生は彼方に (ハヤカワepi文庫)

制作 : Miran Kundera  西永 良成 
  • 早川書房
3.61
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本棚登録 : 151
レビュー : 14
  • Amazon.co.jp ・本 (554ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200083

感想・レビュー・書評

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  • 超絶大傑作。クンデラの中でいちばんすき、なぜなのかはよくわからない、たしか主人公が窓から飛び込むシーンがあってそこがとんでもなかった気がする。下見くんから貸してもらったというのもプラスポイントかも。題名もまたすごくいい、フランス語だとLa vie est ailleurs これもまたとてもいい響き。

  • 抒情詩人として活動を始めたクンデラ
    けれども彼はきっぱりその肩書を捨てて
    小説家になった

    抒情性というものが
    どうしても嫌いだったみたい。

    お箸持ち上げられないくらいの
    軽さと重さの問題がここにもある
    最もそれは
    彼の弱さの象徴として。

  • 2001-07-00

  • 主人公ヤロニールは詩人のくせに
    マザコンで、
    女性に気の利いたこと一つ言えず
    スマートな立ち振る舞いもできず
    細かいことにばかりこだわり
    嫉妬深く、
    恋人の心を傷つけることでしか愛を実感できないような未熟者で、
    皮肉屋気取りの割には権力に迎合し
    時には恋人の家族すら警察に売る。
    自伝的小説とされているが、
    過剰なまでに滑稽な者として主人公を描くのは、
    当時の自分(や詩人達)に対する
    自己嫌悪の強さの現れなのだろう。

    抒情主義の時代(チェコ共産革命≒政治の抒情化)への徹底した批判。
    そして、革命や恐怖政治に自らすり寄り
    利用された、詩/詩人に対する自虐。
    美しく心地よい韻律は、
    大衆の冷静な判断を奪い根拠のない熱狂を煽る。
    (ワンフレーズポリティクス/ポピュリズム/劇場型政治。
    不覚にも感動してしまうえらいええ話のCMを垂れ流す某政党。
    最近の日本の政治も・・抒情化が著しい。)

    作中様々な詩人や小説家のエピソードが
    トリビア的にさし込まれているんだけれど、
    僕の好きな19世紀フランスの小説家
    ジェラール・ド・ネルヴァルも登場するのがなんかうれしい。

  • クンデラ一流の、心の襞を大に小に描き上げる技術は細部にまで冴え渡っている。
    その上でも、これは特に気に入った。母親の縛りつけの描写の生々しさ、女性たちとの関係、他人からのレッテルがあまりに力を持ちすぎること、若さと死と革命の結びつき、などなど。
    また、この小説は部分同士に因果論的・写実的結びつきが見られるように思う。他の作品が目的論的・構成的な結びつきがされているのと比べて。それもまた気に入ったところ。
    手元に置いておきたいような。

  • 人生にどれほどの自由度があるだろう。自ら選び取ったその道も、時代、社会、文化、遺伝、親の期待・・・それらの刷り込みかもしれない。仕向けられただけかもしれない。

    そんなことは断じてない。人生を規定するのは自分であり、自分次第でいか様にも変えることが出来るのだ。自己選択を疑う声は、敗者の遠吠えに過ぎない。

    この二項対立がぼくを捉えて久しいけれど、畢竟答えを出しようもなく、突き詰めたところで行き場はない。それを分かっていながらも、相対化して悟り顔で生きることも、割り切って今に没入することも出来ないぼくを、いつまでも掴んで離さない。

    クンデラを読んでいて心痛むのは、何とかやり過ごしている上記の問いを喚起されるからに他ならない。主人公を軸とした物語展開も、十分に感傷を刺激するけれど、クンデラに特徴的な第三者による物語への介入、異なるアングルからの言及が、単純な感傷を突き放し、増幅し、底のない空虚に読者をいざなう。

    混乱する母国での少年を描く本作品でも、これらの特徴が余すことなく発揮されている。物語のクライマックスの近づく第六章、視点は突然切り替わり、唐突に主人公の結末を告げられる。自分を除く誰もが知っている結末に飛び込む主人公。その構図を自分に当てはめることをどうして避けることが出来るだろう。

    人間は自分の外に出ることは出来ない。のみならず、見通せるのは今という観察地点から見える景色だけ。何も見えない人生の彼方には何が待ち受けていて、それに対して一体自分は何が出来るのだろうか。

  • これはいい!長いけど、多少なりともフランスよりのチェコ文学です。東欧の暗さは好きだけど、カフカはちょっとイライラするというアナタにおすすめ。

  • 母親に囚われた詩人の成長と死。ビルドゥングスロマンだが、詩人はむしろ成長に従って自分の世界を狭め、閉塞していってしまうように感じた。
    時間軸を飛び越えたり、複数の視点を導入したり、章の区切りでリズムを演出したりと、凝った構成になっている。

