ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)
- 早川書房 (1982年2月1日発売)
- Amazon.co.jp ・本 (307ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150104641
感想・レビュー・書評
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この本が書かれた当時、まだ「格差社会」という言葉はなかった。にもかかわらずヴォネガットは、資本主義によってごく少数の人々にグロテスクなまでに富が集中し、一割の人間が、残りの九割が一生かかっても手することのできないお金と特権と享楽を手にするという未来を、正しく予見していた。
そのようなマンモニズムの世の中で、億万長者の一人が無上の隣人愛に目覚めたら? それがこの小説の主人公エリオット・ローズウォーターである。のらくら者やごろつきどもに愛とお金を惜しまないエリオットは、本書では気違いとして描かれる。しかし、読者はやがて気づくことになる。彼を気違いのように見せているものは、この社会の仕組み──つまり富の独占を善とする経済のあり方ではないのか。人間を勝者と敗者に分け、敗者を「努力せざる者」として切り捨てる社会。その歪みこそが、エリオットを「気違い」として浮かび上がらせているのではないか。
同時に、この物語は科学が発達した文明社会における人間存在の意味をも問うている。AIが次々と人間に置き換わろうとしている世の中では、ヴォネガットの作品ではお馴染みのキルゴア・トラウトが語っている通り、人間が人間であるというだけで愛せる理由と方法を見つけられなければ、文字通り人間は抹殺されるだろう。
なお、日本語では訳されていないが、本書には「豚に真珠」という副題がある。これははたして社会の役立たずに金を分け与えるエリオットを指しているのか、それとも肥え太る拝金主義者を揶揄しているのか。ヴォネガット一流のユーモアである。詳細をみるコメント1件をすべて表示-
yumickさん読みたいな読みたいな2019/04/06
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本日読了。
グローバリズムが、あらゆる富を特定の国の特定の人物に集中さる現代を、恐ろしいほど的確に予見している。
ヴォガネット作品にはおなじみの架空のSF作家トラウトの言葉があまりにも重たい。
食料や機械やサービス、あるいは経済や医学のアイデアの生産者として、ほとんど全ての人物はやがて価値を失う。だから、ただ人間であるということにこそ価値を見出さなければ、もう抹殺しても良いということになりかねない、と。
集まった富を、あらゆる「役立たずの人間」に分け与えようとした者こそが、狂人扱いされる。
アイロニカルで軽妙だけど、ラスト数ページはあまりのも痛切。
ぐっときた。 -
たとえヴォネガットの作品が砂糖の錠剤ににがいコーティングを施しているだけのようなものだとしても、私は彼の作品が大好きだ。読み始めると
どんなに抑えても感傷的なきもちになってしまう。ギャグっぽくコミカルに書かれているところもあるが私は全然笑えなくてむしろ悲しい気持ちになってしまう。SFを数行でまとめるというアイディアも素晴らしいし、聖書に対する解釈や現代社会の問題点にヴォネガット独自の視点があるし、なにより登場人物達のドストエフスキー的な胸中の吐露が胸に迫る。泣いた。 -
読んでいて、どうすればいいのかわからなくなって、馬鹿みたいにぼろぼろぼろぼろ泣いてしまった。
ヴォネガットの作品はこれが初読だが、読む前からからそうなる予感はしていた。きっと泣いてしまうし、きっと辛いだろうと。その通りだった。
「カート・ヴォネガット・ジュニアの『ローズウォーターさん~』は、この作家が世界に宛てた、一番新しい、一冊の怒りのラブ・レターである」(ジュディス・メディル)
怒りのラブ・レター。まさしく。
これは愛についての物語である。そして金についての物語である。
一人の男が限りない愛と、限りなく限りないくらいの金を、その身に背負って、生きる話である。
誰を救えばいいのか、という話ではない。
何を変えればいいのか、という話でもない。
世界はあるがままに。そして人間もありのままに。
みじめな人生に電話での話し相手と、わずかなお金を。
何も変わらない世界に小さなユーモアを。
そして、新しい命へ「ようこそ」と。
そうそう、あとはこれ。
「なんてったって、親切でなきゃいけないよ」。 -
ジャンル不明。
お金と愛と狂気の物語。
SF要素としては、架空のSF小説のエピソードが紹介されたりはする。
基本的に、ストーリーやエピソードは意味不明だが、読後感は非常に良い。
おそらく、社会風刺になっているのだろう。
ヴォネガットは考えさせられる作品が多い。 -
序盤、エリオット・ローズウォーターがなぜこのような慈善の人になったのか、また彼を取り巻く貧しく不運な多くの人々の描写などが、まるで演劇の舞台を基礎から創っていくかのように細かく丁寧に描写される。この状況説明を読みこむのに時間がかかり、「この作品はタイタンの妖女みたいに自分には向いていないのか?」と思いきや、中盤から愛すべきエリオットという人が掴めるようになる(それまでの丁寧な描写がここで効いてくる!)と、どんどん面白くなっていき、最後高みに飛び立って、ストンと終わる。
でも。
私にはエリオットのような人間愛はきっと寂しく思えてしまうだろう。彼の妻が、彼を愛していても寂しかったように。彼の父が、常に息子に裏切られ憎まれていると思ってしまうように。彼に助けられたはずの人々が、彼にいつか捨てられると思い込んでいるように。
最後エリオットは晴れ晴れとしたはずだ。エリオットが幸せなら、ハッピーエンドじゃないか。なのにもやもやとしたある種の寂しさを感じてしまうのは、私が俗物だからなのかもしれない。 -
もしも完全に利他的な人間が、働かなくてもお金の手にはいるような大金持ちだったら?
これはヴォネガットのいつものユーモアと皮肉と笑いをまじえて大金持ち、エリオット・ローズウォーターの生き方を描いた小説。
エリオットの周囲にいる人間たちを同じ人間とも思わないような俗物らしいエリオットの父親は、誰をもを愛していると言っているエリオットに対し、特定の人間を特定の理由で愛する自分たちのような人間は、新しい言葉を見つけなければいけないと嘆く。
エリオットが「役立たずの人間」に奉仕するときの「愛」とはどんなものなのか?
住民たちのもとを離れ、もう戻りたくないと思いながらも、まだ見もしらぬ子どもたちのためにお金を与えるのはどうしてか?
助けてきた住民の名前も忘れてしまうエリオット。彼が愛するというとき、それは目の前の個人ではなく、人間という存在そのもの。特別な存在として自分を見てくれないエリオットを、他の人間は愛せないように思う。愛するにしてもそれは神への愛みたいなものか。
二つの愛という概念は、宗教をもっている人間ならわかるのかな? -
この手の小説ってあまり読む機会がなくて、ということはあまり好きではなくて、まあ正直言って本書もそんなに面白いとは思わなかった。
でも中盤の電話での会話の描写とか、終盤に群像が一つになっていく過程とか、小説としては実によくできているとは思う。
最後の方にあったトラウトの言葉
「いかにして役立たずの人間を愛するか?」
これはたぶんこの小説のテーマだろうし、実は僕の人生のテーマでもある。読後感は爽やかで良し。