- 早川書房 (2008年11月7日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (352ページ) / ISBN・EAN: 9784150116910
みんなの感想まとめ
書籍の所有が禁じられ、知識や思想が奪われた未来社会を描くこの作品は、思考の重要性や人間らしさを問いかけます。主人公モンバーグは「焚書官」として本を焼く仕事をしているが、少女クラリスとの出会いや、命を懸...
感想・レビュー・書評
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書籍を持つことが禁じられた世界。書籍の一切を焼き払う「焚書官」という仕事に就くモンバーグは、近所に越してきた不思議な少女クラリスと出会い、また書籍とともに命を落とす老婆の存在を目の当たりにし、本を忌むこの世界に疑問を持ち始める。
思考すること・物事に疑問を持つことの重要性、思考の時間を奪われることの恐怖と弊害、さらには人間らしさとは何かを問う作品だと思う。
耳にはめた超小型ラジオや大画面テレビから、引っ切り無しに流れてくる情報の海。書籍から知識や思想を学び感じ取ることを禁じられ、物思いにふける時間すら悪とされる。
徹底的に思考を管理された世界は、確かに人と衝突することなく一見平和かもしれない。けれど刹那的で自身の意志を持たない「生」は、はたして「生きている」と言えるのか。
モンバーグの声に耳を貸そうとせずこの世界の規則に則ろうとする妻ミルドレッド、本に精通し知識にも長けながら本を真っ向から全否定する上司ビーティ、裏で本を肯定し冷静にモンバーグの想いに添う元大学教授フェイバーなど、モンバーグはそれぞれの意見に耳を傾け、自身の考えと立場に悩んでいく。
ある禁忌を犯してしまったモンバーグに降りかかる災難は、先が読めず一気読み必須です。
インターネットやスマートフォンが急速に普及し、溢れんばかりの膨大な情報が簡単に手に入る昨今。流れるように頭を駆け抜けていく情報にひとつひとつ向き合い、深く掘り下げる人はそう多くないはず。電車や歩道でスマートフォンに釘付けになっている人々の姿は、大画面テレビに没頭する妻ミルドレッドと重なる。
SFは苦手と読むのを後回しにしていたが、さすが巨匠ブラッド・ベリ、その中身は普遍的です。この作品のぞっとする怖さは現代に通じます。
~memo~
第一に大切なのは、われわれの知識がものの本質をつかむこと。
第二には、それを消化するだけの閑暇をもつこと。
第三には、最初の両者の相互作用から学び取ったものに基礎をおいて、正しい行動に出ることである。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
本の所持が禁止された世界を舞台に、見つかった本を焼き払う”焚書官”の仕事をするモンターグの姿を描いたディストピアSF。
以前NHKの「クローズアップ現代」で読書について取り上げられているのを見ました。その番組の中の実験で普段読書をする学生としない学生でレポート課題に取り組む際どのような違いが見られるか、ということが実験されていたのですが、それがこの本の内容とシンクロしているような気がします。
モンターグはふとしたきっかけから衝動的に一冊の本を持ち帰り、その本を読み自分の仕事に疑問を持ち始め元大学教授のフェイバーに話を聞きにいきます。
フェイバーが語る書籍のない社会に欠けているもの。一つはものの本質をつかむ力。二つ目はその本質を消化する閑暇。そして三つ目が先の二つから学び取ったものを基礎において行動する力だそうです。
本が禁止された世界は、この小説の中ではこんな風に書かれています。
まず重要な役割を演じているのはテレビです。テレビは映像や音響の力で人間の想像力を縛ります。
また徹底したカットや編集、あらすじや概要だけを伝える省略化によって、視聴者にその番組の細かいところを想像させないようにし、また次の番組に移るという情報の意味を考えさせない工夫がされています。
また余暇はスポーツを徹底させて組織論を身体に覚えこませ、また身体を動かすことでふと物思いにふける時間を取らせないようにしています。
こんな世界だからこそ、人々は何も考えず与えられた情報をただ消費するだけになってしまい結果的に支配しやすくなるというわけです。
