浮世の画家 (ハヤカワepi文庫)

制作 : 飛田 茂雄 
  • 早川書房
3.62
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本棚登録 : 795
レビュー : 106
  • Amazon.co.jp ・本 (319ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200397

作品紹介・あらすじ

戦時中、日本精神を鼓舞する作風で名をなした画家の小野。多くの弟子に囲まれ、大いに尊敬を集める地位にあったが、終戦を迎えたとたん周囲の目は冷たくなった。弟子や義理の息子からはそしりを受け、末娘の縁談は進まない。小野は引退し、屋敷に篭りがちに。自分の画業のせいなのか…。老画家は過去を回想しながら、みずからが貫いてきた信念と新しい価値観のはざまに揺れる-ウィットブレッド賞に輝く著者の出世作。

感想・レビュー・書評

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  • カズオ・イシグロの長編第2作目。
    幼少の頃から長らくイギリスに住み、イギリスの生活や文化に慣れ親しんできた作者が、生まれ故郷である日本の戦前・戦後の生活や文化を事細かく調査して書き上げた意欲作と思われる。

    主人公は広い日本家屋の屋敷に住む老画家で、末娘の結婚問題に心を痛めながらも孫と戯れたりするほのぼのとした情景から物語は始まる。
    物語の雰囲気は作者も思い入れがあるというまさに小津安次郎監督の世界であり、物語の出だしは情緒豊かに日本的な風情の中から展開していくことになる。
    さらに個々の登場人物にはそれぞれ独特の個性を持たせていて、割とほのぼの感のある主人公に対して、身内である娘2人と孫の性格はちょっと一捻りしている感じで、常にまわりくどくてはっきりとものを言わない姉に、クソ生意気な孫のガキ、そしてズケズケものを言う末娘という感じで、作者ならではの日本の家族観が出ていてなかなか面白かった。
    あと光の使い方がある意味日本的で、これも面白いところであった。
    主人公の少年時代の回想で暗がりの座敷の中で火の光がゆらゆらと揺れるようなイメージがあったり、広い日本庭園を思わせる中での陽光を浴びながらの庭仕事があったり、あるいは家族らとともにする夕食の食卓での電燈の光であったり、かと思えば戦前や戦後すぐの地方のバーの薄明かりや居酒屋での華やかな色光であったりと、日本的な光のイメージを大切に使っている作品であったように思う。
    そういう意味で、物語後半における主人公と師匠モリさんとの決別の理由の一端は、闇に浮かぶ日本的な光の幻想を洋画に活かそうという師匠の手法への主人公の反発にあったわけで、極彩色に違いない主人公の軍国主義礼賛の絵は主人公が入り浸った飲み屋街のネオンと共通するものとして対比されていたようにも思う。
    その彼が戦後老いて日本的な環境の中で生活するというのは、ある意味、皮肉なものであったのではないか。

    物語の前半は割と娘の結婚問題にそこそこ頭を悩ます父親といった風情だったものが、物語の後半に入り、突如として主人公の戦争責任とそれに先立つ師匠との出会いから別れの話に進展していったのには驚いたものの、なかなか読み応えのある展開であった。
    特に主人公が師匠との決別の道を選択し、戦時中に自分が行った仕事に対する数々の高評価に自尊心を満足させつつも、一転、敗戦後は自らの過去が末娘の縁談に差し障りがあると考え、そうした過去に対する責任感に満足するところなどは、これもある意味、皮肉であり、さらに周囲の者は逆にそのような責任など感じる必要などない「小物」だったと評価していることなどは、作者の作品にいつも滲み出ているお得意のユーモアと思われなかなか魅せてくれたと思う。

    この作品は現在・過去が錯綜して回想される主人公の一人称の物語で、その主人公の記憶も曖昧なところがありなかなか読みにくい作品であったが、主人公が存在し会話し考え、時には過去へ行ったっきりになり、主人公がそこかしこであれこれと思いめぐらす思考の流れは、われわれ読者をも幻想的な感覚へと誘い、現実と過去の境界をも曖昧にする不思議な体験であった。
    その意味で、日本の過去と現在をごちゃまぜにして作者のイメージに作り変えて読者へ突き付けるという彼の目論みは大いに成功したといえるだろう。
    主人公の一人称の物語ゆえに、作者の客観的な日本評をみせつけられた作品であったとも言える。

