み返し、いろいろなことが腑に落ちたことを憶えています。日本人には多いのですが、私もそれまでアメリカの報道機関をかなり信頼していました。CNN(*9) やNYタイムズ(* 10) は署名記事ですから、しっかりやっているだろうと思っていた。その信頼が、一旦リセットされました。その時、思い出しました。メディアと政府の真の関係が表われるのは、平時ではなく、有事なんです。

    イスラム報道」とは言っていますけど、それはイスラムに関する報道だけではありません。実は、ほとんどの報道が「イスラム報道」みたいなものですよね。何か事件が起こったとき、メディアは、そのことについて深く考えるというよりも、みんなが見たい映像、読みたいものを提供する。多分この時も、アメリカ人が見たかったのはアメリカ人の人質の動向で、別にイスラムがどういうものかを知りたいわけじゃないでしょう。各メディアが、イスラムを理解することではなく、アメリカ人の人質一人一人がどうなっているのかの報道にお金を使っている。でもそれはイスラム報道だけじゃなくて、僕らが普段見ているどの報道だって、変わらないと思います。

    僕はイスラム圏で生活をしたことがあるのですが、ムスリム(イスラム教徒) の大半は普通の平凡な暮らしをしている人たちです。それなのに、ムスリムの中でも微細な一部がすべてであるかのようなステレオタイプとして描かれた。これは日本にも、そして現代にも及んでいる問題だろうと思います。

    サイードは、西洋と東洋を二分法的に分ける構造を問題視していました。西洋が非常に理知的であるのに対して東洋は官能的だとか、西洋は合理的で東洋は非合理的だとか、西洋は進歩しているけれど東洋は停滞しているだとか、そういう二分法です。  それに対し、「オリエンタリズムで描かれた文芸作品や絵画は、単に東洋を見下したり、侮蔑したりするものではない。むしろ西洋人は、自分たちが近代に失った大切なものが、東洋の中にはあると捉え、「官能的で神秘的な東洋」を礼賛するような作品を生み出してきた。それは西洋が失ったものに対するノスタルジーであって、東洋を差別しているわけではない」というのが西洋側の言い分です。

    他者と付き合うときには、「基本的に他人は嫌なやつで、だからこそ付き合う」と考えなければいけない。普通は、嫌なやつだと思ったら追い出す、いいやつだから付き合う、のどちらかでしょう。例えば、アメリカのトランプ大統領は、排外主義的な感じがしますよね。それに対して、トランプに反対したクリントンを応援していたような人は、どちらかというと多文化主義的で寛容で、もう少し移民を入れてもいいじゃないか、と主張している。トランプ反対派の人は立派なように見えますけど、東洋の神秘を感じるちょっと官能的で美しくて、そういう人たちなら受け入れましょう、と言っているのと変わらない。それも駄目だとサイードは言っていて、それが、サイードが優れているところです。つまり、「彼らは嫌なやつだけれども入れてやる」という姿勢が一番重要なんです。考えてみれば、嫌なやつだな、と一瞬思うのは当たり前。それまで安心してやっていたのに、そこへ自分と全然違うことを言う人が現れるのは、誰でも一瞬嫌な感じがしますよ。でも、嫌なやつと付き合わなければ、本当の意味で付き合った楽しみというのも味わえない。当たり障りのない人と付き合っても、ちっとも面白くない。だから、他人と付き合うには、まず嫌なやつだと思ったぐらいの方がいい。あの人は素晴らしいから付き合いましょう、という言い方をする人は、かえって怪しいんです。オリエンタリストの可能性がある。

    私が初めて行った外国が、イランでした。一九九八年のことです。イランは危険なテロリストの国だと思っていて、出発前からガチガチに緊張していました。夜、空港に着いたときはとても怖くて、「大変なところにきたぞ」と思いました。  最初の夜が明けて、恐る恐るテヘランの街の中に出ました。そうしたら、水辺で人々がゴザを敷いて、楽しそうにお茶を飲み、水タバコを吸いながら世間話をしていました。そこで拍子抜けしたのをよく覚えています。  街はとてもきれいで、安全でした。女の子たちは、ヴェールを被っていましたが、いろいろなおしゃれを楽しんでいました。人々は人懐っこくて、サッカーの中田英寿(* 16) 選手や、イランでは誰もが知っている「おしん」(* 17) の話をしてきたり、やけに日本語が上手だと思ったら、日本に不法滞在をしていて強制送還された人だったり。いろいろな人がいて、たった一日ですっかり楽しくなってしまいました。

