高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

制作 : 土井宏明(ポジトロン)  浅倉 久志 
  • 早川書房
3.46
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本棚登録 : 1692
レビュー : 134
  • Amazon.co.jp ・本 (432ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150105686

感想・レビュー・書評

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  • 第二次世界大戦に枢軸側が勝利していた世界――の
    アメリカを舞台にした改変歴史SF小説。
    敗戦国民として自尊心を傷つけられた
    アメリカ一般市民の暮らし、
    反目し合う日独の駆け引き、スパイや暗殺者の策動、etc.
    もし連合国が勝利していたら……
    という内容の小説『イナゴ身重く横たわる』が
    ベストセラーになると共に一部地域では発禁になっている世の中で、
    その本と占筮に導かれて接触したり擦れ違ったりする人たちの様子。
    しかし、全体的に地味な群像劇で、読んでいると
    自分が高い場所から箱庭を見下ろしているような気分に
    なってくる。
    タイトルは作中での『イナゴ身重く横たわる』の著者が
    身を守るために堅固な城にも似た屋敷で暮らしているという噂に基づく。
    結末は、途中から漠然と予想していたとおりだった。
    時間が経って読み返せば
    スルメのようにジワジワ旨味が感じられるようになる、のかな(笑)?

  • ディック祭 2冊目。
    第二次世界大戦で、枢軸国側が勝ったら、という改変歴史SFモノ。さらに、その世界で、「連合国側が勝ったら」という改変歴史SFモノがベストセラーになっている、という、でディックならではのねじれた物語。

    お得意の「本物/偽物」について、それを見分けるのは、「史実性」。その「モノ」がどういう歴史を経たかということ。でも、それは、見ただけではわからないもの。
    つまり、「モノ」がそれ自体の価値ではなく、物語が価値をつける、という「ガジェット化」。

    そして、「本物」が大量にコピーされるとき、「本物」の持つエッセンスが薄くなった「残り香」だけが大衆に広まる、という。つまりは大量コピーによる「キッチュ化」。

    そのキッチュ化を拒むのが、実際は、大衆消費社会を作り上げたアメリカ人というのがなんとも皮肉っぽい。

    易については、・・・よくわからない。ディック自身が易で物語の筋を決めたのではなかと思うようなだらだら感。でもディックのぐらぐら感は少なめ。

  • もし第二次世界大戦で日本が勝利していたら―。
    何かワクワクしませんか? 
    いやね、別に私は戦争を賛美する者ではありません。
    本書は第二次世界大戦で枢軸国側が勝利し、日本とドイツがアメリカを分割統治している世界を描いたSF小説。
    1962年に発表された小説ですから、私の生まれる10年以上も前。
    ちなみに著者は本書でヒューゴー賞を受賞しています。
    今だとフィリップ・K・ディック賞という自身の名を冠した文学賞がありますね。
    有名なSF作家です。
    なんて偉そうに書いていますが、実は「作家の読書道」というお気に入りサイトで、作家の星野智幸さんが勧めていたので買いました。
    そしたら、面白いのなんのって。
    アメリカ人が日本人の顔色を見ながら手もみしたりしているんですよ。
    痛快だと感じて、ふと考えてしまいました。
    敗戦国民として自分の中にも抑圧された心情があるのだと。
    ドイツ人はかなり悪しざまに描かれている一方、日本人の描き方は好意的です。
    著者の戦争に対する透徹した眼差しにも敬服しました。
    正直に言うと登場人物が多過ぎて、アタマの悪い自分は途中、話の筋を見失ったりしました。
    あと帯状疱疹で終盤は身体が痛くて集中を欠いてしまいました。
    でも、面白いですよ。
    ただ、主たる登場人物が易経を行動指針にしているというのが、やっぱりどうしても最後まで馴染めませんでした。
    感じ方は読む人それぞれでしょうが。

  • で、この後どうなっちゃうの?? 誰が主人公なのか分からないし、劇的な出来事が起こるわけでもない(殺人や撃ち合いも起きるのだけれど…)のが返ってリアルな感じ。何にも起きないのかなぁと思いながら読み進めていったけれど、いつの間にか引き込まれてしまった。

