日の名残り (ハヤカワepi文庫)

  • 早川書房
4.08
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本棚登録 : 5723
レビュー : 764
  • Amazon.co.jp ・本 (365ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200038

作品紹介・あらすじ

品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、短い旅に出た。美しい田園風景の道すがら様々な思い出がよぎる。長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々—過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。失われつつある伝統的な英国を描いて世界中で大きな感動を呼んだ英国最高の文学賞、ブッカー賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • 人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ――とは、喜劇王チャップリンの名言だ。私は若い頃、悲劇の対義語は喜劇だと思っていたが、歳をとるにつれ、悲劇と喜劇は大抵セットでやってくることが実感として分かるようになってきた。セットというより、同じコインの裏表という方が、より適切な表現かもしれない。

    カズオ・イシグロの小説は、そのことを端的に私達に示してくれる。特にこの『日の名残り』という作品はそうだ。とある屋敷に勤める老執事の視点を通して、失われゆく古き英国を淡々と描いたこの物語は、人生下り坂に入ったと感じる者のみが理解しうるユーモアとペーソスとに満ちている。

    簡単な一言が言えなかったばかりに失ってしまった女性。壮大な徒労に終わった幻の大事業。人生をかけて理想を追い求めたが、歴史を築くどころか、平凡な家庭を築くことすらできなかった男達。実利主義の前に破れ去る騎士道精神…。老執事の失意と悲嘆が、時に不穏な、時にユーモラスな筆致で描きだされてゆく。失われた人生を思って涙した老執事が、新しい主人のためにアメリカン・ジョークの練習をしようと決心するラストは、カズオ・イシグロ式ユーモアの真骨頂だ。

    前途に夢と希望しかない者には、この小説の味は分からないだろう。人の数だけ叶わなかった夢があり、打ち砕かれた希望がある。それを知る者だけが、ありえたはずの別の人生を思って、老執事と共に涙することができるのだ。夕暮れどきが最も良い時間だというのは、老いゆく者に対する作者なりのエールだろうか。悲劇だろうが喜劇だろうが、主役だろうが端役だろうが、与えられた役を最後まで演じきるのが、人の定めだとするならば。

  • 英国執事を主人公に据え、英国文学ならではの上品さとユーモアを散りばめながら、これまた戦後の英国を体現するかのような栄光の落日を重厚かつスマートなタッチで描いた作品です。
    今回もカズオ・イシグロお得意の回想シーンが休暇で旅をする現在とパラレルに交錯していて、回想が割と非時系列的であるにもかかわらず卓抜な文章表現にてぐいぐいと読者を惹きつける物語の構成力はなかなか大したものでした!

    英国執事に求められる「品格」とは何か?どこぞの国の角界でも問題視されるテーマが今回のお題です。
    いまは館の主人を失い、大富豪のアメリカ人に買い取られたお屋敷ダーリントン・ホール。召使いの数もぐっと減り日常業務もままならなくなったミスター・スティーブンスは、現在のご主人様より自動車旅行を提案されたのを幸いに、かつての同僚で女中頭であったミス・ケントンに会うべく車を走らせる。
    運転や宿泊の折々に思い返されるのは、かつてのダーリントン・ホールで執事の職務を忙しく忠実にこなしていた華やかな日々であり、貴族の使命感に燃えていたご主人様ダーリントン卿やミス・ケントンとの思い出の数々であった・・・。

