浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

  • 早川書房 (2006年11月22日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (320ページ) / ISBN・EAN: 9784151200397

みんなの感想まとめ

過去を回想する老画家の独白を通じて、戦前と戦後の価値観の変化に苦しむ姿が描かれています。革新的な作風で名を馳せた主人公は、戦争協力者としての批判に直面し、自責の念と自己弁護の狭間で葛藤します。心情描写...

感想・レビュー・書評

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  • 革新的な作風で名を残した日本画家小野が、過去を回想する独白形式の小説。戦後大きく変化した価値観により筆を置いて余生を送る老画家が、自らの存在意義を問いつづける。イシグロの他の作品にはあまり見られない心情描写は、私にとっては新鮮に映った。ただ個人的には、そこまで深みを感じる作品ではなかったかな。

  • カズオ・イシグロの長編第2作目。
    幼少の頃から長らくイギリスに住み、イギリスの生活や文化に慣れ親しんできた作者が、生まれ故郷である日本の戦前・戦後の生活や文化を事細かく調査して書き上げた意欲作と思われる。

    主人公は広い日本家屋の屋敷に住む老画家で、末娘の結婚問題に心を痛めながらも孫と戯れたりするほのぼのとした情景から物語は始まる。
    物語の雰囲気は作者も思い入れがあるというまさに小津安次郎監督の世界であり、物語の出だしは情緒豊かに日本的な風情の中から展開していくことになる。
    さらに個々の登場人物にはそれぞれ独特の個性を持たせていて、割とほのぼの感のある主人公に対して、身内である娘2人と孫の性格はちょっと一捻りしている感じで、常にまわりくどくてはっきりとものを言わない姉に、クソ生意気な孫のガキ、そしてズケズケものを言う末娘という感じで、作者ならではの日本の家族観が出ていてなかなか面白かった。
    あと光の使い方がある意味日本的で、これも面白いところであった。
    主人公の少年時代の回想で暗がりの座敷の中で火の光がゆらゆらと揺れるようなイメージがあったり、広い日本庭園を思わせる中での陽光を浴びながらの庭仕事があったり、あるいは家族らとともにする夕食の食卓での電燈の光であったり、かと思えば戦前や戦後すぐの地方のバーの薄明かりや居酒屋での華やかな色光であったりと、日本的な光のイメージを大切に使っている作品であったように思う。
    そういう意味で、物語後半における主人公と師匠モリさんとの決別の理由の一端は、闇に浮かぶ日本的な光の幻想を洋画に活かそうという師匠の手法への主人公の反発にあったわけで、極彩色に違いない主人公の軍国主義礼賛の絵は主人公が入り浸った飲み屋街のネオンと共通するものとして対比されていたようにも思う。
    その彼が戦後老いて日本的な環境の中で生活するというのは、ある意味、皮肉なものであったのではないか。

    物語の前半は割と娘の結婚問題にそこそこ頭を悩ます父親といった風情だったものが、物語の後半に入り、突如として主人公の戦争責任とそれに先立つ師匠との出会いから別れの話に進展していったのには驚いたものの、なかなか読み応えのある展開であった。
    特に主人公が師匠との決別の道を選択し、戦時中に自分が行った仕事に対する数々の高評価に自尊心を満足させつつも、一転、敗戦後は自らの過去が末娘の縁談に差し障りがあると考え、そうした過去に対する責任感に満足するところなどは、これもある意味、皮肉であり、さらに周囲の者は逆にそのような責任など感じる必要などない「小物」だったと評価していることなどは、作者の作品にいつも滲み出ているお得意のユーモアと思われなかなか魅せてくれたと思う。

    この作品は現在・過去が錯綜して回想される主人公の一人称の物語で、その主人公の記憶も曖昧なところがありなかなか読みにくい作品であったが、主人公が存在し会話し考え、時には過去へ行ったっきりになり、主人公がそこかしこであれこれと思いめぐらす思考の流れは、われわれ読者をも幻想的な感覚へと誘い、現実と過去の境界をも曖昧にする不思議な体験であった。
    その意味で、日本の過去と現在をごちゃまぜにして作者のイメージに作り変えて読者へ突き付けるという彼の目論みは大いに成功したといえるだろう。
    主人公の一人称の物語ゆえに、作者の客観的な日本評をみせつけられた作品であったとも言える。

