恥辱 (ハヤカワepi文庫)

  • 早川書房 (2007年7月1日発売)
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レビュー : 79
  • Amazon.co.jp (348ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200427

感想・レビュー・書評

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  • レビューはこちらに書きました。
    https://www.yoiyoru.org/entry/2018/07/26/000000

  • 自分の人生とは、求める生き方とは何なのか。
    一般的な幸福というものは誰にでも当てはまるわけではない。
    デヴィッド・ラウリーの、インテリで独りよがりな思考。それが引き起こす不幸というべき転落の人生も、
    彼の娘が頑なに守る田舎の土地も、
    彼女自身でなければ、なぜそれが人生のすべてに屈辱を加えても守りたいものなのか、分からない。

  • なんと感想を書いてよいのやら。
    主人公も娘も、救いようがなく転落していく。

    痛々しい。救いがあるわけではない。
    でも、現実はこういう痛々しい、話が溢れているということだろうか。

    痛々しいからこそのカタルシスもなく。
    ただただ、そう、恥辱。
    (太宰治の「恥ずかしい人生を送ってきました」のような、そうそうそうなの!というような、ちょっと嬉しくなる痛々しさではなくて、あぁつらい…というかんじの痛々しさというか)

    それでも、読んでしまうし、淡々とした文章はきれいだ。
    いいレモネード飲んだなというような、すっきりしながらも苦味と生の味わいがある。

    主人公の転落っぷりもすごいが、自分が女性だからか、娘のルーシーの意地のようなものに、読んでいて辛くなってしまった。

    「ええ 、わたしの辿っている道は間違いかもしれない 。でも 、いま農園を去ったら 、負けたまま終わってしまう 。その敗北感を死ぬまで味わうことになる 。」

    父への手紙にこう書いた彼女は、敗北感を味わいたくないと、自らの運命を受け入れる。

    とても個人的な話、ある種の犯罪にあっても、元々の自分の夢ににしがみついて、その土地を離れなかったときの自分。
    同じことを言っていた。

    異邦人として、女性として、敗北したくなかった。で、結局病んだ。
    その土地に固執なんてしなくて、よかったのにね。

    そんなこんなもあって、どっと疲れる読後感だった。笑

  • 読みやすくはあるが、扱う主題は難しい。
    都会で教授をしている二度の離婚経験のあるおじさんが、性欲を抑えきれず教え子に手を出して、職を追われ、田舎の娘のところに行き着き、そこから展開していくストーリー。
    南アフリカの白人と黒人の間のわだかまり、治安の悪さ、強姦などといった時代背景がある中、娘とは事件後でも仲良くはあるが、意見は全く食い違う。

    相手の意見を聞かずに、自分の意見を通し、辞職に追い込まれ、その後娘に自分の意見を通そうとする。かつて物を教える立場であったように。

    一度だけでは本の一部分しか理解には及ばない自分の読解力の無さを嘆きたくなるが、ブッカー賞受賞作なだけあり、読み応えはある。

    男たちに強姦され、妊娠までさせられるのに、警察などには一切言わず、その土地に溶け込もうとする娘。覚悟の上で、生き抜こうとする様は、か弱い人私にとってこの父親のように、理解に苦しむ。

    人生何が起こるかわからない。そして何を起こすかわからない。ただ、現実を受け止め、何を教訓としていくか。難しい……。

  • 「ひとを教えにきた人間がそれは手厳しい教訓を得て、逆に学びにきた人間がなにひとつ学んでいない、ということ。これが教師という職業の特徴だ」(P.10)

    これは本作の主人公デヴィッド・ラウリーが、冒頭、学生たちを前にして漏らす慨嘆である。ところがこの作品は、このデヴィッドの嘆かわしい前提を出発地点に据えながら、聖デヴィッドの個人的な受難(これは、比喩的な意味ではない)の道のりを通じて、誰が教える者で誰が教わる者なのかという立場を反転させながらこの前提を大いに覆していく。…のであるが、最終的には再びこのテーゼへと回帰していく模様が、巧まざるがごとき名人芸のような構想となっている。

    まず読者は、教えを垂れている人間こそが、自分にとって不都合な真実から目をそむけ続けて教壇に立ち続けているという事実を、まざまざと突きつけられる。つまり、黒人集団の偉大なる受難の歴史を前にして、デヴィッドはほんとうは教える者ではなく、教わる者だったのだ。彼を生贄とし、物語は、教訓をいつも目の当りにしながら教訓として受け止めてこなかったのは、デヴィッドの属する罪深きエスニックグループだったことを示唆している。

    ケープタウンの大学でロマン派期のイギリス詩を講じる頭脳明晰なデヴィッドが、英文学史に燦然と輝く巨匠たちにこの問題の答えを求めても、またどれほど無様に手痛い教訓を受け続けても、デヴィッド本人はなにひとつ学ぶことができない。ソクラテスは奇しくも「正しく知を求める人は、正に死ぬことを練習している」(死の訓練。『パイドン』)と説いたが、学びのプロセスに英雄的な要素など欠片もない。むしろ、いままさに老境へ足を踏み入れようとし、頑冥さが自己保存の同義となってしまっているデヴィッドにとって、学びとはむしろ恐ろしく恥辱にまみれた体験なのだということを、読者は痛々しく実感する。

    圧巻は16章。強盗被害に遭ったデヴィッドはごく常識的に警察に届け出ようとするが、娘のルーシーに敢然として拒まれる。そこで彼は黒人の友人ペトラスにかけあって自分の希望を実現しようと、次のように呼びかける。

