- 本 ・本 (464ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150413330
作品紹介・あらすじ
累計320万部の不朽の名作が新版に。野島伸司脚本監修、山下智久主演で連続ドラマ化が決定。知を求める青年チャーリイの苦悩と愛の物語。
感想・レビュー・書評
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2024.3.22 ☆9.0 / 10.0
知的障害をもつ32歳のチャーリーは、『ぼくはおりこうになりたいんだ』と言って頭が良くなる手術を受けます。
彼は学習意欲は高く、知人のパン屋で仕事もしていました。
そんな彼に、大学の研究機関から、知能を高める外科的手術とそれに付随する学習の研究参加の誘いがきます。
この本は、チャーリー自身が書く経過報告書を読み進めながら、彼と彼の周りの人々の変化や関わりを追っていきます。
途中、知能が高くなるにつれ孤立していくチャーリィの姿が描かれていきます。
だんだん周囲が離れていく様子も、よみがえる幼少時代の記憶も、読んでいてとても苦しかったです。
「かしこくなりたい」という彼の望みは叶ったのに…。
彼の望みの根底には、「かしこくなればもっと愛してもらえる」という思いがあるゆえに、よりいっそう切ないのです。
知識があることが幸せなことなのか何なのか、、、天才になって性格まで変わってしまったのは本人にとって良いことだったのか、、、
読み終えて、このタイトルの意味を考えると胸が締め付けられました。
なんと切ない物語…
ただ、話としてはとても良かったのですが、私の読解力のなさと、以前から感じていましたが海外の小説や文章特有のこの、なんだろう回りくどい感じ…言葉の言い回しやチョイスが苦手な感じで、流し読み、目で追うだけになってしまうところも多かったです。
多分それが、ベストセラーである所以であり、天才が書いた文体を想起させるということなんでしょう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
天才と秀才の違いを考える時、私の脳裏に浮かぶのは、中高時代のクラスメートである。
私の中でその子は「秀才」の部類に入る。
大変な努力家で、学校の成績やピアノの腕前はピカイチ。そのうえ誰にでも優しくて、悪口を聞いたことすらない。合唱コンクールでその子がピアノを担当した時も「今のパート歌いにくかったかな?じゃ、もう1回行こっか♪」と笑顔で呼び掛け、同級生たちの表情が和らいでいったのを今でも覚えている。
継続的に努力ができて、その分(それ以上の時も)の実績を残せて、人への気配りもできるのが、私の思い描く秀才像。
かたや天才は、生まれつき知能が飛び抜けているけど、そのせいで周囲から孤立してしまう。本書中盤のチャーリイ・ゴードンがまさにそれだ。嫌われようがお構いなし、「何故周囲の誰も知識の追求をしないのか」と、時には荒々しく人に当たったりもする…。
「彼女にも他のみんなにももはや言うべきことは何もない。だれひとり私の眼をのぞきこもうとするものはいない。敵意がひしひしと感じられる」(P 170)
世界的に有名な古典的SFで、日本ではドラマ化もされた本書。
知的障害者の青年チャーリイは、幼い頃から賢くなることを夢見ていた。ある日、知的障害者学習センターのキニアン先生が、頭を良くする手術の話を彼に持ちかける。先に手術を受けた実験用白ネズミ アルジャーノンと検査用ゲームで対決し、チャーリイが勝利。術後、チャーリーの知能は短期間で天才レベルへと達していく…。
この「天才レベル」というのが、学者以上の学術的見識を持ち合わせていたり、約20ヶ国語を喋れたり、しまいにはピアノの作曲をしちゃったりと、とにかく半端ない。
さらに特筆すべきなのが、文章だ。
物語は、チャーリイが手術を担当したストラウス博士らに宛てた報告書で進められる。最初はひらがなや誤字脱字だらけだったのが、全体の半分も行かないうちにアカデミックになっていく。
また、術前は気にも留めていなかったことに敏感になり、初めて怒りの感情を露わにすることも。(教授の名前をナチュラルに呼び捨てにしていたのが、何よりも驚かされた)
