日の名残り (ハヤカワepi文庫)

制作 : Kazuo Ishiguro  土屋 政雄 
  • 早川書房
4.07
  • (651)
  • (580)
  • (412)
  • (40)
  • (12)
本棚登録 : 4919
レビュー : 682
  • Amazon.co.jp ・本 (365ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200038

作品紹介・あらすじ

品格ある執事の道を追求し続けてきたスティーブンスは、短い旅に出た。美しい田園風景の道すがら様々な思い出がよぎる。長年仕えたダーリントン卿への敬慕、執事の鑑だった亡父、女中頭への淡い想い、二つの大戦の間に邸内で催された重要な外交会議の数々—過ぎ去りし思い出は、輝きを増して胸のなかで生き続ける。失われつつある伝統的な英国を描いて世界中で大きな感動を呼んだ英国最高の文学賞、ブッカー賞受賞作。

感想・レビュー・書評

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  • 人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ――とは、喜劇王チャップリンの名言だ。私は若い頃、悲劇の対義語は喜劇だと思っていたが、歳をとるにつれ、悲劇と喜劇は大抵セットでやってくることが実感として分かるようになってきた。セットというより、同じコインの裏表という方が、より適切な表現かもしれない。

    カズオ・イシグロの小説は、そのことを端的に私達に示してくれる。特にこの『日の名残り』という作品はそうだ。とある屋敷に勤める老執事の視点を通して、失われゆく古き英国を淡々と描いたこの物語は、人生下り坂に入ったと感じる者のみが理解しうるユーモアとペーソスとに満ちている。

    簡単な一言が言えなかったばかりに失ってしまった女性。壮大な徒労に終わった幻の大事業。人生をかけて理想を追い求めたが、歴史を築くどころか、平凡な家庭を築くことすらできなかった男達。実利主義の前に破れ去る騎士道精神…。老執事の失意と悲嘆が、時に不穏な、時にユーモラスな筆致で描きだされてゆく。失われた人生を思って涙した老執事が、新しい主人のためにアメリカン・ジョークの練習をしようと決心するラストは、カズオ・イシグロ式ユーモアの真骨頂だ。

    前途に夢と希望しかない者には、この小説の味は分からないだろう。人の数だけ叶わなかった夢があり、打ち砕かれた希望がある。それを知る者だけが、ありえたはずの別の人生を思って、老執事と共に涙することができるのだ。夕暮れどきが最も良い時間だというのは、老いゆく者に対する作者なりのエールだろうか。悲劇だろうが喜劇だろうが、主役だろうが端役だろうが、与えられた役を最後まで演じきるのが、人の定めだとするならば。

  • 英国執事を主人公に据え、英国文学ならではの上品さとユーモアを散りばめながら、これまた戦後の英国を体現するかのような栄光の落日を重厚かつスマートなタッチで描いた作品です。
    今回もカズオ・イシグロお得意の回想シーンが休暇で旅をする現在とパラレルに交錯していて、回想が割と非時系列的であるにもかかわらず卓抜な文章表現にてぐいぐいと読者を惹きつける物語の構成力はなかなか大したものでした!

    英国執事に求められる「品格」とは何か?どこぞの国の角界でも問題視されるテーマが今回のお題です。
    いまは館の主人を失い、大富豪のアメリカ人に買い取られたお屋敷ダーリントン・ホール。召使いの数もぐっと減り日常業務もままならなくなったミスター・スティーブンスは、現在のご主人様より自動車旅行を提案されたのを幸いに、かつての同僚で女中頭であったミス・ケントンに会うべく車を走らせる。
    運転や宿泊の折々に思い返されるのは、かつてのダーリントン・ホールで執事の職務を忙しく忠実にこなしていた華やかな日々であり、貴族の使命感に燃えていたご主人様ダーリントン卿やミス・ケントンとの思い出の数々であった・・・。

