ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹 (ハヤカワepi文庫)

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  • 早川書房 (2001年6月15日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (336ページ) / ISBN・EAN: 9784151200076

みんなの感想まとめ

十代の五姉妹の短い生涯を描いた物語は、70年代のアメリカの病んだ社会を背景に、青春の美しさと残酷さを浮き彫りにします。姉妹たちの心の内側や彼女たちを取り巻く環境を、同世代の男子たちの視点から描くことで...

感想・レビュー・書評

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  • 厳格な家庭で育つ年子の五人姉妹。末娘が窓から飛び降りて死んだ。残った4人は、両親や家と共に崩壊していく。これは寓話なのか。ただ悲惨で残酷な物語だろうか。
    暗すぎる話で我に返るのに時間がかかった。
    ヘビトンボの幼虫は川に網を入れて掬うとヤゴなどと一緒に捕まえられたが、見るからに気持ち悪く、羽化するとますます胴長で嫌な感じになる、さすが昆虫に強くても余り好きな虫ではなく、これを題名に使った作品は想像どおりだった。

    ちょっとひるんだが図書館にあるし、予約してみたら、折り返し来たのでビックリ、やっぱり読む人は少ないのかと思いつつ、図書館本優先で読んた。

    手首をきったが見つかって、一命を取りとめていたリズボン家の13歳の末娘が窓からとびおり、塀の上に落ちて助からなかった。

    5人の娘はみな年子だった、こういう家庭は珍しいが、ない事もないだろう。両親は厳格過ぎるほどだったが、5人いれば自分たちだけの世界が作れる。それぞれの性格にあった暮らし方で、貧しいながら学校にも通っていた。

    美人ぞろいで、近所の男の子の関心の的だったが、ひとり目が自殺した後、一時残りの娘たちは、自分たちだけの世界から出なくなった。時間が経って落ち着きを取り戻し周りには正常に見えてきた。だが母親は何もしなくなった、茫然自失というふうに見えた。数学教師の父親も勤めには行くが次第に奇矯な振る舞いが多くなってクビになる。その頃は、姉妹も家庭の鎖からは解かれたようだったが、それぞれの輪の中からは出てこなくなった。家は荒れ、姉妹は家の中に閉じこもってしまった。

    関心を持った記者は姉妹の心理を想像してあれこれと書きたてたが、噂も次第に静まっていった。

    20年後男の子の思い出話になっている。
    この騒ぎを見続けた近所に住んでいた男の子たちは、そのとき姉妹を助けようとした、いざ出発というとき、残りの娘たちもそれぞれの方法で自殺していた。

    なぜなのか、助けようと努力した男の子たちはいつになっても衝撃から抜けきれない。

    ありそうもない美人五人姉妹の自殺が、最後のシーンだった。そこに至るまでには、穏やかに見える日もあった、だが様子を窺っているとひとりの娘の奔放な生活が見え、中には信仰に生きている娘も見える、また自分の美しさに酔っているようでもある。性格は違うが、閉ざされた中で、異常なことを異常だと感じない、もう学校にも行かず家の中の暮らしがたまらなく暗い。

    娘たちの青春、それを見続けた男の子たちの青春は、最初の末娘の自殺から宙に浮いてしまった。

    中に入れば姉妹の日々はそれなりに過ぎていったのだ。外の生活を知ってはいるがいざ外に向かって拓かれるときが来ると、明るいものよりも妹が飛び込んだ闇の中がふさわしく思えたのかもしれない。

    死者は残されたものの悲嘆と諦めを残して去っていける、だが若い姉妹にとって末娘の死にざま、痛ましさ、醜さに出逢った衝撃は、心の一部が壊れるのに十分だっただろう。時がたてばそれは美しい死に変われるものだろうか、成熟途上の不安定なとき、それを青春物語にして、成長過程の不安定さに持ってくるのはいい、死に憧れたのか?現実から逃げたかったとも思えない。事件があった家で残りの年子たちが一塊になって身を守ることは十分考えられる。両親も生きることを放棄して娘たちにも関心がなく、何くれとなく世話を焼いた近隣の人々も、リスボン家はそういうものだと見慣れてしまう。