  • 『日の名残り』と似たテーマ。

    戦時下、良かれと思って自分の仕事に邁進し、一定の評価を得たあと、戦後になって、戦争協力者として批判される立場に立つ者が、自責の念と自己弁護の狭間で、超然とした外見のまま苦しむ。

    作曲家古関裕而と似た人も出てきて、その人は作中、責任をとって自死する。

    主人公小野を戦後批判する弟子達は、軍人嫌いと同じメンタリティだろうか。苦しい時に権勢のあった人は、体制がひっくり返った時には逆恨みの対象となるが、本当に戦うべき相手はその人ではないだろう。


  • 戦前と戦後を生きた画家。
    戦争の前後で世間の価値観や己の評価が180度逆転し、そのことを諦めのように認めつつもやるせない思いを抱えている老人。
    現在の話をしながら過去の回想が入り乱れる。謙虚で誠実な自省の裏に潜んだ自尊心、自己欺瞞。
    手触りはノスタルジィ。どこか空虚で寂しい望郷の念。

  • 翻訳がとってもいい。洗練されていて、味わいもある。
    さて、作中人物、画家・小野益次は、孫が生まれて程ないので、60代くらいか。
    それまで自らが歩んできた人生を振り返る独白とともに、物語がつむがれてゆく。
    この回顧の感じ、独り語りの手ざわりが、翻訳のよさとあいまって、心地よい。
    わたし自身 初老の年代に近づきつつあることもあり、小野の独り語りの感じに、なんとも心地のよさを覚えたのだ。

    また、以下のような一節もあり、ある種のセンチメンタリズムをかすかに刺激された。

    後半生のふとしたときに、人は、自分が周囲から高い評価を得ていることに、気づかされることがある。
     …そんなことを述べた一節があった。
    また、
    自分の独自の言い回しや癖、と思っているものは、実はその多くが、自分が尊敬し師事した人物の言葉や癖を、
    知らぬ間に自分に映しこんで、受け継いでいることがある。
     という大意の一節もある。

    なるほど、そうかもしれない。自分もそうかもしれない…。などと、時おり自分の人生を振りかえった。
    読者として、主人公と年代が遠くないためか、かような読み方を味わえるのは、楽しいものであった。

    また、小野の師匠、画家のモリは、弟子たちを連れて花街にくりだし、連夜のように飲み明かす。
    夜の宴のはかない光と陰のなかにこそ、人生の真実があり、その「浮世」のすがたを描くことこそ、至高の芸術なのだ…、という主旨のことを言う。
    このくだりは、芸術のロマンを感じさせ、これまたいいものである。

    だが、しかし。 である。

    カズオ・イシグロ作品、3つめ。そして今回もまた、戸惑いのうちに読了したのであった。
    文章は平易であるし、さほど難解なテーマを扱っているとも思えない。
    だがしかし、
    「事実らしきもの」が、劇中で変転するので、そこで「解釈」に戸惑うのであった。
    ちなみ、「信頼できない語り手」の手法は、前2作で学習したつもりである。

    具体的には、下記のことである。
    中盤、小野は長女節子から、次女紀子の縁談が破談し、次もうまく行かない気配があるのは、父である小野の戦時中のふるまいが遠因だ、と遠まわしに言われる。

    小野は、言っている意味がわからない、とか、そんなはずはない、という立場を貫く。

    だが、終盤、次の章では、紀子は無事に結婚。長女節子と紀子らが揃う親子水いらずの夕食の場面である。
    小野は、戦時中の自身の考えや行動を自己批判する。すると、長女節子は、(以前、次女の破談の恐れを理由に)父に言ったことを完全に否定する場面が続くのである。記憶違いではないか、とまで言うのだ。
    これは、読み手は、いったいどう解釈すればよいのだろうか。

    終盤、かつて小野が描いた絵について明らかにされる。戦意高揚に与するための絵で、醜悪な絵である。となれば、小野の弟子たちが、かつて小野の芸術的才能を礼賛したことは、幻想あるいは嘘だったことになる。
    さらには、後半、小野が弟子黒田の家を訪ねたときの、ある陰惨な場面が明らかにされる。
    黒田の家には、特高警察らしき者たちがいて、黒田は連行された後だった。内庭では、黒田の絵が焼かれ、母が厳しく尋問されすすり泣きをしている。(その後、黒田は警察で苛烈な拷問を受ける)。 
    ここで、小野は警察の行動に驚き、黒田への捜査を止めようとする。そして自身が「内務省文化審議委員」の一員であり、「非国民活動統制委員会」の顧問でもある、と告げる。そして小野はその数日前 “黒田に注意してくれたら、本人のためになる” と発言したと言う。