     私は映像作家の森達也(* 18) さんをとても尊敬しているのですが、森さんのお話の中でとても好きなのが「お化け屋敷で一番怖いのはどこか」というものです。  お化け屋敷で一番怖いのは、お化けではなく通路だ、と森さんは言います。確かにそうなのです。お化け屋敷にいるようなお化けは、出て来てしまえば「なんだ、そんなものか」と思うような陳腐なものですから。何が出てくるか分からなくて、通路で身構えている時にこそ、人は最も恐怖を感じます。  イスラムに相対するとき、アメリカは、お化け屋敷の通路に立っている状態なのだと思います。イスラムの実態や日常が見えない報道に囲まれているので、身構えて、イランに行く前の僕のようにガチガチになっている。けれども、「お化け」だと思っていた相手が、自分と同じ地平に生きていて、昼ご飯のメニューを悩んだり、恋をしていたりすると感じたとき、壁は取り払われるのです。この、壁を取り払うこと、イスラムの日常を伝えることが、メディアと報道が果たすべき一つの役割なのではないでしょうか。

    私たちは、今もイスラム報道の中にいる、と思った方がいいのです。日本はアメリカを中心としたヘゲモニーの中にあり、日本のメディアもイスラム報道のような報道を繰り返しています。イスラムへのバイアスがあり、私が初めてイランに行った時と同じように、日本人の大半は、イスラム世界を「怖い場所」と感じているでしょう。確かに危険な地域はあり、テロや日本人が人質になる事件が起きています。しかし、私たちがメディアに接するときには、戦闘やテロはイスラムの一部であり、全体ではないと考える、そんな相対化する視点を持っていなければならない。通路に立って怖がるのではなく、「想像上の境界線」を越えて、同じ人間として、イスラムの人々への想像力を持つことが大切なのだと思います。

    山本七平は、一九二一(大正一〇) 年に生まれ九一年に亡くなった、市井の学者であり評論家です。山本さんについては二つ重要なことを考えておかなければなりません。一つは、彼が熱心なクリスチャンであったこと。日本にこれほど熱心なクリスチャンはなかなかいないのではと思えるほどで、キリスト教やユダヤ教についてものすごく詳しい。もう一つは戦争体験です。二十歳過ぎで陸軍に召集され、フィリピンで捕虜になり、その経験も本になっています。

    まずクリスチャンであることについてですが、彼の場合は両親ともに熱心なキリスト教徒で、自伝(*1) で山本さんは、自分は生まれたときからクリスチャンで気が付いたら教会にいた、というようなことを書いています。ある程度大人になってから自発的に洗礼を受ける人が多い日本で、こういう人は珍しいと言えます。

     日本は明治維新以来、近代化という名前の〝西洋化〟に一生懸命取り組んできました。西洋とどれだけ似た社会にできるかということで、法制度、議会制度、あるいは思想や文学に至るまで、官民挙げて西洋のものを取り入れてきました。しかし、なぜか、西洋のアイデンティティの中核にあるキリスト教だけは、ある意味取り入れませんでした。あんなに西洋化したかったのに、キリスト教徒はいまでも多く見積もって人口の二~三%くらいしかいません。キリスト教は西洋化に特に熱心だった一部の知識人の間…

    山本さんは、キリスト教やユダヤ教、つまり一神教(*2) の世界とはどういうものかについて、単に知識として知っているのではなく、身体の底から理解し、また感覚的な肌触りとして知っていました。そして、それとの対比で日本…

    戦争中、彼は日本人についての痛烈な問題意識を持ちました。彼は多くの日本人とは違い、一神教の世界について自分なりの理解や感覚を持っていたので、戦後、それとの対照で日本人というものの特徴を浮かび上がらせる著作を数多く著しました。その発端となったのが『日本人とユダヤ人』(一九七〇年) です。イザヤ・ベンダサン名義で刊行され、三〇〇万部を超える大ベストセラーになりました。

    山本さんの議論によれば、物事には必ず対立する二側面があります。完全に善であるとか、一〇〇パーセント悪ということはない。ある部分ではよいかもしれないが、別の角度から見れば間違っているように見えるといったように、完全な白黒二極にはならないということです。そうであるなら、物事は常に相対的に把握することが大切になるわけで、そのような把握をしなくなると「空気」に支配されますよ、と山本さんは言っています。「空気」は一枚岩であることが重要ですから、別の角度から見れば西郷もそれほど悪くはない、といった言い方は許されません。官軍は善。賊軍は悪。賊軍側にも言い分はある、などと言ってはいけないのです。そうやって相対的な見方を排除したとき、「空気」の支配は完成します。

