一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

制作 : 高橋和久 
  • 早川書房
4.09
  • (743)
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本棚登録 : 7278
レビュー : 740
  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200533

作品紹介・あらすじ

"ビッグ・ブラザー"率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。

感想・レビュー・書評

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  • 本書はディストピア小説の古典的傑作として名高く、いま巷に出回っているディストピア小説の基礎を作った様な小説だ。ジョージ・オーウェルのもう一冊の傑作『動物農場』と同じように、本書も人々が全体主義社会に飲み込まれる様子が描かれる。
    『動物農場』が、俯瞰的に全体主義社会が成立していく様子を描いているとすれば、本書は一個人の視点を通じて、全体主義社会で暮らす人々の生活をミクロ的に見た小説である。

    本書は『動物農場』よりも、かなり難解で深く、そして救いが無い…。
    ここまで小説を読んでいて不快になったのは久しぶりだが、絶対に目をそらしてはいけないテーマだ。間違いなく全人類が一度は読むべき本のなかの1冊である。

    1950年代に起こった核戦争後の世界を舞台とした「1984年」。世界は南北アメリカ、旧イギリスを中心とした国『オセアニア』、イギリス以外の旧ヨーロッパが統合された『ユーラシア』、そして旧日本、旧中国が中心となった『イースタシア』の3つの超大国に支配され、その3国は常に三つ巴で戦争を繰り返している。
    作品の舞台となる『オセアニア』のロンドンでは『ビッグ・ブラザー』と呼ばれる指導者により、市民はあらゆる生活に統制が加えられ『思考警察』と呼ばれる警察に反体制的な市民が摘発されている状況だ。
    市民は常に『テレスクリーン』と呼ばれるテレビとインターネットを合体させたような機器により監視され、町なかでは盗聴マイクによって行動が当局によって把握されている。

    ロンドンに住む39歳の主人公ウィンストン・スミスは、当局の命令により歴史記録の改ざん作業を仕事として行っていたが、記録が絶えず改竄されるため、真実の歴史を確かめるすべは無い。
    ウィンストンは『ビッグ・ブラザー』の支配する国家に疑問を抱いていたが、そこへ体制に従順なふりをしながらウィンストンと同じく反体制的な考えを持つ若き女性ジュリアに出会い、恋に落ちた二人は当局の監視をかいくぐりながら逢瀬を重ねる。しかし、彼らの行動は『思考警察』の知るところとなり、二人は逮捕され、想像を絶する過酷な尋問を受けることとなるのだった…。

    まず、この本を読んでいて、この小説が本当に1949年に書かれたのか?というのが最初に浮かんだ疑問だ。それほどこの本が描く未来は、現在の世界のありようを精確に描写している。
    本書は全体主義の恐怖を描いているが、オーウェルが想像した市民を監視する体制作りが非常にリアル。
    『テレスクリーン』は今で言えばまさに「監視カメラ」であり「スマートフォン」だ。『テレスクリーン』と「盗聴マイク」により、市民の頭の中の考え方を含め、市民の全ての行動が当局の監視下にある。

    当局は、市民を統制するため『歴史』を改ざんしていく。『オセアニア』の歴史は、常時当局の都合の良いように改ざんされている。例えば、指導者的な幹部が裏切り行為を行った場合、その当人が逮捕されるには当然のこと、過去の名簿やリスト、歴史上関わった事項からも全てその名前が削除される。
    つまり、最初から存在しなかったこととなるのだ。
    市民は自分の記憶と違っていることでも、それを確かめる方法がない。もし、自分でメモをとって、それを隠し持っていれば反逆者として逮捕されるし、そもそも、紙とペンが簡単に手に入らない。

    次は『子供の教育』だ。子供は物心がつくと、すぐに『学校』に入れられ、徹底的に体制的教育を受ける。自分の親が反体制的な思想を持っていると判断すれば、嬉々として親を当局に密告し、その子供は『英雄』として表彰されるのだ。