    戦前・戦中・戦後を経て、目まぐるしい時代の変化の中に取り残されてしまったお屋敷と執事という存在を、日本人の血を持つカズオ・イシグロが圧倒的な文章力でモノにしたというところがまず面白いです。
    カズオ・イシグロのノーベル賞受賞スピーチを読むと日本的なものへのこだわりがあったとのことですが、このようなあまりにもイギリス的な視点においても戦前・戦中・戦後を経た日本文化との共通性があるのかもしれませんね。
    そのような中で問われるのは職務に求められる「品格」です。この物語では世の中でもはや失われようとしている執事の「品格」ついての事例が繰り返し提示されます。これは長年に培ってきた職務への誇りであり、自負であり、ひいては求められる社会の規律であったとも言ってもいいでしょう。
    しかし逆に、父の死や求愛の拒絶といった人生の重大事にも目を背け、ひたすら職務に身を捧げるといった頑迷さも鼻につきます。
    ひたすら励む職務に対し、われわれはそこに忠実の美徳を見るとともに、どこか滑稽さも感じるのはやはり第三者的な別世界の視点でしかないからでしょう。作者はこの視点を最大限に活かすためかなり大げさな振る舞いをさせていると思いますが、それが腑に落ちてしまうのは作者のエンターテインメントの力量が優れているからでしょうね。
    そこかしこに出てくるユーモアもとても面白かったです。

    社会が変わり、人生の黄昏にも気が付いた時、老執事が向き合ったのはいまや残酷となってしまったかつての栄光でしょうか。
    いや、かつての栄光を胸にしまいつつ、そして、苦々しく感じる過去も全て飲み込んで、ミスター・スティーブンスが考えたことは新しいご主人様であるアメリカ人に対応するべくジョークを身につける研鑽を積むことでした。
    こうしたユーモアに満ちた微笑ましさに、カズオ・イシグロの繊細な優しさを感じてしまうのです。

    • lacuoさん
      『英国執事を主人公に据え、英国文学ならではの上品さとユーモアを散りばめながら、これまた戦後の英国を体現するかのような栄光の落日を重厚かつスマ...
      『英国執事を主人公に据え、英国文学ならではの上品さとユーモアを散りばめながら、これまた戦後の英国を体現するかのような栄光の落日を重厚かつスマートなタッチで描いた作品です。』

      日系人の作家がこういう作品を描くことができるというのが不思議なんですよね。

      イシグロの作品にはユーモアがありますね。
      2018/05/31
    • mkt99さん
      lacuoさん、こんにちわ。
      コメントいただきありがとうございます!(^o^)/

      そうなんですよね。本筋自体は深刻な物語でも、必ずと...
      lacuoさん、こんにちわ。
      コメントいただきありがとうございます!(^o^)/

      そうなんですよね。本筋自体は深刻な物語でも、必ずといっていいほどイシグロの作品にはユーモアが散りばめられているんですよね。(^o^)
      こういうちょっとづつ小笑いをとるような話を考えるのが好きなんですかね。(笑)
      外見だけからいうと、そういうユーモアを考えるような面白そうな人には見えませんけどね。(笑)
      2018/06/03
  • 舞台は1956年のイギリス。
    主人公は大きなお邸の有能な執事として働いてきた初老のスティーブンスである。
    世は変わり、現在の主人はアメリカ人富豪だ。
    主人の好意で短い休暇をもらったスティーブンスは、かつてともに働いていたミセス・ベンを訪ねる旅に出る。人手の足りないお邸にもう一度勤めてはくれないかという淡い期待があってのことだったが、それはただの事務的な思いだけではなかった。
    車での旅の途中、スティーブンスはお邸の華やかなりし頃を思い出す。
    ミセス・ベンの住むコーンウォールへの旅は、彼の過去への旅でもあった。