    戦前・戦中・戦後を経て、目まぐるしい時代の変化の中に取り残されてしまったお屋敷と執事という存在を、日本人の血を持つカズオ・イシグロが圧倒的な文章力でモノにしたというところがまず面白いです。
    カズオ・イシグロのノーベル賞受賞スピーチを読むと日本的なものへのこだわりがあったとのことですが、このようなあまりにもイギリス的な視点においても戦前・戦中・戦後を経た日本文化との共通性があるのかもしれませんね。
    そのような中で問われるのは職務に求められる「品格」です。この物語では世の中でもはや失われようとしている執事の「品格」ついての事例が繰り返し提示されます。これは長年に培ってきた職務への誇りであり、自負であり、ひいては求められる社会の規律であったとも言ってもいいでしょう。
    しかし逆に、父の死や求愛の拒絶といった人生の重大事にも目を背け、ひたすら職務に身を捧げるといった頑迷さも鼻につきます。
    ひたすら励む職務に対し、われわれはそこに忠実の美徳を見るとともに、どこか滑稽さも感じるのはやはり第三者的な別世界の視点でしかないからでしょう。作者はこの視点を最大限に活かすためかなり大げさな振る舞いをさせていると思いますが、それが腑に落ちてしまうのは作者のエンターテインメントの力量が優れているからでしょうね。
    そこかしこに出てくるユーモアもとても面白かったです。

    社会が変わり、人生の黄昏にも気が付いた時、老執事が向き合ったのはいまや残酷となってしまったかつての栄光でしょうか。
    いや、かつての栄光を胸にしまいつつ、そして、苦々しく感じる過去も全て飲み込んで、ミスター・スティーブンスが考えたことは新しいご主人様であるアメリカ人に対応するべくジョークを身につける研鑽を積むことでした。
    こうしたユーモアに満ちた微笑ましさに、カズオ・イシグロの繊細な優しさを感じてしまうのです。

    • lacuoさん
      『英国執事を主人公に据え、英国文学ならではの上品さとユーモアを散りばめながら、これまた戦後の英国を体現するかのような栄光の落日を重厚かつスマ...
      『英国執事を主人公に据え、英国文学ならではの上品さとユーモアを散りばめながら、これまた戦後の英国を体現するかのような栄光の落日を重厚かつスマートなタッチで描いた作品です。』

      日系人の作家がこういう作品を描くことができるというのが不思議なんですよね。

      イシグロの作品にはユーモアがありますね。
      2018/05/31
    • mkt99さん
      lacuoさん、こんにちわ。
      コメントいただきありがとうございます!(^o^)/

      そうなんですよね。本筋自体は深刻な物語でも、必ずと...
      lacuoさん、こんにちわ。
      コメントいただきありがとうございます!(^o^)/

      そうなんですよね。本筋自体は深刻な物語でも、必ずといっていいほどイシグロの作品にはユーモアが散りばめられているんですよね。(^o^)
      こういうちょっとづつ小笑いをとるような話を考えるのが好きなんですかね。(笑)
      外見だけからいうと、そういうユーモアを考えるような面白そうな人には見えませんけどね。(笑)
      2018/06/03

  • お恥ずかしながらノーベル文学賞受賞で初めて知ったイシグロ氏
    かつみなさまのレビューを読んで、これは間違いなく好きそうだと思い、読むことに

    スティーブンスは英国の執事
    有能で全身全霊を込めて職業を全うしている
    長年仕えた雇主のダーリントン卿に対する敬慕は日本人のサムライ魂みたいなものを感じる
    真面目で堅物で慎重で融通の効かない不器用さがなんとももどかしいことが多いのだが、なんとも愛おしい
    戦後、ダーリントン卿は亡くなりお屋敷ごとスティーブンスはアメリカ人ファラディに売られる(時代を物語っている)
    このファラディの親切な提案で短い旅行に行くことになり、スティーブンスは過去の思い出を馳せる
    小旅行と思い出の物語は見事な構成で進行する

    品格ある執事を突き詰めようと仕事に邁進するスティーブンス
    執事の鏡ともいえる尊敬する父の悲しい衰え
    同僚のミス・ケントンとの関係
    二つの大戦に絡む、複雑で重要な外交会議、そしてダーリントン卿の思想や苦悩
    一つ一つのテーマや人間性がとても深く、読み応えがある