  • まさに、今欲している言葉が山ほど出てきた。

    この本で重要なのは「第二次大戦でドイツと日本が勝っていたとしたら、その時のアメリカは…」という設定自体ではなくて。

    ・狂気と正気。
    ・闇の中に生じる光の種子と、その芽吹きによって生じる闇とによって繰り返される、消滅を免れる世界というもの。
    ・主観的歴史にまつわる、<仏教の文化>と<キリスト教の原罪>という考えについて。
    ・そして、全ての道が何らかの悪に通じているとしても、一歩一歩選択することでしか結末を左右出来はしないのだということ。

    真逆のようで一対のそれらの上で混乱をきたして選択を放棄しようとした私が、今確かに、読むべき本だったのだ。

    すごい本だった。
    (たとえ、登場人物の日本人がハリウッド風の謎日本人と謎中国人のハイブリッド的だとしても。)

  • 歴史の「もし・・・」を描いた作品。

    このテーマを描いた作品は、他にもいくつかありますが、中でもこの作品は異色ですね。だって、本の登場人物たちが、本を読んでいるんですから。加えて言うと、だからと言って、歴史が変わるような動きを(明示的に)示すわけでもない。暗示的には、示しているのかもしれませんけどね。軍事を描くシーンも少なく、抑圧下の被征服人民の生活を描いた作品ですね。いやぁ、不思議な感じです。

    もう一つ不思議なのが、易経が数多く描写されていること。物語的に、日本もその描かれているテーマの一つということもあるのと、作者自身が易経に傾倒していたと言う事も有るようで、そのような描写になったのかもしれませんが、それでもねぇ。欧米の人は、エキゾチックな気持ちで読むんでしょうか?

  • SFの古典的名作。
    第2次世界大戦の勝利国が枢軸国側だったら?というIFの世界。
    設定がSFなだけで中身は純文学の様。多彩な登場人物がドイツの首相の突然の死去に右往左往する様が描かれる。
    陰謀あり、黒幕あり、政争あり、と世界情勢は混沌としている。世界を日独伊が仕切っており(何故か伊の影は薄いが)英米が日独の顔色を窺いながら卑屈に生きている。
    同時進行的に話は進行するが最後に収束するわけでもなくクライマックスがあるわけでもない。
    色んな事件はあるが結局「世は全てこともなし」、無常観だけが残る。後味は悪くない。

  • ディック祭り第3弾!

    第2次大戦でドイツと日本が勝利した世界。その世界の人々をリアルに描いているところまでがかろうじてSFと呼べるか。でも、ディックが描きたいのはそんなことではない。現実ですら苦しいことも多い世の中、じゃぁ全く逆だったらどうなのかという設定にはなっていいるけれども、明るい世界が広がっているわけでもなく、やっぱり描かれるのは「不安」。

    相手の気に入らなかったら・・・偽物と見破られたら・・・そもそも本物って何・・・もう不安だらけ。その不安だらけの日々の道筋を示すために卦が用いられる。こういう小説に惹かれるってことは、自分の「今」が不安だらけだからなのだろうか。

    ディックの小説を読んでも何も解決しないし、すっきり爽快感もない。でも、共感する不安な部分に気づく。それで、また読んでしまう。凄い!

  • …多分、面白かった。
    まあよく理解出来なかったのは、私の方の問題。

  • 『高い城の男』は日本では評価が一段低いようだけれども、僕にとっては忘れがたい作品だ。おそらくSFというジャンルの力を確信したのはこの作品からだったのである。

     第二次大戦で日本に敗れたアメリカは国土を日本によって支配されている。しかし、「これはニセモノの歴史で、真実の歴史はアメリカが日本に勝ったのだ」という内容の小説が人々のあいだで話題にのぼるようになる、いっぽう魂の指針をなくした人々はしばしば「易経」を行動のガイドとして利用する、『高い城の男』はそのような世界を描いている。
     だが、現実反転ものに見られるような派手な展開は底流にすえられたままだ。この作品にあるのは、理不尽な世界に投げ入れられた個々の人間の生き方なのだから。

