一九八四年[新訳版] (ハヤカワepi文庫)

  • 早川書房
4.10
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本棚登録 : 9097
レビュー : 856
  • Amazon.co.jp ・本 (512ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151200533

作品紹介・あらすじ

"ビッグ・ブラザー"率いる党が支配する全体主義的近未来。ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改竄が仕事だった。彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。ある時、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…。二十世紀世界文学の最高傑作が新訳版で登場。

感想・レビュー・書評

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  • じゃあ
    「手ぇ洗ったの!?」
    「なんでここに置くの!?」
    「テーブル拭いたの!?」
    「部屋の温度が上がってる何故エアコンの温度を下げない?」
    「なんでそこで本を読むの!?」
    「その本、古本じゃないでしょうね!?」
    「部屋の温度下げ過ぎじゃないの?」
    「図書館の本は汚いから家では読まないで!」
    「それは家用のブックカバー?洗濯したやつ?」
    「なんでそんなとこに居るの!?」

    など、家でゴロゴロしてるだけで
    「宇宙船を管理するAI」なのか
    「私を監視するビッグブラザー」なのか
    妻から監視され、注意され続ける生活
    (上記の様なAIなら「警告メッセージ」
    いや…AIじゃないか
    AIなら自動で部屋の温度調節するか…)に
    慣れ始めている俺と

    何が違うと言うのか…
    俺は…(オレハ…オレハ…)

  • 本書はディストピア小説の古典的傑作として名高く、いま巷に出回っているディストピア小説の基礎を作った様な小説だ。ジョージ・オーウェルのもう一冊の傑作『動物農場』と同じように、本書も人々が全体主義社会に飲み込まれる様子が描かれる。
    『動物農場』が、俯瞰的に全体主義社会が成立していく様子を描いているとすれば、本書は一個人の視点を通じて、全体主義社会で暮らす人々の生活をミクロ的に見た小説である。

    本書は『動物農場』よりも、かなり難解で深く、そして救いが無い…。
    ここまで小説を読んでいて不快になったのは久しぶりだが、絶対に目をそらしてはいけないテーマだ。間違いなく全人類が一度は読むべき本のなかの1冊である。

    1950年代に起こった核戦争後の世界を舞台とした「1984年」。世界は南北アメリカ、旧イギリスを中心とした国『オセアニア』、イギリス以外の旧ヨーロッパが統合された『ユーラシア』、そして旧日本、旧中国が中心となった『イースタシア』の3つの超大国に支配され、その3国は常に三つ巴で戦争を繰り返している。
    作品の舞台となる『オセアニア』のロンドンでは『ビッグ・ブラザー』と呼ばれる指導者により、市民はあらゆる生活に統制が加えられ『思考警察』と呼ばれる警察に反体制的な市民が摘発されている状況だ。
    市民は常に『テレスクリーン』と呼ばれるテレビとインターネットを合体させたような機器により監視され、町なかでは盗聴マイクによって行動が当局によって把握されている。

    ロンドンに住む39歳の主人公ウィンストン・スミスは、当局の命令により歴史記録の改ざん作業を仕事として行っていたが、記録が絶えず改竄されるため、真実の歴史を確かめるすべは無い。
    ウィンストンは『ビッグ・ブラザー』の支配する国家に疑問を抱いていたが、そこへ体制に従順なふりをしながらウィンストンと同じく反体制的な考えを持つ若き女性ジュリアに出会い、恋に落ちた二人は当局の監視をかいくぐりながら逢瀬を重ねる。しかし、彼らの行動は『思考警察』の知るところとなり、二人は逮捕され、想像を絶する過酷な尋問を受けることとなるのだった…。

    まず、この本を読んでいて、この小説が本当に1949年に書かれたのか?というのが最初に浮かんだ疑問だ。それほどこの本が描く未来は、現在の世界のありようを精確に描写している。
    本書は全体主義の恐怖を描いているが、オーウェルが想像した市民を監視する体制作りが非常にリアル。
    『テレスクリーン』は今で言えばまさに「監視カメラ」であり「スマートフォン」だ。『テレスクリーン』と「盗聴マイク」により、市民の頭の中の考え方を含め、市民の全ての行動が当局の監視下にある。

