華氏451度 (ハヤカワ文庫SF)

制作 : Ray Bradbury  宇野 利泰 
  • 早川書房
3.72
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本棚登録 : 1679
レビュー : 236
  • Amazon.co.jp ・本 (338ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150116910

作品紹介・あらすじ

焚書官モンターグの仕事は、世界が禁じている"本"を見つけて焼き払うことだった。本は忌むべき禁制品とされていたのだ。人々は耳にはめた超小型ラジオや大画面テレビを通して与えられるものを無条件に受けいれ、本なしで満足に暮らしていた。だが、ふとした拍子に本を手にしたことから、モンターグの人生は大きく変わってゆく-SFの抒情詩人が、持てるかぎりの感受性と叡智をこめて現代文明を諷刺した不朽の名作。

感想・レビュー・書評

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  • 書籍を持つことが禁じられた世界。書籍の一切を焼き払う「焚書官」という仕事に就くモンバーグは、近所に越してきた不思議な少女クラリスと出会い、また書籍とともに命を落とす老婆の存在を目の当たりにし、本を忌むこの世界に疑問を持ち始める。

    思考すること・物事に疑問を持つことの重要性、思考の時間を奪われることの恐怖と弊害、さらには人間らしさとは何かを問う作品だと思う。
    耳にはめた超小型ラジオや大画面テレビから、引っ切り無しに流れてくる情報の海。書籍から知識や思想を学び感じ取ることを禁じられ、物思いにふける時間すら悪とされる。
    徹底的に思考を管理された世界は、確かに人と衝突することなく一見平和かもしれない。けれど刹那的に生きることで自分が無となることは、はたして生きていると言えるのか。

    モンバーグの声に耳を貸そうとせずこの世界の規則に則ろうとする妻ミルドレッド、本に精通し知識にも長けながら本を真っ向から全否定する上司ビーティ、裏で本を肯定し冷静にモンバーグの想いに添う元大学教授フェイバーなど、モンバーグはそれぞれの意見に耳を傾け、自身の考えと立場に悩んでいく。
    ある禁忌を犯してしまったモンバーグに降りかかる災難は、先が読めず一気読み必須です。

    インターネットやスマートフォンが急速に普及し、溢れんばかりの膨大な情報が簡単に手に入る昨今。流れるように頭を駆け抜けていく情報にひとつひとつ向き合い、深く掘り下げる人はそう多くないはず。電車や歩道でスマートフォンに釘付けになっている人々の姿は、大画面テレビに没頭する妻ミルドレッドと重なる。
    SFは苦手と読むのを後回しにしていたが、さすが巨匠ブラッド・ベリ、その中身は普遍的です。この作品の怖さは現代に通じます。

    ~memo~
    第一に大切なのは、われわれの知識がものの本質をつかむこと。
    第二には、それを消化するだけの閑暇をもつこと。
    第三には、最初の両者の相互作用から学び取ったものに基礎をおいて、正しい行動に出ることである。

  • 米国のSF・幻想文学作家のレイ・ブラッドベリによる1953年発表の作品。
    ジョージ・オーウェルの『1984年』などと並び、代表的なディストピア小説のひとつと言われる。ディストピア小説とは、SFなどで空想的な未来として、理想郷(=ユートピア)の正反対の社会(=ディストピア)を描いた小説で、その内容は政治的・社会的な様々な課題を背景としている場合が多い。
    華氏451度とは、摂氏では233度にあたり、紙が自然発火する温度というが、本作品は本の所有や読書が禁じられた近未来の物語である。
    主人公は「焚書官」として、人類の叡智の結晶である本を焼き尽くす仕事をしているが、その一方で人々は超小型ラジオや家の大型テレビで絶え間なく娯楽を提供されている。彼らが生きている社会では、ホイットマンもフォークナーも聖書も禁書とされ、人々は権力者の都合のいい刹那的な娯楽により飼いならされ、自ら考えることを自然に奪い取られている。
    主人公は、その後、謎の少女クラリス、元大学教授フェイバーと知り合い、自分の仕事に疑問を持つようになり、書物の重要性に目覚めて、自分の上官を焼き殺して逃走する。そして、最後に、書物を自分の頭に焼き付けて未来へ伝承しようとしている老人の一団に出会う。
    現代の世の中は(少なくとも日本は)、体制側の明示的な意図によって、個々人が自らの考える材料や機会を制限されることは殆どない。しかし、TVをつければ大多数のチャンネルでお笑い番組が流れ、ネットを見れば多くの人がアクセスしたサイトや、過去の自分のアクセス・購入履歴に基づいたサイトが自動的に表示される。。。体制側の焚書官がわざわざ書物を焼かなくても、自らが考えることを放棄するような状況を作り出しているのではあるまいか。。。
    まさに現代において考えるべき、重いテーマを扱った作品である。
    (2013年1月了)