「私の居場所とは何か?私はどこのどういう人間なのか?今の私は人生の総計なのか、それともこの数ヵ月の小計なのか」(P 233)
「かしこくなったらみんなぼくを好きになって友だちがたくさんできる」
チャーリイがそう願ったように、未熟だった私も秀才ちゃんを見ながらそんなビジョンを思い描いていた。でも、知識だって優しさだって、自分の全人生をかけて培っていかないと身につかない。
術前のチャーリイは誰にでも優しかった。テストにパスしなければ餌を貰えないアルジャーノンや、孤島で一人きりになったロビンソン・クルーソーにまで、同情を寄せていた。毒親や妹から邪険にされても、それは決して失われず。馬鹿にする人はいれど、その分守ってくれる人だっていた。
キニアン先生が話していた「あたしたちに尊敬する心を起こさせるような何か」って、きっとそれだ。天才には持ち得ないものを、彼はちゃんと持っていたのだ。
人が欲するのは、全能か、優しさか。
その答えを忘れぬよう、秀才ちゃんの記憶と本書を大切に抱えておこう。 -
最後の1行で泣けました。
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知的障害者の32歳チャーリイ。幼児程度の知能だけれど、学習意欲は高く、知人のパン屋で仕事もしていた。そんな彼に知能を高める外科的手術とそれに付随する学習の研究参加の誘いがきた。
この脳手術という事象で、SF作品の範疇になるようです。が、知能が向上し、知識が増え、今まで気が付かなかった周囲との問題に苦しみ、過去の自分との乖離に悩み、知能によって得られたもの失ったものが描かれる物語です。研究の限界により、チャーリイは、情緒不安定となり、同時の知能は退行していきます。
日本でもドラマ化され、ストーリーは大まかには知っていたつもりでしたが、この作品は、経過報告とされる日記形式で構成されています。初期の日記は、幼児の様な文体で、知能の向上に伴って文章が変化していきます。そして、退行も悲しくも表現されます。読み辛いと感じた初期の日記を、退行期には、一日でも多く書き残して欲しいと思うようになります。是非、活字で作品をお楽しみください。 -
【感想】
知能だけが人間の価値を決めるわけではない。だが、知能が変われば世界の見え方が変わる。人間関係が変わり、幸せのかたちも変わっていく。そのときに私たちは、かつて愚かだった人々にも同じように愛を注ぐことができるだろうか。
本書『アルジャーノンに花束を』は、知的障害を持つ主人公チャーリー・ゴードンが、知能を発達させる手術を受けて天才的なIQと知識を手に入れるものの、やがてその知能が失われていく過程を描いた小説である。
この物語の中心にあるのは、チャーリーの内面の変化と成長だ。彼は最初パン屋で単純作業をして働いていた。彼はそこでは典型的な被差別者であり、知能の低さを手玉に取ってもてあそばれていた。しかし彼は自身がいじめられていることを理解できず、「みんなが自分を面白がってくれる」と幸せな気分で過ごしていた。だが彼は知能増強手術の被験者に選ばれ、IQが70から180近くにまで上昇する。複雑な科学的概念を理解し、文学や言語に対する深い洞察を得るまでになった。
チャーリーは頭が良くなったことで、様々な知識と一緒に、自身に向けられていた侮蔑的な態度を知った。同僚は自分を友達だと思っていたわけではない、ただ「底辺の人間」としてからかっていただけだ。手術によってあらゆる知識を会得することができるようになった彼にとって、もはや自分以外のすべてが「底辺の人間」だ。チャーリーは怒り、憎悪し、あらゆる人を見下すようになる。そうして知能と引き換えに孤独を深めていった。
しかし、チャーリーの知能の強化は一時的なものであり、やがて元の状態に戻っていく。彼の日記は次第に誤字が目立つようになり、文体が幼稚になっていく。
かつて「底辺の世界」にいたチャーリーは、そこに戻ることの意味を知ってしまった。だが同時に、知能を身に着けた世界は鮮やかだが、そこにいれば幸せになれるわけではない、という単純な事実も学んでいた。そうして自身が退化していく中、彼は2つの世界の狭間で葛藤するのである。知性が失われていく過程で再び単純な文体へと戻っていくその様子は、失われゆく知性と彼の精いっぱいの抵抗の様子を描き出している。