  • 「LA VIE EST AILLEURS」
    <テンポ/語りのモード>
    第一部 あるいは詩人の誕生(モデラート/中庸の速度で・「一貫した」話法)
    第二部 あるいはクサヴェル(アレグレット/やや快速に・夢幻的話法)
    第三部 あるいは自慰する詩人(アレグロ/快速に、活発に・ポリフォニー的話法)
    第四部 あるいは走る詩人(プレスティッシモ/できる限りはやい速度で・ポリフォニー的話法)
    第五部 あるいは嫉妬する詩人(モデラート/中庸の速度で・「一貫した」話法)
    第六部 あるいは四十男(アダージョ/緩やかに・「一貫した」話法)
    第七部 あるいは瀕死の詩人(プレスト/きわめて速く)

  • 今日、というかさっきからミラン・クンデラの「生は彼方に」を読み始めました。クンデラの自伝的小説という。
    なんてか、表現している言葉と実際の場面が微妙にずれていて面白い。例えば、冒頭の「どこで」という問いに対して、答えが「(どこそこの)午後」と時間で返している、とか。
    クンデラ自身的な人物ヤロミールの子供時代。彼を溺愛する母親とともに田舎の別荘へ。小川のほとりにたたずみ「この小川は自分が眼を閉じている時も流れているのだろうか?」とか「この小川はどこから長い道のりを経て流れているのかな」などと、ヤロミールは想像している。その横にいる母親の方は、また別のことを考えている。・・・小川は親から子への血と記憶のつながりでもあるのではないか?眼を閉じる前が母親、後が子供。違う人物ではあるけれど、同じ流れ。
    「ハヤカワepi文庫」読むの初めて。(2009 05/26)

    二つの夢の間にある手
    ミラン・クンデラの「生は彼方に」第二部。
    ここでは名前まで変わって、(たぶん)ヤロミールの青年になっていく頃の主要な3つの出来事を、彼の見る夢の側からみていく部なのだろう。そんな3つの夢は変幻自在に他の夢に入り込んだり変容したり、彼は今見ている夢から別の夢へ目覚める。3つの主題からなっている一つの楽章のようなこの部、その主題間の移行部。
    いいなあ。って思うよ(笑)。
    ちなみに「生は彼方に」というタイトルの言葉が、この第二部の中に出てきます。はい。(2009 05/30)

    「生は彼方に」の「」の付け方
    「生は彼方に」も第三部。今日はその前半部分を読みました。この第三部は今までより多少長く、現時点で作品全体の半分弱になります。
    さて、標題ですが、この第三部に限ったことではないかもしれませんが、「」の付け方が意識的に通常と異なっています。一人の人間がしゃべっている場合は通常と同じなのですが、会話・対話の場合は—例えばヤロミールと母親との対話、ヤロミールと伯父とのチェコの共産党によるクーデタについての対立の場面—一人一人の発言で「」が分かれるのではなく、対話一セットで「」が成立しています。だから、「」の中に2人の発言が併存しています。これは対話というものは本来分割できるものではなく、それが産まれた状況により変容する、というクンデラの考え方からきている、のかもしれません。もっと言えば、個人の全く独立した考えというのをクンデラは夢物語だと思っているのかもしれません。 (2009 05/31)

    インテルメッツォ
    「生は彼方に」は第4部。ちょうど小説全体の中間にあたり、クンデラが好む音楽用語で言うと間奏曲といった感じ。その為かどうか、奇数部がヤロミールの話、偶数部がヤロミールの分身の話、という前提が少し弛んで両方の要素が見られます。んで、間奏曲の間に舞台はヤロミールの青年期から大人に。最後に落ち着く所が食品売場の娘のアパートの一室。そこで青年は大人になったとさ(笑)。
    1949年のプラハは、社会主義革命が制度化されてくる時代にあたり、この第4部はその時代を教えてくれています。(2009 06/02)

    詩人は踊り、小説家は観察する
    「生は彼方に」の今日から第5部。チェコでの社会主義革命では詩が民衆を引っ張る役割を果たした。そうした詩を書く人々は韻律のある詩を書き、読み手は読み、お互い踊る。踊っている人はその踊りを非難できない、と語り手は言っています。この頃のヤロミールもそうした踊り手の一人。
    一方クンデラには、小説家として「非難」する決意があります。解説に取り上げられている「裏切られた遺言」からの文章がそれを明白に物語っています。「抒情主義への訣別」という。(2009 06/03)