  •  本の所持が禁止された世界を舞台に、見つかった本を焼き払う”焚書官”の仕事をするモンターグの姿を描いたディストピアSF。


     以前NHKの「クローズアップ現代」で読書について取り上げられているのを見ました。その番組の中の実験で普段読書をする学生としない学生でレポート課題に取り組む際どのような違いが見られるか、ということが実験されていたのですが、それがこの本の内容とシンクロしているような気がします。

     モンターグはふとしたきっかけから衝動的に一冊の本を持ち帰り、その本を読み自分の仕事に疑問を持ち始め元大学教授のフェイバーに話を聞きにいきます。

     フェイバーが語る書籍のない社会に欠けているもの。一つはものの本質をつかむ力。二つ目はその本質を消化する閑暇。そして三つ目が先の二つから学び取ったものを基礎において行動する力だそうです。

     本が禁止された世界は、この小説の中ではこんな風に書かれています。
     まず重要な役割を演じているのはテレビです。テレビは映像や音響の力で人間の想像力を縛ります。
     
     また徹底したカットや編集、あらすじや概要だけを伝える省略化によって、視聴者にその番組の細かいところを想像させないようにし、また次の番組に移るという情報の意味を考えさせない工夫がされています。

     また余暇はスポーツを徹底させて組織論を身体に覚えこませ、また身体を動かすことでふと物思いにふける時間を取らせないようにしています。
     
     こんな世界だからこそ、人々は何も考えず与えられた情報をただ消費するだけになってしまい結果的に支配しやすくなるというわけです。

     そして自分がNHKの番組とシンクロしていると感じたのはフェイバーが語る3つ目の理由。学び取ったものを基礎において行動する力です。

     NHKの読書をする学生としない学生のレポート課題の取り組み方を調べる実験によって明らかになった違い。前者はネットで調べた後、本からさらに課題について知識を得、独自の観点を見つけそこから自分の意見を展開していったことに対し、
    後者はネットで調べた多様なテーマをコピー貼り付けし、最終的にその多様なテーマを意見や考察に結びつけることなく簡単に数行で終わらせてしまう結果に終わったそうです。

     こうしたところに学び取ったものを基礎において行動する力の限界が見えたように思いました。

     ネットやSNSで簡略化された情報が次々と現れては消えていくようになった現代において、60年以上前に書かれたこの小説は今もなお警鐘を鳴らし続けているように思います。

     警句的な意味でも名作ですが、ところどころに見られるブラッドベリらしい詩的なイメージや文章もさすが、と思いました。

     そして徐々に本の重要性を知っていき、本を守るために命を懸けるモンターグの姿は本好きとして応援せずにいられなくなりました。そういう意味でとても共感しやすかったと思います。

  • 考えるためには時間と機会が必要で、その大きな契機を与える本を奪われることの恐ろしさを思い知らされた。考えること、感じることを放棄させられてしまった人たち。せざるを得なくなってしまった人たち。本質に触れずにいることは、なんと享楽的で、生きるのが楽なことか。悲しみを感じずにすむから。想像しなくてすむから。でもそれって幸福?
    人それぞれ感じ方は違うのかもしれない。強すぎる感受性を恨んだことも度々ある。でも、それでもやっぱり私は、考えることと、自分の手で世界を味わう豊かさを失いたくない。