    彼が長年仕えた英国貴族のダーリントン卿は、紳士の中の紳士だった。優れた名士に仕えることをスティーブンスは誇りに思ってきた。最高の執事に何より必要なのは「品格」だと信じ、その道を極めるために日々、勤めに励んでいた。
    けれどもダーリントン卿は、ナチスへの協力者として、戦後、批判にさらされ、失意のうちに世を去る。
    スティーブンスの一生とは、ある意味、まがい物に身を捧げたがために、身近にいた女性の好意に応えることもなく、ささやかな家庭的幸せも逃してしまった人生だったのだ。

    この物語は本質的に、身を捧げたものに裏切られる悲劇である。
    だがそれを、英国の美しい風景と、シニカルだがなお温かいジョークに包んだところに、イシグロの「優しさ」を見る。
    朴念仁のミスター・スティーブンスに、ミス・ケントン(あるいはミセス・ベン)が魅かれた理由は、案外、職業上の完璧さに滲む、「哀しいかわいらしさ」にあったのかもしれない。執事としての自分を崩すことはできない。けれども時折、人としての芯が覗くのだ。

    「品格」とは何か。作中でスティーブンス自身も論じているが、これはなかなか難しい。
    「信じたもの」に身を奉じること自体の崇高さ。それこそが「品格」であるのかもしれない。あるいはそれが虚像に過ぎなかったとしても。
    スティーブンスが追い求めた理想は、いささか「時代遅れ」であったのだろう。だが残光の中できらめくその輝きは忘れがたい印象を残す。

    イシグロはふわりと比喩で語る作家ではないかと思う。
    彼が書く「執事」的なるものは、実は多くの人が抱えるものなのではないか。理想に燃え、それに身を投じる。だがそれはどれほど確固たるものなのか。一度は信じたものに、ひとは時に裏切られる。輝かしいはずの理想のメッキは、時に剥げる。そうなったときに、ひとはどうするか。
    それでもなお保てる「品格」はそこにあるか。

    お邸の輝く日々は戻らない。自らの青春もまた戻らない。旅の終わりにスティーブンスは痛いほどそのことを知る。
    だが彼は執事であることをやめない。
    それどころか、新しい主人に沿うべく、「アメリカンジョーク」を学ぼうとするのだ。絶望的にセンスがないにも関わらず。
    その真摯さの哀しいおかしさ。それでいてはっとするような強さ。

    日の暮れ方、光が闇に呑まれる前のほんのひととき。それは作中人物が言うように、1日でいちばんの時間なのかもしれない。あまりに短い、あまりにはかないひととき。
    だがそのはかなさのゆえに、それは美しいのかもしれない

  • 3年ほど前に一度中座してからの再読。何気なく読み出したら惹かれて惹かれてやめられなくて、時に泣きながら読み終えてしまいました。
    きっと、私自身が日々と年齢を重ねたことで、主人公と同じように、自身の人生の転機における選択や発言が正しかったのか自問した瞬間や、何気ない意思の不疎通で会うことがなくなってしまった人、身近な人の死などに想いを馳せながら読んで感情移入したからだと思います。

    あらすじとしては、老境のイギリス人執事であるスティーブンスが、自身の人生や仕事観に想いを馳せながら国内の風光明媚な土地を旅する7日間を描いた作品です。

    スティーブンスの理知的な語り口と、「残照」(「黄昏」とか「終焉の足音」と言ってもいいかも)とも言うべきイメージの多重性の美しさに魅せられた作品でもあります。
    老人となったスティーブンス自身の人生の残照、二度の世界大戦後に世界の覇者の地位を譲り渡すことになったイギリス(グレートブリテン)の栄華の残照、失われていくイギリスの貴族制度とそれに伴う執事文化の残照、敬愛してやまなかった前の主人ダーリントン卿が誰よりも紳士であるがゆえに大戦の混乱にある世界を救おうと尽力して果たせず悲しい末路を迎えた真実の姿を知る人々のわずかな記憶の残照、かつては歴史に名を残す著名人が多く滞在した屋敷が時代に取り残されていく残照…等、多くの「残照」的イメージが絡まり合いながら、抑揚や感情を抑えようとする落ち着いたスティーブンスの一人称で語られていきます。