そして自分がNHKの番組とシンクロしていると感じたのはフェイバーが語る3つ目の理由。学び取ったものを基礎において行動する力です。
NHKの読書をする学生としない学生のレポート課題の取り組み方を調べる実験によって明らかになった違い。前者はネットで調べた後、本からさらに課題について知識を得、独自の観点を見つけそこから自分の意見を展開していったことに対し、
後者はネットで調べた多様なテーマをコピー貼り付けし、最終的にその多様なテーマを意見や考察に結びつけることなく簡単に数行で終わらせてしまう結果に終わったそうです。
こうしたところに学び取ったものを基礎において行動する力の限界が見えたように思いました。
ネットやSNSで簡略化された情報が次々と現れては消えていくようになった現代において、60年以上前に書かれたこの小説は今もなお警鐘を鳴らし続けているように思います。
警句的な意味でも名作ですが、ところどころに見られるブラッドベリらしい詩的なイメージや文章もさすが、と思いました。
そして徐々に本の重要性を知っていき、本を守るために命を懸けるモンターグの姿は本好きとして応援せずにいられなくなりました。そういう意味でとても共感しやすかったと思います。 -
米国のSF・幻想文学作家のレイ・ブラッドベリによる1953年発表の作品。
ジョージ・オーウェルの『1984年』などと並び、代表的なディストピア小説のひとつと言われる。ディストピア小説とは、SFなどで空想的な未来として、理想郷(=ユートピア)の正反対の社会(=ディストピア)を描いた小説で、その内容は政治的・社会的な様々な課題を背景としている場合が多い。
華氏451度とは、摂氏では233度にあたり、紙が自然発火する温度というが、本作品は本の所有や読書が禁じられた近未来の物語である。
主人公は「焚書官」として、人類の叡智の結晶である本を焼き尽くす仕事をしているが、その一方で人々は超小型ラジオや家の大型テレビで絶え間なく娯楽を提供されている。彼らが生きている社会では、ホイットマンもフォークナーも聖書も禁書とされ、人々は権力者の都合のいい刹那的な娯楽により飼いならされ、自ら考えることを自然に奪い取られている。
主人公は、その後、謎の少女クラリス、元大学教授フェイバーと知り合い、自分の仕事に疑問を持つようになり、書物の重要性に目覚めて、自分の上官を焼き殺して逃走する。そして、最後に、書物を自分の頭に焼き付けて未来へ伝承しようとしている老人の一団に出会う。
現代の世の中は(少なくとも日本は)、体制側の明示的な意図によって、個々人が自らの考える材料や機会を制限されることは殆どない。しかし、TVをつければ大多数のチャンネルでお笑い番組が流れ、ネットを見れば多くの人がアクセスしたサイトや、過去の自分のアクセス・購入履歴に基づいたサイトが自動的に表示される。。。体制側の焚書官がわざわざ書物を焼かなくても、自らが考えることを放棄するような状況を作り出しているのではあるまいか。。。
まさに現代において考えるべき、重いテーマを扱った作品である。
(2013年1月了) -
モンターグはFiremanだ。消防士ではない。本を“殺す”仕事だ。
本自体が禁制であり、見つけしだい(密告が多い)焼却する。
自分の仕事に疑問を持っていなかったが、ある少女と出会い言葉を交わしてから、考えはじめる。
・人々は与えられたものを批判なく受けいれるようになっている。
〇今のリアルと重なるような所もあり、怖い。
〇主人公よりも、上司の叫びに揺さぶられる。実は本や知識をすごく愛しているから、引き裂かれるように仕事をしていたんだろうなあ。
〇新訳は雰囲気が違うのかな?ちょっと読んでみたい。 -
本の所持が禁止された近未来、ファイアマンのガイ・モンタークは、日々通報を受け本の所持者と本を焼く仕事をしている。しかし隣家に越してきた変わり者の少女クラリスと時折話すうちに、世界の見え方が少しずつ変わってくる。そしてある日任務に赴いた現場で、焼かねばならない本をこっそり盗み持ち帰ってしまった。さらにモンタークは、かつて偶然出会ったフェイバーという老教授にコンタクトを取り…。
おなじみの有名ディストピア小説。最近『本の背骨が最後に残る』で、人が本となり焚書される物語を読み、こちらのことを思い出したので久しぶりに再読することに。新訳で読み直したのだけど、登録面倒なので旧訳のほうに感想書いちゃう。
