夢織り女 (ハヤカワ文庫 FT 73)

  • 早川書房
3.65
  • (6)
  • (5)
  • (15)
  • (0)
  • (0)
本棚登録 : 94
感想 : 8
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (227ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150200732

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • マイ・ベストファンタジー小説です。

    「夢織り女」「月のリボン」「百番目の鳩」という短編集をまとめた本です。表題作「夢織り女」は、「1ペニーで夢を織ってあげるよ」と道行く人に声をかけるおばあさんのお話です。彼女が求められて織る夢が語られます。どれも寓意に満ちており、短いけれどじんわり奥深い話が7つ続きます。ですが、この話を注文した人が受け止められるかというと…このあたりが非常にうまく、「現代のアンデルセン」と呼ばれる作者の面目躍如、といったところです。私は3番目の夢の「木の女房」が好きです。

    「月のリボン」も短編集。表題の「月のリボン」は、家族に恵まれない主人公のシルヴァが見つけたお母さんの手紙と銀色のリボンは…というお話。月光にきらきらと光るリボンが印象に残っています。「サン・ソレイユ(Sans soleil)」は太陽に当たることができない若者の話。彼に恋する女性が現れ…切なさ炸裂のお話です。

    「百番めの鳩」も切なさでは負けない(笑)。領主の婚礼のごちそうの材料にに100羽の鳩を献上しようとした猟師のお話。彼が最後に見つけた鳩は…あああ、撃っちゃいけない!誰か止めて(笑)!この短編集のおすすめは他に「約束」です。師匠の錬金術師を裏切った弟子の少年と、幼なじみの少女の話。もうこれだけでロマンチックエンジン全開なんですが(笑)、結末がいいんだなぁ、これが!

    イラストを天野喜孝さんが手がけており、これが物語の雰囲気とマッチして非常に素晴らしいのです。少し物憂げで幽玄な雰囲気を盛り上げてくれます。なぜ画像データがないの(笑)。

    ファンタジーといえば壮大な世界観を持った長い物語が多いのですが、ヨーレンの作品は小さなカットを描いているようで、後ろに広がる世界がとてつもなく広くて美しい(月光が似合うのです)ように思います。今でも大事に読んでしまう1冊です。だから誰がなんと言ってもこの☆の数です。

  • 繊細におられた夢のようなおとぎ話の数々。
    天野喜孝の挿し絵も興を添え、物語世界に踏み込んでしまう。
    翻訳も素晴らしい。
    余計な説明がごたごたしない洗練された文の集まり。

  • 古書購入

  • 『夢織り女』は、全三十篇の短編小説で構成されており、『夢織り女(Dream Weaver)』、『月のリボン(The Moon Ribbon and Other Tales)』、『百番目の鳩(The Hundredth Dove and Other Tales)』の三つの妖精物語集を日本独自の編集で一冊にまとめた作品集である。作者のジェイン・ヨーレンは、「現代の語り部」、「二十世紀のアンデルセン」などと称されるアメリカのファンタジー作家である。

    どの作品も夢に溢れているが、やはり表題作の「夢織り女」がオススメだ。「ブラザー・ハート(Brother Hart)」、「岩の男、石の男(Man of Rock, Man of Stone)」、「木の女房(The Tree’s Wife)」、「猫の花嫁(The Cat Bride)」、「死神に歌をきかせた少年(The Boy Who Sang for Death)」、「石心臓姫(Princess Heart O’stone)」、「壺の子(The Pot Child)」という七つのお話を、夢織り女と呼ばれる夢を紡ぐことを生業とするおばあさんが、糸で布を織るように語り聞かせるという物語形式をとっている。物語が終盤になるにつれ、夢織り女の紡ぐ夢の出来も格段に良くなり、面白くなっているように感じられる。