    小野は、そうは言ったもの、黒田を官憲に売ったつもりはなかったし、黒田がここまで過酷な運命に落ちる、とは想像していなかったのだ、という。(あるいは、この「弁明」もまた、偽りかもしれない。)

    小説の前半、小野は、戦中の自身の行動、価値観に、過ちはなかった、とする言葉をくりかえしていた。
    また、当時の自分の行動や価値観は、その頃は、国のため社会のために正しいことと信じていた、とし、それを正当化する言い方を繰りかえす。
    だがしかし、作品の終盤で初めて詳らかになる、小野による「仕打ち」は陰惨なものだ。 読者である私は驚かされた。 

    そして、前述のように、これに隣接した直前の章では、小野の長女は、それまでの、戦中の父を「責める」態度から転じ、小野に、自身をせめないでくださいね、という姿勢である。(その一節で、戦時体制を賛美する唱歌をつくった音楽家が、その責を負って戦後自殺したことが書かれる。小野の娘らは父の自殺を恐れ、父へ「批判」をやめたのだろうか。) 

    かような次第で、小説の前後で、つじつまが合わない、というか、奇妙な変転があり、戸惑う。

    人の記憶のあいまいさ、それが主題のひとつなのか。あるいは、ひとは事実を隠蔽し、記憶を書き換えること。その卑怯さ、哀しさを 描いたのか。

    わたしの、読解力に問題があるのかもしれないが、困惑のまま、読了したのであった。
    語り手の物語ることに虚偽や隠蔽がある。そのことも含めて、作品をまるごと読みとかなくてはならない。いやはや、やはりイシグロ文学は難しい。

  • 2016.3記。

    戦前、戦意高揚目的の絵を描いて名を成した老画家が、戦後の根本的な価値観の転換の中で内省を深めていく。娘の縁談が進まないのはじぶんのせいなのか・・・それだけの筋書で物語は淡々と進む。

    主人公は時流に媚びたわけではない。むしろ社会不安、貧困の増大、無策な政治家、そうしたものに憤りを感じ、少しでも人々の役に立てば、と絵筆をふるっていた。しかし、戦後、若い世代は「国民を煽っておきながらのうのうと生き永らえた連中」という容赦ない視線を浴びせ、当時親しくした同世代の仲間たちも背を向けていく。

    当時の愛弟子が、就職のために「私は先生と対立していた、と証言してくれ」と訪ねてきたときの屈辱と寂寥感。同時に、嫁いでいった娘たち、その家族が戦前よりも明らかに希望のある未来に向かっていくことを嬉しく思う気持ち。そういうものがしずかに積み重なっていく様がなんとも切ない。

    脱線するが、この曲のテーマ曲を勝手に選定するとすれば武満徹「波の盆」を推したい。ハワイに渡った日系人で、第二次大戦において息子が米兵として日本と戦うことになる主人公を笠智衆が演じていた。ただただ名曲です。

  • 最初の家の話ぶりから現役を退いた画家が戦前・中を穏やかに振り返る内容なのかとざっと予想しながら読み進んだけれどどうやら違うっぽい、怪しい、と思ってから面白く感じた。
    その「どうやら」が手法なのだと気付いて感嘆。
    語りから、見えない部分を無意識に想像させながら話は過去を行きつ現在に戻りつ、主人公の姿を浮き上がらせる。
    小説に対して私は舞台背景や人物設定、言葉のセンス、形容対象への美意識などに魅かれがちなのだけれど、そういうのは小手先の魅力なんじゃないかと思うくらいの読書体験でした。文学って奥深いな~と改めて。
    主人公小野の娘達の名前や話しぶりから小津安二郎を思い浮かべたけれど、作者は影響されてるんですね(検索した)。
    たまにしか外文は読まないし理解力にも自信がないのでえらそうに言えないけれど、翻訳の力も凄いのでは。

  • 最初は画家を隠居して、格安でいい家を買ったおじさんの話。と思い、すごく退屈でしたが、そんな話じゃなかった。

    時は戦争直後。主人公は戦争中にある事をしてしまい、ずうっとその罪を背負っています。

    敗戦したことにより、一日でガラリと価値観が変わる時代で、主人公の周りには、それは仕方ないことだと開き直り、新しい人生をあゆみ始める人も。

    でも、それは悪い事ではなく、この時代だと普通の事なのかなと思います。(はあ?と思いますが)