    作者は何を言いたかったのか分からないが、残酷で惨めで恐ろしい。青春の痛み?厳格な両親に対する反抗?これを読みとれというのだろうか、瑞々しい美しい姉妹がこうした結末にいたったという物語は十分に書きつくされているとは思うが。

  • リズボン家の十代5姉妹の短い生涯の悲しい切ない物語。70年代のアメリカは恐ろしく病んでいる。
    『セシリアはこの世に順応できなかったために、あの世から呼ばれたために自殺したのだ、とぼくらは知った。いったんは放っておかれた姉たちも、あの世からセシリアが呼ぶ声を聞いたのだ、と』

  • 映画未見。
    邦題が上手いなぁ…映画では使えなかったのもわかるけど。
    何より気持ちが悪かったのは、常に複数形の「僕ら」。
    彼らの一人の名前が出たりすることはあるけれど、「僕」を始め、ぬらっとした集団なのが本当に気持ち悪い。
    「彼女達を助けようとしたけど伝わらなかった」なんてあらすじに書いてあるけど、助けようとなんてしてないじゃないか。
    彼女達の体を、生活を、心を、盗み見て消費し続けていただけじゃないか。
    彼らが選ばれたのは、姉妹のせめてもの復讐だったんだと私は思う。

  • 雲霞に似た昆虫、蛇蜻蛉が湖から湧き上がって町を埋め尽くす初夏に自殺した
    リズボン家の五人姉妹について、後年、大人になった「ぼく」たちが回想し、
    それぞれが知るエピソードを繋ぎ合わせて彼女らの死の謎に迫ろうとする。

    舞台は明示されていないが、作者の故郷ミシガン州の町で、
    彼が思春期の真っ只中にいた1970年代半ば頃の設定と思われる。

    金銭トラブルや痴情の縺れによる殺人はどんな場所でも起こり得るが、
    犯人が語る動機が他人には釈然としない、不条理かつ凄惨な事件は
    ゴミゴミした場所より整然とした小ぎれいなベッドタウンで発生しやすい
    ……と述べたのは誰だったろうか。
    この小説の中では他者への暴力は描かれないが、そんな、
    岡崎京子「GIRL OF THE YEAR」(角川書店『チワワちゃん』収録)の
    主人公のモノローグで

    > そこにはショートケーキのようなウソくさい家がラブリーに建ち並んでいる

    と称されたような郊外の住宅地で、
    十代にして人生に行き詰まりを感じた少女たちが自殺していく暗澹たる物語。

    「ぼく」らは彼女らを救いたいと思い、不器用ながら手を差し伸べようとしたが、
    彼女らはそれを恐らく理解しつつ、
    「ぼく」らの手を握り返すことなく旅立ってしまった。
    「ぼく」らも彼女らと同年代の、まだ子供で、
    彼女らの苦悩を受け止めきれないことを承知していたからだろう。
    少年たちでもなく、きれいごとや理想論しか言わない大人でもなく、
    彼女らと同じ「生きづらさ」を感じながら抜け道を見つけて生き延びた、
    若干知恵をつけた少し年上の「おにいさん」「おねえさん」が近くにいて
    支えてくれていたら、こんな悲惨な事態にならずに済んだかもしれない。

    「死」以外に脱出口が見出せないほど現状が辛いなら、
    死なずにその場から逃げ出すのがベストな選択だと思うが、
    少女たちには逃亡を図ることもできなかった。
    痛ましい。

    ところで、長い時間が経って、すっかりおじさんになった「ぼく」らだが、
    思い出の中の、
    性衝動をどうにか抑えて日々を過ごしていた青臭かった時代の行動は
    なかなか気持ちが悪い(笑)。
    リズボン姉妹が使っていたバスソープの銘柄を知るや、
    同じものを買ってきて香りを確かめた(p.66)だとか、
    女の立場で言わせてもらうと「豆腐の角に頭をぶつけて××!」
    といったところ。
    五人姉妹それぞれに独立した美点を認めて好きだと思っている、というより、
    彼女らを一塊の「女(になろうとする生き物)」なるオブジェと捉えている風で、
    「十三歳の女の子だった」ことがある身として生理的に許し難い。
    現実には、こうした男子のバカさ加減と女子の頑なさが、
    ある時点で互いに軟化し、折り合って、自然な恋愛感情として発酵していくのだが。

