スローターハウス5 (ハヤカワ文庫SF ウ 4-3) (ハヤカワ文庫 SF 302)

制作 : 和田 誠  伊藤典夫 
  • 早川書房
3.92
  • (209)
  • (188)
  • (217)
  • (20)
  • (1)
本棚登録 : 1807
レビュー : 195
  • Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150103026

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
  • 【要約】


    【ノート】

  • ヴォネガット作品のなかで一番最後にとっておくべき作品、でも考えようによっては一番最初に読んでも良い、そんな作品だった。

    戦争についての小説はたいてい忌避される。
    教訓的だから、結局「戦争反対」という主旨が決まっているから、「火垂るの墓」や「はだしのゲン」はもういいよというのと同様の感覚で煙たがられる。

    たくさんの死とたくさんの痛みが人間を人間じゃ無くする。心が殺される。そんなようす。
    それをただそういう風につらつらと書くんじゃなくて、時間旅行と異星人との交流と交えて書いている。そのようすが狂気じみていればいるほど、戦争の痛みが彼をいかに深く傷つけているか分かる。

    カラマーゾフの兄弟だけじゃ、もう足りない、という登場人物の言葉に胸がつまる。

  • まず初めにこの作品の構造を確認しておかなければならない。作者の分身とも思える「わたし」が『スローターハウス5』全体の語り手で、2章以降は彼が書いたことになっている。つまりこの作品には「わたし」が書いた内枠と「わたし」が小説を書きあげるまでの過程の話である外枠がある。そして外枠に存在している語り手はしばしば自分が書いた小説世界に介入し、登場人物がその後どうなるか前もって言ってしまう。そしてそのような「わたし」が書いた小説は時間の移動も激しく行われる。このような移動は「あらゆる瞬間が不滅であり、彼らはそのひとつひとつを興味のおもむくままにとりだし、ながめることができる」(P.39)というトラルファマドール星人のやり方を模倣したのだろうが、そもそもこの宇宙人の創造主は「わたし」であるのだから、彼は被造物を利用してわざと自分の小説の書き方を規制しているように思える。語り手の介入は、物語が虚構のものであるということを読者に自覚させ、頻繁な時間移動は、読者を混乱させ物語世界に没入することを拒む。だから読者によっては「面白く」ないと感じる人もいるだろう。映画を見ているときに、平気でネタバレをし、これは所詮フィクションなんだと言ってくる人間が横にいたら、楽しく映画を見ることはできない。ましてや話があちこちに飛ぶ理解しづらい内容だったらなおさらである。

    このような書き方がなされている理由は、物語が戦争を助長させるという自覚を持っているからだと考えられる。そしてそれは「わたし」が自分の小説の副題を『子供十字軍』としたことからもわかる。副題は「わたし」が参加した戦争の隠喩として機能している。あるものを表すのに通常使われている言葉の代わりに別の言葉を借用する隠喩という技法は、単に言葉を置き換えるだけではなく、借りてきた言葉が元々持っていたイメージをも反映する。そうでないならわざわざ隠喩など使う必要はないからだ。そして「子供十字軍」という言葉の持つイメージは「おとなの十字軍よりもう少し愚劣なもの」(P.26)だろう。一般的には「少年十字軍」と呼ばれる歴史的事実が、歴史学的にどのように評価されているのかはこのテキストを読む上では重要ではない。さらにもう少しこの言葉にこだわって「子供」という部分に注目してみるなら、ここで「子供」という言葉によって置き換えられているのは、明らかに「戦争に参加した兵士たち」のことだろう。そしてそれはメアリ・オヘアの「戦争中、あなたたちは赤んぼうだったじゃないの-二階にいるあの子らとおんなじような!」(P.24〜25)という言葉以外にもテキストに刻まれている。

    「わたしは二人の少女を連れていった。わたしの娘のナニーと、彼女の親友アリスン・ミッチェルである。ケープ・コッドをはなれるのは、二人ともこれがはじめて。(中略)二人は川のほとりに立ち、思いにふけった。ナニーもアリスンも、このような塩分のない、細い、長いかたちの水をそれまで見たことがなかったのだ」(P.21)