    この作家さん、小さい時に日本にいただけなのに、こんなに詳しくかけるのが凄いです。

  • 主人公が本当に権威ある画家(だった)なのか、最後の方でわからなくなってしまった。ある一部の分野ではそうだったのかもしれないが、主人公が自分で思っているほどは世間に名を知られている訳ではなかったのかもしれない。
    自分が正しいと信じてきたものが、後に間違った思想だとされたとき、私だったらいったい何をやっていたんだろうかって途方に暮れてしまうと思う。もし自分が戦争中に国民を扇動する側だったら、本に出てきた社長のように罪の意識で自殺していたかもしれない。その点、主人公は自殺せずに自分の過ちを認めて堂々としていてすごいなと思った。少し図々しいのではとすら思ってしまったけど、だからって死ぬべき人間だ!とは考えられないし……と、現代に生きる私ですら思うんだから、当時戦争から帰ってきた若者とかは折り合いをつけるのが難しかっただろうなと思った。
    ただ、主人公が思ってるほど、娘たちは主人公が戦争に加担したとは考えていないということが終盤で書かれていて、じゃあ主人公が思っていた権威や功績ってなんだったんだ…とか、2番目の娘が結婚する時に節子が言ってきた気をつけることってなんだったんだとか、その時、要所要所での話の見え方が変わった。かといって、全部主人公の妄想か?と言えば違うし、その自己評価と他者評価のズレの塩梅が絶妙にリアルだった。。面白かった。

  • 主人公の小野益次は、色街の女性たちを描く師匠と決別することで、浮世を描く画家ではなくなった。しかし、戦前・戦中・戦後における世間の変化に翻弄されることになった。その意味で、彼は浮世(はかない世)にいる画家である。タイトルはそういう意味ではないか。

  • 昭和の作家が書いた小説を読んでいるような感覚になったり、翻訳ものだということを忘れたり、孫や娘との会話が白黒映画の脚本読んでるみたいな感じになったりで、不思議な小説だった。

  • おそらく第二次世界大戦直後の日本。小野は戦前戦中は大変評価された画家で当時の日本政府に貢献をしたが、
    終戦後、屋敷にこもり次女と2人でひっそり暮らしていた。
    目下の悩みのタネはこの次女の縁談であり、昨年は途中までうまく行っていたものの相手方の辞退により話が壊れていた。
    辞退の本当の理由ははっきりわかっていない。
    長女は遠方に嫁いだが、年に一度ほど孫を連れて帰郷してくる。しかし復員してきた長女の夫は戦後小野にひどく冷淡な態度をとるようになっていた。



    最初はなかなか読み進められなかったけれど、勢いついたらやはり一気読みになりました。
    以前読んだ「日の名残り」や「わたしを離さないで」とは訳者が違うけれど、やはり作者の静かな、品のある文章はとても好きです。
    小野は自分の画業の弟子時代や有名になってからのことなど回想して、その若い小野の思い上がりや鼻につくところも散見されるのだけれど、でも嫌な気持ちにはならず。
    若さからくる一途な時期というものは、たとえそれが今の価値観から間違いであったとしたも、愚かであったとしても得難い時間です。
    小野は自分の歴史を見つめなおして、捨てられない何かも胸に今現在との折り合いをつけていく道を模索していくようです。
    どんな年になっても、先を考えることができるようになりたいものです。

  • できることなら記憶の底にしまっておきたい人生の黒歴史、それとどう向き合うか。「人から見た自分」が気になる度合いは人それぞれ、全然気にならない人もいれば自意識過剰な人もいる。この主人公は、若干自意識過剰気味かな?と感じた。絵でも文章でも音楽でも、表現者は表現した時点で役目を終えており、全ては受け取る側の問題だと、私は思うから。同じものを見ても感じ方は千差万別で正解不正解はない。だから表現者は受け手側の反応などうかがわず思うように表現したらいい。それが後に黒歴史になる可能性なんていちいち考えていたらまともな表現などできないだろう。
    ただ、この主人公は大衆に迎合しないと豪語しながら一方で他人に感化されやすい面もある。自己批判と自己正当化のせめぎ合い、その巧みな描き方にこうして人間はできてるんだなあ、と感心させられた。そしてこれが『日の名残り』へと昇華するのね、なるほど。
    自分が画家なら何を描くだろう、と考えるのは結構楽しい。

