ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)

著者 :
  • 早川書房
4.26
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本棚登録 : 6873
レビュー : 939
  • Amazon.co.jp ・本 (384ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784150310196

感想・レビュー・書評

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  • さすが伊藤計劃!すげえええ、まじすげえええ

    虐殺器官も読んだけど、どっちも世界観が徹底しててすごい。たしかにそうなったらこうなるよね、っていう論理で構成しきってる感じがめっちゃすき。

    最後の終わり方が圧倒的。
    結論がそこなんだ!っていうのも納得だし、そうなるとあれ以上の終わり方はないって思う。

    読み終わった直後はトァンとミァハの言動で腑に落ちないところがあったんだけど、少し考えててわかる気がしてきた。気になってたのは、トァンが「復讐」したことと、ミァハが「自分の正当化」のためにキアンに連絡をとったっていうとこ。それまでの二人の考え方にふさわしくないような気がしてた。
    でも、この二人の考え方にふさわしくないんじゃなくて、この世界にそぐわないんだなって気づいて、その空気が自分の中でかなり定着してたのにびっくり。笑
    世界がかかっているやりとりが最終的に完全に個対個になったってことだよね。個を封じ込めている世界で。すごい皮肉。
    トァンはミァハに会うまでは、キアンとお父さんがなんで死ぬことになったのか知りたいっていう気持ちが大きかったと思うけど、ミァハに会って、ミァハの個人的な願望の犠牲になったんだってわかったから、それまでは頭の片隅にあった「復讐」っていうものが一気に自分の真ん中にきて、実行することになったんだ。
    意志を決める双曲線のグラフ。
    話の構成うますぎるよ!!すごいよ!!

    あとがき読んで、次の作品もめっちゃ読みたかったなって思った。もういないなんて悔しすぎる。
    ぬぅぅぅぅ、次も読みたかった!

  • 読み終わるまでものすごく時間を要した。名前が変なの苦手。

  • 夭逝した「虐殺器官」の作者が遺したもう最後の作品と聞いて読んでみたが、いずれ劣らぬ出来。虐殺器官の舞台になった争いの時代の先を描くような作品。前作同様、現実離れした舞台を設定しつつもその世界で起こる出来事や登場人物の感情には突飛なところは無く、むしろリアリティを感じるほど。手法としてはSFだが、行き過ぎた調和への違和感という現代に通じるテーマを描くことで単なる空想を超えた読み応えを感じる作品。

  • 面白かった!
    「虐殺器官」よりずっと病的でコアな世界観だった。
    WatchMeで健康を管理されて「均一化」された人間、「健康的な」生活をおくるための街、環境、この精密さとリアリティーに引き込まれる。
    ミャハ達が「わたしらしさ」を求めて社会に反抗した少女時代から、トアンがミャハと再開するまでもはらはらするし、最後の結末にも驚かされた。

  • なぜこんな素晴らしい小説を書くことが出来る作家が、若くして死ななければならなかったのか。
    彼が紡ぐ物語の続きを読めないことが悔しい。

  • 苦しみこそが生きることなんだと思った

    伊藤さんの本がもっと読みたかった

  •  アメリカ内戦を発端とする世界規模の大暴動「大災禍(ザ・メイルストロム)」を乗り越えた世界は、一転して人命と健康をひたすら尊重する生命主義を体現した「生府」によって管理されるようになった。

    「生府」の世界の人々は、WatchMeというナノマシンで常に健康状態を監視され、健康であることを義務付けられる。
     酒やタバコといった嗜好品は暗に明に禁じられ、精神状態に悪影響を及ぼすメディアすら制限される。個人の素性や健全性は万人に公開され、健康状態や生活習慣がそのまま社会的序列となる。
     身体はもはや個人のものではなく、社会的に共有されるリソースだと考えられ、お互いを慈しむよう強制されている。そこは一見理想的な、優しさと思いやりに満ちた健全そのものの社会だ。

     主人公の霧慧トァンは、そんな世界に馴染めないでいる女性だ。
     高校生の時には、親友のミァハに誘われて、同じく友人のキアンと共に自殺を図った事もある。成長する身体を私有させない、息苦しい生府の世界に対する憎悪が、三人を自殺に向かわせたのだ。
     しかし、自殺を成し遂げられたのはミァハだけで、トァンとキアンは生き残ってしまった。