    それから、詳しいことは、後で説明しますが、いわゆるディストピア小説の代表です。ディストピアとはユートピア(*1) の反対語で、もっとも恐ろしい、絶望的な状況に人びとが置かれた社会のことですが、そういう作品は実にたくさん書かれています。本というものが禁止される世界を描いた、ブラッドベリ(*2) の『華氏451度』、日本人が全体として奴隷として生きる世界を描いた 沼 正 三(*3) の『家畜人ヤプー』、実はナチス・ドイツが第二次世界大戦で勝利していたというディック(*4) の『高い城の男』、「文明」の恐ろしさを描いたハクスリー(*5) の『すばらしい新世界』等々。ほんとうにたくさんのディストピア小説が描かれています。そんな無数といっていいほどあるディストピア小説の中で、もしただ一つだけあげろと言われたら、この『一九八四年』になるのではないか、という名作だと思います。なぜなら、オーウェルはこの作品の中でディストピアの本質を完全に描いていて、付け加えることがないぐらいだから、というのが理由の一つです。もう一つの理由は、少し意外かもしれません。ニュースになったのでご存知の方も多いと思いますが、トランプ大統領が就任して一週間後のことでしょうか、アメリカで爆発的に売れてアマゾンの一位になってしまった。トランプ大統領の出現で、多くのアメリカ人が『一九八四年』を想起したんですね。オーウェルが想像した社会が、現実に出現した、あるいは出現するのではないか、とたくさんの人たちが思った。現実を予見した、といわれる小説はたくさんありますが、まさに、この『一九八四年』はおよそ七十年も前に、いまわたしたちが生きている「この世界」のことを書いていた、とも言えます。

    オーウェルの本名はエリック・アーサー・ブレア、一九〇三年にイギリス植民地のインド(*6)・ベンガル州のモティハリというところで生れました。阿片の一大生産地の中央部だったそうです。オーウェルの父は、イギリス阿片局の官吏だったのですが、この阿片局の仕事は何かというと、「取り締まり」ではなく「品質管理」だった。なんだか、もうこの時点で、ディストピア感が漂ってきますね。

    オーウェルが一番言いたかったのは何かということですが、それは、ひと言でいうと、本当に恐ろしい制度、社会、国家とは何だろう、ということだと思います。わたしたちがふつう想像する、「最悪の社会」や「恐怖社会」のイメージは、奴隷にされるとか、死ぬまで強制収容所で働かされるとか、常に暴力をふるわれる社会ですね。たとえば、ナチス・ドイツの強制収容所のような世界、いま、暴力に 晒されている難民たちの世界、すさまじい貧困の中であえぐ人たちの世界。確かに、それらはどれも、恐ろしい社会です。そして、わたしたちは、自分たちの世界がそうでないことに安堵する。けれども、ほんとうにそうだろうか。それがオーウェルの言いたかったことだと思います。では、どんな社会が恐ろしいのか。オーウェルは、目の前で経験した、ソ連共産党のふるまいの中から、最悪の社会の本質を摑みだしたのだと思います。

    まず一つは、この社会が、「党」が支配する世界だということです。もちろん、過去にも、無数の独裁者たちが国や社会を支配してきました。「法律」や「軍事」によって、人びとを押さえつけてきたんですね。でも、この「党」の支配は、歴史上、もっとも狡猾で、恐ろしい支配のやり方でした。ある意味で、もっともエレガントな支配だと言っていいかもしれません。  具体的に言うと、まず不都合な事実を、改ざんしてしまうことです。例えば、裏切り者の党員がいたとします。彼らは名指しされ、党が独占的に支配している新聞などで、徹底的に批判される。そして、何年何月に、敵の国家と内通していたと報道されます。けれど、昔の新聞には、その何年何月には別のところで他のことをしていたことが記されているので、内通していたというのは噓になってしまう。そのとき、「真理省」の出番となります。事実は改ざんされて、改ざんされた事実に基づいた新聞が再発行され、元の新聞は廃棄されてしまいます。そうなってしまうと、もはや真実を復元することは不可能になってしまうのです。残るのは、「党」が決定した事実だけ。人間は、何かを判断するのに、事実や記録をもとにして考えます。けれども、起こった事実そのものが完全に抹消されてしまったとしたら? そう考えると、ほんとうに恐ろしいことですね。