    いやぁ、じんわりきた!きた!
    スポンジになった自分にじわじわ素敵な文章がしみ込んでくる
    切なく物悲しい内容のはずだが、「悲」より「美」を際立って感じてしまい、なんだか自分は不謹慎なのか?と思えてしまう…
    どんな時でもキラキラした静かな湖畔の景色が延々と続くような文章と内容であった
    そしてこれまた効かせるユーモア!
    品があるのだが、なかなかニヤリとさせられる
    ミス・ケントンとのやりとりはニヤニヤが止まらず困ってしまった!
    決して派手では無いのだが、心にずーーーんの響く
    読んだ後もスポンジになった自分は素敵な物語がしっかりしみ込んだヒタヒタの中に心地よく浸かって、切なくも気持ちよく余韻を楽しんだ

    次はどの作品を読もうか
    それくらい気に入ってしまった

    スティーブンスは新しいアメリカ人の雇い主ファラディときっとジョークを飛ばし合える良い関係を築いていけるようになったんじゃないかな…
    そう思いたい

    • mkt99さん
      ハイジさん、こんにちわ!(^o^)/

      私もこの小説からカズオ・イシグロの世界に入りました。(^o^)
      仰る通り、美とユーモアと品と切...
      ハイジさん、こんにちわ!(^o^)/

      私もこの小説からカズオ・イシグロの世界に入りました。(^o^)
      仰る通り、美とユーモアと品と切ない恋愛感情?に彩られたとても良い小説でしたね。
      ある人に言わせれば、旅行に持っていくならこの一冊をと推薦していましたよ。確かに私もそれはいい考えだと思いました。

      さらに素敵なカズオ・イシグロの世界にめぐり会えると良いですね♪
      2020/05/04
    • ハイジさん
      mkt 99さんこんにちは(^ ^)
      コメントありがとうございます。
      旅行のおともに…素敵ですね♪
      いつかイギリスの田舎をこの本持参で旅して...
      mkt 99さんこんにちは(^ ^)
      コメントありがとうございます。
      旅行のおともに…素敵ですね♪
      いつかイギリスの田舎をこの本持参で旅してみたいものです!
      今手元に「わたしを離さないで」もあるのでこちら読むのも楽しみにしているところです!
      ありがとうございます☆
      2020/05/05
  • すばらしい本に出会ってしまった。この余韻の深さ、、、私の語彙力では到底表現できそうもない。
    ノーベル文学賞を受賞したことで有名なカズオ・イシグロは、本作でイギリスの最も権威ある文学賞であるブッカー賞を受賞している。もっと若い時に読んでいたら今ほど感銘を受けなかっただろうと感じたが、イシグロ氏がこの本を書いたのはまだ30代半ばだったというから、年齢は関係ないのかもしれない。いや、イシグロ氏は人生何度目かなのかも(笑)
    偶然ながら、並行して読んでいた本が現在のイギリスの元底辺中学校を舞台とするノンフィクション『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』だったので、同じイギリスでも180度趣が異なっていて、それはそれで面白かった。

    戦前から戦後まで、イギリスの名家、ダーリントン・ホールの執事であったスティーブンス。国の行方を左右する裏舞台を支えていることに誇りを持ち、品格ある理想の執事の姿を常に追い求めてきた彼は、現在の主人であるアメリカ人ファラディに勧められ、休暇を得て短い旅に出る。
    その旅の道中、様々に追憶する形で過去が語られる。長年仕えてきた敬愛するダーリントン卿、執事の鑑であった亡父、女中頭のミス・ケントンと共に過ごした日々、邸内で催された数々の重要な外交会議…。

    つまらない意地を張り、泣いているミス・ケントンに声をかけなかった心残りで今も胸に疼く。再会したミス・ケントンとは華やかだった時代の思い出話に花を咲かせるのだけど、別れ際の二人の会話が、なんとも味わい深くて…。
    父が亡くなる時も、全く意に沿わない役目を押し付けられた時も、ただ職務に忠実に、私情には蓋をしてきた。それが、旅の間にほんの少し緩んだ胸の隙間から、極めて遠慮がちに感情を伴った言葉がこぼれ落ちる。あなたが不幸せではないか、そのように思えてしまう理由が気にかかっていると。ミス・ケントンは、ある「仮定」の話をする。伝えたかった、伝えようとしていた、そして伝えることができなかった心の奥底に秘めてきた願い。