  • 第二次世界大戦前後の日本・東京を舞台に、画家の人生を描いた物語。
    「遠い山並みの光」とよく似た雰囲気を感じました。

    戦争によって激変した時代の犠牲者とも言える画家たち。
    主人公は戦前に新しい形の芸術とその社会への影響を求め、師を「浮世の画家」と呼び、袂を分けた画家。そして戦中は名声を得ただけでなく、反体制的な画家仲間や弟子を期せずして困難な立場にも追い込んだ経験を持つ。
    その彼が、戦後は一転して社会から浮いた存在となる。かつての弟子だった画家の中には、彼を批判するものもいるけれど、なにより鮮明になるのは、結局彼は一介の画家に過ぎず、戦争前後の罪を問われるほどの立場でもなく、忘れられている、ということ。そのことが主人公である「わたし」から直接は語られないものの、随所に描かれる。まさに「浮世の画家」となった姿。

    主人公の口からは「信念」という言葉がよく出てくるも、何を示すのかわからないまま、時代に流された人々が容易にそういった言葉を使って、己を奮い立たせていたんだろうな、と思います。
    とても狭い世界に生き、世間を知らぬまま、その世界の名声にすがる、寂しい画家の淡々とした哀しい小説。

  • Kazuo Ishiguro の処世作。終戦直後、今までの価値観が 180度転換するようなFloating World に翻弄された老画家を描く。…のだが、ストーリーはこの老人の一人称で語られるため、翻弄されたと思い込んでいるのは実は本人のみという読みがどこまでも否定できない構造になっている。そして、この「信用できない語り手」の構造はもちろん、『日の名残り』のスティーブンスに継がっていくものだ。(英国側から見たときの)異国趣味と、いかにも英国らしいsarcasm を共に備えた佳作。

  •  戦時中名をなした画家小野だったが、戦後の今は屋敷にこもり隠遁生活をしている。戦中と戦後で、正反対に変わった価値観が、彼を翻弄する。

     人は、なにを生きる拠り所とするのだろう。
     そして、自分のそれが他者からは何も価値がないと、やんわりと否定された時、自我を保っていかれるものなのだろうか。

     ここに描かれているのは、鬱々とした日々をすごす一人の老人の姿だ。
     自分で語る自画像と、彼を取り巻く人が思っている彼の姿とが、まるでぶれた写真のように居心地悪く曖昧に、こちらに提示されてくる。
     カズオ・イシグロは、読者をだます作家だ。
     「日々の名残り」でも「私を離さないで」でも、こちらが見ていたと感じていた風景を、一瞬で虚無に返してしまった。
     だから、ちょっと構えて読んでいたのに…。

     人には生きる理由が、やはり必要なのだ。
     たとえそれが身勝手な、ある意味妄想だといえるようなものだとしても。そして、特に「過去」しかない老人にとっては、過去を生きる理由にするしかないのだ。
     小野の語る過去は、常に偽善的だ。
     だが、だれがそれを責めることができるだろう。彼はそうやって自分を、「浮世の画家」が描く、行燈の光と闇の薄ぼんやんリとした境に自分を置くことで結局は、過去にも今にも上手く生きることができなくなっているのだから。

     彼の哀しみは、戦争によって「リアル」を失ったことなのだろう。そして、彼はそれに気付いていない。
     だから、物語は閉塞したままで終わるしかない。

  • やっぱり素晴らしいなぁ。

    通勤の電車が楽しみでした。

    大切なことは何も語られません。
    でも「小野は何かを読者の目から遠ざけようとしている。しかし隠そうとする仕草自体が隠されているものをよりいっそう際立たせずにはおかないのである」と、小野正嗣が解説で書いているように、何も語られないからこそ、小野益次(主人公)の想いや、その取り巻く現在、そして過去の物語を、どんな言葉より深く感じることができます。



    訳者あとがきに、「大きな訂正として、原文に『大正天皇の銅像』とあったのを、『山口市長の銅像』とした箇所があるが、それは(たぶんご両親の忠告によって)イシグロ自身が私に訂正を要求したものである」とあったのが興味深かったです。

    日本人なら絶対、町に「大正天皇の銅像」を建てるなんて発想は出てきませんよね。

    やっぱりカズオイシグロは長崎生まれだといってもイギリス人なんだなー。

  • 人徳を競りにかける

  • カズオ・イシグロ『浮世の画家』は、戦時中に国家主義的な絵画を描いた画家・小野正之が、戦後の日本で娘の縁談をめぐりながら、自らの過去と向き合う物語である。
    表向きは家族小説だが、背後に戦争責任、記憶の改ざん、自己正当化といったテーマが静かに流れ続ける。
    しかし、読後に残るのは激しい告発はなく、言葉にされない後悔に似た余韻だ。この「静かな痛み」こそ、イシグロが小津安二郎から受け継いだ重要な遺産だと感じる。