  • 最初の家の話ぶりから現役を退いた画家が戦前・中を穏やかに振り返る内容なのかとざっと予想しながら読み進んだけれどどうやら違うっぽい、怪しい、と思ってから面白く感じた。
    その「どうやら」が手法なのだと気付いて感嘆。
    語りから、見えない部分を無意識に想像させながら話は過去を行きつ現在に戻りつ、主人公の姿を浮き上がらせる。
    小説に対して私は舞台背景や人物設定、言葉のセンス、形容対象への美意識などに魅かれがちなのだけれど、そういうのは小手先の魅力なんじゃないかと思うくらいの読書体験でした。文学って奥深いな~と改めて。
    主人公小野の娘達の名前や話しぶりから小津安二郎を思い浮かべたけれど、作者は影響されてるんですね(検索した)。
    たまにしか外文は読まないし理解力にも自信がないのでえらそうに言えないけれど、翻訳の力も凄いのでは。

  • 翻訳がとってもいい。洗練されていて、味わいもある。
    さて、作中人物、画家・小野益次は、孫が生まれて程ないので、60代くらいか。
    それまで自らが歩んできた人生を振り返る独白とともに、物語がつむがれてゆく。
    この回顧の感じ、独り語りの手ざわりが、翻訳のよさとあいまって、心地よい。
    わたし自身 初老の年代に近づきつつあることもあり、小野の独り語りの感じに、なんとも心地のよさを覚えたのだ。

    また、以下のような一節もあり、ある種のセンチメンタリズムをかすかに刺激された。

    後半生のふとしたときに、人は、自分が周囲から高い評価を得ていることに、気づかされることがある。
     …そんなことを述べた一節があった。
    また、
    自分の独自の言い回しや癖、と思っているものは、実はその多くが、自分が尊敬し師事した人物の言葉や癖を、
    知らぬ間に自分に映しこんで、受け継いでいることがある。
     という大意の一節もある。

    なるほど、そうかもしれない。自分もそうかもしれない…。などと、時おり自分の人生を振りかえった。
    読者として、主人公と年代が遠くないためか、かような読み方を味わえるのは、楽しいものであった。

    また、小野の師匠、画家のモリは、弟子たちを連れて花街にくりだし、連夜のように飲み明かす。
    夜の宴のはかない光と陰のなかにこそ、人生の真実があり、その「浮世」のすがたを描くことこそ、至高の芸術なのだ…、という主旨のことを言う。
    このくだりは、芸術のロマンを感じさせ、これまたいいものである。

    だが、しかし。 である。

    カズオ・イシグロ作品、3つめ。そして今回もまた、戸惑いのうちに読了したのであった。
    文章は平易であるし、さほど難解なテーマを扱っているとも思えない。
    だがしかし、
    「事実らしきもの」が、劇中で変転するので、そこで「解釈」に戸惑うのであった。
    ちなみ、「信頼できない語り手」の手法は、前2作で学習したつもりである。

    具体的には、下記のことである。
    中盤、小野は長女節子から、次女紀子の縁談が破談し、次もうまく行かない気配があるのは、父である小野の戦時中のふるまいが遠因だ、と遠まわしに言われる。

    小野は、言っている意味がわからない、とか、そんなはずはない、という立場を貫く。

    だが、終盤、次の章では、紀子は無事に結婚。長女節子と紀子らが揃う親子水いらずの夕食の場面である。
    小野は、戦時中の自身の考えや行動を自己批判する。すると、長女節子は、(以前、次女の破談の恐れを理由に)父に言ったことを完全に否定する場面が続くのである。記憶違いではないか、とまで言うのだ。
    これは、読み手は、いったいどう解釈すればよいのだろうか。

    終盤、かつて小野が描いた絵について明らかにされる。戦意高揚に与するための絵で、醜悪な絵である。となれば、小野の弟子たちが、かつて小野の芸術的才能を礼賛したことは、幻想あるいは嘘だったことになる。
    さらには、後半、小野が弟子黒田の家を訪ねたときの、ある陰惨な場面が明らかにされる。
    黒田の家には、特高警察らしき者たちがいて、黒田は連行された後だった。内庭では、黒田の絵が焼かれ、母が厳しく尋問されすすり泣きをしている。(その後、黒田は警察で苛烈な拷問を受ける)。 
    ここで、小野は警察の行動に驚き、黒田への捜査を止めようとする。そして自身が「内務省文化審議委員」の一員であり、「非国民活動統制委員会」の顧問でもある、と告げる。そして小野はその数日前 “黒田に注意してくれたら、本人のためになる” と発言したと言う。