モンターグは、ファイアマンの仕事に疑問を持ち(それはかつては火を消す仕事だったはずだが今は火をつけて燃やす仕事)フェイバーと共に本の復興を夢見るが、愚かな妻ミルドレッドによりファイアマンの隊長ベイティーに通報されてしまい、自らの家と本を焼くことに。しかし窮地を脱してモンターグは逃走。
妻のミルドレッドがわりと最低。でもその妻相手にわざわざ本を見せたり、妻の友達がいる前で詩を朗読したりとモンターグの言動もちょっとどうかと思う(^_^;)
最大の山場はモンターグの逃避行場面。フェイバーのところに辿り着き、なんとか追手を巻いて、彼は逃げ切る。フェイバーのアドバイスに従い鉄道線路を辿った先で、生き残っていた賢人たちに会う。
彼らは、本の所持が許されないなら、とそれをまるごと記憶する道を選んだ。それぞれがさまざまな違う本を丸暗記している。モンターグもまた、聖書の伝道の書を記憶していた。紙ではなく人が本になる。(この延長線上に『本の背骨が最後に残る』のような新たなディストピア小説が現れたのも面白い)
最終的に戦争により都市が壊滅し、生き残ったモンターグたちは追われる心配からは解放され、希望を残して終わる。名作。 -
昨年末から今年始めにかけて『図書館戦争』シリーズを読んでいたので、海外の作家さんが書いた禁書やメディア規制に関する本を読みたくて手に取りました。
海外小説の心理描写が若干読みにくかったけど、本を読んでそこから得た知識で考えることの大切さを訴えているのがすごく解ります。
本は財産だなと思う。
今年映画版(リメイク?)の同作品が DVDで発売されていたので、今度は映画版も見てみようと思います。 -
久しぶりのレイブラッドベリ。しかも長編。
叙情的な文体はそのままだが、展開が明瞭で読み易かった。
本が手離せない私としては“焚書”は本を読む意味を改めて教えてくれるテーマだった。(ただ楽しい、だけでも充分なのだけど!)
作中で語られる本を読む意味は次の3つ。
①知の核心、ものの本質をつかむこと。
②それを消化するだけの閑暇をもつこと。
③両者の相互作用から学びとったものに基礎をおいて、正しい行動に出ること。
特に②は、遅読の私には有難かった。正確には、読後でなく読みながらあれこれ考えるので、人よりかなり時間がかかる。速読法とかノウハウ本も出ているが、時間節約しても、
②の時間は必要ということ。納得。
そして、直接的、刺激的、享楽的なメディア(この当時だとテレビ、近未来に派生した四方壁面立体テレビ←発想が面白い。ホログラムとかじゃないのね)に対するレイブラッドベリの嫌悪感が描かれている。大戦後10年経ってない頃に書かれてるので、致し方無いとは思う。
とはいえ、ナマケモノ(動物)には生きる価値無しとか、軍事兵器の威力を信じられなかった島国の蛮人(文脈的に日本かと、、)とか、少々ヒステリックにも思える箇所もあった。
モンターグの心理描写も心に刺さる。
クラリスとの出会い、ミリーへの想い(純粋な愛情で始まったはずなのに、関心が無くなったことを自覚した驚愕)、署長ビーティ(皮肉にも誰よりも読書家、博識)が死にたがっていたことに気付かされた場面。
人は死んでしまっても相手の記憶に留まる行為をしていれば良い、何か思い出せるものが遺れば良いのだと、グレンジャーの祖父の話。
おまえはあの街に何を与えたのだ?モンターグ。灰だ。
キツイなぁ。本は何となく選んでいて自分が今直面していることと符合することが良くある。今の私にとってはここが一番キツかった。
モンターグにとって、クラリスはまさにそういう存在だったな。
物語の最後は、本質を見ぬままに惰性で生き、そんな虚しいものを守るための残虐な体制が、たったの数秒で消失してしまう。なんとも残酷。
タイトル、華氏451度の意味は今後考え続けていける深いテーマ。そう、まさにこの本で語られてる本の役割をきちんと果たしている。解釈は色々あるのだろうけど、私は、自分自身、内面から輝かせられる灯りがあれば、いつか時機を得て、今の局面を燃やして再生できる、打開することができるとポジティブに考えた。
他にも一言一言刺さる言葉、金言とも言える箇所が沢山あった。図書館に返すのが惜しくなってきたので購入しようと思う。
最後、あとがきのフレーズも良かったので記録しておく。
、、、読書とは、無数の星のなかから好きな星を選び取って自分だけの星座をつくる行為に似ている。 -
華氏451度!摂氏だと233度!!あっつ!!!