    そして最後は『拷問』だ。この本を読んで、どんな屈強な人間でもこのような拷問に耐えられる人間はいないだろうとあらためて思った。
    苦痛と恐怖を繰り返し与え、相手の肉体と精神を壊していく。これが何日も、何週間も、何か月も絶え間なく繰り返されれば、人間は信じている事実や愛する者のことなど簡単に忘れ、裏切ることができる。そこには友情も、親子の情も、恋愛感情も、愛すらも何の意味も持たない。
    誰もが「何でもする!何でもするから!もう止めてくれ!もう殺してくれ!」と恥も外聞もなく、地べたに這いつくばって、泣き叫ぶことになる。

    人間は弱い。
    弱いからこそ、絶対にやってはいけないことがある。

    ナチスのホロコースト、スターリン政権下での大粛正、カンボジア・ポルポト政権下での大虐殺など、数を上げればきりが無いが、人類は数多くの過ちを犯してきた。いずれの虐殺も支配体制が被支配体制の人間を虫けらのように殺している。
    この『1984年』には『大虐殺に至るであろうという世界』の成立過程が詳細に描かれる。この本どおりのことをやれば、誰でもこのディストピア社会で描かれる支配体制側の人間になれるかもしれない。

    だからこそ我々は『究極の反面教師』としてこの本を読み、自分たちの世界の行く末を真剣に考えなくてはならないのだ。
    そういった意味において本書が「全人類必読の書」であることは間違いない。

  • いつか読まなくてはと思いつつ積読が続き、トランプ政権に移った直後、本書が米国で飛ぶように売れたという奇怪なニュースをきっかけに読むことに。そして読後もなかなかレビューが書けなかった本の一つです。

    <ビック・ブラザー>率いる党が国民を24時間支配・監視している世界。反対派にあたる危険分子をもとから断ち(蒸発=非存在)、完璧な「全体主義」を強いる言論統制社会の果てを描き出したディストピア作品です。綿密に練られた世界観と、オーウェルによって造られた造語の数々がとても印象的です。多少の明るい未来を最後に見出せるかと思えば、ささやかな光すら葬り去り幕を下ろします。その衝撃たるや。

    1949年に刊行された本書は約70年経っても色褪せることがありません。刊行以降、映画や文学作品をはじめ社会に幅広い影響を与えてきましたが、2017年に再び大きくクローズアップされたことを考えると、『一九八四年』の世界は国内外ともにまさに現在進行形とも言えそうです。
    読んでいる先から“統制される側”となり後半に至っては逃げ場のない閉塞感で息が詰まりそうになりますが、読んでおいて良かったと素直に感じた作品です。新訳版の読みやすさに助けられました。

    ================
    ・党のスローガン:「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」
    ・「2足す2は5である」

  • ニュースピークの描写に危機感を抱いた。

    ニュースピークというものがこの本の中にでてくる。
    それは作中の主人公が属する帝国における新しい国語のことだ。
    抽象的な多義語がメインで、ある言葉の反対の意味を表現する時には「非~」という接頭語を使う。
    つまり「ヤバい」「かわいい」「わかんない」といった多義的な言葉で常に会話する言語なのだ。
    そのような言語がもたらす弊害は帝国にとって福音となる。
    国家の基本理念は存続と暴力だ。
    しかし、反体制的な行動を国民にとられ、それが多数派になるとソ連の崩壊のように文明が崩壊してしまう。
    そこで思考を制限するために国家がニュースピークを動員して国民の思考を制御しようとしてくる。

    曖昧な多義語では具体的な思考ができない。
    文脈や空気によってその曖昧な意味はなんとなく理解できるが、具体的ではない。
    真理は具体的なのだ。
    具体的でない行為には意味がない。

    現状の日本では、曖昧な多義語が跋扈しているので「ああ、これはニュースピークだな」と少し焦燥感を抱いている。

  • 不朽の名作。
    いままで読んでなかったのを後悔したくらい。

    <ビック・ブラザー>が支配する全体主義国オセアニア。
    主人公のウィンストン・スミスは真理省で働く党員。歴史の改竄が主な仕事だが、体制に不満を抱いている。気持ちや感情を表わすことは重罪であるが秘密裏に日記をつけ始める。それほどに世の中に疑問をもっている。
    ある日、同じ省で働く黒髪で美貌のジュリアと知り合い、ってところから怒涛の展開。