    当局は、市民を統制するため『歴史』を改ざんしていく。『オセアニア』の歴史は、常時当局の都合の良いように改ざんされている。例えば、指導者的な幹部が裏切り行為を行った場合、その当人が逮捕されるには当然のこと、過去の名簿やリスト、歴史上関わった事項からも全てその名前が削除される。
    つまり、最初から存在しなかったこととなるのだ。
    市民は自分の記憶と違っていることでも、それを確かめる方法がない。もし、自分でメモをとって、それを隠し持っていれば反逆者として逮捕されるし、そもそも、紙とペンが簡単に手に入らない。

    次は『子供の教育』だ。子供は物心がつくと、すぐに『学校』に入れられ、徹底的に体制的教育を受ける。自分の親が反体制的な思想を持っていると判断すれば、嬉々として親を当局に密告し、その子供は『英雄』として表彰されるのだ。

    そして最後は『拷問』だ。この本を読んで、どんな屈強な人間でもこのような拷問に耐えられる人間はいないだろうとあらためて思った。
    苦痛と恐怖を繰り返し与え、相手の肉体と精神を壊していく。これが何日も、何週間も、何か月も絶え間なく繰り返されれば、人間は信じている事実や愛する者のことなど簡単に忘れ、裏切ることができる。そこには友情も、親子の情も、恋愛感情も、愛すらも何の意味も持たない。
    誰もが「何でもする!何でもするから!もう止めてくれ!もう殺してくれ!」と恥も外聞もなく、地べたに這いつくばって、泣き叫ぶことになる。

    人間は弱い。
    弱いからこそ、絶対にやってはいけないことがある。

    ナチスのホロコースト、スターリン政権下での大粛正、カンボジア・ポルポト政権下での大虐殺など、数を上げればきりが無いが、人類は数多くの過ちを犯してきた。いずれの虐殺も支配体制が被支配体制の人間を虫けらのように殺している。
    この『1984年』には『大虐殺に至るであろうという世界』の成立過程が詳細に描かれる。この本どおりのことをやれば、誰でもこのディストピア社会で描かれる支配体制側の人間になれるかもしれない。

    だからこそ我々は『究極の反面教師』としてこの本を読み、自分たちの世界の行く末を真剣に考えなくてはならないのだ。
    そういった意味において本書が「全人類必読の書」であることは間違いない。

  • ◯間違いのない名作。海外文学でよく感じる、表現のクドさというか濃厚さがあり、読みにくい部分があるが、それを抜きにしても面白い。構成も簡潔で分かりやすい。
    ◯一読しての感想では、当時の共産主義に対する痛烈な風刺として書かれたのではないかと考えてしまう。
    ◯しかし、二重思考という発想、視点によって、あらゆる統治機構が陥る権力志向への批判であると気がつく。資本主義でも共産主義でも、どれも行き過ぎると同じ世界を現出するであろう。権力者自体への批判の書であると感じる。
    ◯付録が何を意味しているのか、初読では言語による人間の思考を支配することで、世界そのものを支配する、言葉で生きている小説家の発想が見られて面白い、と思っていたが、それ以上に、舞台装置としての付録であったことに解説で気がつかされる。最後まで読んで、思想的にも小説としてもとてもお面白かった。

  • ハクスリー『すばらしい新世界』と並ぶディストピア小説の名著。この2冊が私の中でずーっと課題図書として存在し続けていたのですが(笑、この度やっとこさ読了しました。
    ※コロナ禍でガラガラの電車での通勤時にも一応持って行っていたんですが、深夜の中央線で本著を取り出して読むというのがどうにも笑えない振る舞いに思え、読了までエラい時間がかかってしまいました。。