冗談はさておき、焚書もビビるがそれ以上に部屋の3方向をスクリーンに覆われた部屋とか海の貝の方が数倍ビビった。「破壊の恐怖」より「無知の恐怖」。しかもこれ、認めたくないが現在進行形だろうし、現に今イヤホンを耳に突っ込んでPCに収められたお気に入りの音楽を聴きながらネサフしてる私はすでにブラッドベリ・ワールドの住人なのでは(強制終了) -
考えるためには時間と機会が必要で、その大きな契機を与える本を奪われることの恐ろしさを思い知らされた。考えること、感じることを放棄させられてしまった人たち。せざるを得なくなってしまった人たち。本質に触れずにいることは、なんと享楽的で、生きるのが楽なことか。悲しみを感じずにすむから。想像しなくてすむから。でもそれって幸福?
人それぞれ感じ方は違うのかもしれない。強すぎる感受性を恨んだことも度々ある。でも、それでもやっぱり私は、考えることと、自分の手で世界を味わう豊かさを失いたくない。
ものを考えるとき、言葉で人は考えるしかないのだという。ことばに触れるということは、良書に出会うということは、それだけでもう自分という人間を広げ、深めることになるのでしょう。 -
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Fahrenheit 451(1953年、米)。
蔵書家の老婆が、焚書に抗議して、屋敷ごと焼身自殺を遂げる場面が印象的。これは作り話だが、実際これに近い出来事も、過去にはあっただろうし、今も国によってはあるのだろうなと、ぼんやり考える。逃げきった主人公たちが、彼の地に「二度と火の消えることのないろうそく」を灯せますように、と願って本を閉じた。 -
「結局のところ、世界は人が望んだとおりの姿になるんだよ」
彼はコーヒーカップを二つ、テーブルの上に並べながら言う。
「何を奪われても、失っても、それは、皆が望んだことなんだ」
葉月は、手元の本から顔を上げ、彼を見た。
静かに笑っていた。
穏やかに晴れた夜だった。
家のすぐ外は海岸で、波音が低く響いていた。
これも夏の名残か、花火でもやっているらしい若者たちの声が、遠くどこかから聞こえていた。
「例えばこの本のように、書物を持つことも、読むことも禁じられた世界であっても?」
葉月は、出されたコーヒーに手を延ばしながら、上目遣いに問うた。
「そう」
彼は、頷く。
「フェイバーが中盤で語っているだろう? 思考する人間はいらない、と。人と違った人間はいらないんだ。自分と違ったものを持っている人間がいれば、自分に欠けたものを自覚することになる。それは不幸だ。誰もが幸福になるためには―――皆が、同じでなければならない」
「不幸の元は、絶ってしまえ、と」
「そうだよ。みんなが同じように笑い、同じように幸福であるためには、他人と違うことを考える人間を締め出してしまうしかない。法律で規制し、犯罪者に仕立て上げればいい。理由はいくらでもでっち上げられる。そういう例を、俺たちはいくらでも知っている」
彼の口調は、分かりきったことを確認しているようだった。
葉月は、頷く。
「……そういうの、ありましたねえ」
その言葉には、いくらかの呆れと、ある種の諦めが混じっていた。
彼は、苦笑した。
「本を読むということは、そこに物語を求めることだよね。そこに何かを見いだし、それについて考え、そして何かを紡ぎだそうというプロセスだ。つまりは―――孤独になるということだよ。本というのは表現の一形態だけれど、表現とは元来孤独なものだ。だからこそ、つまり他人とは違うものがそこにあるからこそ、表現する意味がある。あるいは、表現したいと切望するんだね」
そこまで聞いて、葉月はふと気付いた。