    読んでみて実感することは小説として面白いということ。体制に監視されながら二人が密会する展開はスリルがあってドラマ性がある。一緒に働く同僚たちの人物造形もうまい。それぞれの細かい個性や性格、家族構成がその後の生死を分けてしまう理不尽さ。各家に設置されたテレスクリーンが常時国民を監視している息苦しさとそこから逃れようと創意工夫する主人公の姿は面白い。

    ウィンストンの日々の仕事に厭きる描写もいい。歴史改竄に対する疑問や、何の意義や意味があるのかさえ分からない日々の業務。それに追われる虚しさと倦怠感。多くの人の莫大なエネルギーと徒労の積み重ねのなかで支えられる体制。働くウィンストンを通して巨大システムの歯車として動かざるを得ない無数の人の悲しさを表しているようだ。

    書かれた時代とタイミングのせいか、ジョージ・オーウェルの「1984年」は共産主義国家ソ連を批判した「反共の書」の象徴として評価され読み継がれてきた。だから小難しい内容かと長らく敬遠してきた。だが、そうした時代や政治性を割り引いて読むと、この作品が豊かで多様な読みができる優れた普遍的なテーマを扱った小説であることがわかる。

    歴史の改竄作業は歴史認識論争で騒がしい国々を思い浮かべる。過去を改変できるとは現在を正当化すること。すなわち未来をも支配できる。まさにいま世界中の国家が欲していることだ。
    ニュースピークはあらゆる国で社会の至るところにある。意味の分からない略語や職場で使われる隠語などは最たる例だろう。語彙が少ないほどものを考えなくて済む。小説では人民支配のためだが、現代では効率とスピードのためと言い換えることができる。
    「自由は隷従なり」。「戦争は平和である」。矛盾を乗り越えようとする弊害と魅力を孕んだ二重思考も今日的である。国だけでなく個々人もこんな考え方は生活のなかで誰もが日々行っている。ブラック企業の求人募集などもいい例である。本音と建て前を使い分けることが大人の嗜みと言っているうちに、僕らは何が本音か分からなくなり、いつしか自由すら忘れている。


    こんな台詞が出てくる。「自由とは二足す二が四であると言える自由である」。一番いろんなことを考えた。胸に響いた。
    2+2は本当に4か。含まれる意味や比喩は深く重い。多用な読みが可能だ。
    式を政治的言説に置き換えて考えてみるといい。
    答えを知っていても言わないときがある。時と場合によっては2+2は5にも9にもなる。そもそも普段から声高に答えているのか。実は2+2が4と言えないほどの状況で暮らしているのに自分は自由だと勘違いしているだけかもしれない。

    と、つらつらとレビューを書きたくなるが、こんな素人のレビューより、読み終わったら巻末のトマス・ピンチョンの素晴らしい解説を読んでほしい。これだけで充分です。

  • なんだこれ!めちゃ面白かった、まさに、何となく思っていたことが体系だって書かれている。時代遅れな議論だと思う人もいるのだろうか、そんなわけはない、あらゆることには二面性があるし、国家レベルでなくても権力を握ることを目的とした目に見えないものというのは私たちを常に掌握しようとしている。それが何か、前の時代ほどはっきりと悪者が見えなくなったために、より私たちはあえいでいる。

    幸福とは国家の作り出した概念であり、思考停止そのものであると思っていた。幸福の対極が自由であること、まさにそうだなあと思う。多くの人が、自由ではなく幸福を求める。権力はそこにつけこむ。

    理解力が進むほど、現実から解離していき、迷妄が深まるというのも、ああまさにそうだと思った。直視できなくなるのだ、現実を、だからこそ、無意味だと思うものに対しても積極的に(ほっておくと消極的になってしまうから)関わらないといけない。正気が保てなくなる。正気とは、現実に隷従することに他ならない、だからこそ私たちには二重思考が求められる。現実からは逃れられないけれども、そこにないものを求めたいときには。