    そして、「イギリスらしさ」と自身の職務に傲慢なほどに強い誇りを感じているスティーブンスの現在の主人がアメリカ人であるということを彼が受け入れている矛盾も物語に趣を与える重要な要素の一つとなっています。

    物語のラストは、旅に出る前のスティーブンスが思い描いたものではなかったけど、優しくも前向きな気持ちになれるもので、ひどく感傷的にはなりましたが、穏やかな気持ちで読み終えました。

    最後に、訳者さんのあとがきから。
    タイトルの「日の名残り」の原題は「The Remains of the Day(過ぎ去った一日を振り返って、そのとき目に入るもろもろのこと)」ですが、一語変えると「What Remains of the Day(一日のまだ残っている時間)」なのだとか。

    • だいさん
      いくつか読みました
      檄文ですね
      元気になりました
      いくつか読みました
      檄文ですね
      元気になりました
      2016/06/26
    • シャクナゲとエビネさん
      「残照」ですか… なるほど。「日の名残り」は「陽の名残り」でもある訳ですね。原文タイトルにはない意味ですけど、しっくりきました。
      「残照」ですか… なるほど。「日の名残り」は「陽の名残り」でもある訳ですね。原文タイトルにはない意味ですけど、しっくりきました。
      2018/01/17
    • hotaruさん
      シャクナゲとエビネさん、こんにちは。
      そういえば、原文タイトルでは、the dayなので、日ではあっても、陽の要素はないんですよね…。
      日本...
      シャクナゲとエビネさん、こんにちは。
      そういえば、原文タイトルでは、the dayなので、日ではあっても、陽の要素はないんですよね…。
      日本語タイトルから、勝手に、「陽」のイメージを持っていました。
      訳者の土屋さんの妙かもしれませんね。
      2018/01/17
  • 英国最高の文学賞・ブッカー賞を受賞したカズオ・イシグロの傑作長編。
    第一次・第二次大戦の前後の激動の時代を経験した英国貴族のダーリントン卿に使えた執事(バトラー)による回想形式の小説。
    今まで、カズオ・イシグロの本は「わたしを離さないで」、「忘れられた巨人」、「わたしたちが孤児だったころ」の3冊を読んできたが、本書が一番心に刺さった本だった。
    《以下、ネタバレあり・未読者は注意!》

    主人公である執事のスティーブンスは、自分が長年仕えてきたダーリントン卿を真の英国紳士であると信じ、自分もそれにふさわしい執事であろうと長年自らを高めてきた。結婚もせず、英国一の品格のある執事であることだけを目指し、ダーリントン・ホール(ダーリントン卿の有する大豪邸)で働く女中頭のミス・ケントンと共に数多くの使用人達をとりまとめ、ダーリントン・ホールを運営していた。

    しかし、ダーリントン卿は第二次大戦後、ドイツに対して便宜を図ったという汚名を着せられ、失意のうちに自殺してしまう。
    ダーリントン卿亡き後、ダーリントン・ホールは米国人実業家ファラデイ氏に売られ、使用人もほとんどが解雇されたが、スティーブンスはファラデイ氏の執事として屋敷に残ることとなる。

    ある時、米国に一時帰国するファラデイ氏から休暇をもらい、英国の美しき田園地帯を車で旅行するスティーブンス。その最終目的地は、旅行の直前に彼女の夫婦関係が上手くいっていないことを匂わせるような意味深な手紙を寄越した元女中頭のミス・ケントンと出会うことだ。今のダーリントン・ホールは使用人が足りない。もしミス・ケントンが復帰してくれれば、自分として非常に心強い。

    美しい英国の田園風景を自動車で旅行しながら、6日目の旅行の最後にミス・ケントンとスティーブンスは再会する。その再会は、たったの数時間、スティーブンスが滞在していたホテルの談話室でのことだ。