     自殺未遂から13年が経ち、トァンとキアンはそれぞれ生府の世界に適応していった。
     キアンはごく普通の健全で健康な市民となった。しかしトァンは、生府の管理の及ばない紛争地域に「螺旋監察官」として出向き、監視システムをごまかしながら、闇取引で手に入れた酒やタバコに溺れる毎日を送る。やがてその闇取引が生府の目に付くところとなり、トァンは日本へ帰国させられる。
     そして、生府の管理に染まり切っている日本に戻った矢先、トァンは大規模な自殺事件に直面する。全世界で同時刻に6582人が自殺を試みるという、類を見ないものだ。その事件に、13年前に自殺した親友のミァハが関わっていた――。

     トァンやミァハは、この身体は自分のものであり、自分の好きなように扱いたい、と作中で繰り返す。例えそれが健康に悪い、間違った事でも、自己の責任において堕落する自由、不健全になる自由が欲しい。
     だが、生府とWatchMeは仮借なく健康を押し付ける。食事や心理状態に対して口を挟み、どんな病気も万能薬で治療してしまう。その世界では、身体というものの神秘が何もかも剥ぎ取られている。身体はもはやただの管理対象で、その管理すらほとんど生府に委託しているのだ。それをトァンは「ことばになる」と表現している。

     そして、心や意識の神秘も容赦なく剥ぎ取られていく。精神に悪影響を及ぼすメディアはご法度となり、感情もまた管理されていく。また、物語が進むにつれて、科学がその非情さで「意識」の謎を次々に解明していく。
     作中では、意識とは一種の幻想なのだ、ということが明らかにされる。
     人間の意志はひとつの統合された存在ではなく、脳に渦巻く様々な欲求どうしの議論そのものだという。統一された意識があるのだと感じられるのは見せかけで、自分とはつまり、様々な欲求の間で起きている論争に過ぎない。
     では、もしその論争が無くなったら? 様々な欲求が完全な調和(ハーモニー)に達したら?
     トァンは、身体や自分は自分のもの、と繰り返し語る。しかし、その《自分》がただの論争であり、不調和であり、つまり本質的に病気でしかなかったら、そんな《自分》を抱えることにどれほど意味はあるのだろうか。
     身体の病気を抱えることが過ちであるなら、ある意味心の病気である《自分》を抱えることも過ちではないか? そしてWatchMeで病気を撲滅するのなら、《自分》もまた撲滅されるべきではないか?
     本作では、その疑問が、とても巨大な形で読者に投げかけられている。

     もし《自分》が幻想であり、それどころか一種の病気で、《自分》を消滅させることで完全に合理的な調和(ハーモニー)が得られるとしたら、僕はどうするだろうか。
     僕はそれでも《自分》を無くすべきではないと思う。
     合理的である事と正しい事はイコールではないし、遺伝子の複製ミスが進化に繋がるように、間違えることが大きな力を生む場合もあるのだと思う。
     それにもし人間が《自分》を抱えるような意識を持たなかったら、人間はずっと動物に近い生き方をしていただろう。もちろんそれはそれで悪いことではない。
     ただ、生命にとって究極の病とも言える死は、実は進化の過程で導入されたものであると言われる。《自分》もまた、進化によって導入されたもう一つの究極的な病と言えるのかもしれない。
     少なくとも現状で《自分》がある以上、死を引き受けるように《自分》もまた引き受けるのが、人間の責務なのだと思う。

  • 意識とは何なのか。虐殺の器官が人類に備わっていたように、肉体を生かすのがその役目であるのならそれが必要ではなくなったっておかしくはない。怖かった。自分の意識だけは人間の唯一の尊厳であるという考え方がこうもあっさりと瓦解するのが。あの人類は幸せだったのかな。そうだと良いのだけれど。

  • 私にはありきたりな世界観に思えた。
    ミァハの意識を持つようになった地獄も、別の描写はできなかったのか?

  • HTMLタグのような文体が、ただの奇をてらった文章ではないことが最後の最後に分かる。鳥肌がたった。

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著者プロフィール

1974年東京都生れ。武蔵野美術大学卒。2007年、『虐殺器官』でデビュー。『ハーモニー』発表直後の09年、34歳の若さで死去。没後、同作で日本SF大賞、フィリップ・K・ディック記念賞特別賞を受賞。

「2014年 『屍者の帝国』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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