なぜ私たちは本書に心を揺さぶられるのか。それは、私たちも「年齢」によってチャーリーと似た体験をし続けているからだ、と私は思う。人は誰しもが低知能で生まれてくる。子どものときは目の前にある世界のすべてを肯定的に捉え、映るものすべてに感動していた。だが年を取って知識が増え、世の中のあり方を徐々に理解していくうちに、些細なことへの思いやり、優しさ、純粋さを失っていく。賢さと引き換えに何かかけがえのないものを失っているのではないかという思いは、大人に成長して自分が俗物的になるにつれて重みを増していく。
チャーリーが高度な知性を得た後に感じた孤独と、失っていく過程で見せる無垢な純粋さ。知性がもたらす切ない隔たりと、彼が再びシンプルな世界に戻っていく過程で垣間見せる人としての本質的な優しさ。そうした姿が、私たちに深い慈しみと哀愁を感じさせるのではないだろうか。
――「知能は人間に与えられた最高の資質のひとつですよ。しかし知識を求める心が、愛情を求める心を排除してしまうことがあまりにも多いんです……これをひとつの仮説として示しましょう。すなわち、愛情を与えたり受け入れたりする能力がなければ、知能というものは精神的道徳的な崩壊をもたらし、神経症ないしは精神病すらひきおこすものである。つまりですねえ、自己中心的な目的でそれ自体に吸収されて、それ自体に関与するだけの心、人間関係の排除へと向かう心というものは、暴力と苦痛にしかつながらないということ」
――「ぼくの知能が低かったときは、友だちが大勢いた。いまは一人もいない。そりゃ、たしかにたくさんの人間は知っている。ほんとうにたくさんの人間をね。でもほんとうの友だちは一人もいやしない。パン屋にいたときはいつもいたのにね。ぼくに何かをしてくれようという友だちはどこにもいないし、ぼくが何かをしてやろうという友だちもいない」
――「そうだわ。あなたに起こっていることを理解できるなんていってない。あなたの知能があたしの及びもつかないものになったときだって、それからいまだって、そんなことはいいません。でもひとつだけいいたいことがあるの。手術を受ける前のあなたはこんなふうじゃなかった。あなたは自分の汚らしさや自己憐憫におぼれたりはしなかった、昼も夜もテレビの前にすわって自分を堕落させるようなことはしなかったし、人をどなったり、かみついたりしなかった。あなたには、あたしたちに尊敬する心をおこさせるようななにかがあった――そうよ、たとえああであってもよ。他の知的障害者に見られなかった何かがあった」 -
結局ずっとないものねだり。
きっと私も手に入れたそばからなくすのです。 -
数年前、中高の先生が10代に読んでもらいたい「#泣ける本」を選んだ「キミ本大賞」(読売新聞)に選ばれていました(もちろんそれ以外にもあらゆるところで泣ける本として紹介されています)
そういうのはあまりあてにしてないんですが....
泣けました(T-T)(10代でなくても)
「大人だが幼児の知能しかないチャーリイとハツカネズミのアルジャーノンはともに頭がよくなる脳の手術を受け天才に生まれ変わるが…」
チャーリイが最後にどうなるのか、普通に読んでいたら途中で分かると思います。分かっても泣けたんです。
これ以上説明不要の傑作です(ノД`)
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人生において大切なものはなんだろうと改めて考える時間をくれる作品。度々読み返したい。
「人間の心の中にあるものは決して消えてはしまわないのだ。手術は、彼を、教育と文化の化粧板でおおいはしたが、感情の面で、彼はまだそこにいて-眺めながら待っていたのである。」
「まともな感情や分別をもっている人々が、生まれつき手足や眼の不自由な連中をからかったりしない人々が、生まれつき知能の低い人間を平気で虐待するのはまことに奇妙である。」
「ぼくの知能が低かったときは、友だちが大勢いた。いまは一人もいない。」
「わたしが日頃から演じたいと思っていた役割-頼りがいのある兄。」
ダニエル・キイスの作品