    小野は、そうは言ったもの、黒田を官憲に売ったつもりはなかったし、黒田がここまで過酷な運命に落ちる、とは想像していなかったのだ、という。(あるいは、この「弁明」もまた、偽りかもしれない。)

    小説の前半、小野は、戦中の自身の行動、価値観に、過ちはなかった、とする言葉をくりかえしていた。
    また、当時の自分の行動や価値観は、その頃は、国のため社会のために正しいことと信じていた、とし、それを正当化する言い方を繰りかえす。
    だがしかし、作品の終盤で初めて詳らかになる、小野による「仕打ち」は陰惨なものだ。 読者である私は驚かされた。 

    そして、前述のように、これに隣接した直前の章では、小野の長女は、それまでの、戦中の父を「責める」態度から転じ、小野に、自身をせめないでくださいね、という姿勢である。(その一節で、戦時体制を賛美する唱歌をつくった音楽家が、その責を負って戦後自殺したことが書かれる。小野の娘らは父の自殺を恐れ、父へ「批判」をやめたのだろうか。) 

    かような次第で、小説の前後で、つじつまが合わない、というか、奇妙な変転があり、戸惑う。

    人の記憶のあいまいさ、それが主題のひとつなのか。あるいは、ひとは事実を隠蔽し、記憶を書き換えること。その卑怯さ、哀しさを 描いたのか。

    わたしの、読解力に問題があるのかもしれないが、困惑のまま、読了したのであった。
    語り手の物語ることに虚偽や隠蔽がある。そのことも含めて、作品をまるごと読みとかなくてはならない。いやはや、やはりイシグロ文学は難しい。

  • 昭和の作家が書いた小説を読んでいるような感覚になったり、翻訳ものだということを忘れたり、孫や娘との会話が白黒映画の脚本読んでるみたいな感じになったりで、不思議な小説だった。

  • おそらく第二次世界大戦直後の日本。小野は戦前戦中は大変評価された画家で当時の日本政府に貢献をしたが、
    終戦後、屋敷にこもり次女と2人でひっそり暮らしていた。
    目下の悩みのタネはこの次女の縁談であり、昨年は途中までうまく行っていたものの相手方の辞退により話が壊れていた。
    辞退の本当の理由ははっきりわかっていない。
    長女は遠方に嫁いだが、年に一度ほど孫を連れて帰郷してくる。しかし復員してきた長女の夫は戦後小野にひどく冷淡な態度をとるようになっていた。



    最初はなかなか読み進められなかったけれど、勢いついたらやはり一気読みになりました。
    以前読んだ「日の名残り」や「わたしを離さないで」とは訳者が違うけれど、やはり作者の静かな、品のある文章はとても好きです。
    小野は自分の画業の弟子時代や有名になってからのことなど回想して、その若い小野の思い上がりや鼻につくところも散見されるのだけれど、でも嫌な気持ちにはならず。
    若さからくる一途な時期というものは、たとえそれが今の価値観から間違いであったとしたも、愚かであったとしても得難い時間です。
    小野は自分の歴史を見つめなおして、捨てられない何かも胸に今現在との折り合いをつけていく道を模索していくようです。
    どんな年になっても、先を考えることができるようになりたいものです。

  • できることなら記憶の底にしまっておきたい人生の黒歴史、それとどう向き合うか。「人から見た自分」が気になる度合いは人それぞれ、全然気にならない人もいれば自意識過剰な人もいる。この主人公は、若干自意識過剰気味かな?と感じた。絵でも文章でも音楽でも、表現者は表現した時点で役目を終えており、全ては受け取る側の問題だと、私は思うから。同じものを見ても感じ方は千差万別で正解不正解はない。だから表現者は受け手側の反応などうかがわず思うように表現したらいい。それが後に黒歴史になる可能性なんていちいち考えていたらまともな表現などできないだろう。
    ただ、この主人公は大衆に迎合しないと豪語しながら一方で他人に感化されやすい面もある。自己批判と自己正当化のせめぎ合い、その巧みな描き方にこうして人間はできてるんだなあ、と感心させられた。そしてこれが『日の名残り』へと昇華するのね、なるほど。
    自分が画家なら何を描くだろう、と考えるのは結構楽しい。

