- Amazon.co.jp ・本 (296ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150103026
感想・レビュー・書評
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ヴォネガットの半自伝的名作。
ありとあらゆる理不尽を「そういうものだ」と一言で言い表すセンスに脱帽。
戦争を肌で体験している人にしか描けない境地。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
カート・ヴォネガット・ジュニアの代表作である『スローターハウス5』。トラファマドール人という架空の異星人が登場するSF小説の体裁を借りながら、作者の死生観を表現したものだ。そこにはドレスデンの空襲の体験が色濃く映されている。彼の母親は、ヴォネガットが第二次世界大戦に兵卒として志願し、そしてドイツ戦線に送られることを苦にして自殺をしたとも言われている。そんな形で送られたドイツで捕虜として囚われて収監されたドレスデンで、多くの一般市民を巻き込むドレスデンの空襲を体験した。そのことがこの小説家の死生観を形づくり、その空襲体験をモチーフにして小説の形でしか表現しえない形でその死生観を表現したのが、この『スローターハウス5』という小説だと思う。
主人公のビリーは、トラファマドール人につかまり、人生の中をけいれん的時間旅行者として行き来するものとなる(unstuck in time ... 時間のなかに解き放たれた、と訳されている)。この小説の中のトラルファマドール星人は、自由意志を信じていない。トラルファマドール星人には過去も現在も未来もすべてすでに起きたことであって、変えることはできない。誰かが死んだとしても、その時点までは存在していたのであり、存在自体は変わらない。だからこそビリーは自分の死がどういう形で来るのかも知っておきながら、人生の中の時間を時系列に囚われずに「行き来する」のである。そこには多くの死が横たわっている。主人公のビリーも、ヴォネガットと同様にドレスデンで空襲に遭い、多くの死体の間を歩いた。
トラルファマドール人の死生観は次のようなものだ。
「人が死ぬとき、その人は死んだように見えるにすぎない。過去では、その人はまだ生きている。あらゆる瞬間は、過去、現在、未来を問わず、常に存在してきたのだし、常に存在しつづける。あらゆる瞬間が不滅である」
その死生観は近代的自我から導き出される死生観とも、宗教から生み出される死生観とも異なる。より絶望的でもあるし、より静謐なものであり、倫理的であるようにも思われる。そのような観念を持たなければ、もはやどうやって死を耐えることができるのか。主人公の前で滑稽な死もシリアスな死も、死が訪れるたび「そういうものだ(so it goes)」とつぶやかれる。
著者は次のように語る。
「これは失敗作である。そうなることは最初からわかっていたのだ、なぜなら作者は塩の柱なのだから」
作者は、神の言いつけに背いたものとして罰を受けたのだろうか。後ろを振り返って見たものは何だったのか。
トラルファマドール人は身長二フィートで、全身が緑色で、吸い上げカップのカップを地上に付けていて、先端には手がついており、その手のひらには、緑色の眼が一つある。村上春樹の最新小説『街と不確かな壁』の中で、若かりし主人公と文通する彼女が手のひらに目玉が出てくる夢を見るが、その描写は村上春樹の小説へのある種のオマージュであることを自分は疑わない。
どちらの作家も小説の深さを自由さと示し、小説というものが世界に対する考え方を揺さぶることができるものであることを体現するものである。
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『街とその不確かな壁』(村上春樹)のレビュー
https://booklog.jp/users/sawataku/archives/1/4103534370 -
2021年2月読了『猫のゆりかご』(9784150103538)以来のカート・ヴォネガット作品。
相変わらず独特な書き口を読み進むのが困難で、とりあえず一周読むだけでも丸々一週間かかってしまった。
巻末・伊藤典夫先生の解説に詳しい通り、ヴォネガット氏の半自伝的作品であり、第二次世界大戦下における従軍体験および「ドレスデン爆撃」の現地体験、その予後をビリー・ピルグリムという自身の’アバター’に託して、彼が時間旅行を繰り返しながら至り得た思想を綴った小説、というように私は理解した。