    伝統的なイギリスの貴族社会、そこで生きてきた人々を、日系人であるカズオ・イシグロが描き、高評価を得たというのが面白い。日本とイギリス、どこか通じるところがあるのだろうか。
    ミス・ケントンに対する丁重でありながら無骨な(?)物言いであったり、職務に人生を賭し、反面、職務を言い訳に本当に大切なことから目をそらしてしまう弱さであったり…。全く見当違いかもしれないけど、ものすごく洗練されて紳士的な振る舞いをするスティーブンスの背後に、昭和の頑固親父(職人タイプ)の姿を見てしまうよね…!(もっといい喩えはない?)

    とにかく切なく美しく、年を経て、何度でも読み直したい作品だった。

  • 一日の中で夕方が一番美しい。
    人生も黄昏時が一番美しい。

    人生の黄昏時を迎えた男の、切なく淡いラブストーリーも含んだ、仕事に生きた人生を描いた物語。

    原題の”The Remains of the Day” は「1日の終わりに思い出すもの」という意味だけど、同時に「夕方から夜にかけて」という意味も持たせているらしい。訳者あとがきより。最終章の情景にぴったりの秀逸なタイトル。

    ラストシーン、希望が溢れてて好きだなぁ。

  • 3年ほど前に一度中座してからの再読。何気なく読み出したら惹かれて惹かれてやめられなくて、時に泣きながら読み終えてしまいました。
    きっと、私自身が日々と年齢を重ねたことで、主人公と同じように、自身の人生の転機における選択や発言が正しかったのか自問した瞬間や、何気ない意思の不疎通で会うことがなくなってしまった人、身近な人の死などに想いを馳せながら読んで感情移入したからだと思います。

    あらすじとしては、老境のイギリス人執事であるスティーブンスが、自身の人生や仕事観に想いを馳せながら国内の風光明媚な土地を旅する7日間を描いた作品です。

    スティーブンスの理知的な語り口と、「残照」(「黄昏」とか「終焉の足音」と言ってもいいかも)とも言うべきイメージの多重性の美しさに魅せられた作品でもあります。
    老人となったスティーブンス自身の人生の残照、二度の世界大戦後に世界の覇者の地位を譲り渡すことになったイギリス(グレートブリテン)の栄華の残照、失われていくイギリスの貴族制度とそれに伴う執事文化の残照、敬愛してやまなかった前の主人ダーリントン卿が誰よりも紳士であるがゆえに大戦の混乱にある世界を救おうと尽力して果たせず悲しい末路を迎えた真実の姿を知る人々のわずかな記憶の残照、かつては歴史に名を残す著名人が多く滞在した屋敷が時代に取り残されていく残照…等、多くの「残照」的イメージが絡まり合いながら、抑揚や感情を抑えようとする落ち着いたスティーブンスの一人称で語られていきます。

    そして、「イギリスらしさ」と自身の職務に傲慢なほどに強い誇りを感じているスティーブンスの現在の主人がアメリカ人であるということを彼が受け入れている矛盾も物語に趣を与える重要な要素の一つとなっています。

    物語のラストは、旅に出る前のスティーブンスが思い描いたものではなかったけど、優しくも前向きな気持ちになれるもので、ひどく感傷的にはなりましたが、穏やかな気持ちで読み終えました。

    最後に、訳者さんのあとがきから。
    タイトルの「日の名残り」の原題は「The Remains of the Day(過ぎ去った一日を振り返って、そのとき目に入るもろもろのこと)」ですが、一語変えると「What Remains of the Day(一日のまだ残っている時間)」なのだとか。