    ミス・ケントンは現在、夫婦関係は上手くいっていると話した。上手くいっているというよりも、今の夫を愛せるようになるまで自分は成長したのだとミス・ケントンはスティーブンスに告白する。だから、ダーリントン・ホールには戻れないと・・・。

    ミス・ケントンと別れ、当時、彼女が本当は自分のことを慕っていたのだということを知ったスティーブンスは、自分の人生の意味を根底から覆され、そして自分の人生を振り返って、まさに沈む太陽の『日の名残り』を見ながら涙する。
    もちろん、今まで自分が生きてきた人生には一片の曇りも無く、自分にも他人にも誇れる「執事」人生であったと胸を張って言うことができる。
    二つの大戦を生き抜いてきた英国という国に対して、直接ではないけれども、ダーリントン・ホールを訪れる英国首相を始め、各国の重要人物らに執事という仕事を通じて、数々のお世話をすることによって、英国に貢献することができたという自負もある。

    しかし、自分には他にも選ぶことのできた人生があったのではないだろうか?

    執事を辞め、ミス・ケントンと一緒になり、贅沢はしなくとも、愛する人と幸せな人生を送る。そんな人生を選ぶことも自分には十分にできたのではないか。
    それを思うと、無性に涙が流れる。

    人生の酸いも甘いも経験した誰もが人生の終盤にさしかかった時に自問するであろう「自分の人生はこれで間違っていなかったのだろうか?」という疑問。
    そこには当然答えなどはないが、本書を読んで、自分が歩んできた人生を見直す契機となる1冊だった。

    年老いた執事の人生と英国の時代の変遷を同調させ、美しき英国の田園地帯の情景と執事のユーモラスな中にも厳然とした執事人生の回想を通じて読者に語りかける美しき一冊。カズオ・イシグロの傑作。

  • ああ、なんて素晴らしい本なんだろう。さすがブッカー賞。
    「私を離さないで」を読んだとき、読後なんともいえないショックを受けたが、これも同様。
    カズオ・イシグロは本当にすごい人だ。そして訳者の土屋氏も。

    「私を離さないで」も「日の名残り」も、悲劇だ。でもどちらも静かで淡々とした叙情で、不思議なことに爽やかさまで感じる。

    そしてタイトルも私は好きだ。
    どちらも話の中で登場する言葉であって、話全体を象徴する言葉にもなっている。
    特に「日の名残り」は…


    実は、映画も見たが、本のエッセンスの100分の1も表現されていないように感じた。
    だいたいTSUTAYAでこの作品が「恋愛」コーナーに置かれているところから何だか違うと思う。少なくとも「ヒューマン」カテゴリあたりに置いてほしかったが、中身を見て…なるほど、かなり浅い、わかりやすい内容にすりかわってしまったのだ、と理解した。

    また、アンソニー・ホプキンス、エマ・トンプソンほか素晴らしい役者揃いだが、原作は執事の考え方や感情を一人称で綴るところが効果的といえるので、第3者の目線になってしまうこの映画のつくり方だと、まったく原作の良さが活かされず、不当に地味な映画になってしまった印象だ。


    スティーブンスは、一貫して品格を追求し、自身がそれを貫き通せた誇りを綴ってきた。
    しかし旅の終わりで「そんな私のどこに品格などがございましょうか」、と泣くのだ。
    この言葉は大変衝撃的だ。今までの全否定なのだから。

    スティーブンスによると、執事の品格とは、執事のマントを公衆の面前では決して脱がぬこと。
    だからこそ、彼にはミス・ケントンとの恋愛もなかった。彼女の気持ちに気付く気付かない以前に、足を踏み込む一寸のスキも自身に与えなかった。

    そこまでしてプロフェッショナリズムを貫いた執事としての仕事だが、自らのすべてを捧げてきたダーリントン卿は破滅の道を辿ってしまう。
    自分のやってきたことは一体何だったのだろうか。
    「ふりしぼろうにも、私にはもう力が残っておりません」