     ディックの作品において職業というのは、登場人物の性格をあらわすひとつの指標となる。

     フランク・フリンクは元の職場で戦前のアメリカ製品のニセモノを作る大量生産のラインで働いていた。このことは彼がナチスドイツの目を逃れるためにユダヤ人であることを隠して、偽アメリカ人として生きていることとパラレルである。

     彼は工場を辞めたあとも、友人のエド・マッカーシーと新しくオリジナルの装身具作りの事業を始めようとしたり、自信をなくして廃業しようとしたりとフラフラして落ちつかない。


     一方、工芸品の小売商であるチルダンに対し顧客の梶浦は、フランク・マッカーシー工房の作った工芸品の中にある芸術的な性格「無(ウー)」について明快に説明する。

    「ここには釣合いがある。この金属片の内部のいろいろな力は安定状態にある。落ちついている。いわば、この物体は宇宙と仲よく共存している。宇宙から独立し、それによって恒常性(ホメオスタシス)に達している」
    「この工芸家の手には無(ウー)があり、その手がウーをこの一片の中に流れこませた。おそらく彼自身も、この一片に満足がいくことしか知らなかったでしょう。これは完全なんですよ、ロバート。これをじっと見つめることで、われわれ自身もより多くの無(ウー)が得られる。芸術よりもむしろ神聖なものと結びついた平安を味わう」(p262)


     恐ろしいのは梶浦がこれほどにフランクの作品の価値を明確に述べながら、同時にチルダンに対して「この品物を大量生産のラインに乗せろ、販売システムを確立せよ」と「助言」を行うことなのだ。

     オリジナルな価値を完全に把握しつつ、一転してそこから模造品を大量に複製し、金を儲けろという要請。これはキリストを荒野でおそった悪魔の誘惑に等しい。悪魔はキリストに奇跡の力をもって石をパンに変えればよいとささやく。これは、実は石をパンに変えろと言っているのではなく、奇跡そのもの、神聖な価値を、そのものの力自身をつうじて物質的な利益(パンや金や)の水準にまで貶めろ(だから一面では高めろ)という誘惑なのだ。

     この悪魔は恐ろしい。黙示録のけもののせいぜい外的な恐怖をさそうような荒々しい暴力はない。しかし、わたしたちの中のよいものをその根底から蝕むような、それでいて一方ではわたしたちの現実的な生活の中に、逃れようもなく根ざした条件に真っ向から切りつけてくるものだからだ。この場面においてディックはドストエフスキーを瞬間的にであれ凌駕したとわたしは本気で考えている。

     チルダンは聞く「ウーはどうなるんですか?大量生産でも、それは一つ一つの中に残りますか?」
     そして梶浦はやや離れたセンテンスでこのように語る。「無教育な大衆がまだ世界にはおびただしくいるんです。彼らは、鋳型に流しこまれた画一的な品物から、われわれが味わおうとしても味わえない喜びを手に入れることができます。」

     このためしに対するチルダンの対応は実際に読むべきだ。ほとんど、作品中最大の倫理的問題とさえ言える場面を、主要人物とは言いきれないチルダンと言うキャラクターに任せるというのがディックのややバランスの外れたところなのだが、商人という存在は外部と接触する比率が高く、それだけ悪の誘惑も受けやすいと考えれば必ずしも奇妙なことではない。

     太平洋岸連邦第一通商代表団の高級官僚である田上信輔は、ナチスの後継者争いの中にある日本の危機を伝えに来たドイツの情報部員バイネスを殺そうとするナチスの手先から彼を守るために、二人の暗殺者を射殺してしまい、このことへの罪責感にかられる。
     そもそもバイネスの携えてきた代案も、日本を守るためにナチの後継者の中から巨視的に見ればより悪いものを後押しするというようなものだ。「おれはこのジレンマには立ち向かえない、と田上は心の中でひとりごちた。人間がこうした道徳的矛盾の中で行動を迫られるとは。ここには“道”(タオ)はない」というほどに精神の平衡を失う。

     やがて、田上はチルダンの勧めるフランクとマッカーシーの作ったアクセサリーを眺めているうちに、別の世界、日本がアメリカに敗れた世界をかいま見る。

     この光景を実際に見る特権を与えられたのは田上だけだ、そして日本の高官である田上にとってこれはあきらかに祝福される筋のものではない。
    「善行に対する報奨としての懲罰」という著しい逆説がここにある。しかし、善行とはおそらくそういうものなのだ。