    小説は一つの猿股から作られる
    と、クンデラは考えている・・・
    なあんて、思うような「生は彼方に」の第五部中盤。
    この小説には、というかクンデラの特徴なのか、登場人物たちがある配置になった時に語り手というか作者というかがその配置の「解説」を読者にむけて批判的に語り出すところが多い。今日読んだところでは、ヤロミールが今は警官となっている昔の旧友とビヤホールで話す場面や、詩人の会の後のヤロミールと老詩人と雑誌の編集顧問と若い女性映画監督の4人になったところなど。んで、この後者のところで、ヤロミールと若い女性映画監督の視線が次の展開を見せるのか(このまま行けば叙情詩的になる)、と読者が思ったところで、カール・マルクスの口調を借りて作者が、続いて猿股が(笑)やってくる。クンデラが過度に叙情的になるのを批判している、その批判が小説そのものだと考えているとすれば、この猿股こそが小説を作り出している核となるものといえよう。
    今日はこの場面で読み終えることにしますが、この後のヤロミールの現恋人へのひねくれた思いや対応が想像できそう。
    大変だ・・・(2009 06/06)

    叙情は分館、散文は本館
    「生は彼方に」を読み終えました。つい、さっき。
    第6部と第7部を一気読み。クンデラによれば第6部はアダージョ、第7部はプレストとのこと。第6部はヤロミールが密告した元?恋人の娘が3年振りに釈放され、情人であるらしい四十男(画家?クンデラ?・・・第7部でヤロミールの母親に会いにくる「見知らぬ男」がこの四十男だとすれば、母親が画家を知らないはずはないのでクンデラ自身が抜け出たよう(「不滅」みたいに)なものなのかなあ)に会いにくる。その描き方が見事なまでに巧く、さすがだなあ・・・と思っていると、第7部でレールモントフ(等)とヤロミールを交互に互い違いに書きながらヤロミールを死へと持っていく(第6部の時間的には前)仕方は、うーむ、第6部のそれより直接的すぎて、正直もっとうまく書けるんじゃないの?という感じ。でもなあ、それがクンデラのアダージョ→プレストの狙いなのだろう、と思いました。叙情主義を批判するクンデラのことは前も述べましたが、叙情は第6部のみ(クンデラは「分館」と言っています)にしておこう、自分の小説の行く道は第7部のような批判的な眼差しなのだから、とでもなるのでしょうか?
    んでも、前もそうなんだけど、クンデラの作品読んで何かわからないところというか腑に落ちないところというか・・・があるんだよなあ(というか、そういうところが全くなく全てわかってしまう小説は本当に面白くはないのですが)。例えば「生は彼方に」という、このタイトル。いまいち何を表しているタイトルなのかすっきりいかない。うーむ、ヤロミールの言っている「生は彼方に」とクンデラが考えている「生は彼方に」が180度違う意味なのか、それとも少しだけずれているだけなのか。
    んでも(2回目)、クンデラの小説を読むファーストチョイスとしてもこの小説はお勧め。 (2009 06/17)

  • 母子密着的な環境で青年がもがく。

  • 時代に翻弄され、自身の自尊心に翻弄され、周囲の賛美中傷に翻弄され、もがきながら生き続けた詩人の話。
    クンデラの生きたチェコを舞台に社会主義批判を根底に置き、抒情詩を軸に愛、生、死について、音楽的な技法を用いて語りあげた凄まじい作品だった。
    主人公は基本偏執病臭いんだけど、女の子との初デートの時にテントがバレるのを恐れて息子を太ももに紐で縛り付けようかなんて考えたり、女とセックス出来そうな時に今日の下着はだっせぇ股引だから恥ずかしくて無理!とか言って逃げ出したり、とどこか可愛らしい一面もあり笑ってしまった。

  • クンデラ好きなので評価は甘め。

  • 息子に自己実現を重ねてひたすらに息子を支配し続けようとする母親と、その母親を次第にうとましく思いながらも彼女の承認がなければやってゆけない自意識過剰な息子の共依存関係の終わりまで。他者からの承認をアイデンティティの核に組み込んでしまった息子=若き詩人は女々しさを極度におそれ、「男らしさ」というマッチョイズムの幻影をむなしく追い求めるが、とにかくパニックばかり起こして自分の頭で考えないで脊髄反射で世の中を渡っていくうちに、プチおんたこに成り果て、とはいえ叙情詩にとっての一抹の慰めとしては、あまりにひ弱なためにおんたこにはなり切らずに死んでゆく。という過程を相変わらず不愉快なほど辛辣に書いている。いーじゃん、別に。灰色猿股だって。

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著者プロフィール

1929年、チェコ生まれ。「プラハの春」以降、国内で発禁となり、75年フランスに亡命。主な著書に『冗談』『笑いと忘却の書』『不滅』他。

「2015年 『無意味の祝祭』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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