    ものを考えるとき、言葉で人は考えるしかないのだという。ことばに触れるということは、良書に出会うということは、それだけでもう自分という人間を広げ、深めることになるのでしょう。

  • 「結局のところ、世界は人が望んだとおりの姿になるんだよ」
    彼はコーヒーカップを二つ、テーブルの上に並べながら言う。
    「何を奪われても、失っても、それは、皆が望んだことなんだ」
    葉月は、手元の本から顔を上げ、彼を見た。
    静かに笑っていた。

    穏やかに晴れた夜だった。
    家のすぐ外は海岸で、波音が低く響いていた。
    これも夏の名残か、花火でもやっているらしい若者たちの声が、遠くどこかから聞こえていた。
    「例えばこの本のように、書物を持つことも、読むことも禁じられた世界であっても?」
    葉月は、出されたコーヒーに手を延ばしながら、上目遣いに問うた。
    「そう」
    彼は、頷く。
    「フェイバーが中盤で語っているだろう? 思考する人間はいらない、と。人と違った人間はいらないんだ。自分と違ったものを持っている人間がいれば、自分に欠けたものを自覚することになる。それは不幸だ。誰もが幸福になるためには―――皆が、同じでなければならない」
    「不幸の元は、絶ってしまえ、と」
    「そうだよ。みんなが同じように笑い、同じように幸福であるためには、他人と違うことを考える人間を締め出してしまうしかない。法律で規制し、犯罪者に仕立て上げればいい。理由はいくらでもでっち上げられる。そういう例を、俺たちはいくらでも知っている」
    彼の口調は、分かりきったことを確認しているようだった。
    葉月は、頷く。
    「……そういうの、ありましたねえ」
    その言葉には、いくらかの呆れと、ある種の諦めが混じっていた。
    彼は、苦笑した。
    「本を読むということは、そこに物語を求めることだよね。そこに何かを見いだし、それについて考え、そして何かを紡ぎだそうというプロセスだ。つまりは―――孤独になるということだよ。本というのは表現の一形態だけれど、表現とは元来孤独なものだ。だからこそ、つまり他人とは違うものがそこにあるからこそ、表現する意味がある。あるいは、表現したいと切望するんだね」
    そこまで聞いて、葉月はふと気付いた。
    「この本に描かれている『本が禁じられた世界』というのは、一種の比喩ですか」
    それについて、彼は少し考え、そして答えた。
    「そうかもしれない。うん、そうだね。……これは『表現を禁じられた世界』だ。そしてそれは、人が互いに妬み合い、奪い合った末に生まれた『幸せ』だ。でも、―――」
    続く言葉を、飲み込んだ。
    窓の外に、ふと目をやった。
    波の音が、聞こえている。

    「思想や表現が制限された世界を描いた小説は他にもありますが……」
    葉月は言う。
    「そうなった責任は人間ひとりひとりにあると示したことが、この小説の凄さのような気がします」
    うん、と。
    窓の外を見つめたまま、彼は静かに頷いた。
    「ブラッドベリの小説は、優しいよね。こんな世界感の中にあっても、ちゃんと人の一番柔らかい部分に触れてくる。こんな静かな夜に、一人で読みたくなるような小説だね」
    花火は終わったらしく、遠い喧噪も聞こえなくなっていた。
    気付けば夜も更けている。
    二人はそれ以上、何も喋らなかった。

    --------------------
    2016/4/6、夜。


    「人が書物になるって、どういう気持ちでしょう」
    葉月は、もうずいぶん前に読了した本を手に取り、ふと、そんなことを言った。
    「書物がすっかり消し去られた世界で、書物が人の姿をして生き続けているっていうのは、なんだか素敵じゃないですか」
    蛹は手元の本から顔を上げ、少し考えるように天井を仰いだ。
    「書物が、生命と意識と表情を持った、と。確かに、そういう見方もできるね」
    その書物は、ちゃんと孤独だろうか、と。
    蛹は、静かに呟いた。