    同列に並べられがちな2冊を敢えて比較してしまうと、テクノロジー主体の「(一見)ワクワクする未来の世界!」という描写は『すばらしい新世界』が圧倒的にカラフルで、物語としても比較的読みやすいです。
    『一九八四年』が描いているのは最初から「ワクワクしない未来の世界」で、政治が主体。のべっとしたグレーで描かれ、だからこそ、鬱屈した日常とジュリアとの恋とのコントラストがハッキリするというのはあります。
    前者の世界は500年先、後者は40年先、とスコープが違うからこうなる、と言えるのかもしれませんが、オーウェルは「個人の権利の制限を続けると、40年後にこんな世界になってしまうぞ」と、戦時下に私権が一部制限された当時の民主主義世界に対して警鐘を鳴らしたかったのかなぁと思いました。
    ただ、個人的には書かれた時代が15年ほど早い『すばらしい新世界』の方がインパクトは大きかったです。

    さて、本著の『あの本』で言及されているニュースピークの思考様式である「犯罪中止」「黒白」「二重思考」の3つ。
    程度の差こそあれ、私、会社でこの3つ実践してますね。。
    思考停止の結果かと言われるとそうではないつもりなのですが、プラグマティズム的に早く仕事を終わらせたいと思うと、これらも上手く使った方が良いんですよね。
    「この話は〇〇さんにはタブーだから最初からやめとこ」とか、「こういう風に誤解してるみたいだけどそれでも良いからそうだって言っとこうか」とか、本音と建前とか。
    決して誠実ではない振る舞いかもしれませんが、現実と効率に対しては誠実であるとは思うんですよね。ただ、会社でこの振る舞いが許されるんだとして、国家にはこの振る舞いを許さないロジックが思いつかないのです。
    仮に、現実世界で近未来にディストピアが具現化するとして、その主体は国家なのか、巨大企業なのか。と、なんだか唐突感のある妄想をしてしまいました。

    読む前は「ディストピアってダメだね!こうならないよう気をつけようね!」的な感想を持つだろうなぁと思っていたのですが、読了した今は正直どういう感想を持つべきなのか、どうにも纏まりません。本著を甘く見ていたと言うべきか。
    時間をかけて、日々考え続けないといけないことなのかもしれません。

  • いつか読まなくてはと思いつつ積読が続き、トランプ政権に移った直後、本書が米国で飛ぶように売れたという奇怪なニュースをきっかけに読むことに。そして読後もなかなかレビューが書けなかった本の一つです。

    <ビック・ブラザー>率いる党が国民を24時間支配・監視している世界。反対派にあたる危険分子をもとから断ち(蒸発=非存在)、完璧な「全体主義」を強いる言論統制社会の果てを描き出したディストピア作品です。綿密に練られた世界観と、オーウェルによって造られた造語の数々がとても印象的です。多少の明るい未来を最後に見出せるかと思えば、ささやかな光すら葬り去り幕を下ろします。その衝撃たるや。

    1949年に刊行された本書は約70年経っても色褪せることがありません。刊行以降、映画や文学作品をはじめ社会に幅広い影響を与えてきましたが、2017年に再び大きくクローズアップされたことを考えると、『一九八四年』の世界は国内外ともにまさに現在進行形とも言えそうです。
    読んでいる先から“統制される側”となり後半に至っては逃げ場のない閉塞感で息が詰まりそうになりますが、読んでおいて良かったと素直に感じた作品です。新訳版の読みやすさに助けられました。

    ================
    ・党のスローガン:「戦争は平和である」「自由は屈従である」「無知は力である」
    ・「2足す2は5である」

  • ビッグ・ブラザー、思考警察、101号室、そして二重思考。物語の枠を超えて、社会的な意味を持つようになったこれらの用語は本書から生まれた。そのせいか、読んでいないのに読んだような気さえしてしまい、気になりつつも中々手が出ないでいた。
    帯の惹句にもあるように、本書で描かれる極端な監視社会を今の時代になぞらえて読む人がほとんどだと思う。アメリカではトランプのオルタナティブファクト報道を機に本書が再注目されているというし、安倍政権の公文書破棄やら記録の改竄やらを見ると、思わず唸らずを得ない。とはいえ、本書は1949年に1984年という「未来」を描いたものだ。今はその「未来」もすでに遠い過去になっている。似ている似ていないはあまり意味のあることではないように思う。それよりも、オーウェルが描写した人間の思考過程の方が不気味なほどにリアルで恐ろしい。