    • だいさん
      いくつか読みました
      檄文ですね
      元気になりました
      いくつか読みました
      檄文ですね
      元気になりました
      2016/06/26
    • シャクナゲとエビネさん
      「残照」ですか… なるほど。「日の名残り」は「陽の名残り」でもある訳ですね。原文タイトルにはない意味ですけど、しっくりきました。
      「残照」ですか… なるほど。「日の名残り」は「陽の名残り」でもある訳ですね。原文タイトルにはない意味ですけど、しっくりきました。
      2018/01/17
    • hotaruさん
      シャクナゲとエビネさん、こんにちは。
      そういえば、原文タイトルでは、the dayなので、日ではあっても、陽の要素はないんですよね…。
      日本...
      シャクナゲとエビネさん、こんにちは。
      そういえば、原文タイトルでは、the dayなので、日ではあっても、陽の要素はないんですよね…。
      日本語タイトルから、勝手に、「陽」のイメージを持っていました。
      訳者の土屋さんの妙かもしれませんね。
      2018/01/17
  • 1.購読目的
    目的もなく手にとった一冊です。
    物語の背景も、イシグロさんの背景も無知な状態で手に取りました。

    2.読了後の感想
    戦前、戦後のイギリス。
    主人公の執事からみえる時代そして風景の描写。
    行間から当時の暗いそして重い雰囲気が感じられます。
    一方で、主人公の心理描写よりも観察している光景の描写の方が多いからでしょうか? 私は、物語に対して、感情移入しすぎることなく溶け込むことができました。

    時ながれ
    主もなくし
    道あゆみ
    辿りつきしは
    淡い刹那よ

    改めて物語の世界が存在することに感謝したいです。
    なぜならば、作家お一人お一人の世界観を覗けるのですから。

    #読書好きな人と繋がりたい


  • 英国最高の文学賞・ブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの傑作長編。
    第一次・第二次大戦の前後の激動の時代を経験した英国貴族のダーリントン卿に使えた執事(バトラー)による回想形式の小説。
    今まで、カズオ・イシグロの本は「わたしを離さないで」、「忘れられた巨人」、「わたしたちが孤児だったころ」の3冊を読んできたが、本書が一番心に刺さった本だった。
    《以下、ネタバレあり・未読者は注意!》

    主人公である執事のスティーブンスは、自分が長年仕えてきたダーリントン卿を真の英国紳士であると信じ、自分もそれにふさわしい執事であろうと長年自らを高めてきた。結婚もせず、英国一の品格のある執事であることだけを目指し、ダーリントン・ホール(ダーリントン卿の有する大豪邸)で働く女中頭のミス・ケントンと共に数多くの使用人達をとりまとめ、ダーリントン・ホールを運営していた。

    しかし、ダーリントン卿は第二次大戦後、ドイツに対して便宜を図ったという汚名を着せられ、失意のうちに自殺してしまう。
    ダーリントン卿亡き後、ダーリントン・ホールは米国人実業家ファラデイ氏に売られ、使用人もほとんどが解雇されたが、スティーブンスはファラデイ氏の執事として屋敷に残ることとなる。

    ある時、米国に一時帰国するファラデイ氏から休暇をもらい、英国の美しき田園地帯を車で旅行するスティーブンス。その最終目的地は、旅行の直前に彼女の夫婦関係が上手くいっていないことを匂わせるような意味深な手紙を寄越した元女中頭のミス・ケントンと出会うことだ。今のダーリントン・ホールは使用人が足りない。もしミス・ケントンが復帰してくれれば、自分として非常に心強い。

    美しい英国の田園風景を自動車で旅行しながら、6日目の旅行の最後にミス・ケントンとスティーブンスは再会する。その再会は、たったの数時間、スティーブンスが滞在していたホテルの談話室でのことだ。

    ミス・ケントンは現在、夫婦関係は上手くいっていると話した。上手くいっているというよりも、今の夫を愛せるようになるまで自分は成長したのだとミス・ケントンはスティーブンスに告白する。だから、ダーリントン・ホールには戻れないと・・・。