「この本に描かれている『本が禁じられた世界』というのは、一種の比喩ですか」
それについて、彼は少し考え、そして答えた。
「そうかもしれない。うん、そうだね。……これは『表現を禁じられた世界』だ。そしてそれは、人が互いに妬み合い、奪い合った末に生まれた『幸せ』だ。でも、―――」
続く言葉を、飲み込んだ。
窓の外に、ふと目をやった。
波の音が、聞こえている。
「思想や表現が制限された世界を描いた小説は他にもありますが……」
葉月は言う。
「そうなった責任は人間ひとりひとりにあると示したことが、この小説の凄さのような気がします」
うん、と。
窓の外を見つめたまま、彼は静かに頷いた。
「ブラッドベリの小説は、優しいよね。こんな世界感の中にあっても、ちゃんと人の一番柔らかい部分に触れてくる。こんな静かな夜に、一人で読みたくなるような小説だね」
花火は終わったらしく、遠い喧噪も聞こえなくなっていた。
気付けば夜も更けている。
二人はそれ以上、何も喋らなかった。
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2016/4/6、夜。
「人が書物になるって、どういう気持ちでしょう」
葉月は、もうずいぶん前に読了した本を手に取り、ふと、そんなことを言った。
「書物がすっかり消し去られた世界で、書物が人の姿をして生き続けているっていうのは、なんだか素敵じゃないですか」
蛹は手元の本から顔を上げ、少し考えるように天井を仰いだ。
「書物が、生命と意識と表情を持った、と。確かに、そういう見方もできるね」
その書物は、ちゃんと孤独だろうか、と。
蛹は、静かに呟いた。 -
『海の貝』ラジオを耳につめ、『テレビの部屋』で映像と話しながら一日を過ごす妻。いまのスマホ依存の若者たちと同じだと思い、ぞっとした。
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本が禁制品となったディストピア的未来世界を描く超有名作。本を読んで考えることをせず与えられた情報だけで過ごすことに対する警鐘が散りばめられている訳ですが、文章のリズムや勢いが良いから説教臭くはない。英語読めないけどたぶんこれは英語版読んだ方が楽しめるんだろうな。本を燃やす役人だった主人公がふとしたきっかけで本を読むようになり…、という大筋がわりとポンポンと進んでいくためか主人公の思考や態度に疑問を感じる感想も見かけたけど、思考する習慣を取り上げられて育った人の思考回路に違和感ない方が無理あるのではと思う。次は『火星年代記』も読みたい。
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「世の中に本がなくても困らない」「本を読まなくても平気」な人がいる(このサイトにはいないだろうけど)。そういう人だって情報はないと困るし、ネットニュースやSNSやTVなどで収集しているだろう。この小説で書かれる「書物」と「TV」は情報を得る媒体として何が違うのだろうか? 一つは読書という行為は受け身の人には敷居が高いということにあるのかも。ネットやTVは受け身でも何とかなるが、読書は受け手が何らかの「問い」を持たない限り、行為が発動しないという不親切さがあるのだと思う。この作品で燃やされる書物は、人間の「問い」の直喩であり、その背景にある「知性」のことだと締めくくられている。読む前はもっとシニカルでアイロニカルな文明批評なのかと思いきや、かなり作者の危機感や怒りが率直に感じられて意外だった。ちなみにこの作品で人間を無思考状態に陥らす「壁テレビ」は、従来のテレビではまだ生ぬるかったが、ほぼほぼ今のスマホで代替可能になった。スマホはTVと違って10時間を超える利用も可能。「考えるための余暇」も確実に奪い得るのだから。
