- 本 ・本 (280ページ)
- / ISBN・EAN: 9784151200106
感想・レビュー・書評
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暗い影に纏われた作品。
時には原爆、時にはネグレクト、そして幽霊。
会話か噛み合わない登場人物。本質ではうまくいかないとわかっているが自らを偽る言葉を吐く人々。
そして佐知子の人生が悦子の人生にダブってみえてくる。時代に翻弄された女達の心に根ざしたものは同質だったのか。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
ノーベル文学賞受賞記念講演を読んで、3冊だけ限定でカズオ・イシグロの作品を読むことにした。作者の27歳時のデビュー作である。作者は幼少時に英国に渡る(まるで万里子や景子のよう)。血は純粋日本人で、その彼が純粋の英語で、長崎の話を書いている。
噂に聞く「わたしを離さないで」と同じ構造なのか、最初は日常風景が延々と続く。縁側、ざぶとん、うどん屋さん、三和土、等々と何処から調べたのか、1950年代地方都市郊外の日本の姿が詳細に描写される。ところが、何か謎を孕んでいる不穏な空気が常にある。
今はイギリスにいる主人公悦子は、おそらく80年代の初めに長女の景子を亡くす。その時に思い出したのが、長崎の暮らしである。まるで「失われた時をもとめて」のように(記念講演で影響を受けたことを告白していた)、悦子にとっての過去が現代のように映し出される。
主な登場人物、悦子さんと佐知子さんと万里子ちゃん、3人とも何らかのものを抱えて生きている。それが何なのか、延々と続く会話の中で推測するしかない。私は3人のいずれかが被曝したと途中までは予測していた。
幾つかは、日本語として不自然な語句がある(日本の嫁はいくら心の中でも、舅のことを「緒方さん」とは呼ばない、あ、でも回想の中の語句なのだからその方が自然なのか?)。その他いろいろ。そういうのが、いかにも80年代初めの英国文学青年から見た戦後間もない日本の風景のようで、新鮮だ。長崎弁は一切出てこない。
第二部で、彼女たちはロープウェイで稲作山に登り、復興途中の長崎市内を見下ろす。表紙の絵かもしれない。そこで悦子と佐知子は希望を語るのである。どうも彼女たちの鬱屈は被曝ではないようだ。でも、ナガサキが彼女たちに薄暗い緊張感を与えているのは確かだ。
結局、悦子が歩んで来た人生は現代の次女からは「正しかったのよ」と言われ、過去の思い出からはホントにそうだったのかと悦子を苛む。最後のあたりで、それが読み取れる。非常に計算された、賢い作家なのだろうという印象を受けた。あと2冊、我慢して読んでみよう。
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カズオ・イシグロの長編デビュー作。過去の傷を癒しながら未来に向けて再起を図る、2つの家族を描いた作品。戦後の長崎が舞台で、登場人物は日本人が中心となっている。やはりカズオ・イシグロの作品は、色のないモノクロの映像しか思い浮べることができない。土地やキャラクターなどの設定濃度が低いからだろう。またこの物語では、登場人物は比較的多いが、どの会話も淡々と流れていく。最終的に大きな見せ場があるわけではないので、刺激も少ない方だろう。そのため、じっくり噛みしめながら味わう作品なのかもしれない。
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「日の名残り」がワタクシの中で大ヒットし、立て続けに「わたしを離さなないで」を読み、さあ次は「忘れられた巨人」と思っていたのだが…
どの作家さんもデビュー作を読むのは興味深い
荒削りながら、必ずパンチと個性が光る
(本に限らず音楽も然り)
そんな期待を込めてこちらのデビュー作を先に読んだのだが…
うわー
どうしよう…
まさかの…
苦手であった
読み終わるまでは…
そう読み終わるまでは…
構成はイシグロ氏らしく時間軸が交差しながら展開する
主人公悦子
父親の異なる2人の娘がいた
上の娘は日本人の父親
下の娘は英国人の父親
上の娘は引きこもり、そして自殺、下の娘は自由奔放に生き、葬式に来ない
充分複雑な家庭環境を思わせる
昔は違ったのだ
そう佐知子と知り合った頃…
悦子が長女を妊娠中の頃、佐知子に出会う
戦後のぐちゃぐちゃになった長崎であったが、これからの人生は幸せが約束されたかのような悦子
優秀な夫は昇格間近、義理父との関係も良好
お腹には初めての子が…
一方の佐知子は、シングルマザー(?)として一人娘万里子を育てている
浮気者で地に足のつかなようなアメリカ人に振り回されている
が佐知子は強気な姿勢でこの男を信じているフリをしている
もちろん娘の万里子にもトバッチリが押し寄せる
猫しか友達がおらず、子供らしさはなく、現実感のない空間の中に漂っているかのような万里子
そんな万里子に母親らしく接することができない佐知子
悦子と佐知子
二人の女性はまるで生きる世界が違うはずが、数十年経った「今」の悦子はまるで当時の佐知子のようにさえ感じる
不穏で謎めいた出来事がいくつかあり、妄想を掻き立てられる
しかし村上春樹のように、明確な着地点はなく、最後までグレーのモヤが延々と続く
万里子は誰の影に怯えていたのか
悦子は佐知子と友好関係に会った時、心からの友情があったのか?