    おもしろかったなー。ハラハラした、心の裏切りの大きさというのは、その人の心にあるいちばん大事なものを壊してしまうほどであるというのも、面白かった。そこらへん、うまく現実との二重思考を身につけてやってかなければいけないな、と思う。狂人にも、廃人にもなりたくないのだから。

    多くの人が、死にたくないと思いながらも後ろからある日突然撃ち抜かれたいとも思っている。突然死んでしまうかもしれないことは恐怖であるが、同時に希望でもある。これだけの内容を、最後まで書ききってくれた著者に感謝です。とてもおもしろかった。確かに受け取りました。

  • 戦争は平和
    自由は隷従
    無知は力

    詭弁のようなこの文言が、読み終わったいま痛いほど分かる。丹念な拷問の効果は、主人公スミスにとっても、読んでいる私にとっても十分にあったと言える。
    もちろん世界はここに書かれたようにはなってはいない。それでも国家に、会社に、家族に、友人に、私たちは多かれ少なかれ縛られ、何かを強いられている。それが本人にとって不愉快なものか心地よいものかということは、全く問題ではないのだ。
    問題なのは、私がどこまで人間であれるのか、あるいはそうあったのか。考えてみると甚だ心もとない。

  • 第二次世界大戦後、数年後に書いたとは思えないほど、リアルで実際に起こりそうなこと。国に監視され、自由に物が言えない、動けない、ただただ洗脳されていく世界がどんなにひとの尊厳を奪い恐ろしいことかを問い続けている。そんな状況下で、これはおかしい、思い続け、理性を保ち続けられるかの試練にも見えた。最初からこんな世界で生まれたこどもたちにはそれは当たり前で、親がおかしなことをしたら密告するように教育される。
    自国がなんて平和であるかを改めて感じるが、こういう世界ができてしまわないか。。ただふあんだ。

  • ブンガク
    かかった時間 こまぎれなのでわからない

    星3なのは、読み切れていないと思うから。
    解説にもあったように、まだ自分の頭では、わかりやすい「動物農場」のインパクトが強くて、おそらくそれを超える作品だということはわかっていつつ、咀嚼して飲み込むことができていない感がある。

    第1部はまさに現代社会だなと思う。ニュースピーク、テレスクリーン、真理省、のあたりは特に。また、昨今ツイッターとかで指摘している人もいるが、ワイドショーなんかを考えると、「2分間憎悪」さえ、オーウェルは予見している、ようだ。
    第2部、ウィンストンが行動に出る。前から気づいていた自分の内面の違和感に従い、ジュリアと逢瀬を重ね、革命を語る。
    第3部、愛情省のほんとうの仕事。しかし、少しここはリアリティに欠ける。読み切れていないのか、ちょっと作品としてこの部分は弱いのか。

    「動物農場」でも思ったが、オーウェルは、思考(=行為)とことばの関係をものすごく強調して描いている。附録の「ニュースピークの諸原理」なんかは、まさにそれだ。また、これも解説にあるように、私たちは「二重思考」にとらわれていて、しかも都合よく、それに気づいていない。

    最近ようやく、小説家はありうべき人間や世界を描くのだ、と自覚して読むようになった。書かれていることは起こりうること、もしくは起こっていることで、私たちは人間であることの可能性も危険性も、さまざまな形で知る必要があるのだなあ、と思う。ブンガクの価値ってそういうこと?みたいな。

  • 小説とは関係ないとこでも時々引用される、かのディストピア本をついに読むことができました。
    読み終えてまず思ったのは、自由に物が言える世界のなんと素晴らしいことか!
    まあ現実にはかの近隣の大国みたいに、あれに近い監視を実現している国もありますが、その辺の話は他の方にお任せします。

    読んで特に強く印象に残ったのは以下の点でした。

    ・心の自由の大切さ
    本書を全部を読んだあと、個人が物事を自由に考えてよい事のかけがえのなさを感じました。
    と言いつつ、自分がその自由を活用できているかは少し自信がありません。
    抑圧はされていないにしても、思想や嗜好は、自分がよく触れる物、また考え方の似た知り合いに影響されていることは否定できません(本編とはやや脱線した話ですが)
    少なくとも、自分と相容れない考え方に対して頭ごなしに否定したり、排除するような人間にならないよう、気をつけたいですね。