    ミス・ケントンと別れ、当時、彼女が本当は自分のことを慕っていたのだということを知ったスティーブンスは、自分の人生の意味を根底から覆され、そして自分の人生を振り返って、まさに沈む太陽の『日の名残り』を見ながら涙する。
    もちろん、今まで自分が生きてきた人生には一片の曇りも無く、自分にも他人にも誇れる「執事」人生であったと胸を張って言うことができる。
    二つの大戦を生き抜いてきた英国という国に対して、直接ではないけれども、ダーリントン・ホールを訪れる英国首相を始め、各国の重要人物らに執事という仕事を通じて、数々のお世話をすることによって、英国に貢献することができたという自負もある。

    しかし、自分には他にも選ぶことのできた人生があったのではないだろうか?

    執事を辞め、ミス・ケントンと一緒になり、贅沢はしなくとも、愛する人と幸せな人生を送る。そんな人生を選ぶことも自分には十分にできたのではないか。
    それを思うと、無性に涙が流れる。

    人生の酸いも甘いも経験した誰もが人生の終盤にさしかかった時に自問するであろう「自分の人生はこれで間違っていなかったのだろうか?」という疑問。
    そこには当然答えなどはないが、本書を読んで、自分が歩んできた人生を見直す契機となる1冊だった。

    年老いた執事の人生と英国の時代の変遷を同調させ、美しき英国の田園地帯の情景と執事のユーモラスな中にも厳然とした執事人生の回想を通じて読者に語りかける美しき一冊。カズオ・イシグロの傑作。

  • 舞台は1956年のイギリス。
    主人公は大きなお邸の有能な執事として働いてきた初老のスティーブンスである。
    世は変わり、現在の主人はアメリカ人富豪だ。
    主人の好意で短い休暇をもらったスティーブンスは、かつてともに働いていたミセス・ベンを訪ねる旅に出る。人手の足りないお邸にもう一度勤めてはくれないかという淡い期待があってのことだったが、それはただの事務的な思いだけではなかった。
    車での旅の途中、スティーブンスはお邸の華やかなりし頃を思い出す。
    ミセス・ベンの住むコーンウォールへの旅は、彼の過去への旅でもあった。

    彼が長年仕えた英国貴族のダーリントン卿は、紳士の中の紳士だった。優れた名士に仕えることをスティーブンスは誇りに思ってきた。最高の執事に何より必要なのは「品格」だと信じ、その道を極めるために日々、勤めに励んでいた。
    けれどもダーリントン卿は、ナチスへの協力者として、戦後、批判にさらされ、失意のうちに世を去る。
    スティーブンスの一生とは、ある意味、まがい物に身を捧げたがために、身近にいた女性の好意に応えることもなく、ささやかな家庭的幸せも逃してしまった人生だったのだ。

    この物語は本質的に、身を捧げたものに裏切られる悲劇である。
    だがそれを、英国の美しい風景と、シニカルだがなお温かいジョークに包んだところに、イシグロの「優しさ」を見る。
    朴念仁のミスター・スティーブンスに、ミス・ケントン(あるいはミセス・ベン)が魅かれた理由は、案外、職業上の完璧さに滲む、「哀しいかわいらしさ」にあったのかもしれない。執事としての自分を崩すことはできない。けれども時折、人としての芯が覗くのだ。

    「品格」とは何か。作中でスティーブンス自身も論じているが、これはなかなか難しい。
    「信じたもの」に身を奉じること自体の崇高さ。それこそが「品格」であるのかもしれない。あるいはそれが虚像に過ぎなかったとしても。
    スティーブンスが追い求めた理想は、いささか「時代遅れ」であったのだろう。だが残光の中できらめくその輝きは忘れがたい印象を残す。

    イシグロはふわりと比喩で語る作家ではないかと思う。
    彼が書く「執事」的なるものは、実は多くの人が抱えるものなのではないか。理想に燃え、それに身を投じる。だがそれはどれほど確固たるものなのか。一度は信じたものに、ひとは時に裏切られる。輝かしいはずの理想のメッキは、時に剥げる。そうなったときに、ひとはどうするか。
    それでもなお保てる「品格」はそこにあるか。