    小津安二郎からの継承「語りの方法」にある

    イシグロは少年期に小津映画を見て強い衝撃を受けたと語っている。 『浮世の画家』における小津の影響は、シーンの模倣ではなく、語りの姿勢や間合い、家庭劇の構造に現れる。

    小津映画の主な特徴を挙げると、
    (1) 家族の会話の中に、語られない本音が隠れている
    (2) 風景や沈黙が、人物の心理を語っている
    (3) 大事件を直接描かず、日常の断片から浮かび上がらせる

    『浮世の画家』は、この三つを巧みに再構築している。


    (a) 縁談をめぐる会食の「沈黙」

    小野家の縁談の場面は、小津映画の「縁談劇」の系譜。

    - 表向きは礼儀正しい会食
    - 誰も核心(小野の戦時中の行動)を口にしない
    - しかし空気は重く、読者は“何かが起きている”と感じる

    これは『彼岸花』や『秋刀魚の味』で繰り返される、言わないことで語る縁談シーンと構造が同じだ。 イシグロは、会話の間やぎこちない笑顔、遠回しな言い回しを通じて、小野の過去が娘の未来を静かに蝕んでいることを示す。


    (b) 飲み屋での旧友との会話

    小野が旧友・松川と飲みに行く場面は、小津『秋刀魚の味』のサラリーマンの飲みを思わせる。

    - 冗談を交わしながらも、どこかぎこちない
    - 過去の戦争協力については誰も直接触れない
    - しかし沈黙の重さが、かえって真実を語る

    小津映画では、飲み屋は「本音を言わない場所」であり、イシグロもその構造を忠実に小説へ移植している。


    (c) 家庭訪問の「空気」が語る

    小野が弟子の家を訪ねる場面は、『東京物語』の老夫婦の訪問シーンのようだ。

    - 家具の配置
    - 部屋の静けさ
    - ぎこちない敬意
    - どこか落ち着かない空気

    これらの空間描写が、弟子の心の距離や、小野の過去の影響力の衰退を語る。 小津が「家の空気」で人物の感情を描いたように、イシグロも空間そのものを心理描写として使う。


    (d) 断片的な回想と「信頼できない語り手」

    小野の戦時中の回想は、断片的で曖昧だ。
    これは小津の「語られない過去」の扱いに近い。

    - 何が本当だったのか
    - 小野がどこまで自分を正当化しているのか
    - 読者は“間”を読み取る必要がある

    小津映画が断定を避けるように、イシグロの語りもまた、断定を避け、余白を残す。


    (e) 戦後の街を歩く小野

    戦後の街を歩く場面は、小津の「ピロウショット」を想起する。

    - 電車
    - 工場
    - 街路
    - 再建されつつある都市の風景

    これらの描写が、小野の内面の変化を象徴する。 小津が風景で時間の流れや心理の転換を示したように、イシグロも風景を語りの間として使う。


    結末の余白は、小津的な「断定しない終わり方」

    物語の終盤、小野は「過去を受け入れた」と語るが、読者はその言葉をそのまま信じることができない。

    - 本当に悔いているのか
    - それとも自己正当化の延長なのか
    - 娘たちはどう感じているのか

    小津『東京物語』のラストのように、静かな余韻だけが残り、解釈は読者に委ねられる。


    『浮世の画家』は、戦争責任を扱う重いテーマを、あえて静かな家庭劇の中に沈めることで、読者に“間”を読み取らせる。 これはまさに、小津安二郎の映画が得意とした語り方だ。

    - 家族の会話の沈黙
    - 風景の挿入
    - 断片的な過去
    - 断定しない結末
    - 日常の中に潜む深い影

    イシグロは、小津の美学を小説という形式で継承したと言える。

  • 『わたしを離さないで』や『日の名残り』とも違う系統の小説。

    戦前と戦後で画家としてやってきた主人公の見られ方が違ってしまったことで娘の縁談に影響が出たり、元弟子との確執とかが描かれている。

    一回読んでストーリーが分かったから
    終わりというタイプの小説ではなく
    何度も読んで、噛み締めるタイプの小説だと感じた。

    一郎が可愛い。

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