    ・二重思考(Doublethink)
    本書のキーワード。最初は単なる言葉遊び、表面的な事かと思ってましたが、本を読むとそんな表面的な物でも無いことに気づきます。
    それにしても無茶苦茶すぎて有り得ない、はずなのに納得もできる凄い単語です。
    現実世界で生活していても時折遭遇する、または自分の中にもあるこの状況、よく一言で表現したなーーと感動しました。
    答えは無いですが、人間は多かれ少なかれこういう思考状態になるってことに向き合わされたように感じました。

  • どこからか金木犀の香が漂ってくる
    ある秋の日に読み始めた

    書かれている状況が
    あまりにつらくて、何度か本を閉じて
    ちょっと(頭の中の)口直しの為にかなり軽い目のエッセイを読んでいたりした

    そして
    読み終えた日は
    空一面に秋のうろこ雲が広がっている
    それこそ ニッポンの秋日和の休日だった

    もし 冬の寒々とした氷雨の降りしきる日に
    読んでいたら ちょっと辛さを通り越して
    手が出なかったかもしれない

    「平和省は戦争を遂行し
     真理省は噓をつき
     愛情省は党の脅威になりそうな人物を片っ端から拷問し殺していく」

    読めば読むほど
    こんな国を作りたがっている
    現代のこの国の未来の話ではないか
    と思ってしまった

    ディストピアは想像の産物として
    妄想のままであって欲しい

  •  政府に不都合な記録全てをそのつど書き換え歴史を思うがままに改竄し、党員同士の監視により不穏分子は可能性の段階から排除していく管理社会。最小限度まで語彙を削減し言語表現を破壊することで人間の思考範囲を狭めようとする試みに加え、対立項を(矛盾していると知りながら)両方とも受け入れる思考法の醸成など、恐ろしい政策てんこ盛り。
     
     それらの目的はみな人間の思考(精神)をいかに支配するかに集約されており、偽りの服従さえも許さない、権力欲のおぞましさを描いている。
     そしてなお不気味なのは、独裁者自体はただのシンボルに過ぎず、こうした残酷な社会を延々と機能させ続けているのは他ならぬ国民なのだというところにある。
     
     恐怖と憎悪がいかに容易く人間を壊し、空っぽになるまでぐちゃぐちゃに壊された精神がどのように洗脳を受け入れていくかを描くことで、人間の「精神」に対する無根拠の信頼に懐疑を投げかけているところがえぐい。
     
     いっぽう解説を読んでなるほどと思ったのは、附録の「ニュースピークの諸原理」がオールドスピークで、未来の視点から書かれているところに、道徳的秩序の回復と救済がほのめかされているということ。決して道徳的な人間性を否定するだけでなく、簡単に歪んでしまう人間性を踏まえた上で、私たちにできることはあるのだという希望を残しておくところに、この作品の本質はあるのだと思いたい。

  • 冒頭から圧倒された。凄まじい圧迫感。ひたすら怖かった。
    言語を作り変えるという発想も、過去の書き換えも、全て狂気に溢れている。
    ついでに、もう、大きな栗の木の下でを平常心では聞けない。

    最後に解説を読んで、少しだけ救いを感じた。


    …読後に同僚と話して、ある意味我々の職場も一緒じゃん、ということに気づき愕然。

  • 気持ち悪い物語であった。なぜ気持ち悪いかというと、悲惨な状況なように物語の世界は描かれているが、実際の今の世界も見た目は綺麗に繕っていても、同じようなものなのではないかと思えてしまうからだ。現在の日本は、自由な発言ができる。間違ったことも言える。しかし物語の世界では間違ったことを言う、または考えるだけで警察に捕まり拷問を受ける。いまの日本ではあり得ない状況であるが、私の考えていることは、本当に私の意思で発想されたものなのか、誰かの思想操作により作り出されたものなのかは分からない。メディアの影響力は強く、なんらかの思想、利益誘導に基づいた情報であるため鵜呑みにしてはいけないということは言うまでもないが、誰にでも信じている情報はある。しかしそれがたとえ一次情報であったとしても、本当に真実なのだろうか。主人公は最後、自分は間違っている。しかし間違っていたい、という発言をしているのは、どういう意味で言ったのだろうか。

