レ・コスミコミケ (ハヤカワepi文庫)

制作 : 米川 良夫 
  • 早川書房
3.73
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本棚登録 : 384
レビュー : 38
  • Amazon.co.jp ・本 (295ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200274

作品紹介・あらすじ

いまや遠くにある月が、まだはしごで昇れるほど近くにあった頃の切ない恋物語「月の距離」。誰もかれもが一点に集まって暮らしていた古き良き時代に想いをはせる「ただ一点に」。なかなか陸に上がろうとしない頑固な魚類の親戚との思い出を綴る「水に生きる叔父」など、宇宙の始まりから生きつづけるQfwfq老人を語り部に、自由奔放なイマジネーションで世界文学をリードした著者がユーモアたっぷりに描く12の奇想短篇。

感想・レビュー・書評

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  • 20世紀イタリアの小説家イタロ・カルヴィーノ(1923-1985)によるSF風の綺譚集、1965年。何とも壮大な綺想譚、その余りに度外れたスケールの大きさと過剰に饒舌な綺想とが、ついにナンセンスの軽やかさへと反転してしまっていて空の彼方に飛翔し去ってしまうようで、そうした物語の無内容さから来る透明な可笑しさが読んでいて心地よい。

    しかし、こうした度外れたスケールゆえに透明感のある寓話の随所に、男女の愛や嫉妬や独占欲や競争心といった人間的なスケールの要素が含まれていて、それが物語の無内容の純度のようなものを損ねてしまっているのではないかと思われたのだが、宇宙大のスケールとの対照から却ってナンセンスな可笑しみが出てくると云えるのかもしれない。

    訳文は拙い。Qfwfq の饒舌な口上を、目で流れるように読みたい。



    特に面白かったのが「月の距離」「ただ一点に」「いくら賭ける?」の三話で、突き抜けて軽くなったイメージの広がりが心地よい。

    「月の距離」

    まず何より、月に梯子をかけて上る、というイメージが素敵だ。かのミュンヒハウゼン男爵にも月旅行の話があった気がする。月はファンタジーの想像力をくすぐる。自分は小さい頃にどこかで見た記憶の中の絵本のイメージで空想しながら読んだ。他の作品にも云えることだが、この綺想でいっぱいの物語に絵本作家が挿絵を描いたらどんなふうになるのだろうと想像するのも楽しい。

    「宇宙にしるしを」

    実体だけの世界からシニフィアン/シニフィエという形而上学的区別が生じる過程の物語。それは則ち、概念と個物の区別、表象と実体の区別、現象と物自体の区別、その他もろもろの二項対立図式が生まれるということ。宇宙に初めてつけられるしるしというモチーフが、それ自体で素敵であるし、記号論的にも興味をそそる。原-記号?

    「しるしに囲まれて暮らしているうちに、初めはただそれ自体の存在をしるすもの以外の何ものでもなかった無数の事物をだんだんしるしのように考えさせられるようになり、ついにはものがそれ自体のしるしに変貌して、しるしをつくろうとしてわざとつくったやつらのしるしといっしょくたになってしまったのだ」(p74)。

    「ただ一点に」

    宇宙開闢のその端緒に、穏やかで平和な愛情とその喪失という、幸福と哀切の物語があったとしたら、という愉快な空想。宇宙の始まりの言葉が、聖書の厳かさではなくて、こんなにポップなものだったとすると、その歴史はどんなものになっているのだろう。

    「ねえ、みなさん、ほんのちょっと空間があれば、わたし、みなさんにとてもおいしいスパゲッティをこしらえてあげたのにって思っているのよ!」(p86)。

    「いくら賭ける?」

    大小だとか遠近だとか疎密だとかの位相論的な感覚を両極端へ行ったり来たり狂わせられているうちに、全てが等し並みに無内容になってただ並列に排列されているだけのような気がしてくるから面白い。健全な思考はその都度ごとに適切なスケールの感覚を選択することで成立している、ということが分かる。宇宙の運命も人類の歴史もおよそ森羅万象をこんなナンセンスな賭けの上に乗せて遊びにしてしまっていること自体が、愉快であるし爽快である。

    「わしは別に自慢をするわけじゃないが、最初ッから、やがて宇宙が存在するってほうに賭けて、うまく当てたし、またそれがどんな具合になるかってことでも、学部長(k)yKを相手に、何度も賭けをして勝っていたんだ」(p151-152)。