    原題は The Virgin Suiside で、ソフィア・コッポラによって映画化された。
    機会があったら観てみたい。
    しかし、この邦題は長いが見事。

  • 読むのは2度目だけれど映画は未鑑賞。
    両親、特に母親からの抑圧がとてもあるのに加えて、姉妹を外から眺めて賞賛する「僕ら」にも失望してたんじゃないかと思いました。セシリアの未遂の時点ならもしかすると留められたかもしれないのになぁ。
    男子側の視点過ぎました。この年齢の男子だったことがないのでちょっとわからない。。姉妹のこと何でも知ろうとするけど、直接向き合ってた人はあまり居ない。僕らのうちの誰も、姉妹を本気でこの環境から連れ出そうとする気概がない。ミセズ・リスボンの妨害なんてなんのそのでは…と思うけど、この時代の保守的な街では仕方ないかとも思いました。学生だし親の言う事は聞いとかないと。。
    映画はソフィア・コッポラ監督で女性目線での制作だから原作より寄り添えるかも…と、ますます観たくなりました。

  • 1999年のソフィア・コッポラの映画『ヴァージン・スーサイズ』の原作本。映画は公開当時に見て大好きだったけれど(https://booklog.jp/users/yamaitsu/archives/1/B00005HTH1)、原作はずっと未読だったので今更ながら読んでみました。映画のサントラ、AIR(エール)のCDを引っ張り出してきて、いま聞きながらこれを書いています。

    1970年代、リスボン家の美しい5人姉妹、テレーズ、メアリイ、ボニー、ラックス、セシリア。ヘビトンボが雲霞のように現れる初夏、6月のある日、13歳の末娘セシリアがバスルームで手首を切り自殺を図る。彼女は一命を取り留めるが、その3
    週間後今度は飛び降り自殺を図り、成功した。ややエキセントリックな少女ではあったが、セシリアの死の理由はわからず、リズボン家を暗い影が覆う。

    四女ラックスは14歳にしてセックス依存症のようになり数々の男性遍歴を重ね、彼女のボーイフレンドの一人が友人たちと一緒に姉妹を連れ出してデートした晩、ラックスだけが両親に約束した帰宅時間を守らなかったため、彼女たちの母親は娘たち全員学校を退学させ自宅に幽閉する。リスボン家はますます荒廃し、セシリアの自殺未遂からきっかり1年後、四姉妹は申し合わせたように全員で自殺を図ったのだった…。

    冒頭ですでに姉妹は全員亡くなっている。語り手「ぼくら」は、青春時代の思い出を回想し、姉妹の自殺の原因を探ろうと関係者に取材したり資料を集めたりしている。「ぼくら」は、美しい五人姉妹に憧れているが、厳密に一人一人の区別がついていたわけではなく、きっと少女が五人もひとつの家庭にいる、という状況に、何か特別なときめきを感じていただけだろう。「ぼくら」の五人姉妹に対する執着は半端ないが、反面とても無責任だ。青春の甘酸っぱい思い出のように美化されてるけど、まあ控え目にいっても集団ストーカーだし、姉妹の自殺に一役買ったとまではいわないけれど(電話で音楽をかける場面などはとても好きだった)彼等はけして自分たちを救ってくれないことを姉妹のほうでは知っていただろう。

    作中登場する精神科医や、うさんくさい女性記者が彼女らの自殺の理由をさまざまに分析するが、どれも当てはまっているようでどれも当てはまらない。「レミング」という言葉が一番しっくりきたけれど、言葉にしようとすると多分消えてしまうような種類の感情で、13歳の女の子にだけはきっとわかる気持ちだ。