今の自分と照らし合わせたせいじゃなく?
深く語られない自殺した長女
悦子にとってどんな娘だったのだろう…
長女が産まれてから、夫二郎と3人でどんな生活を営んでいたのだろうか…
そして、万里子
佐知子と万里子親子を長女を亡くした悦子が回想していくのだが…
悦子の心の喪失や深い悲しみ、長女に対する想いは直接的に語られない
そう、佐知子と万里子の回想を通しているのだね!
だから当時の万里子に対する想いと今の回想している万里子は違うはずだ
万里子を通して亡くした長女を想っている
だから佐知子と万里子に対して、悦子は驚くほどあたたかく優しいのだろう(と憶測する)
とにかく何が苦手って佐知子さんと万里子チャン
日本人の最初の夫二郎クン
この人たちの何というか剥き出しの感情(感情的な態度という意味ではなく)、暴力的な感情…
他の登場人物たちも概ね同様
あと日本語訳のせいなのか…?
日本の、日本人のフィルターを通った感じがするのです…
ワタクシに英語力があれば、もっと分析できるのだが(ないから無理)
何か日本の、日本人の湿度が入っちゃった感じがして苦手だ
「日の名残り」や「わたしを離さなないで」も不条理と不幸せと悲しみが常に漂っている内容なのだが、本書のようなストレートな行動や感情や湿度はなく、深い霧に漂うイメージだったのだが…
読んでいる最中は早く終わらせたくなってしまった
ただ、読了後の余韻は凄い
暫く引きずり妄想が止まらない
そして悦子の心を受け取ってしまったかのような錯覚に陥る
読み手の想像力を恐ろしいほど掻き立てます
これほど読んでいる時とその後のギャップみたいなものを感じたことはないかも
やっぱりイシグロカズオ凄いです!
さて「忘れられた巨人」は一体どんな作品なのか
楽しみである -
長編デビュー作ながら、イシグロ作品を読むのは、これが五作目。
事件らしい事件は起こってないようで実は色々起きている。景子の自殺、悦子の再婚と渡英、万里子が見た(見知らぬ)母による嬰児殺し、万里子の母による子猫殺し。勿論、原爆とその後遺症による大量死も。
佐知子が夢見た海外渡航を悦子が果たすも、景子の自殺という代償を払うこととなりながら、「女性の自立」が、徐々に進んで、娘のニキに至っては、結婚制度の意義に全く賛同出来ない現代的女性となっている。(発表は1984年)
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作者のカズオイシグロは近年お気に入りの作家の一人。去年から立て続けに「わたしを離さないで」「浮世の画家」「日の名残り」を読み、今作が4冊目。だいぶ、作風というか、あぁカズオイシグロらしい作品だな、という感覚に確信が持てるようになった。
基本的に主人公の一人称で描かれており、過去回想と現在が交互に入り混じって描かれる。それにより序盤では全く謎に包まれていた言動も話が進むにつれて意味が明らかになるようになる。描かれている情景が理解できず最初は不安に思うが、徐々に足場が安定していくイメージ。
戦争による価値観の変化、世代による価値観の断絶がある。
主人公はどこか陰がある。過去に何かしらの悩み・後悔・諦念などを抱えている。また、人間関係に軋轢が生じていることもある。
それに引きずられてか、描かれている風景もどこか薄灰色に感じる。
登場人物は他人の話を聞かず、話が噛み合っていないことが多い。「ええそうね、でも…」という返しで自分の主張を繰り返す論法が目立つ。穏やかだけど、平和ではない会話。だから会話シーンは読んでいて心をざわつかせられる。
そして、ある邂逅から物語はクライマックスへと向かう。
こういう、なんとなく共通した物語の型のようなものが彼の作品にはあるように見える。そして僕はその型の魅力に見事にハマってしまっているらしい。
特にこの作品では最後に大きな仕掛けが施されていて、それまで理解していたと思ってきたものが一気に覆されてしまう。僕は綺麗に騙されてしまった。今まで読んだ作品の中で一番幻想的だった。
過去の長崎と現在のイギリスの田舎町。全く違うようで鏡像のように似通ってもいる。時代も場所も違うけれど、同じようなやり取りが繰り返される。主題が形を変えて繰り返し出てくる交響曲のよう。
オススメです! -
タイトルからは想像できない、薄暗くてちょっと不気味な小説。
現在居住するロンドンで自分の娘を自殺で亡くした悦子が、その体験をきっかけに、長崎に住んでいたときに出会った少し変わった母娘、佐知子と万里子との経験を回想するというもの。