    「空間の形」

    抽象的な数学的観念(平行線の公準)を空想の遊びにしてしまう自由さ、具象性の鈍重な衣服を脱いだ綺想の軽さ。どこまでも交わることなく地面に到達することもなく墜落し続ける二人の軌跡と。そんな二人の平行線運動を着地点も曖昧にどこまでも間延びしながら語り続けていく Qfwfq の冗舌な文字列と。そして、墜落していく二人(実体)とその語り(表象)とが、まさに平行線のように parallel に重なり合って区別がつかなくなっていく・・・。

    「もちろん同じこれらの行だって文字や言葉の行列というよりもただの黒糸のようにほぐしていって線それ自体という以外の何の意味もない連続的な平行直線になるまで引きのばすことだってできるのだし、その線の絶え間なくのびてゆきながらけっして出会うことのないのと同じようにわしらもやはり、わしも、ウルスラ・H‘xも、フェニモア中尉も、その他のみなも、けっして出会うことなく絶え間なく落ち続けてゆくのだ」(p221)。

    「光と年月」

    現代の電子的コミュニケーションにおけるディスコミュニケーションの状況を、片道1億光年(+α)のメッセージの遣り取りという戯画を通して、予言していたかのような作品。しかしその状況は、たまたま電子的装置を通して顕在化したというだけで、本質的にはコミュニケーションに予め孕まれているディスコミュニケーションであることが分かる。

    「わしはこれこそわが品位と威信とを添えるものだと、自分の行っていることに自信満々というところだった。そこで大急ぎでわしのほうに人差し指を突きつけているプラカードをふりかざして見せたのだった。と、ちょうどその瞬間に、わしとしたことが実に不様な目に――度しがたい大失策、地の底にでも潜りこんでしまいたいほど恥ずかしい人間としての惨めをつくした有様に落ちこんでいったのだった。しかもすでに賭けはなされていた。その姿は標識つきのプラカードのおまけまでつけて、宇宙空間の大旅行へとはや船出して、もはやだれにもそれを止めることができないまま、幾光年の距りを貪りつくしてゆき、星雲から星雲へと拡がってゆき、将来の幾百万世紀にもわたって批評やら哄笑やら得意顔やらの洪水をまき起こしてゆくのであって、そしてその洪水はまたその後の幾百万世紀にわたってわしのもとに帰って来て、このわしにまたいっそう間抜けた言いわけと、不細工な修正を余儀なくさせるのだった」(p244)。

  • 石ノ森章太郎が「COM」に連載していた『ジュン』をはじめとして、画面上に異様に大きな月を掲げる映像表現は多々ある。ルナティックとは狂気のことで、月の大きさはファンタジー色の濃さに比例する。だが、これはその比ではない。なにしろ、比喩でなく手を伸ばせば月に手が届くのだ。月の引力で潮が満ちた満月の夜、人は船を出す。脚榻(きゃたつ)に乗り、思いっきり手を伸ばして月にしがみつくと、月の引力圏に入って月の上に降り立つことができる。月が地球からこんなにも遠く離れる遥か以前の物語である。

    巻頭の「月の距離」には、その昔、月に一度満月の夜に月に渡ってミルクを採取する人々の物語が語られる。月と地球が近かったころ、その引力に引かれて地球から月に引きつけられた物質が月上で醗酵し、チーズのようなものになる。それを掬い取るために人は月に降り立った。そんな話を語るのはQfwfqという名の語り手である。見てきたように嘘をつくという言葉があるが、Qfwfqは本当にその場にいたという。

    それだけではない。船長夫人に愛される耳の聞こえない従弟を嫉妬した。月に魅せられた男と、その男を慕う女。そしてその女を恋い慕うもう一人の男が織りなす、一人の女を巡る二人の男の三角関係を描いたありふれたメロドラマ、のはずなのだが、何しろ舞台が月の上だ。一度月に行ってしまって、タイミングを逃すと次の満月まで地上に帰れない。しかも、その間にも月と地上は離れつつあった。

    ありえない世界をさもありそうに子細にリアルに描くのはイタロ・カルヴィーノの最も得意とするところ。『見えない都市』で見せたハイパー・リアルな情景描写が思い起こされる。これで一気に引き込まれ、期待に胸をわくわくさせながら次の作品に移る。というのもこれは連作短篇小説集なのだ。舞台は、ミクロコスモスからマクロコスモスまで、望遠鏡や顕微鏡のつまみを回すように、一作ごと自在に変化する。