    私はその中でも七番目の夢「壺の子」が一番気に入っている。このお話は、夢織り女がはじめて自分のために夢を織って出来上がった物語である。「壺の子」というのは、偏屈者の陶工の手によって壺に描かれた子どもの絵のことである。この陶工は、その作品と毒舌で国じゅうに知られていたが、「人間にはひとりも気に入ったのがおらん」と、壺の側面に描くモチーフとして人間だけを選ばなかった。
    もう死を友としてもおかしくない年齢になったある日、陶工ははじめて子どもの絵を壺に描いて焼き上げた。陶工の厳しい目にも、壺の人物は申し分のない完璧な出来ばえで、それが後に老陶工の最高傑作と呼ばれるようになる「壺の子」であった。この壺の子は絵から抜け出し、本当の子どものように「お父さん」と高い可愛い声で陶工に話しかけ、陶工が何をするにもそばについて離れなかった。仕事場に人が来ると壺に入ってしまうので、それが生きていることを知るのは陶工だけだった。
    ある日、数人の有名人が仕事場を訪れ、陶工がしぶしぶ案内をして作品を順に手でふれてまわり、とうとう壺の子の番がやってきたとき、壺の子は人々が「ほんとにおみごと」と言う傍ら「なんだか完璧すぎるみたい」、「心がないのよ」、「魂がないんだ」と小声で言い交わすのを聞いてしまう。それ以来、壺の子は「心」や「魂」のことが気になって仕方がなく、陶工にまとわりつくようになった。陶工が「魂なんかだれにもかけやせんよ」、「魂は生まれつきそなわったものなんだ」と言うと、壺の子は「ぼくはいつまでたっても魂を持てない」、「ぼくは生まれたんじゃなくて、作られたんだもの」と泣き出してしまう。
    壺の子の嘆きようを見て、陶工は「わしが死んだら、わしの魂をおまえにあげる」と約束し、その晩、次のような遺言状をしたためた。「わたしが死んだら、遺体を窯に入れて火をつけること。そして灰だけになったら、その灰を〈壺の子〉に入れること。それでわたしは身も心も、いじりつづけてきた土とひとつになるだろう」。
    夜が明けると、陶工は死んでいた。陶工の遺志どおり事ははこばれ、町の人が熱い灰を冷え切った壺に移した瞬間、壺にひびが走った。子どもの胸をよこぎって一本、両眼の下に小さく一本ずつ。それでも壺の美しさは比類なく、壺は博物館におさめられた。大勢の人がきては見とれ、そのなかに、いつか仕事場で壺を見た女がいた。女と連れは言った。「これでやっと壺の子も本物になったわね。もう心がこもったから」、「うん、魂が入った」。その話が活字になって国じゅうにひろがり、壺の前にきた人はみな足をとめ、儀式めかしてつぶやくようになった。「ほら、壺の子をごらん。いかにも心がこもってる。いかにも魂がはいってる」と。
    少し長くなったが、このようなお話であった。この物語で問題になっているのは、完璧であるはずの壺の子に「魂」が入っていないということである。この「魂」に関する陶工と壺の子との問答の部分が大変興味深いものだったので引用する。

     「お父さん」と、壺の子はいいました。「心って、なあに」
    「人間のからだのなかで、やたらに重んじられすぎて困る部分だよ」老人は吐きすてるようにこたえると、轆轤の粘土にとりかかりました。
    (ぼくにはそんな困るものがないからいいや)壺の子はそう考えて、粘土が陶工の慣れた掌のあいだで、最初は高く、ついで横にのびるのをじっと見ていました。もうひとつの質問はためらわれたのですが、ついにこらえきれなくなりました。
    「魂ってなあに、お父さん」壺の子はたずねました。「ぼくを壺にかいたとき、どうして魂をかき入れてくれなかったの」
    陶工はおどろいて目をあげました。「かき入れる?魂なんかだれにもかけやせんよ」
    子どものしおれようがあまりに大きいので、陶工はいいそえました。「人間のからだは壺とおなじで、外から中身は見えんのだ。かたむけたときだけ、なかになにがはいっているのかわかる。人間もなにかをしてはじめて、どういう魂の持ち主かがわかるんだ」
    その説明で壺の子は納得したようなので、陶工は仕事にもどりました。ところが、それから何週間か、子どもは仕事の邪魔ばかりするのです。(略)。
    とうとう陶工はどなりつけました。「この心なし。仕事の邪魔をするな。これだけがわしの生きがいなんだ。おまえにこう邪魔ばかりされては、どうしてやっていける」
    そういわれて壺の子は地べたにすわりこみ、顔をおおって泣きだしました。(略)。
    壺の子は顔をあげて、「お父さん、ぼくに心がないのは知ってる。でも、心は人間のからだの、重んじられすぎて困る部分なんでしょう。だからせめて、ぼくは魂を育てようと思ったんだよ」
    老人はちょっとあっけにとられましたが、何週間か前の会話に思いあたりました。「かわいそうにな、壺の子や。魂を育てることなんてできやしない。魂は生まれつきそなわったものなんだ」そういって、子どもの頭をそっとなでてやりました。
    陶工はなぐさめたつもりだったのに、子どもはそれをきくといっそう激しく泣きだしました。「じゃ、ぼくはいつまでたっても魂を持てない」壺の子は泣き叫びました。「だって、ぼくは生まれたんじゃなくて、作られたんだもの」(1)

