- Amazon.co.jp ・本 (335ページ)
- / ISBN・EAN: 9784150504427
作品紹介・あらすじ
人の理解を拒む無限の謎と、その秘密を垣間見て精神を病んだカントールらの数奇な生涯
感想・レビュー・書評
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410-A
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「無限」を追求した数学者の物語だ。特に19世紀の数学者ゲオルグ・カントールを中心に話しは展開され、集合論と無限を巡る理論の追求は迫力があった。数学の書物を読むたびに感ずるのは、数学の持つ同時代性だ。ピュタゴラスやアルキメデスなどの古代ギリシャやローマからルネサンス期のガリレオ、16世紀のデカルト、17世紀のフェルマー、パスカル、ニュートンなど、現代の数学と関連深く、同時代的に語られる。この種の書物が数学ど素人にも面白く感じられる所以はここにあるのではないかと思う。
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頭脳明晰でありながら神経質で激しい気質を持つゲオルク・カントールは、自らの提唱した「カントールの連続体仮説」に魅入られ、そして苦悩を強いられた。彼は精神病を患い、入退院を繰り返した末にやつれ果てて死んだ。これは彼の生来の気質によるものなのか、彼ら天才数学者たちを狂わせる力が、「無限」に秘められているのか。
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無限、という、それこそ無限に妖しい光を放つ世界に踏み入れ、そこにはまっていった天才たちの生涯、そしてその功績を追った本。
学問としての数学が好きでなくても、翻訳者の青木薫氏による読みやすい日本語で、何となく理解できた感じで読み進められる一冊。 -
請求記号 410.2/A 12
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登場人物は無限とは何かを考えた、古代の人から現代の最新の人まで。無限に関する知のバトンをたどる物語です。特に、真ん中の”実無限”を発見したカントールに関する記述が多い。数学的な思考をたどることは(読みやすさへの配慮でしょう、)最小限に抑えつつ、彼らの人生にも焦点を当ててます。
原題はthe mystery of the aleph。なるほど、あとがきにもあるが、これはアレフとカントールが主役なのだな。日本では宗教団体が使ってて嫌なイメージが付いていますがアレフ( {\displaystyle \aleph }\aleph )とはヘブライ語の第一文字で、数学的には”一番小さい無限”をあらわす記号とのことです。 -
『無限』について、どんな種類があるか。
その証明方法がエレガントです。
直感に反するので、騙されてるような気がするのですが・・・
◇整数と有理数では、どちらが数が多いか。
考えるまでもなく有理数だと思うのですが
何と、整数と有理数では"同じだけ"あるのですね。
工夫すれば、全ての有理数は、整数と一対一の対応付けができますので。
「整数の無限」と「有理数の無限」は、同じだけなのです。
これは、とっても不思議な感じがしますね。
◇無限+無限=無限
無限×無限=無限
ということですね。
結局、無限とは1種類なのか?
というと、そうではないです。
有理数より無理数の方が、数が多いです。
(当たり前のような気がしますが、証明できることがスゴイ)
◇さて、有理数より無理数の方がどれだけ多いか?
こんなことがわかってしまうのが驚きです。
無理数の数=2の∞乗なのですね。
10の∞乗と言っても同じことなのですが。。。
(有理数の数を"∞"で表してます)
指数演算を使えば、無限は次の階層に到達する
ということですね。
◇ここまでで、無限にも2種類あることがわかりました。
同様にして、もっと大きなサイズの無限は、どこまででも
無限に増やしていけます。
しかし、この2種類の無限の間に、中間サイズの無限があるのか?
「有理数の無限」と「無理数の無限」の間に、
中間サイズの無限は存在しない
というのが、"連続体仮説"というものですね。
◇本書は、その"連続体仮説"に挑んだ数学者達(といっても2名かな)
の物語です。
この難問に挑んだ数学者は皆(といっても2名)、精神を病んでしまうのですね。。。
◇結局、"連続体仮説"は今の数学体系の中では決定不可能、
正しいとも正しくないとも証明できないことが知られています。
こんなところで、不完全性定理と関連してくるとは -
無限に狂わされた人たちのはなし
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カントールと無限。現代集合論の基礎を築き上げた彼は、その生涯において精神の病に苦しむことになる。数学の体系においては真とも偽とも証明できない命題があることを示したゲーデル。彼も同じく精神の病にかかる。
無限集合というのは不思議だ。直観に反する「無限集合はそれ自身よりも小さなもの(真部分集合)と、ある意味において、”同等”になりうる」ことをガリレオが発見したと言われると「なんでだ」となる。そしてその後、ボルツァーノやワイエルシュトラスが可算無限と連続体の違いに着目した仕事を行う。そして、カントールが有名な対角線論法によって無限はひとつではないことを示す。どちらも無限に存在するのだが、有理数の無限と実数の無限は次元が異なるとする考え方だ。そして、カントール自身が「我見るも、我信じず」とした、n次元の連続空間と一次元の直線は同じだけの点が含まれるということも示した。さらには、無限の階層の系列を構想し、それをℵ(アレフ)と呼んだ。このような革新的な観点を嫌って対立したのがクロネッカーで、この対立がカントールの立場と精神的状況の悪化を招いたという(残念なことだ)。そして、カントールが自ら考案した連続体仮説への取り組みによって、さらにその精神が蝕まれていく。
ゲーデルは、その名を知らしめることになる不完全性定理を証明した後、カントールを悩ませ続けた連続体仮説に目を向ける。そして、連続体仮説が真であっても偽であっても公理系の中では矛盾しないことを示すのである。そして時を同じくして、まるで無限に魅入られることで正気を失っていったかのごとく、精神を病んでいく。最終的にはコーエンによって連続体仮説は集合論の公理系の中では真であるとも偽であるとも決定不能な問題であることが証明される。このあたりの物語はなかなかに面白い。「数学の本質は、その自由性にある」という言葉が、カントールが教授および患者として長く過ごしたハレの町に置かれた彼の成した仕事を讃えるレリーフに刻まれている。かくも自由とは空恐ろしいものなのかもしれない。
カントールは、「数学は、その存在を正当化するために物理的世界を必要としない」と言ったという。しかし、カントールがその基礎を築いた無限についての理論は、もしかしたらマルチバース理論について何かを語るための理論的なツールになるのかもしれないと、ふと思った。多くの数学理論が、産まれた当初はそんなことは少しも考えられていなかったにも関わらず、実際のこの物理的世界に適用されたように。量子的多宇宙論では、無限に関する理論を必要としているように思うのだが、どうなんだろう。
※ 連続体仮説 <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%A3%E7%B6%9A%E4%BD%93%E4%BB%AE%E8%AA%AC >