    各章の巻頭にはエピグラフが付される。科学書から引用した科学的な事実の断片である。それを受けて語り出すのがQfwfqという名の爺さん。太陽系がその姿を現すずっと以前から、宇宙のどこかに何らかの形で存在していた不可知な実体。ある時は恐竜、またある時は両棲類。それくらいなら感情移入も可能だが、感情など持たない「もの」に寄り添って、この世界が生成変化する場面を目撃し証言する。要は『ほら吹き男爵の冒険』の宇宙版。

    普通ならありえない設定で、まことしやかに飄々と物語世界を闊歩するのがカルヴィーノの作品世界の住人だ。『まっぷたつの子爵』しかり、『不在の騎士』しかり。今度はスケールが違う。宇宙の創世期から理論物理学が想定するミクロコスモスの世界まで縦横無尽に語り尽す。マーカス・デュ・ソートイ著『知の果てへの旅』の愛読者なら喜びそうな、科学的知識の啓蒙書の雰囲気も併せ持つ、物語調で書かれた宇宙の創世記である。

    とはいえ、科学に疎い読者には、そうそうは易々と中に入り込めないものもあり、紹介するのは、こちらの好みに合ったものに限らせてもらう。読者によって好みの異なることはあらかじめ言っておきたい。全十二篇中、ここで取り上げるのは巻頭の「月の距離」を含む「水に生きる叔父」、「恐竜族」、「空間の形」の四篇。共通するのは、濃密な情景描写、物語性、男女の三角関係、失われたものへの哀惜感といったところだろうか。

    進化の過程で水辺から離れたところで暮らすQfwfqには変わり者の大叔父がいて、いまだに水中から出ることを拒み続けている。一年に一度は叔父を訪ねるのがこの家族のならいで、Qfwfqはご機嫌伺いに出かけるが、大叔父の態度はいつもと変わらず素っ気ない。Qfwfqはこの変わり者の大叔父に許嫁を紹介することをためらうが、案に相違して二人は意気投合。最後には許嫁はQfwfqのもとを離れ、水中で大叔父と暮らすことを選ぶ。時代の推移に取り残されながら、それを肯んじ得ない者を描く「水に生きる叔父」は、次の「恐竜族」とも主題を共有する。

    「恐竜族」は、すでに恐竜の時代を過ぎ、新世代の生物は恐竜という存在を忘れ果てている。Qfwfqはその忘れられた恐竜の最後の生き残り。ひょんなことから新世代の生物と暮らし始めるが、いつ自分が恐竜であることを知られるか不安で仕方がない。そんな時、一人の女を好きになり、付き合い始めるが、新しい女との出会いが話者の心をゆすぶる。時代に適応できない人物の心の揺れを恐竜に託して語る物語である。

    「空間の形」は話者がQfwfqであると明記されない。実際、これは誰なんだろう。なぞなぞめいた話で、ヒントばかりがたくさん書かれるが、解答は明示されない。他の物語群とは一線を画し、宇宙とも時間とも距離を置いている。どうやら、文字を紙の上に記す過程を主題にしていることは分かるのだが、主人公である私と、その恋するウルスラH’xと、ライヴァルであるフェニモア中尉が何を意味しているのかがまったく分からない。

    私見では万年筆のような筆記具が関連しているように思えるのだが、今のところ絶対ではない。そもそも寓話を意図していないという意味で、何が何を表すというような読解は不要なのだ。ではあるが、微妙に官能的な描写を読む読者には、これが何を描いているのか知りたくなるのは作者はすでに承知。であれば、それを読み解こうと再読はおろか、何度でも読み返し、ああでもない、こうでもないと頭をひねる。読書の喜びこれにつきるものなし。

    宇宙を舞台に、現実にはあり得ない世界を描いているという点ではSFのジャンルに入るのだろうが、どことなく収まりが悪い。騎士道小説の枠を借りながら、そのジャンルそのものを批判しているセルバンテスの『ドン・キホーテ』さながら、作家と自らが描いている世界との距離感が遠いのだ。先端的な科学知識も無限大に引き伸ばされた時間軸の上では、先史時代のそれと何ら変わりがない。そういう冷めた知性がどこかほの見える。それでいて、対象への愛も強く感じられるのは、喪われたものへ向けられた哀惜ゆえだろうか。

  • 科学の洗礼を経た現代の神話。宇宙創生叙事詩とも言える。トランス状態じゃなきゃたどり着けないような夢見心地の筆遣いについていくのは苦労したが、なんてことない、酔えばすんなり読むことが出来た。お気に入りは「月の距離」と「無色の時代」。