    ここからわかるのは、「魂」というものが「生まれつきそなわったもの」であり、新たに「かき入れ」たり、「育て」たりすることができないものだということである。そして、人間のからだの外から中身が見えないように、からだの中に生まれつきそなわっている魂の形そのものも見ることができないのである。それを取り出してみることもできないし、「かたむけたときだけ、なかになにがはいっているのかわかる」のであるし、「なにかをしてはじめて、どういう魂の持ち主かがわかる」のである。つまり、魂はもともと形というものを持たず、それ自体では成り立たず、それを持つ者が何かを成したときにはじめて、その存在があらわになるというのである。
    それを知ったときの壺の子の嘆きようは計り知れず、あまりにも切実で、物語を読んでいるこちらまで悲しくなってくるほどであった。魂を持たない壺の子が魂を手に入れるためには、いったいどうすれば良いのだろうか。その方法は、一つしかない。別の生命に生まれつきそなわっている魂を、そっくりそのまま手に入れるしかないのである。つまり、魂は魂であがなうよりほかないのである。
    では、壺の子はいかにして魂を手に入れるのか。それは、以前説明したおおまかなあらすじでおわかりだと思うが、それからまもなくして陶工が死んでしまう。そして、約束どおり、その陶工の魂が壺の子に宿るのである。「小さなひび」という形をとって。お宝鑑定団的な見方からすれば、おそらくこの「小さなひび」は致命傷である。しかし、ここではこの「小さなひび」が逆に「壺の子」の良さを引き立てており、この「小さなひび」が入ることによって、はじめて「壺の子」は魂の入った本物の芸術になることができたのである。なぜなら、この「小さなひび」こそが、魂の目に見える形であったからである。
    まさに、陶工は自分の命と魂とをかけて、「壺の子」を傑作にし、本物の芸術に仕上げたのである。「壺の子」の中で陶工の魂は生きている。そして、これから先もずっと、生き続けることだろう。芸術家にとって、これ以上の幸せがあるだろうか。自分の「作品」と自分の「魂」が隙間なく一体化すること。つまり、芸術作品を通して、自分の魂が目に見える形になること。それこそが、芸術家の目指す究極の道なのではないだろうか。
    七つ目の夢を紡ぎ終えたあと、夢織り女がその心中をもらすくだりからは、物語作家である作者ジェイン・ヨーレン自身の「魂」と「物語」に対する姿勢がうかがい知れる。

    彼女は両手をだらりと脇にさげて、物語作者のことを考え、偉大な仕事がおわったことがわかるのは作者だけであり、かれはそこに自分の心と魂をつぎ込んでいるのだと思いました。芸術とは、心と魂を目に見える形にしたものでなくて何だろう、と思いました。(2)

    このくだりを読んだとき、私は自分の「魂」をつぎ込んで「物語を書く」ということに自覚的である作家の書いた「魂の物語」に惹かれてしまうのだとはじめて気がついた。この物語には、作家ジェイン・ヨーレン自身の「魂」が目に見える形になって描かれているのである。「壺の子」にとって、「小さなひび」が「魂」の目に見える形であったように、作家ジェイン・ヨーレンにとっては、「小説」という「物語」それ自体が「魂」の目に見える形であったのである。
    心と魂を目に見える形にしたもの。それこそが、傑作であり、本物の芸術なのである。私は、そんな「魂の物語」をこれからもたくさん探して読んでいきたいと思う。なかなか出会えるものではないけれど、魂を揺さぶる物語は、今もきっとどこかに潜んでいるはずだ。それを探して読んでいくことが、これからの私の極上の楽しみなのである。

    【引用文献】
    (1)ジェイン・ヨーレン『夢織り女』(早川書房 一九八五年三月)九四〜九六頁
    (2)ジェイン・ヨーレン、前掲書(1)に同じ、九九頁

  • 盲目の老女が紡ぐ糸と夢物語。
    絵本のようにあたたかい雰囲気。

全8件中 1 - 8件を表示

著者プロフィール

アメリカの作家。コルデコット賞を受賞した『月夜のみみずく』(偕成社)をはじめとする380冊以上の作品を出版。日本でも、ほかに、『きょうりゅうたちのおやすみなさい』などの「きょうりゅうたち」シリーズ(小峰書店)や、『みずうみにきえた村』(ほるぷ出版)など、多数が紹介されている。

「2022年 『あらしと わたし』 で使われていた紹介文から引用しています。」

ジェイン・ヨーレンの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×