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昔のSF小説を読むと、人間社会の行く末を的確に予見した知性の働きに驚く。
本が禁止された世界で、焚書官モンターグの仕事は、本を焼き払うこと。人々は本を読み、物事の本質を捉えることをやめてしまい、物事を考えるいとまを持つこともなく、「幸せ」に暮らしている。
しかし、その世界には戦争が迫っている。テレビやラジオは戦争のことを語らず、のんきな人々は「戦争は誰か他の人が死ぬもの」と思い込んでいる。
実は、この世界では、初めに焚書官がいたのではなく、初めには本を読まなくなった人々がいた。
それから、本を忌み嫌う政権が生まれ、人々が惑わされないようにと本を選び禁止していった。
これは2000年代からの日本の話でしょうか。
本を読まなくなった人々。知性を忌み嫌う政権。
互いを監視し合う自粛警察。溢れる音楽と動画配信。暇や空白の時間を無くし、汲々と効率の良い生活を求め。私たちはせっせとディストピアを自らの手で建設しているように思えてなりません。 -
1953年に書かれたSF小説。
今読んでも違和感がない、むしろいつの時代にも、形が違えども近未来の危機感を提言した鋭い作品。
私の日常から本が無くなるなんて考えられない。
まさに、コロナ禍で図書館も閉館、ネットの本もなかなか手が入らない環境の中での読了。この状況下では、リアリティが増し、より深く考えさせられた。
そして、これも息子の本棚からチョイス。
通常なら選択しない本を読んだ新たな発見。
本の力をさらに認識した、この時期に出会えたことに運命すら感じる。 -
本を読むことも好きなのだけど、紙の本それ自体もたまらなく好きなので、本が粗末に扱われるのは耐えられない。
評判になった某朝ドラは、貧しくて本など買えない本好きのヒロインが、もらった貴重な洋書を長期間放置して妹が漬物石代わりにし、挙げ句の果てに自ら雨の庭に二階から投げ捨てようとしたので、仁王の形相でテレビを消した。
本好きの本への愛を馬鹿にしてんのか!
あり得ない!
とにかく、本に意図的に無体なことをするのは許せないのだ。
もちろん燃やすなんてもってのほか…なのだけど。
稀に、本が燃える描写に魅入られてしまうことがある。
ボリス・ヴィアンの「うたかたの日々」がそう。
書店の場面は何度読んでもうっとりしてしまう。
文章自体の美しさと、背徳感と痛み。
そういったものが一体となり、不思議に甘やかに感じられてしまう。
この「華氏451度」の冒頭でも、本が燃やされる。
これがまた非常に魅力的。
いけないと思いながらも、何度もその場面を読み返してしまった。
描写の丁寧さと、言葉の選び方が見事。
そこから始まる物語は、本を禁じられた世界のことなのだけど、作者の本への愛がどのページにも溢れていて、読んでいて胸が詰まった。
もちろん、物語自体も良いのだけど、相当本を愛していなかったらこの物語は出て来ない。
一人一冊になるとか、皆で一冊の町とか、何て美しい空想なんだろう。
「本のなかには、なにかあるんだ。ぼくたちには想像もできないなにかがーー女ひとりを、燃えあがる家のなかにひきとめておくものがーー」
そうだよ、本とはそういうものだよ、としみじみ頷いた。
いや、私も非常時には本を見捨てて逃げるだろうけど、でも、わかる。
作者にここまでの愛があるから、本の燃える場面もあんなに美しかったのに違いない。
あの朝ドラの脚本の方、書く前にこの作品を読んで欲しかったなぁ…。
この本が好きな人におすすめの本
著者プロフィール
レイ・ブラッドベリの作品