  • 第二次世界大戦前後の日本・東京を舞台に、画家の人生を描いた物語。
    「遠い山並みの光」とよく似た雰囲気を感じました。

    戦争によって激変した時代の犠牲者とも言える画家たち。
    主人公は戦前に新しい形の芸術とその社会への影響を求め、師を「浮世の画家」と呼び、袂を分けた画家。そして戦中は名声を得ただけでなく、反体制的な画家仲間や弟子を期せずして困難な立場にも追い込んだ経験を持つ。
    その彼が、戦後は一転して社会から浮いた存在となる。かつての弟子だった画家の中には、彼を批判するものもいるけれど、なにより鮮明になるのは、結局彼は一介の画家に過ぎず、戦争前後の罪を問われるほどの立場でもなく、忘れられている、ということ。そのことが主人公である「わたし」から直接は語られないものの、随所に描かれる。まさに「浮世の画家」となった姿。

    主人公の口からは「信念」という言葉がよく出てくるも、何を示すのかわからないまま、時代に流された人々が容易にそういった言葉を使って、己を奮い立たせていたんだろうな、と思います。
    とても狭い世界に生き、世間を知らぬまま、その世界の名声にすがる、寂しい画家の淡々とした哀しい小説。

  • Kazuo Ishiguro の処世作。終戦直後、今までの価値観が 180度転換するようなFloating World に翻弄された老画家を描く。…のだが、ストーリーはこの老人の一人称で語られるため、翻弄されたと思い込んでいるのは実は本人のみという読みがどこまでも否定できない構造になっている。そして、この「信用できない語り手」の構造はもちろん、『日の名残り』のスティーブンスに継がっていくものだ。(英国側から見たときの)異国趣味と、いかにも英国らしいsarcasm を共に備えた佳作。

  •  戦時中名をなした画家小野だったが、戦後の今は屋敷にこもり隠遁生活をしている。戦中と戦後で、正反対に変わった価値観が、彼を翻弄する。

     人は、なにを生きる拠り所とするのだろう。
     そして、自分のそれが他者からは何も価値がないと、やんわりと否定された時、自我を保っていかれるものなのだろうか。

     ここに描かれているのは、鬱々とした日々をすごす一人の老人の姿だ。
     自分で語る自画像と、彼を取り巻く人が思っている彼の姿とが、まるでぶれた写真のように居心地悪く曖昧に、こちらに提示されてくる。
     カズオ・イシグロは、読者をだます作家だ。
     「日々の名残り」でも「私を離さないで」でも、こちらが見ていたと感じていた風景を、一瞬で虚無に返してしまった。
     だから、ちょっと構えて読んでいたのに…。

     人には生きる理由が、やはり必要なのだ。
     たとえそれが身勝手な、ある意味妄想だといえるようなものだとしても。そして、特に「過去」しかない老人にとっては、過去を生きる理由にするしかないのだ。
     小野の語る過去は、常に偽善的だ。
     だが、だれがそれを責めることができるだろう。彼はそうやって自分を、「浮世の画家」が描く、行燈の光と闇の薄ぼんやんリとした境に自分を置くことで結局は、過去にも今にも上手く生きることができなくなっているのだから。

     彼の哀しみは、戦争によって「リアル」を失ったことなのだろう。そして、彼はそれに気付いていない。
     だから、物語は閉塞したままで終わるしかない。

  • 戦前と戦後を生きた画家。
    戦争の前後で世間の価値観や己の評価が180度逆転し、そのことを諦めのように認めつつもやるせない思いを抱えている老人。
    現在の話をしながら過去の回想が入り乱れる。謙虚で誠実な自省の裏に潜んだ自尊心、自己欺瞞。
    手触りはノスタルジィ。どこか空虚で寂しい望郷の念。

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著者プロフィール

カズオ・イシグロ
1954年11月8日、長崎県長崎市生まれ。5歳のときに父の仕事の関係で日本を離れて帰化、現在は日系イギリス人としてロンドンに住む(日本語は聴き取ることはある程度可能だが、ほとんど話すことができない)。
ケント大学卒業後、イースト・アングリア大学大学院創作学科に進学。批評家・作家のマルカム・ブラッドリの指導を受ける。
1982年のデビュー作『遠い山なみの光』で王立文学協会賞を、1986年『浮世の画家』でウィットブレッド賞、1989年『日の名残り』でブッカー賞を受賞し、これが代表作に挙げられる。映画化もされたもう一つの代表作、2005年『わたしを離さないで』は、Time誌において文学史上のオールタイムベスト100に選ばれ、日本では「キノベス!」1位を受賞。2015年発行の『忘れられた巨人』が最新作。
2017年、ノーベル文学賞を受賞。受賞理由は、「偉大な感情の力をもつ諸小説作において、世界と繋がっているわたしたちの感覚が幻想的なものでしかないという、その奥底を明らかにした」。

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