  • ディストピアもので、印象としては1984年に非常に近い物を感じたが、あちらよりも文化的側面に焦点を当てることで人間の内面を抉り出すかのような作品で、またオーウェルが人間をありのままの姿に描き、現実に即した生々しいディストピアを描いていたのに比べて、人間の歪みを拡大し、誇張し、それでいて強い説得力をもってグロテスクに描いている手腕には感嘆させられた。どちらかと言うとこちらの描き方の方が好みである。
    描き方という事に関して、モンターグが追跡を振り切り、川を目指して走るシーンの躍動感は驚嘆に値する物で、非常に面白かった。
    比喩表現やギミックも豊富で、楽しませながら、感じ入らせながら、尚且つ明確な問題提起によって考えさせるという、多様な面をもって読ませる作品だったと思う。

    モンターグが悩み、葛藤する善良な知の求道者の象徴だとすると、ミルドレッドは愚かな民衆であり、ビーティーは民衆を煽動し、知を追放する事で権力を保持する指導者であった。そして民衆と指導者は文化喪失の両輪であり、決してその片方が文化を進んで破壊し、捨て去るのではないという事も、改めて考えさせられた。焚書とは、政府による民衆への弾圧であると同時に、民衆自身の手で行われる側面は捨象されてはならない。
    ミルドレッドとその友人の妻達。非常にグロテスクに、民衆と言う物を代表する存在として明確に描かれていたが、正に彼女らの体現する姿は一種の幸福のあり方であった。グロテスクとは言えても、歪んでいるとは断言できないような、一種の正当性がある。少なくとも、幸福というものが人間の心理の内部にしか存在し得ない以上、知を捨て、思考を回避するということには一種の幸福探求の真理が潜んでいる。

    ブラッドベリがテレビと言う存在をあのように描いていたのは、遥かな昔の作品でありながら驚嘆するほどの先見の明があると感じた。人間はエンターテイメントの徹底的な単純化と、没入可能性の拡張によって、徹底的な無視と受容の境地を無意識に探求している。1950年代の作品でありながら、全くそうだとは思えないほど的確に、現代の人間が陥っている知的な袋小路を見事に言い当てている。あとがきにも書かれていたが、この作品内で語られる焚書の論理の根底には3S政策の概念を感じた。それが成功したと思われる日本の現状が、ブラッドベリの描いたディストピアの、グロテスクな大衆の姿とピタリと重なるというのは、ある意味では妥当でありながら、それほど性格に、人間の本質を見抜いていた彼の類稀なる洞察力には脱帽である。

    この作品では政府が人間から『思考する時間』を奪い去る事により、民衆の愚劣化と幸福の実現を達成した。それに大きく働きかけたのはテクノロジーの進歩であった。テクノロジーの大きな側面の一つが、人間が内面に持っていた機能や能力を、一つ一つ外在化することにより、内部を構成していたものを一つ一つ取り去ってしまうという物である。便利になる、手間がかからなくなるという事は同時に、空虚になることも意味する。技術の習得、こだわりの追及。それらは時間の節約と言う利益と果たして等価交換できるものであったのか?それが提供してくれる幸福は確かに存在しているが、その幸福に終始してしまって良いのか?その問題提起が妻達のグロテスクさだったのだと感じた。

    本書は最終的に、人間の『遺す事の出来る力』『遺物の中から蘇る力』を示唆し、知の復活の兆しを提示するところで幕を閉じる。知識とは、能動的に社会へと働きかける物ではなく、有事の際に民衆から必要とされるまで、例えそれが意味があるかどうかは明確でなくとも、確実に保存され発展させられるべき物である。そして個人個人の存在は、大きな知の体系の一部でしかない。それが作者のスタンスだったと思う。

    近年においては特に、民衆の間における知の歪んだ様相が遂に臨界点を迎えようとしているように感じる。この時代の独特の閉塞感は、決して経済的な不遇だとか災害の爪あとだとか、そのような事だけでは説明しきれない。逃避に逃避を重ね、単純化と効率化という限りある方向に迷い込んだ我々は、遂に行き止まりまで辿り着いてしまったかのように見える。大きな物語が成立しなくなってしまったのは、何も社会的政治的歴史的側面だけではなく、文化的側面についても同じなのかもしれない。
    そのような時代だからこそ、この作品のような書物を通して、現代のような袋小路に陥る以前に、それに警鐘を鳴らしていた卓越した作品を通して、もう一度真摯に現状と向き合うべきではないかと思う。