     もう一つ、もっと恐ろしいことがあります。それは、人びとの「内面」を支配することです。これこそが、この世界の支配のもっとも恐ろしいところなんだと思います。オーウェルは、これをソ連共産党の党内闘争から学びました。ソ連共産党は、「抑圧された労働者の解放」という、誰も否定できないスローガンを掲げていました。ですから、党に反対する者は、そのまま「人民の敵」とされたのです。党内の権力闘争で敗れた者は、「人民の敵」でなければなりません。そのためには、事実を 捏造 して「資本家の手先」だと言い募ったり、時には、その反対者に「わたしはスパイでした」と「自白」させた後、処刑したりしたのです。洗脳し、反省させ、しかる後に処分する。それは、人間の内部にこそ、いちばん頑固な敵対者がいることを、権力を握っている者たちはよく知っていたからでした。確かに、逮捕され、奴隷にされても、内面で反抗することは可能です。わたしたちがいま生きている社会でも、「思想・信条」の自由…

    テレスクリーンの機能のひとつが監視ですよね。その問題と関わってくると思いますが、いまダミーの監視カメラというものが売られています。そのポイントは、「作動しなくてもいい」という点にあります。つまり、人はずっと監視されているとどうなるかというと、いつでも「監視されてるんじゃないか」と、監視権力の眼差しを内面化していく。「見られてるんじゃないか」と。だとすれば、ダミーでいいんですよ。誰も見ていなくても、「監視されてるんじゃないか」と思い込み、どんどん従順に服従していく。権力側は何もしなくとも、勝手に自主規制していってくれる。それがAIの機能などと結びつくと非常に怖いということなんですね。例えばインターネット上で買い物をしていると、「何の本を買ったのか全部見られてるんじゃないか」「ある特定の思想の流れを追うような本ばかり買っていると目を付けられるんじゃないか。やめておこう」というような自主規制が働くかもしれません。こういうものとAIの機能とがつながってくる。だから、この『一九八四年』という本は、さらにここで懸念された問題よりも現実が追い越してしまっている、そういう機能が怖いんです。

    しかし、現代のインターネットの世界では、むしろ誰かに監視されたいというか、見られたいという願望が支配的です。見られていない方が不安なんですよ。必死になって見られたがっている。だから、『一九八四年』よりもっと進んだ世界を僕らは生きている気がする。

    自分の中にあるドロドロしたものを、上品に言うのが人間らしさのポイントですから。昔は、不特定多数に発信するときは、かしこまった物言いになり、身近な人には、たまには本音が出る程度だった。とはいえ身近な人にでも相手が目の前にいれば抵抗があったりして、よほどのことがなければ、はっきりとは言わなかった。今は逆ですね。不特定多数の人にこそ、本当の自分以上に下品な所を出していて、それは悲しいことです。

  • 『メディア』というものを初めて考えた。
    とにかく自分で考えて判断すること。

  • 2018I157 361.43/Na
    配架書架:A2東工大の先生のコーナー

  • よし

  • p.2019/4/17

  • 大変読みやすかった。大澤真幸の解説が特に秀逸。メディア論を多角的かつ具体的に学びたい方の導入書としておすすめ。

  • メディアを古今東西の事例で検証している。『1984』で描かれたBig brotherが監視する社会は、一人1台持つスマートフォンを通してつながるSNS全盛期の現代を予知したかのように似通っている。

  • このシリーズは有名な著作を分かりやすく解説してくれるのでお気に入り。
    アメリカ大統領選やコロナによる社会情勢の不安もあって、メディアに対する不信感が高まっている現在では非常に参考になる内容だった。
    特に山本七平の『空気の研究』を解説していた部分は興味深いものだった。日本人独特の「空気を読む」という特性に関して、クリスチャンとしての山本が宗教観を交えながら分析するもので、今度改めて読んでみようと思った。

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著者プロフィール

堤 未果(つつみ・みか)/国際ジャーナリスト。ニューヨーク州立大学国際関係論学科卒業。ニューヨーク市立大学院国際関係論学科修士号。国連、米国野村證券を経て現職。米国の政治、経済、医療、福祉、教育、エネルギー、農政など、徹底した現場取材と公文書分析による調査報道を続ける。

「2021年 『格差の自動化』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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