  • 「自分が間違っていることはわかっている。だが間違っている人間でいたいのだ」ー 435ページ

    この敗北に向かっても突き進まなければいけないという心性はなんなのだろう。既定路線を敢えて変えてしまおうということは割合狂気的なことというか、まあこういうのを説明する便利な概念が「運命」ということになるのだろうか。特に本書の場合、「運命」に立ち向かおうとすること自体が受け入れられないのだから、結末はこうなってしかるべきということになっているのがうまい。

    受け入れられない運命と受け入れてしまうという運命、そのどちらも採用したくない時に人は第三極の存在を常に願うものであるということの表現が特に秀逸。

  • 読み終えた瞬間、「このようなことは実際に起こりうるのではないか、あるいはすでに起こりつつあるのでは?」という恐怖に包まれた。
    思考を監視されていないと、一体どうして言えようか?自由な発言が透明度を保ったまま伝わっているだろうか?
    インターネットでもテレビでも、たまたま見つけた誰かの言葉を取り上げて騒いでは次の日にはすでにほとんどすっかり忘れていたり、衝撃的な情報が共有された次の瞬間にデマだと判明するような世界の「記録」が改変されていないとどうして言えるだろう?

    背骨に氷を流し込まれたような、悪夢の果てにようやく目が覚めたときのようだった。
    これから何度でも読み直すだろう

  • 古い訳で読んだとき、さっぱり分からなくて最後まで読めなかった。
    ジョージ・オーウェルのこの作品は、「多くの人が話題にはするけど、実は、誰も読んでいない」と言われているらしい。なるほど。

    その後、新しい訳が出ているのを見つけたので、去年、2012年に突然また読んでみたくなり、図書館で新しい訳を予約して取り寄せてみた。新しい訳のほうが字も大きくて見やすかった。
    さらにマンガ版も取り寄せて借りて、じっくり読んでみた。ネットの解説も併せて読んだ。
    ネット上に、無料の全訳が載ってて、それも参照した。
    そこまでしてでも、読破する価値のある本だ。

    読み終わってみれば、そんなに複雑なストーリーではなかった。
    ただ、1972年の訳だと、文字が小さいし、表現が古くて、読みにくかっただけだったのかも。

    オーウェルが想像したのは悪夢のような近未来だけど、現実に起こった出来事は、それ以上にひどかった。
    スターリンや、文化大革命や、北朝鮮や、アメリカのイラク侵略戦争・・・。

    アメリカ合衆国を中心に構築された軍事目的の通信傍受システムのエシュロン、スノーデンが暴露したNSAの実態、グーグルやフェイスブックやアマゾン、安倍バカボンボンと公明党が強行した特定秘密保護法、Nシステム、コンビニや街角やマンションやあらゆる場所に設置された監視カメラ、国民総背番号制・・・・。

    1984年よりも現在の方が、ビッグ・ブラザーは遥かに巨大化している。
    生まれてから死ぬまで、24時間、いつでもどこでも

    ビッグブラザーは君を監視している。

  • 最近、世の中を「ジョージ・オーウェルの 1984 に描かれたような」と評する言質を耳にすることが多いのだが、当の 1984 (Nineteen Eighty-Four)を読んだことがなかったので、読んでみた。そこに描かれるのは、「寡頭制集産主義」と呼ばれる恐怖と憎悪と基礎にした階級社会である。