  • ニュースピークの描写に危機感を抱いた。

    ニュースピークというものがこの本の中にでてくる。
    それは作中の主人公が属する帝国における新しい国語のことだ。
    抽象的な多義語がメインで、ある言葉の反対の意味を表現する時には「非~」という接頭語を使う。
    つまり「ヤバい」「かわいい」「わかんない」といった多義的な言葉で常に会話する言語なのだ。
    そのような言語がもたらす弊害は帝国にとって福音となる。
    国家の基本理念は存続と暴力だ。
    しかし、反体制的な行動を国民にとられ、それが多数派になるとソ連の崩壊のように文明が崩壊してしまう。
    そこで思考を制限するために国家がニュースピークを動員して国民の思考を制御しようとしてくる。

    曖昧な多義語では具体的な思考ができない。
    文脈や空気によってその曖昧な意味はなんとなく理解できるが、具体的ではない。
    真理は具体的なのだ。
    具体的でない行為には意味がない。

    現状の日本では、曖昧な多義語が跋扈しているので「ああ、これはニュースピークだな」と少し焦燥感を抱いている。

  • 不朽の名作。
    いままで読んでなかったのを後悔したくらい。

    <ビック・ブラザー>が支配する全体主義国オセアニア。
    主人公のウィンストン・スミスは真理省で働く党員。歴史の改竄が主な仕事だが、体制に不満を抱いている。気持ちや感情を表わすことは重罪であるが秘密裏に日記をつけ始める。それほどに世の中に疑問をもっている。
    ある日、同じ省で働く黒髪で美貌のジュリアと知り合い、ってところから怒涛の展開。

    読んでみて実感することは小説として面白いということ。体制に監視されながら二人が密会する展開はスリルがあってドラマ性がある。一緒に働く同僚たちの人物造形もうまい。それぞれの細かい個性や性格、家族構成がその後の生死を分けてしまう理不尽さ。各家に設置されたテレスクリーンが常時国民を監視している息苦しさとそこから逃れようと創意工夫する主人公の姿は面白い。

    ウィンストンの日々の仕事に厭きる描写もいい。歴史改竄に対する疑問や、何の意義や意味があるのかさえ分からない日々の業務。それに追われる虚しさと倦怠感。多くの人の莫大なエネルギーと徒労の積み重ねのなかで支えられる体制。働くウィンストンを通して巨大システムの歯車として動かざるを得ない無数の人の悲しさを表しているようだ。

    書かれた時代とタイミングのせいか、ジョージ・オーウェルの「1984年」は共産主義国家ソ連を批判した「反共の書」の象徴として評価され読み継がれてきた。だから小難しい内容かと長らく敬遠してきた。だが、そうした時代や政治性を割り引いて読むと、この作品が豊かで多様な読みができる優れた普遍的なテーマを扱った小説であることがわかる。

    歴史の改竄作業は歴史認識論争で騒がしい国々を思い浮かべる。過去を改変できるとは現在を正当化すること。すなわち未来をも支配できる。まさにいま世界中の国家が欲していることだ。
    ニュースピークはあらゆる国で社会の至るところにある。意味の分からない略語や職場で使われる隠語などは最たる例だろう。語彙が少ないほどものを考えなくて済む。小説では人民支配のためだが、現代では効率とスピードのためと言い換えることができる。
    「自由は隷従なり」。「戦争は平和である」。矛盾を乗り越えようとする弊害と魅力を孕んだ二重思考も今日的である。国だけでなく個々人もこんな考え方は生活のなかで誰もが日々行っている。ブラック企業の求人募集などもいい例である。本音と建て前を使い分けることが大人の嗜みと言っているうちに、僕らは何が本音か分からなくなり、いつしか自由すら忘れている。


    こんな台詞が出てくる。「自由とは二足す二が四であると言える自由である」。一番いろんなことを考えた。胸に響いた。
    2+2は本当に4か。含まれる意味や比喩は深く重い。多用な読みが可能だ。
    式を政治的言説に置き換えて考えてみるといい。
    答えを知っていても言わないときがある。時と場合によっては2+2は5にも9にもなる。そもそも普段から声高に答えているのか。実は2+2が4と言えないほどの状況で暮らしているのに自分は自由だと勘違いしているだけかもしれない。