  • 恋愛感情を伴うが故の別離の物悲しさから社会的事象を切り出してみせてくれるお話までどの短編も美しい。後者の系統で「宇宙にしるしを」「光と年月」のふたつがとくに好き。Twitterの呟きひとつ取り出して誤解されイメージだけがひとり歩きしていくような、現代の寓話としても通じる内容じゃないだろうか。
    内容も然ることながら時系列にそわない並びがまたほら話っぽさを醸してる。

  • カルヴィーノの到達点の一つとの誉れ高い一冊だが、実は初読。ビッグバンの瞬間から、広がっていく宇宙、太陽の誕生、地球上に大気が生まれ色彩が広がるとき、月が地球から離れていくとき、水生生物が陸に上がるとき、恐竜が滅びた後などを全て実体験した Qfwfq 老人が語る連作短篇。果てしない想像力で描かれる物語世界が、Qfwfq 老人の軽快な語り口とあいまって、どれも素晴しい。ところどころに挿し挟まれる物悲しい離別の物語もペーソスが効いている。

    お気に入りのシーンは何といっても「ただ一点に」に描かれるビッグバンの瞬間。Ph(i)Nk 夫人が「ねえ、みなさん、おいしいスパゲティをみなさんにご馳走してあげたいわ!」という一言がきっかけになって、この宇宙は生まれたのであった!

    久しぶりにカルヴィーノ熱が再発しているので、何冊か読み返してみるつもり。

  • 風邪で熱っぽいときに電車でこの中の「ただ一点に」を読んでいたらぼーっとして降りそこなってしまった。

    昔昔、空間も時間もなくって、みんな一点にぎゅっとしてたころ、
    「もう少し空間(スペース)があればみなさんにおいしいスパゲティをこしらえてあげたいのに、と思ってるのよ」とのPh(i)Nko夫人の一言により、みんながスペースを思い浮かべ、彼女の粉をねる姿を、太陽を浴びて育つ小麦畑を思い浮かべたことで、ビッグバンが起こった…。

    あぁ、、ぼーっとする。くらくらする。スパゲティを食べたくなる。皿の隅でくるくるっとフォークで巻いて・・・それはイタロではなくイタミ。

    月がまだジャンプすれば届くころ、月の表面のチーズをスプーンでこそげとっては地球に投げていたっていう「月の距離」もいい話。

    あとは・・・、非常によく練られて考えられているし、語り口も面白いんだけど、馬鹿馬鹿しさが足りない。ちょっとブルーバックス的な科学寓話の小難しさが匂う。
    ええ?なんじゃこりゃ?? とはならないのだ。そこがラファティ爺とは違うところ。

    たとえば、望遠鏡で覗いたら1億光年先の星に「見タゾ!」というプラカードが立っていたっていう「光と年月」も馬鹿馬鹿しくて好きなんだど、まあ、そうだよな、とうまくまとまった感じでもうちょっと飛躍が足りない・・・。

    タルホは奇想だ、ラファティも奇想、けど、イタロは奇想ではない、と思うんじゃな。

  • 2008年12月7日~8日。
     宇宙規模の法螺話。
     奇想天外なのに、妙に納得してしまう。
     科学的知識が無くても楽しめるのではないだろうか。
     ただ、語尾を不愉快に感じることも多かった。
     これは翻訳の責任であり、雰囲気作りのためなのだろうが「~なのであった」という言い方はあまり好きではない。