    「押しこみ強盗にいつ襲われるかわからないようでは」毎日の最低限の生活も経営していくことができない。「連中が大手をふって歩いているようでは。わかるだろう !」(P.213)

    だがこの国でいつも押しこみ強盗まがいのことをし続けてきたのは白人たちであり、そんな事実もわきまえずにこの理屈を黒人に諄々と説くことが、笑っちゃうような矛盾なのだ。だからペトラスは沈黙によって、デヴィッドに彼自身の質問を撥ね返す。「強盗やレイピストが裁きを受けることもなく大手を振って歩いているこの国で、おれたちはいったいどうやって生きていけばいいのか?わからないのか!」

    自らの矛盾をなかなか受け入れられないデヴィッドだが、世代間のギャップもあってルーシーは白人の偽善をよく理解しており、父や父祖たちの過失に対する罰をその身に一手に引き受けようとする。ルーシーが下すそんな選択的世界において、デヴィッドの居場所などあるはずがない。まさにNo country for old men.

    こうして地に墜ちていこうとするデヴィッドだが、彼がようやく悟ろうとするラストシーンはため息なしには読み通せない。けっきょく、土地の者たちは400年前の白人の入植前と何ら変わらない理屈を貫き通そうとする。娘は、自らの人生をそのルールに捧げんとする。白人たちははるばる海を越えて教えを授けに来てやったつもりだったが、何ひとつ変わりはしない。そのことを娘や醜女、学のない黒人、果ては犬畜生から痛切に教えられることで、ようやくデヴィッドは自らの「分」を知る。ふと振り返れば、デヴィッドの命がけの闘争は死への準備にほかならなかったことに、この歩みは彼が傷つきやすい人間としてもう一度生き直すための幽かな希望としての自殺にすぎなかったのだということに、読者は痛切に気づかされる。

    『恥辱』は掛け値なしの傑作です。この本を読み終わったとき、きっとあなたも心から快哉を叫んでいることでしょう。

  •  都会的で女遊びが好きな大学教授が、社会的に転落した結果、新しい愛と多様性の受容を達成する話。後半に娘の家で強盗に襲われてからの話は深くて切れ味があって良いのだが、前半の転落するところまでのスケベ親父っぷりがひどくて引いた。
     全体としては、人生も後半になって大きな内心の変化に至るまでの主人公の心情がとてもよく書かれているし、訳文も端正さと切れ味がよく文句なし。

  • 主人公のじじいが最初からかなりキモくて、やってることは買春だったり強姦だったりするのに「やれやれ」「おやおや」みたいなテンションを保つので混乱する。大物ポエマーで、妄想ひとつをとってもくどいしキモい。キモい。とにかくキモい。主人公の存在自体が盛大な皮肉で、あとあと受ける辱めこそが核なんだろうと思っていたのに、主人公ずっと楽しそう…。

  • 当たり前な感想だけれど、人間を描いた作品だと思う。

    変わりたくない人間が変わりゆく状況によって徐々に変わる様には悲哀を感じる。運命なんて大それたものじゃなくても、人間は周囲の変化に影響を受け、翻弄されるわけだ。

    深く味わうこともできるだろうけど、浅く読んでも十分面白い。
    時を経て読み返したいと思える。


    翻訳については、好みが分かれる気がする。
    鴻巣氏があとがきに記すように原文は「淡々と」しているし、それにあわせてあっさり訳そうとしているのも伝わってくる。ただ体言止めが多かったり、代名詞のheを「彼」とするのにこだわっていたり、普通なら過去形で訳すところを終始現在形で訳しているところなどは、訳の個性が前面に出ている。人によっては「これは翻訳小説なのだ」と意識してしまうかもしれない。
    確かに、クッツェーが日本人だった場合、こうした文体を駆使することも否定できないが、彼自身の飾らない簡潔な文体から、それは想像できない。
    ちなみに個人的には嫌いではない。
    特に主人公ラウリー教授の台詞・言い回し方などは、さもあらんと思わされる。

  • 途中、苦しい、と思う。
    そして、苦しくても最後まで読み続けなければ、読み続けたい、と強く思う。
    救いがないというのでは、ない。
    むしろ読了した私の中に残るのは、微かだが確かな希望だ。
    主人公デヴィッドが当初感じていたような希望とは違うはずのものだが。 この小説に終始引きずり込まれた自分は、幸せだ。

  • 肉欲に溺れて道を外れた男。
    職を追われ、縋った娘との暮らしを突如襲う厄災。
    あらゆるものを破壊され、なんら救いのない生の中で男が見出すものは。

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著者プロフィール

1940年、南アフリカのケープタウン生まれ。ケープタウン大学で文学と数学の学位を取得。65年に奨学金を得てテキサス大学オースティン校へ。ベケットの初期作品の文体研究で博士号取得。68年からニューヨーク州立大学で教壇に立つが、永住ヴィザがおりず、71年に南アフリカへ帰国。74年、最初の小説『ダスクランド』出版。以降、ケープタウン大学で教えながら小説・批評を次々と発表する。83年『マイケル・K』と99年『恥辱』で英国のブッカー賞を2回受けた。2002年、大学退職後、オーストラリアのアデレードに移住。03年、ノーベル文学賞受賞。小説作品は上記の他に『石の女』『夷狄を待ちながら』『敵あるいはフォー』『鉄の時代』『ペテルブルグの文豪』『エリザベス・コステロ』『遅い男』『サマータイム、青年時代、少年時代』『イエスの幼子時代』など。

「2019年 『続・世界文学論集』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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