    お邸の輝く日々は戻らない。自らの青春もまた戻らない。旅の終わりにスティーブンスは痛いほどそのことを知る。
    だが彼は執事であることをやめない。
    それどころか、新しい主人に沿うべく、「アメリカンジョーク」を学ぼうとするのだ。絶望的にセンスがないにも関わらず。
    その真摯さの哀しいおかしさ。それでいてはっとするような強さ。

    日の暮れ方、光が闇に呑まれる前のほんのひととき。それは作中人物が言うように、1日でいちばんの時間なのかもしれない。あまりに短い、あまりにはかないひととき。
    だがそのはかなさのゆえに、それは美しいのかもしれない

  • 端的に言えば「かつての同僚に会いに小旅行をする」という、それだけの物語なのだけど、その進行は非常にゆるやか。文量の大半は過去の回想に充てられる。

    過去の回想とはつまり、執事であるスティーブンの回想だ。イギリスの大屋敷であるダーリントンホールを舞台にして、そこで巻き起こった数々の出来事が懐古される。

    彼の語る過去はまさしくあらすじの通り。

    > 長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々―過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。

    かつての栄華を、痛みと失敗も含めて郷愁する気持ちがたまらなく切ない。自分が経験していない過去を懐かしいとさえ感じてしまう、恐ろしいほどの筆力に引き込まれた。

    ただし、回想があまりに多いので、テンポを重んじる読者には向かないと思われる。

    また、執事という仕事の変遷が、スティーブンのこだわりと挟持を持って語られる。そこには流行り廃りがあり、だけど核となる品格や至上命題が存在している。そんな仕事小説的な側面には、淡く共感するものがあった。

    そして、この小説ではイギリスへの批判のようなセリフが何度か登場する。それはカズオ・イシグロによる、愛と冷静な分析を伴った、ある種イギリスへのエールのように思えた。

    敗戦国ドイツへの各国の見方や、反ユダヤの芽吹きなど、20世紀前半の欧米の空気感を感じることができる、という意味でも良書だった。個人的にはケインズとウェルズが同時代人だというのが、新鮮な再発見だった。しかもダーリントンホールの来客として紹介されるのがユニーク。


    (ラストシーンのネタバレを含む書評全文は、書評ブログの方からどうぞ)
    https://www.everyday-book-reviews.com/entry/%E6%99%A9%E5%B9%B4%E3%81%AE%E9%83%B7%E6%84%81%E3%81%A8%E5%BE%8C%E6%82%94_%E6%97%A5%E3%81%AE%E5%90%8D%E6%AE%8B%E3%82%8A_%E3%82%AB%E3%82%BA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%82%B7%E3%82%B0%E3%83%AD

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著者プロフィール

カズオ・イシグロ
1954年11月8日、長崎県長崎市生まれ。5歳のときに父の仕事の関係で日本を離れて帰化、現在は日系イギリス人としてロンドンに住む(日本語は聴き取ることはある程度可能だが、ほとんど話すことができない)。
ケント大学卒業後、イースト・アングリア大学大学院創作学科に進学。批評家・作家のマルカム・ブラッドリの指導を受ける。
1982年のデビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を、1986年『浮世の画家』でウィットブレッド賞、1989年『日の名残り』でブッカー賞を受賞し、これが代表作に挙げられる。映画化もされたもう一つの代表作、2005年『わたしを離さないで』は、Time誌において文学史上のオールタイムベスト100に選ばれ、日本では「キノベス!」1位を受賞。2015年発行の『忘れられた巨人』が最新作。
2017年、ノーベル文学賞を受賞。受賞理由は、「偉大な感情の力をもつ諸小説作において、世界と繋がっているわたしたちの感覚が幻想的なものでしかないという、その奥底を明らかにした」。

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