  • *どれだけ硬質な科学的な短い記事を読んでも、「ああそうそう、わしはそのころ……」とQfwfq老人が語る、その法螺吹きが吹く法螺に身を任せる快楽。

    ■月の距離★ (とはすなわち、彼女を恋うるわしと、わしの従弟が恋着する月そのものになりたい彼女、との距離。)……人以外に恋着する人、を恋した人、に恋した人の悲劇。恋を重視する本書の開幕にふさわしい。
    ■昼の誕生 (に立ち会った家族のどたばた。真っ暗に絶望するが、それは夜というものなのだ。)
    ■宇宙にしるしを (つけたはいいけれど。しるしの連鎖。)
    ■ただ一点に★ (集まったわしらをばらばらにしたのは、「スパゲッティをつくるスペースがあれば」という彼女のひとことだった。)……恋心が宇宙を作ったというロマンチックな感覚。
    ■無色の時代★ (、すなわち地底、に居続けるアイルと、色の時代、すなわち地表、に取り残されたわしと)……恋の相手を探して地上をも地底をも問わず縦横無尽に探し回るという、凄まじくダイナミックな移動。赤く爛れた溶岩や無色に変化を好まない岩やがアクロバティックに混在する、アヴァンギャルドな読後感。
    ■終わりのないゲーム (で、わしと相手は無限に交互に連続することになる)
    ■水に生きる叔父 (すなわち魚類、に引け目を感じる両生類の私、の爬虫類の彼女は、しかし叔父に興味を抱く)
    ■いくら賭ける? (と、わしは学部長と賭けのやりとり。あらかじめの賭けが回収されていく。わし優勢から学部長優勢へ。)
    ■恐龍族★ (の最後のひとりになったわしは、新生物の群れと交流し、消え去ることで永続することを知る。)……最後の一匹が噛み締める旧種族への愛憎は、象徴的。新種族の中に衒いなく溶け込む自分の成分を見て、自分は死んでも生き延びるという誇りを半ばにする諦念を、語り手は抱くが、これって子を見るときの親の感慨だ。
    ■空間の形 (永遠に出会わない3本の平行線で、わしは恋し、嫉妬する。)……たった3本の平行線が、ここまでふくらみのある小説になるんだね。 
    ■光と年月★ (光速すなわち億年を往復する時間を隔てて、見る/見られる関係が成り立つ。別々の星雲の立て看板が列を成す。)……究極に近い思考実験。見られている気まずさ、から、見られているから安心。
    ■渦を巻く★ (ことで、わしは恋心=貝殻を作った。わしに視覚は備わらなかったが、便乗してきた者らの視覚を借りて、わしは彼女を見るのだ。)……谷川俊太郎の「なんでもおまんこ」を連想できるほど、生命の根源に思いを馳せさせてくれる。人間を含む有機生物を「無色、不定形の存在、にわか仕立ての臓物袋といった手合い」と呼ぶちょっとした記述に共感したりもした。

  • いまや遠くにある月が、まだはしごで昇れるほど近くにあった頃の切ない恋物語「月の距離」。誰もかれもが一点に集まって暮らしていた古き良き時代に想いをはせる「ただ一点に」。なかなか陸に上がろうとしない頑固な魚類の親戚との思い出を綴る「水に生きる叔父」など、宇宙の始まりから生きつづけるQfwfq老人を語り部に、自由奔放なイマジネーションで世界文学をリードした著者がユーモアたっぷりに描く12の奇想短篇。

  • 大学卒業にあたって、友人から譲り受けました。SFをよく読む友人だったので、カレル・チャペックや神林長平と一緒にカルヴィーノのこの本もあったのです。以来、何度か紐解いては読み進めておりました。

    雰囲気がいいんですよ。情景の描写にすごく味があって、思わず引き込まれるんですよね。

    宇宙の始めから生き続けているというQfwfqじいさんの、ある時は恐竜、ある時は船長、ある時は軟体動物、ある時はナゾの物質(?)であった時の思い出話をラブストーリーありコメディありの軽妙な口振りで語りまくる12の小品からなった短編集です。

    個人的には「無色の時代」が一番好きです。好きな人と好きな世界を共有できない切なさが胸に迫ります。「月の距離」なんかも、届かぬ恋みたいなのを感じさせていいですよね。ラブストーリーなんだけど、切なくて、宇宙規模で、なおかつ相手も無生物だったりするあたり、どこか市川春子の『虫と歌』『25時のバカンス』のような世界を彷彿とさせますね。

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著者プロフィール

1923年キューバ生まれ。両親とともにイタリアに戻り、トリノ大学農学部に入学。43年、反ファシズム運動に参加、パルチザンとなる。47年、その体験を元に長篇『くもの巣の小道』を発表、ネオ・リアリズモ文学の傑作と称される。その前後から雑誌・機関誌に短篇を執筆し、49年短篇集『最後に鴉がやってくる』を刊行。エイナウディ社で編集に携わりつつ作品を発表、一作ごとに主題と方法を変えながら現代イタリア文学の最前線に立ち続ける。主な長篇に『まっぷたつの子爵』(52年)『木のぼり男爵』(57年)『不在の騎士』(59年)『見えない都市』(72年)『冬の夜ひとりの旅人が』(79年)などがある。85年没。

「2018年 『最後に鴉がやってくる』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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