    「貨車の奥からだれかがいった、「オズの国だ」それがわたしである。ぼくである。わたしがそれまで見た都市といえば、インディアナ州インディアナポリスだけだったのだ」(P.178)

    自分の育った街から出たことすらないような「子供」が兵士だった。彼らはフランク・シナトラやジョン・ウェインのように一人前の男ではなかった。しかし「ロマンスは、彼等の敬神と武勇を飽くことなく称え、彼等の徳行と雅量、彼等が自らの手で獲ち取った不滅の栄誉、キリスト教のために果した測り知れぬ功績を、いやがうえにも感動的に謳いあげる」(P.26)のである。それが「子供十字軍」のように愚劣なものであったとしても。

    「面白く」ないという言葉は、普通の小説においては、価値を貶めるものにしかならないが、『スローターハウス5』においては違う。それは上に長々と書いてきた理由によってである。だから自分はこの小説を「面白く」ないと考える。そしてそれは、小説は形式面で抵抗することができるジャンルであると身をもって示した作品への最大限の敬意なのである。

  • 20180523読了

    バーナード嬢曰く。や、藤田祥平の自伝の中で取り上げられていて、興味が湧いたので手にとった。

    話の話としては時系列やら展開が急なんだけど、文章が読みづらくさせない。
    平易だけど、イメージをかきたてる。話としても感情が全面に出るのではなく淡々とした語り口でしみじみと伝えてくる感じ。

    名作と言われている所以はわからなかったけれど、小説として読んでいて淡々と楽しい、という不思議なかんじ。
    さらりとして読後感もさっぱりしてる。

  • 人が死んだ時に使われる「そういうものだ」っていう言い回しが癖になる。


    古い作品で例えが分かりずらかったり、テーマのドレスデンの空爆に関する知識が皆無だったから、読みづらかった…

  • 「この世で一番可笑しいのは、ムキになってるまじめな人」(ドン・キホーテ)。この命題が真なりとすれば、それはまた、本当に冗談にならないこととは何かも教えてくれるはず。その対偶を考えてみればいい。導かれるのは「この世で一番厳粛な者は、一切の感情を交えずに語る悲劇の証人である」というような文章だろう。極限状態を生きる人々の姿はみな滑稽で余裕がなく真摯だ。そのことの何が悪い。それだけでなく、傲岸不遜、支離滅裂、荒唐無稽ですらある。私たちがこの小説から警句を汲み取ろうとする時、この小説にはユーモアの欠片も残されてはいないのだ。

  • 「神よ願わくば私に変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと変えることのできる物事を変える勇気とその違いを常に見分ける知恵等を授けたまえ。」
    というニーヴァの祈りがこの作品では重要な局面で登場してきます。
    変える事のできるものと、変える事のできないもの。
    その違いってなんなんでしょうね?

    運命論または宿命論って考え方がありますね。
    すべてはすでに決定されている、っていう考え。
    その考え方が正しいのか間違っているのか
    それはボクにはわかりませんが、
    このスローターハウス5では、
    結構、その運命論みたいな考え方が
    全編を覆ってますね。

    主人公ビリーは宇宙人トラファマドール星人に誘拐されます。
    そして彼らの過去現在未来について、
    つまり時間に対する考え方を知ります。
    彼らにとって未来はすでに決定済みのことであり、
    それをどうこうしようとする事など
    考えたことはない、ということです。
    トラファマドール星人によれば、
    今まで色んな知的生命と語り合ってきたが
    未来を変えていこうとする「自由意志」と
    いう概念をもっているのは地球人が
    初めてだ、という事です。

    で、もしも宇宙人がいうように
    自由意志なんてものは全く意味のないもので
    すでに未来はある程度すでに
    決定していた、とするとどうなるのか?
    またはどのような態度で生きていくのが
    良いのか?その答えみたいなものは
    同じ作者の「タイタンの幼女」では、
    作者の考え方が示されているんですが、
    それよりもかなり後で書かれている本書では
    明確に書いてはいませんね。