大戦直後、まだ原爆からの復興も道半ばの長崎を舞台背景に、母娘との出来事を想起する形で綴られていく。
佐知子は、かつては東京でそれなりの生活を送っていたが、戦争で母娘二人きりになり、長崎へとやってきた。
東京で知り合ったアメリカ人の愛人のいい加減な言動に翻弄されながらも、そのアメリカ人がいまのみじめな生活を救ってくれると信じている。
娘の万里子は10歳くらいで癇癪持ち。そして時折とても不気味な発言をして悦子を当惑させる。
悦子は自身が身重でありながらも、この母娘に協力してあげようと必死に世話をする。
佐知子と悦子は価値観が全く異なる。主人公の悦子は戦前からの日本的価値観の持ち主。一方の佐知子は戦後アメリカから導入された民主主義的解放を信じた言動をする。
会話が全く噛み合わない。まず不気味さの一端はここにある。
本作のテーマの一つは、戦後流入した新たな価値観を自分のアイデンティティとして受け入れるというところにあるのだというところが随所に感じられる。
戦前価値観側の悦子、そして悦子の面倒をみた緒方さん。そして一方が悦子の夫で緒方さんの息子である二郎と、そして佐知子。
悦子が回想する時点では、既に彼女は新たな価値観の中で生きており、その受容過程が想起するエピソードに大きく影響を与えている。
そしてもう一つの大きなテーマ。これはカズオ・イシグロの多くの作品に共通するものであるが、記憶の曖昧さ。
物語のなかで、誰かが何かを想起するという場面はごまんとある。ただ、多くの場合それは記憶とはいえはっきりと語られる。
一方のカズオ・イシグロの作品は、記憶は、本来人間の持つ記憶と同じで、とても曖昧なもの、信頼ならないものとして物語に投入される。
そして、想起する人間のそのときの状態によって、記憶は適当につぎはぎされ、都合良く改編される。
劇場で聞いた実に立体的なオーケストラが、録音で聞いたら平面的になってしまうのと同じように、時系列的な奥行きが平面へと吸収され、3年前と1年前の出来事が同一平面の記憶として存在したりする。
いなくなった万里子をおいかけた悦子が、追いかける途中でサンダルに縄がからまる。でもその記憶が、最終盤、もう一度万里子をおいかけることになった経験のときにも混在している。
この場面、心底不気味なのだが、あとから振り返ると、人間の記憶を実にリアルに表している。
彼の代名詞的な表現技法として名高い「信頼のできない語り手」というのは、この処女長編からして確立している。
すごいと思う。ただほんと、薄気味悪い。
登場人物みんな薄気味悪い。カズオさん、ほとんど日本にいなかったと聞いているけど、よくまあこんな日本人特有の気味の悪さを抽出できたなと感心する。
ああ、そうか。あまり知らないからこそデフォルメできたのかもしれない。
や。面白い。薄気味悪いけど面白い。読みやすいし、おすすめですよ。薄気味悪いけど。 -
先に名前のインパクトのある、素直に素晴らしいだろうと思い実際に文学に触れた重篤感があり、なにより読み易い。なんだろうかこの感覚は、たしかに不思議な登場人物に終わらせ方に ラストもページ捲ってありゃまあニキのお見送りが終わりかいってなあーってこと。ニキもそうだが掴みきれずに 万里子も、うーむだし、景子の誕生シーンも二郎との別れもなかったが。それでも読み終わるのは要所要所に大切なものが詰まっていたから。あっ佐知子の伯父の家に戻らないのと自分がアメリカ行けないことを分かっているのに神戸に行くという場面が全く理解出来んのよ。これもう一度読むと違いがわかるんかなあー
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この本は、戦後、将来の見えない薄暗闇の中を、手探りで生きている女性の人生を描いたものでした。
とても息苦しいような読後感になりました。
ぜひぜひ読んでみて下さい。 -
ノーベル賞とか関係のなかったころのカズオ・イシグロ。書かれていない主人公の背景というか、意識の奥行というかの深さを感じさせる書き方に驚嘆。
主人公の思い出として書かれている子ことを読みながら、「この女性がなぜこの手記を書いているのか」が読むということの興味の中心になっていくのですが、そこは最後まで読者任せ。すごいですね(笑)
ブログにもうだうだ書きました。
https://plaza.rakuten.co.jp/simakumakun/diary/202207130000/
著者プロフィール
カズオ・イシグロの作品