何がどこまで冗談で真実なのかが混濁としているが、通読し終えて改めて冒頭書き出し「ここにあることは、まあ、大体そのとおり起った。」(p9)の一文が強く胸を打つ。
そして、トラルファマドール星人による誘拐体験を経て、「いまの自分の仕事は、地球人の魂にあった正しい矯正レンズを処方すること」(p46)とし、「いずれにせよ戦争とは、人びとから人間としての性格を奪うこと」(p215)という悟りを、戦争を想像でしか判り得ない私たちに伝えている。
「人間としての性格を奪」われた最たる箇所はタイトルにも冠されている、「(捕虜である)アメリカ人は門から五番目の建物に引き立てられた。」「もともとは処理前の豚をまとめる小屋」「住所は『シュラハトホーフ=フュンフ』。シュラハトホーフは食肉処理場(スローターハウス)、フュンフは古き良き5(ファイブ)である。」(いずれもp203)の部分。人道もへったくれも無い。
そしてこういったことは今なお続くロシアのウクライナ侵攻戦争に於いても変わらず行われているであろう事であり、日本ではあまり報じられないが、事実、両国兵士達による戦争犯罪が存在する疑いは非常に濃い。
上手くまとめられそうにないが、この小説が書かれた60年代末のアメリカといえば長期化したベトナム戦争で国内に厭戦気配が蔓延し、若者らが社会の変化を求めてヒッピー文化を花拓かせた時である。
そして、現代日本もロシア問題と同時並行的に北朝鮮ミサイル問題や中国・韓国との外交問題を抱え、続くコロナ禍や不況により将来への漠然とした悲観が漂っている気がするが、こういう時こそ、若者が社会を変えられるんだ!変える!というムーブメントを起こせるように、(既に若者には含まれないかもしれないけど)私も「正しい矯正レンズ」を通して社会や我が身の振りを見つめられる為に自己を整えていきたいし、我が子はじめ後の世代に迷惑を掛けない為にも、レンズが曇ったり割れたりしないように勉強を続けていかねばならないな、と意を新たにした次第であります。
『同志少女よ、敵を撃て』(9784152100641)の時と似た読後感。
30刷
2022.12.24 -
人間の自由意志を否定したくなるほどの大量の死をもたらす戦争をトラルファマドール星人式の世界認識で追体験する。彼ら曰く全ては同時に存在しており、死は一時的なものなのである。
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①文体★★★★★
②読後余韻★★★★★ -
『タイタンの妖女』に引き続き、ヴォネガット二作目。こちらも私にたいへん刺さる作品で、これは作家読みするやつだな...という気持ち。笑い(というか朗らかさともいうべきか)もありながら、戦争をこう切り取るのかと、面白かった。実際に体験した人の感覚としてこういうのもあるのだろうというのが、しっとり伝わってきた。人生は不条理であることを、柔らかく受け止めるというか。そういうものなんだろうなあと、ひしひし。広島の記述には、む、と思ったけど、そこは訳者あとがきでケアされているので最後まで読んで落ち着いたし、やはり反射的にむと思う自分がいるんだなと認知したのもなかなかの体験だった。
そして私は最後の一文を、最後に読むのが大好きなのですが(私の中で特に刺さっているラスト・ワンセンテンスは『天人五衰』だったりする)、もはや作者により第1章でネタバレされるのに笑うし、自分で最後読んだ時にそれでもグッときた、ヴォネガット好きだなあ。あえてこう表現するというのが大変上手い作家だ..
全然知らなかった/覚えていなかったのだが、村上春樹やテッド・チャンの作品でも言及があるそうで..たしかに村上春樹も同じく、同じキャラがクロスオーバーするものね、と、ラムファードさんやトラルファマドール星で思った。母なる夜の主人公やら、ローズウォーターなど、他作品キャラクターもいたそうで、ますます読んでみたいのだ。そしてこの本は原書でも読みたいなと強く思いました。 -
こんな時代なので、ヴォネガットを再読。「そういうものだ。」
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久しぶりの再読。
カート・ヴォネガット・ジュニアの世界観が好き。淡白な語り口に、大きな出来事にさえ感情的になることがない。その平坦さと、その時々の状況の悲惨さとの対照的な文体が、その物語から浮かぶ情景をより強く刻んでくる気がする。
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なんという面白さだろう。