    ちなみに答えとはいう感じではないのですが、
    すでに決まっている未来において
    つまり自分は無力であると認識している
    世界において主人公ビリーの視点を通して
    作中でふたつほど人間の美しさが描かれています。

    ひとつは捕虜収容所に向かうぎゅうぎゅう詰めの
    列車の中で、粗末な食事を、平等に分け合う場面。
    もうひとつは強制労働させられているシロップ工場で
    見つかるリスクを取りつつ、友人にシロップを
    スプーンですくいとり舐めさせる。
    そしてその友人は涙を流す、という場面。

    そのあたりのシーンに作者は前述した問い、
    もしも人が未来に対して無力だとした場合に
    どう生きていくべきなのか?
    その答えのヒントがぼんやりと書いているような気がします。
    まあ、基本的には答えは読者にまかされている
    という感じではありますね、この小説の場合は。

    自分的には部分的に運命論も正しい部分もあると思うし、
    その考え方は時に人を救う場合もあるのだろうな、
    とも思えます。
    例えばこの作品のモチーフであるドレスデンの大空襲は
    作者ヴォネガットが実際その場でその時体験したこと
    だということですから。

    もしもね、そういう場面に出くわして
    自分が生き残ったということになると
    やっぱり自分の無力さというのも感じてしまうものなのかなあ
    という事も想像してしまいます。
    そして個人の力ではどうしようもない
    「何か」があるということを考えざるを得ないだろう、とも思えますね。そんな時に運命論という考えかたに傾むこともあるのだろうと。

    ただ自分的には100%運命論、または100%未来は未確定と
    はっきりと捉えることはできないなあ、と考えます。
    変えられない事もいやになるほど多いけど
    変えられる事も意外に多いんじゃない?
    (それを探すのは結構大変だったりするかも
    とは思いますが)
    そういう態度で行きたいなあ、とは思う、
    という事をこの本を読んで感じましたね。
    2017/04/10 11:45

  • 哲学だ。

  • わたしはキリスト教的決定論を信じるタイプである。
    運命はすでに決まっていてあとは神に導かれるまま生きるだけ だからこそ臆せずに自らをしっかり持って貴重な一日を生きることができるから。
    あの時ああしていれば、わたしがこうしたせいで、という後悔の仕方はしない。自分がどのように行動しても遅かれ早かれその出来事は起こったのだとおもう わたしが後悔するのは失われてしまったものを大切にできなかったことについてだけであり、愛情とか、穏やかな時間とか、そういうものを十分に受け止められなかったことは心に引っかかり続ける
    ビリー・ピルグリムはそのような後悔さえしない。それは運命を先に知っているからということになっているけど、本当は失われるものがあまりに多かったから、そう考えずには生きていられないほど辛かったから、たどり着いた考えなのだろうともおもう

    現在好ましくない状態にあるが他の瞬間には確かに生きているということ ああ、『海からの贈り物』から得たいちばん貴重な気付きもこういうことだったな
    ”我々は「二つとないもの」——二つとない恋愛や、相手や、母親や、安定に執着するのみならず、その「二つとないもの」が恒久的で、いつもそこにあることを望むのである。つまり、自分だけが愛されることの継続を望むことが、私には人間の「持って生れた迷い」に思える。なぜなら、或る友達が私と同じような話をしていた時に言った通り、「二つとないものなどなくて、二つとない瞬間があるだけ」なのである。”

    ほんとうに、これ!なのだ まだ起こっていないことを恐れて自分の可能性を狭めたくはない、日々よりよく生きることくらいしかわたしにはできないしわたしに変えることができるのはこの一瞬ごとだけなのである
    そして私はこういう運命に向かって淡々と進む物語が大好きなの、、、、
    はじめから読み返しはじめたらもう常に心がぎゅっとなって ひっそりポロポロと泣くビリー・ピルグリムの気持ちになれます

  • ラップみたいだった

全195件中 31 - 40件を表示

スローターハウス5 (ハヤカワ文庫SF ウ 4-3) (ハヤカワ文庫 SF 302)のその他の作品

スローターハウス5 Kindle版 スローターハウス5 カート・ヴォネガット・ジュニア

カート・ヴォネガット・ジュニアの作品

ツイートする