  •  ディストピア的近未来を描いたSF長編小説。
     本の存在が禁じられた世界で、焚書官である主人公の男は、本を所持する者の家と本を焼き払うことを職務とする。
     禁忌とされていた本に、やがて我知らず心ひかれ、男は自ら本を手に取り、頁を捲り始める。
     犯罪者として追われる緊迫感、同士の仲間たちと出会う希望。
     本の意義と人々の感性、文化の危機とそれを乗り越えようとする人々の奮闘は、絵空事とは侮れない諷刺の威力がある。

  • 華氏451度!摂氏だと233度!!あっつ!!!

    冗談はさておき、焚書もビビるがそれ以上に部屋の3方向をスクリーンに覆われた部屋とか海の貝の方が数倍ビビった。「破壊の恐怖」より「無知の恐怖」。しかもこれ、認めたくないが現在進行形だろうし、現に今イヤホンを耳に突っ込んでPCに収められたお気に入りの音楽を聴きながらネサフしてる私はすでにブラッドベリ・ワールドの住人なのでは(強制終了)

  • 本を読むことも好きなのだけど、紙の本それ自体もたまらなく好きなので、本が粗末に扱われるのは耐えられない。
    評判になった某朝ドラは、貧しくて本など買えない本好きのヒロインが、もらった貴重な洋書を長期間放置して妹が漬物石代わりにし、挙げ句の果てに自ら雨の庭に二階から投げ捨てようとしたので、仁王の形相でテレビを消した。
    本好きの本への愛を馬鹿にしてんのか!
    あり得ない!
    とにかく、本に意図的に無体なことをするのは許せないのだ。
    もちろん燃やすなんてもってのほか…なのだけど。
    稀に、本が燃える描写に魅入られてしまうことがある。
    ボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」がそう。
    書店の場面は何度読んでもうっとりしてしまう。
    文章自体の美しさと、背徳感と痛み。
    そういったものが一体となり、不思議に甘やかに感じられてしまう。
    この「華氏451度」の冒頭でも、本が燃やされる。
    これがまた非常に魅力的。
    いけないと思いながらも、何度もその場面を読み返してしまった。
    描写の丁寧さと、言葉の選び方が見事。
    そこから始まる物語は、本を禁じられた世界のことなのだけど、作者の本への愛がどのページにも溢れていて、読んでいて胸が詰まった。
    もちろん、物語自体も良いのだけど、相当本を愛していなかったらこの物語は出て来ない。
    一人一冊になるとか、皆で一冊の町とか、何て美しい空想なんだろう。

    「本のなかには、なにかあるんだ。ぼくたちには想像もできないなにかがーー女ひとりを、燃えあがる家のなかにひきとめておくものがーー」

    そうだよ、本とはそういうものだよ、としみじみ頷いた。
    いや、私も非常時には本を見捨てて逃げるだろうけど、でも、わかる。
    作者にここまでの愛があるから、本の燃える場面もあんなに美しかったのに違いない。
    あの朝ドラの脚本の方、書く前にこの作品を読んで欲しかったなぁ…。

  • 本の所持が禁止された世の中で、後世に本の内容を伝えていくために人々がとった方法に感動。ちなみに華氏451度ってのは紙が燃え始める温度だそうです。

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著者プロフィール

1920年、アメリカ、イリノイ州生まれ。少年時代から魔術や芝居、コミックの世界に夢中になる。のちに、SFや幻想的手法をつかった短篇を次々に発表し、世界中の読者を魅了する。米国ナショナルブックアウォード(2000年)ほか多くの栄誉ある文芸賞を受賞。2012年他界。主な作品に『火星年代記』『華氏451度』『たんぽぽのお酒』『何かが道をやってくる』など。

「2015年 『たんぽぽのお酒 戯曲版』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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