    映画の淡あわした印象がまだ残っているので、基本的にはファンタジーとして読んだけれど、現実的な分析をするなら、リズボン家の母親がだいぶおかしい。末娘の自殺の時点で、ショックなのはわかるが、家事全般放棄してる時点で虐待だし、娘たちに対する厳しすぎるルールのおしつけ、あげく退学させてまで自宅監禁。いっそ修道院にでも入れられたほうがまだマシだったんじゃなかろうか。なぜこの母親がここまで潔癖なのかはわからない。気の弱い教師の父親は妻の言いなりだ。(余談だけど解説者が「厳格なる学校教師の父親」のもとで「徹底的な家父長制に縛られ」た少女たちが「果敢な脱出を試みる」などと書いていたのは理解できない。どこにそんな描写が?)いわば一家じゅうで鬱状態に陥って出口がないような感じ。

    原題『THE VIRGIN SUICIDES』は、作中では架空のバンド「クルエル・クラックス」の曲タイトル「処女の自殺」として登場する。私は英語は全然得意じゃないけれど「VIRGIN」ではなく「SUICIDES」のほうが複数形なのがなんだか意味深な気がちょっとする。処女の自殺、というよりは乙女の初めての自殺、のようなニュアンスなのかも。

  • 最近は、登場人物が死ぬ、もしくは死んだあとが描かれている小説が読みたい。
    人生を感情に納得させるために小説がある。
    どれだけ読めば納得できるだろう。


    優れてはいるけど、最低な気分になる小説だ。リズボン家には一筋の光も届かない。
    解説によると、自殺小説というジャンルがあるらしい。どうかしてる。
    でも救いのまるでない話を読むのもいいかもしれない。救いが提示されないから、自分でどうすればいいか考えなくちゃならない。

    両親がいつでも背中の上にのしかかっているように感じる。彼らの重みを常に感じて、時には一歩も動けなくなる。立ち尽くして、途方にくれて、泣き叫びたいけど声も出ない。助けを求めたいけれど、通じ合う人はどこにもいない。
    自分で作り出した怪物にとらわれているだけなのかもしれない。

    ここから出たい。誰かじゃなくて、自分の力で出たい。
    押しつぶされて死ぬのを待つのは嫌だ。重荷を誰かに押し付けて知らないふりをするのも嫌だ。
    終わったことは終わったこととして、限られた人生を精一杯生きたい。それだけなのに。それだけのことが途方も無く難しい。

    ともかく、リズボン家の五人姉妹よりはマシなことをしたいんだ。

  • 10代の女の子たちが何を考えているかなんて皆目見当がつかないであろう同世代の男の子たちの目線によって描かれる、美しく残酷な青春の記録。
    ただでさえメンド臭いお年頃に加え、いつも自分たちだけで固まってる美人の五人姉妹なんて、ミステリアスで気になってしまうに決まっている。
    題名からすごくサスペンス味を感じるけど、そんなことはなくて普通に青春文学として読めた。
    一言で言うなら「若人から青春を取り上げるなんて許されていないんだよ 何人たりともね」by五条悟 って感じ。
    電話を通してレコードをかけ合うシーンが良い。
    映画もそのうち観たい。

  • 出版当時のアメリカの雰囲気や流行、母国の人が持つ感情をもう少しでも知識があればもっと楽しめた気がする。5人の少女たちの不安定さや独自さが魅力となり、触れたいのに触れられない気持ち。自殺によりそれが強化され調査に乗り出す「ぼくら」が成長し続ける中で、彼女たちを忘れたら青春が無くなってしまうような感覚が切なくて温かい気持ちになる。少女たちの自殺に向かう生命力や不潔さ、そして清楚さの同居に、人って複雑で理解なんてできっこないんだって思わせてくれる文章がすごい。

  • 1970年代、デトロイト。リスボン家五人姉妹の末っ子セシリアが、パーティー中に二階の窓から飛び降りて死んだ。町の人びとの好奇と憐憫の目に晒され、のこされた一家は少しずつ壊れていく。遂に五人姉妹の全員が死にゆくまでを執拗に見つめていた〈ぼくら〉は、中年になり青春の思い出として彼女たちを語りだす。回顧録を模して書かれた、歪んだ青春小説。