    栄光に輝いていた過去、そして公私の両方で涙がこみ上げる現在。

    でもそこに「夕方が一日でいちばんいい時間」というキーメッセージが届くのだ。
    スティーブンスにとっての今、この瞬間が人生で一番いい時間、という肯定的なメッセージ。だからこその「日の名残り」だ。

    悲劇なのにどことなく爽やかさを感じるのは、こういうところにあるのだろうし、本当に素晴らしいタイトルだ。また、ここまで考えると、執事のスティーブンスが一人称で語るスタイル、また現在から始まり過去の追憶、現在、と辿る構成がいかに効果的か痛感する。
    素晴らしく洗練されている。

    この名作が広く、多くの人に支持されているのはさすがであるし、私もまた読み返したいと思う。

  • 沈みゆく一瞬の輝きでしか見えないものがある。傾いた陽が、やがて勢いを忘れブラッドオレンジの絵の具のようになる頃、その柔らかな光の影でしか見えてこない形がある。大抵は、そうした影がようやく見えた頃には、もはや後戻りできない夜が目前にある。輝いだ喧噪も午後の無為な時間も同じように覆い尽くす夜である。夕暮れの光のなかに知っていたはずのシルエットを見て、あたかも初めてそれに気づいたと感じたとしても、そのシルエットを為すそれは以前から間違いなくそこにあったのだ。ただ、日々の忙しさの中に忘れ、無意識に記憶から追い出し、夕暮れの時間になって初めて思い出した。それだけのことなのだ。そうやって気づいた影は、間も無く漆黒に沈んでいく。秋の夕暮れである。

    一日を振り返るとか、思い出にひたるとか、あるいは、過去にふと気づくというのは、存外容易なことに違いない。映画や小説で見るフラッシュバックは、そうした容易さがあるから受け入れやすいのだろう。その容易さがゆえに切ない。そういうものである。

    とりたてて触れるべき事はない。世界的に知られた英国作家の代表作のひとつである。何が起きるわけでもない。なんども読み返すような深い描写が繰り返されるわけでもない。ある人に会いに旅立つ。ただそんな話である。英国の斜陽と簡単に片付けることもできなくはないが、それ以前にひとの日常と傾きかけた陽の光が周囲を覆う。ただ、最後の1行まで読み切らなければわからない。それだけのことである。

    (2017年9月より前に読んだものですが、今回は例外で登録)

    • アテナイエさん
      祝(^^♪ ノーベル文学賞ですね。嬉しくてご機嫌です。
      祝(^^♪ ノーベル文学賞ですね。嬉しくてご機嫌です。
      2017/10/06
    • tagnoue(たぬぅ)さん
      本当に良かったですね。本屋さんは今頃山積みでしょうか。
      本当に良かったですね。本屋さんは今頃山積みでしょうか。
      2017/10/07
  • 5月の連休中の読書です。
    カズオ・イシグロが昨年ノーベル文学賞を受賞した時に買ったまま、本棚にしまっていたのを引っ張り出して。

    1950年代のイギリスを舞台に、年老いた執事・スティーブンスが成年期に過ごした日々を一人称で回想する本書。
    1930年代のイギリス、というのがピンとこなくて、ネットで世界史の年表にあたる。
    ふむふむ、世界恐慌を受けて各国が保護主義貿易を強める中、ファシスト政権が台頭し、第二次世界大戦に向けて緊張感が日に日に増していた頃、と。

    ちょうど本書を読み終わったばかりのタイミングで、公開されていた映画『ウィンストン・チャーチル:ヒトラーから世界を救った男』(原題はDarkest Hour)を観たのですが、比較できて面白かったです。
    『ウィンストン・チャーチル』は、政治を動かす中心にいる上流階級の、それに対し、本書は上流階級に仕える周辺の人間の、それぞれ対照的な目線でこの時代のイギリスの苦境を描いています。