    この殺伐としたストーリーには陰々滅々とさせられるが、「附録 ニュースピークの諸原理」を前向きに捕えたトマス・ピンチョンの解説で多少は救われる。またピンチョンは「批評家連中が面白がってやる、おそらく一分かそこらのちょっとした気晴らしにしかならないゲーム」と自嘲しながらも、やはり現代において全体主義、精神の腐敗、権力中毒が着実に進行している(つまり、「ジョージ・オーウェルの 1984に描かれたような」という形容が当たっている)ことを指摘する。たとえば、Internet もピンチョンによれば(あるいは Nicholas Carr によれば)「奇妙な髭を蓄えた前世紀の古風な圧制者が夢見るほかなかった大規模な社会コントロールを約束」するものだ。Google が「党中枢」になることを決意した場合、我々はプロールにならざるを得ないのであろうか。

  • 村上春樹の1Q84のタイトルの元ネタ本だな~という認識で
    読み始めた本。

    人間と社会に対する、徹底した冷徹な視点に背筋が寒くなりました。

    拷問と再教育を受ける主人公が、既に物質への支配は完全である
    という党幹部のオブライエンに反駁すると、オブライエンは言う
    「われわれは精神を支配しているから、物質を支配しているのだ。
    現実は頭蓋の内部にある。君も徐々に分かってくるだろう、ウィンストン。
    われわれに出来ないことは何一つない。不可視にだってなれるし、
    空中遊泳も出来る・・・われわれが自然界の法則を作っているのだ」
    徹底的に思考と精神を支配、管理することによる権力の維持。

    50年以上前に構想された思考管理の方法は、徹底した監視と拷問、洗脳による再教育ですが、現代ではどうでしょうか。
    心理学的な分析に基づくマーケティング、意図的に作出された貧困、
    合法的に追いつめられた精神と、1つしかないと思わせられた将来
    などなど。方法は違えど、同様のことは様々に行われているようです。

  • ようやく読み終えたが、苦しかった…。とにかく絶望しかなく、読んでいて楽しい本ではない。1944年ごろイギリスの作家ジョージ・オーウェルによって書かれた、ディストピア小説である。舞台は当然1984年で、実際に1984年にはイギリスで本書がベストセラーになったという。オーウェルの本を読むのは「動物農場」に続いて2作目。
    「党」で働く主人公は、記録を党に都合よく書き換えるのが仕事である。党に働く人たちは行動を常に監視されていて、思想はとことんコントロールされていく。現実は人の記憶の中にのみ存在するという考え方から、人々の思想だけでなく、記憶までも変えていく。反対勢力は、これでもかと拷問にかけられ、うその証言をするよう導かれていくうちに、実際にそう考えるようになっていく。読みながら、お隣の某国を思い浮かべたが、どうやら当初は違う国がイメージされていたようだ。現在でも違う形態で同じような思想統制は行われている。
    よく筋が通っていて分かりやすく説明されているのにもかかわらず、内容は難しい。戦争終結直前の時代は、戦勝国ですらここまで暗い世の中だったのか?
    解説もすばらしく、消化不良の箇所が理解しやすくなる。

  • 身悶えするほどのバッドエンド。
    オブライエンの圧倒的強者感と、彼の前ではどうしようもないという絶望感に、ラスト100ページはひたすら打ちひしがれた。
    小説の皮をかぶった作者の強烈なメッセージを感じ、20世紀世界文学の最高傑作と言われるのも納得。
    後味悪めなのに、どこかスッキリと物語が終わっている。救いはないのに丸く収まってる気がする。二重思考ですかね、これは。
    とにもかくにも、いずれもう一度読んでおきたいし、その時の自分の受け止め方がどうであるか、今から楽しみだ。

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著者プロフィール

1903-50 インド・ベンガル生まれ。インド高等文官である父は、アヘンの栽培と販売に従事していた。1歳のときにイギリスに帰国。18歳で今度はビルマに渡る。37年、スペイン内戦に義勇兵として参加。その体験を基に『カタロニア讃歌』を記す。45年『動物農場』を発表。その後、全体主義的ディストピアの世界を描いた『1984年』の執筆に取り掛かる。50年、ロンドンにて死去。

「2018年 『アニマル・ファーム』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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1984 (Japanese Edition) by George Orwell(2009-07-05) ペーパーバック 1984 (Japanese Edition) by George Orwell(2009-07-05) ジョージ・オーウェル

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