    と、つらつらとレビューを書きたくなるが、こんな素人のレビューより、読み終わったら巻末のトマス・ピンチョンの素晴らしい解説を読んでほしい。これだけで充分です。

  • ようやく読み終えた!
    全体主義体制と圧倒的指導者、パノプティコンを思わせる徹底した監視社会、それに言語支配による記憶の改造と歴史修正主義、内側の統制のための最低限の戦争状態、それによる人々の興奮状態の持続など、設定の奥深さと完全な世界観に圧倒された。
    4時間映画の超大作を見た気分。

    政治学的に重要な要素がこれでもかと盛り込まれていて
    近代から冷戦崩壊までの世界と照らし合わせてもだいぶ勉強になりそうな本。

    恋愛感情や性的欲求など一見政治統制と関連付かない部分まで事細かに描いているが、それが結果として自分で自己の感情や記憶をコントロールしてしまう際の材料となるところなど、
    人間の本来の恐怖心がどのように作られどのように自己を苦しめるのか、またそのコントロールの仕方などを熟知していて作者は真理を全て知っているかのよう。

    ハンセン病やユダヤ人についての記述もあり知識量に脱帽した。

  • なんだこれ!めちゃ面白かった、まさに、何となく思っていたことが体系だって書かれている。時代遅れな議論だと思う人もいるのだろうか、そんなわけはない、あらゆることには二面性があるし、国家レベルでなくても権力を握ることを目的とした目に見えないものというのは私たちを常に掌握しようとしている。それが何か、前の時代ほどはっきりと悪者が見えなくなったために、より私たちはあえいでいる。

    幸福とは国家の作り出した概念であり、思考停止そのものであると思っていた。幸福の対極が自由であること、まさにそうだなあと思う。多くの人が、自由ではなく幸福を求める。権力はそこにつけこむ。

    理解力が進むほど、現実から解離していき、迷妄が深まるというのも、ああまさにそうだと思った。直視できなくなるのだ、現実を、だからこそ、無意味だと思うものに対しても積極的に(ほっておくと消極的になってしまうから)関わらないといけない。正気が保てなくなる。正気とは、現実に隷従することに他ならない、だからこそ私たちには二重思考が求められる。現実からは逃れられないけれども、そこにないものを求めたいときには。

    おもしろかったなー。ハラハラした、心の裏切りの大きさというのは、その人の心にあるいちばん大事なものを壊してしまうほどであるというのも、面白かった。そこらへん、うまく現実との二重思考を身につけてやってかなければいけないな、と思う。狂人にも、廃人にもなりたくないのだから。

    多くの人が、死にたくないと思いながらも後ろからある日突然撃ち抜かれたいとも思っている。突然死んでしまうかもしれないことは恐怖であるが、同時に希望でもある。これだけの内容を、最後まで書ききってくれた著者に感謝です。とてもおもしろかった。確かに受け取りました。

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著者プロフィール

ジョージ・オーウェル

本名エリック・アーサー・ブレア。一九〇三年インドに生まれ、イギリスで育つ。イートン校を卒業後、警察官としてビルマで勤務。三三年からルポルタージュ『パリ・ロンドン放浪記』、小説『ビルマの日々』を発表。三六年にはスペイン内乱の国際義勇軍に参加し、三八年『カタロニア賛歌』を出版。第二次世界大戦中はBBC放送に勤務、「トリビューン」誌の編集主任を務めた。四五年に小説『動物農場』がベストセラーとなる、四六年に移り住んだスコットランドのジュラ島で未来小説『一九八四』を書き上げ、五〇年に肺結核のため死去。



小野寺健

一九三一年生まれ。東京大学文学部英文学科卒業。同大学院修士課程修了。英文学者、翻訳家、横浜市立大学名誉教授。G・オーウェル、A・ブルックナー、D・H・ロレンス、P・バック、E・M・フォースター、カズオ・イシグロ、E・ブロンテなど多数の翻訳を手がけるほか、著書に『イギリス的人生』『心にのこる言葉』『英国的体験』などがある。二〇一八年死去。

「2020年 『一杯のおいしい紅茶』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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