     サンフランシスコ市警に、過去の詐欺行為とユダヤ人の身分を偽っていたことで捕まり、ドイツに引き渡されそうになっていたフランクは、違う世界を一瞬だけ覗いてしまった田上のナチスに公然と反抗した釈放指示により、わけも分からぬまま解放される。
     その後、フランクは、あらためてオリジナルの作品を作るべく決意し、友人のマッカーシーの待つ工房に帰る。
    「エドのところへ帰れ。おれはあの地下室、あの工房への帰り道を見つけなきゃならない。途中でやめたところからまた仕事をはじめ、この手を使って装身具を作ろう。働くんだ」

     それだけだ。SFというけばけばしいジャンルから想像されるような恐ろしいカタストロフもファンファーレが鳴り善が悪を倒す壮大なクライマックスもない。フランク・フリンクはドイツ首相の死をめぐる政治ドラマなどにはいっさい関わらず、作中したことといえば、ニセモノ作りのライン工から、オリジナルの装身具作りへの転進を自己の中で確かめるということのみ。

     しかし。彼の職業のニセモノ性が彼のアイデンティティのニセモノ性とパラレルだったとするならば、彼が彼の本物を作ろうとする決意を固めたときにアイデンティティにおける問題もまた解決されるべく決意されるのだろうと読むことは容易だ。
     真実性が揺らぐ世界の中で、なおかつ作中人物たちは自分の人生を決断し、世界に投企する。
     SFというものはこういうことが書けるのか、高校生のときに『高い城の男』を読んで、わたしは泣いた。このジャンルの可能性というものを初めて理解するにいたった瞬間だったと思う。


     ディックはインタビューでこう述べたという。
    「わたしにとって小説を書く上での大きな喜びは、ごく平凡な人物が、ある瞬間に非常な勇気でなにかの行動をするところを描くことだ。その行動によって彼はなにも得をするわけではなく、現実世界に名前が残るわけでもない。とすれば、その本は彼の勇気を讃える歌なのだ。」
    「わたしの願いは、『高い城の男』の田上氏がいつまでも記憶に残ることだ。わたしの本の登場人物は、わたしが実際に見てきた人々の合成物であり、彼らが記憶に残る方法は、わたしの本を通じて以外にはない。」



     ル・グィンは「SFとミセス・ブラウン」の中で、現代のSFの中で最初に出あったミセス・ブラウンとして田上信輔の名を挙げている。

    「彼らは人間です。キャラクターです。完全で、充実していて、多分に複雑な人間です。とがったところや角ばったところがありかたい部分もやわらかい部分もあり、深みも高みもある人物です。」
    「彼らがあらわしているのは、作者ができるだけ明確に言いたいと切望したところのものです。圧迫下にある人間について、独特の現代的なかたちをとった、道徳的圧迫のもとにある人間について」

     道徳的圧迫。バイネスはナチスの狂気について考える。
    「彼らの観点──それは宇宙的だ。ここにいる一人の人間や、あそこにいる一人の子供は目に入らない。それはひとつの抽象観念だ──民族、国土。民族(フォルク)。国土(ラント)。血(ブルツト)。名誉(エーレ)。りっぱな人々に備わった名誉ではなく、名誉そのもの。栄光。抽象概念が現実であり、実在するものは彼らには見えない。ドイツ人にとって“善”(デイー・ギーテ)はあっても、善人たちとかこの善人とかはいない 。観念が具象に優先する。それがナチズムの根本的な狂気の正体だ。」

     これはル・グィンが「SFとミセス・ブラウン」のなかで語ろうとしたこととも重なりあう。「SFは人間を描けるのか」。あるいは、これを併記して考えると、『鉄の夢』でも少し触れた「SFの夢はナチスではないか」という問いにいたるのだが、それはおこう。

     それにしても誰が田上信輔を忘れられるだろうか。二人の人間を殺した自責の念にとらわれ、死体の残る現場で、易のたすけを求めて、木の茎を放心状態で手の中でもてあそんでいたあの男の弱さを。

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