    そして、このスティーブンス氏が、なんともツッコミどころ満載の人物で。
    決して悪人ではない、むしろ、職業意識の高い真面目な人物なのですが、どうにも不器用すぎる。
    特に、かつて同僚として働く中で恋が芽生えたミス・ケントンへの態度は、ちょっと都合が良すぎると思いました。
    でも、忙しい仕事の合間にこっそりロマンス小説を読むことを楽しみにしていたり、色々おっちょこちょいで、憎めない。

    そんなスティーブンスが、第二次世界大戦や、ナチスの台頭と敗北に巻き込まれ、彼が信じて身を捧げてきた全てが過去になった時、口にする言葉が良かったです。
    時の流れの中で、自分も周りも変わってしまったときに、どう物事を受け止めるか。
    過去は過去、とさっぱり切り替える考え方もありだとは思うんですが、個人的には、ちょっとさみしすぎるなと。
    歴史のうねりの中で成す術がなかったとしても、振り返ってみれば以前とった行動が愚かに思えたとしても。
    必死に生きてきた自分を静かに肯定するスティーブンスの言葉は、時代も政治体制も異なる国を生きる私にも、響きました。
    本書の中で、しばしばスティーブンスが「品格」とは何か、ということについて考察をするのですが、良い部分も悪い部分も含めて自分を肯定し、先へ進もうとする姿こそ、もしかしたら「品格」なんじゃないか。
    そうだったらいいなと思います。

    翻訳であることをほとんど感じさせない土屋政雄の訳、この小説の成り立ちを鮮やかに描写する丸谷才一の解説も素晴らしくて、本編と一体となって一冊を完成させています。

  • 一人の老執事が昔の女中頭に会いに行く小旅行の間の回想録と言ってしまっては身も蓋もないですが、それだけの設定でここまで読ませる本はないと思いました。
    過去と現在を行き来するイシグロさんならではの書き方が、少しも違和感ない感じなのは、年老いた執事という設定にもよるのでしょうか。
    本の最初の方と最後では主人公の執事に対する見方が大きく変わってしまい、自分でも戸惑うくらいです。
    何が真実であったかは、きっと終わってわかるものなのでしょう。最後のシーンはとても考えさせられました。
    読みやすい本ですが、読み終わった後も心に残る本です。お勧め。

  • 昔大学の講義で習った、信頼できない語り手(しんらいできないかたりて、英語: Unreliable narrator)、という言葉を思い出しました。
    20イギリスの執事の回顧録。いかに自分が品格があり、理性的で、主人の仕事に盲目的に従っているかを蕩々と語っているが、その文章の節々から女中頭へ慕情、怒濤の時代の変遷を読者はうかがうことが出来る。
    執事の語られていないところで多くの事象が動いている(ex:女中頭の恋、政治経済の動向、父親の心境)のにも関わらず、それを一切排除し、私見に寄った語りを進めるので、重いと感じる人もいると思うし、逆に執事になりきって没頭出来る人もいると思う。

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著者プロフィール

カズオ・イシグロ
1954年11月8日、長崎県長崎市生まれ。5歳のときに父の仕事の関係で日本を離れて帰化、現在は日系イギリス人としてロンドンに住む(日本語は聴き取ることはある程度可能だが、ほとんど話すことができない)。
ケント大学卒業後、イースト・アングリア大学大学院創作学科に進学。批評家・作家のマルカム・ブラッドリの指導を受ける。
1982年のデビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を、1986年『浮世の画家』でウィットブレッド賞、1989年『日の名残り』でブッカー賞を受賞し、これが代表作に挙げられる。映画化もされたもう一つの代表作、2005年『わたしを離さないで』は、Time誌において文学史上のオールタイムベスト100に選ばれ、日本では「キノベス!」1位を受賞。2015年発行の『忘れられた巨人』が最新作。
2017年、ノーベル文学賞を受賞。受賞理由は、「偉大な感情の力をもつ諸小説作において、世界と繋がっているわたしたちの感覚が幻想的なものでしかないという、その奥底を明らかにした」。

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