    とにかく〈ぼくら〉の語り口と行動原理がキッツい!最初から最後まで「キッツ……いやキッッッツいわ……」と思いながら読み終えたのに、解説の巽孝之が語り手のヤバさに一切触れていなかったのでびっくりしてしまった。だが、「〈ぼくら〉の目を通して見たリスボン家事件の顛末」だということこそ、本作の肝じゃないのか。自殺した少女たちの心理に迫ることが目的の小説ではなく、ストーキングの加害者心理を描いた秀逸な小説として私は読んだ。
    〈ぼくら〉の仲間は異常である。リスボン家に招き入れられるや否や姉妹の部屋を覗き見、トイレを物色し使用済み生理ナプキンを持ち帰ろうとするヤツ。下水道からリズボン家の地下室に潜入し、奇しくも風呂場で1回目の自殺を図ったセシリアの発見者になったヤツ。〈ぼくら〉はいつも双眼鏡で、あるいはこっそり窓の下に潜んでリスボン家を覗き込んでいる。終盤にはなんと、もっと幼い頃からリズボン家を監視するための秘密基地を木の上に作っていたと明かされる。〈ぼくら〉と一人称複数を名乗るのもセシリアの日記に基づくのだが、その日記をはじめとして姉妹にまつわるあらゆるものを蒐集し、「資料」と称して見せびらかそうとする。
    五人姉妹を執拗に見つめていた〈ぼくら〉だが、当然姉妹からも見返されていたとのちにわかる。それでもなお自分たちの窃視症を棚に上げて駆け落ちの相手に選ばれたのかと勘違いする救いようのない能天気さ。彼らに対する姉妹たちの復讐は強烈だ。そして復讐の相手は〈ぼくら〉だけにとどまらないだろう。関係者のインタビューから片鱗が見ているにもかかわらず〈ぼくら〉が直視しようとしないところにこそ事の本質がある。
    姉妹たちの死亡報告書を書いたホーニッカー医師は、さらりと「家族に対するいじめ」という言葉を使っている。これはセシリアの自殺のあと、野次馬たちに囲まれた日々を指しているとも考えられるが、リスボン一家がこの町に移住してきた新参者だったことを考慮するとまた異なる角度の景色が見えてくる。越してきたのは11年前、既に末のセシリアも生まれ、五人の女の子がいる家は目立ったろう。しかも父親は地元の学校の新任教師として子どもたちとその親の噂の的だったはずだ。幼い〈ぼくら〉が基地を作ってまでリスボン家を覗こうとした好奇心はそこに端を発すると思われる。
    〈ぼくら〉の町デトロイトが移住者にどう接するかは、黒人やヨーロッパからの移民の扱いを通して間接的に描写している。こういう情報の出し方がとても上手い。ある意味では、リスボン夫妻はわざわざ越してきて11年かけて町に全てを奪われ、デトロイトに棄てられたのだとも言える。かつてラックスの恋人だったトリップの落ちぶれた中年の姿からしても、これはホワイト・トラッシュ的なものの考え方が醸造されていく町の空気感を書き写した小説なのだと思う。
    とにかく、自分たちに責任の一端があるなどとは微塵も思わず、けれども姉妹の心理を"分析"する資格はあると考えている人間の視点を貫いて書かれている。姉妹の一挙手一投足を凝視していたことの免罪符のように自分たちがまだ童貞だったこと、そして自分たちの思いを姉妹が"わかろうとしなかった"ことを強調して怒りだす〈ぼくら〉は、今で言えば完全にインセルの仲間ということになるだろう。公民権運動後のデトロイトという舞台設定を最大限に活かしながら、現代でも変わらぬ搾取構造の強烈な痛みが体に突き刺さる、完成度の高い作品だった。

  • 映画の『ヴァージン・スーサイズ』を観て気になったので原作も購入して読んだ。
    タイトルからわかる通りに5人姉妹が自殺してしまうことがわかっているので、暗いというか、切ない……。ミステリーやサスペンスではなく青春小説なんだものね。
    自分の感覚で言ってしまうとどうしても両親に非難がましい印象が避けられないけれどそういう捉え方をするべき作品でもないし。
    それこそ語り手の"僕ら"の声が伝わることが永遠になかったように。

  • ずっと幻想として抱いていた「女の子」が、この物語のなかに生きていた。

  • バージンスーサイズとしてコッポラの映画を見たのが先だった。
    素晴らしく幻想的でガーリーでその自殺さえもフリルにある刺繍のひとつであるかのように描かれていて、小説はどうだったんだろうかと。

    コッポラは女性で、この小説を書いたのジェフリーは男性だった。
    アプローチとしてもそのようになっていた。
    つまるところ、これには近くとも深い断絶があり
    そのひとつが女の子と男の子のあいだにあるものだった。

    ただそれに仮託されたのが社会の断絶でもあったので
    コッポラとジェフリーが対岸から書いてもいまだ同じ作品であった。

    自殺と対極にあるのはカトリックなんだが、これはやや日本人としては捉え損なうかもしれない。
    ただ、心性として僕らも一神教的な世界に近づいているとすればこの世界における自殺と同じようにそのおぞましい求心力を感じることだろう。ただそれ自体としては潔癖であるにもかかわらず。

  • ソフィア・コッポラの映画で十分。
    彼女が上手いこと余計なところを省いてすっきりとした内容にしてくれたことに感謝。
    原作者は男の子からの視点って所もポイントなんだろうけど、そこが余計かも。最後の結論めいたところもイマイチだし、ドロドロ感が邪魔。ごめんね。酷評するつもりないの。でも、コッポラが仕上げをしてくれた感じ。

  • つかみどころがない。雰囲気とか煙みたいなものだけが漂ってる。
    「生活」を感じさせない女の子たちがただ、淡々と死んでく。
    触れんし、呼び戻すこともできんし、最初から会話できてたのかも怪しい。
    自分らには見えんものを見て、聞こえんものが聞こえてる人らに「生活」を求められん。相手してもらえない。せいぜい、終わってから気付く。
    原題は「The Virgine Suicides」やのに、ヴァージンじゃない子がでてくるけど、それが大したことではない。

  • 映画が思いのほか良かったので読んでみました。
    映画は女性監督だけあって、映像美というか、小物のかわいさとかも際立ってましたが、
    小説はまたガラっと雰囲気が変わって、完全男の子達の物語

    最初は「なんじゃい、この邦題。失敗したかな。」と思ってたけど、
    読んでみると分からなくもない。
    むしろ、直訳するよりも断然良かったかも。
    ただ、翻訳が全体的にあと一歩感があるかな。

    内容としては只今消化中(笑)

  • 青春と不気味さを混ぜたような陰鬱ながらも美しい書体
    「自殺したい」と願う人に「自殺するな」と願う行為は此方の我儘なのかもしれないと感じさせられる
    見える傷のみで人を判断してはならない、彼女達の傷はそれ以上の深さで抉られたのだから

  • たぶん、五人姉妹が自殺したのは母親が閉鎖的な空間を作り出したことに起因するんだろうけど、そうせざるを得なかったのは周囲の人達がこの家庭を面白おかしく見ていたり、話のネタにしていたからだと思う。特に語り手とその少年たち。だから、最後に五人姉妹がその少年たちの目の前で自殺したのは、その少年たちに対してトラウマを植え付ける為なのかもしれない。まだ読み返してみないとわからないとこが多いからたぶん再度読み返すと思う。

  • 登場人物の名前を覚えるのが大変。
    というのは5人姉妹の名前以外に、近所の人や学校の人、メディア関係者など誰が一体重要人物なのか読んでいてわからないので名前をいちいち覚えていられない。
    映画「ヴァージン・スーサイズ」が素晴らしかったのと、メインキャラクターが女性のストーリーを男性作家が書いているのに興味を惹かれて購入。
    オチがタイトルに書いてあるし、映画も見ているからどこに向かっているのかわかるのに、読み応えあり。

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