すばらしい新世界〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

  • 早川書房 (2017年1月7日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (384ページ) / ISBN・EAN: 9784151200861

作品紹介・あらすじ

最終戦争終結後、暴力が排除された安定至上主義世界が形成された……。『一九八四年』と並ぶディストピア小説の古典にして『ハーモニー』の原点

感想・レビュー・書評

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  • 本書は、ジョージ・オーウェルの『1984年』と並び称されるディストピア小説の傑作。
    『1984年』が完全な監視社会による管理体制型ディストピアだとすれば、本書『素晴らしき新世界』で描かれる社会は、人間から根本的な「自由」という概念を奪い、誰もが与えられた『幸福』を享受するユートピア型のディストピアである。

    本書のあらすじであるが、西暦2049年に最終戦争が勃発し、その戦争が終結した後、生き残った人間は世界から暴力をなくすため、安定至上主義の世界を作り上げた。
    人間は受精卵の段階から培養ビンの中で『製造』され、階級ごとに体格も知能も決定される。人間は『製造』されて60歳ぐらいで死ぬまで、老いることはなく若いままで過ごす。『製造』された人間は、睡眠時教育で自らの「階級」と「環境」に全く疑問を持たないように教え込まれ、人々はその生活に完全に満足している。不快な気分になったときは、「ソーマ」と呼ばれる薬で「楽しい気分」になり、人々は常に安定した精神状態である。人間は『製造』されるので、家族はなく、結婚は否定され、その代わりにフリーセックスが推奨され、人々は常に一緒に過ごして孤独を感じることはない。
    誰もが幸せに感じる世界。まさに楽園であり「素晴らしい世界」なのである。
    そこへ未開社会から来たジョンが引き起こす騒動により、この世界の矛盾点が明らかにされていく・・・というものだ。

    本書の舞台は、フォード紀元632年(西暦2540年)の世界。
    まずもってなによりも本書が約90年前である1932年(昭和7年)に発表されたということが驚愕すべき事実だ。1932年といえばまだ第二次世界大戦も始まっておらず、世界恐慌まっただなかという暗黒の時代である。ちなみに日本でいえば海軍の若手将校らが犬養首相を暗殺した5.15事件が起こった年でもある。

    そのような時代に書かれたこのSF小説であるが、この小説に出てくる未来の道具や技術が、まさにあと数年で実用化されるようなものばかりなのは驚きだ。
    いくつか例に挙げてみよう。
    本書の中で主要な交通手段となっている乗り物はヘリタクシー(ヘリコプタータクシー)だ。この世界では空中を飛ぶ車のような乗り物が世界中を飛び回っている。
    これはもう現代の言葉で言えば「人が乗れるドローン」だろう。ちなみにヘリコプターが実用化されたのは1950年代になってからであり、まだ飛行機が実用化されたばかりの時代にドローンが飛び交う未来を予想していたハクスリーの想像力はすさまじい。

    続いて、人間の『製造』である。
    この時代の人間は、両親の生殖行為によって生まれることはない。
    人間はあらかじめ定められた将来の職業のために、その職場での適応性のみを優先した人間が遺伝子操作によって知能や体形まで制御され試験管のなかで作り出されるのだ。
    例えば、工場で単純労働をする人間は、それに対してのみ必要とされる最低限の知能と体形だけを有した人間が作られる。この技術はまさに現在のクローン技術と遺伝子操作技術を駆使したいわゆる「デザイナーズベイビー」だろう。

    さらに、この社会の人間たちが娯楽として楽しむのは、その感触すら楽しむことができる「フィーリー」と呼ばれる感覚映画だ。
    今でいえば4DXとヴァーチャルリアリティを合体させた映画のようなものだろうか。

    そして、劇中で彼らが常用する「ソーマ」と呼ばれる気分を高揚させる薬は、今でいえば『覚せい剤』や『MDMA』などのような『ドラッグ』だ。

    ざっと挙げただけだが、これらの技術はもうすでに実用化されているか、もうすぐ技術的に可能なものばかりだ。
    人が乗れるドローンは2040年代にはもう実用化されているだろうから、ハクスリーが設定したこの時代(西暦2540年)よりも、技術の面だけでいえば今の社会はハクスリーが想像していたよりも500年以上早く達成できるということになる。

    技術的な面もさることながら、本書で描かれるのは人間の心のありようだ。
    物質的に恵まれており、不安を感じることもない。だれもが自分の任務・仕事に誇りを持ち、幸せを感じている。

    まさにこれこそが人間が目指す『理想の社会』なのではないだろうか…。
    しかし、何かが間違っている。
    でも、どこが間違っているのかはわからない。

    この『素晴らしき新世界』で描かれる社会は、夭逝の天才SF作家・伊藤計劃の描いた『ハーモニー』で最終的に到達した世界や『コンビニ人間』芥川賞を受賞した村田沙耶香が描いたセックスがなくなり子供がみな人工授精で生まれる世界を描いた『消滅世界』の世界をさらに進化させた社会と言って良いだろう。そして生まれながらに『シビュラシステム』と呼ばれるシステムにより人間の能力が数値化され、その適性により職業や配偶者をも、予めあてがってもらえるという社会を描いた傑作アニメ『PSYCHO-PASS』的な社会であるとも言えるかもしれない。

    人間はどこへ向かうのだろうか。
    ハクスリーが描いた世界は実現することは可能だろう。
    『誰もが幸せになる社会』その響きは非常に甘美ではあるが、そこに本当の幸せはあるのだろうか……。

  • 90年前に書かれたとは思えないくらい、現代に通じるディストピア小説。

    家族という概念や、複雑な人間関係、労働の苦痛が無く、大多数の人が同類同士で繋がり、毎日快楽を求めて過ごす「リア充」な生活。見た目が老いることもない。人々は生まれながらにしてランク分けされ、ほぼ同じ階級の者同士だけで繋がっている。お互いに他の階級には興味を示さないので、階級間のトラブルが発生しない。

    このような世界では、深く悩み思考する必要が無いので、文学や芸術は存在しない。人生について考えることも無い。ゆえに、社会に対して生きづらさを感じて一度疑問を抱いてしまうと、世の中にとって不都合な存在になってしまう。主要人物のバーナードは、周囲と比べてコンプレックスを持ちつつ、自分の信念を持ち、日々葛藤している。自分らしく生きることのできる環境を選べないことは残酷である。

    現代社会の目指す「豊かさ」とは何なのか。モノカルチャーを徹底的に浸透させ、同一の消費行動を促す傾向が強まり、その行き着く先が本作品で描かれている世界なのかも知れない。

  • すべてを破壊した「九年戦争」の終結後、暴力を排除し、共生・個性・安定をスローガンとする文明社会が形成された。その社会において人間は、受精卵の段階から瓶の中で育てられる。徹底的な発育環境の調整や条件づけによって、5つの階級に区別・管理されていた。安定した幸福で満たされたこの世界で、孤独を感じていたバーナードは、保護区で野人・ジョンに出会い──。1932年に刊行されたディストピア小説の源流にして不朽の名作。

    SF小説の表紙で真っ黒もロマンがあるけど、真っ白でシンプルな表紙もカッコいいよね!そんな動機から手に取った一冊。ジョージ・オーウェル『一九八四年』と並ぶディストピア文学の祖だという。個人的にはこれぞディストピアが『一九八四年』で、ユートピアの極致(外から見ればディストピアにも映る)を描いたのが『すばらしい新世界』なのかなと感じた。

    幸福が主観的なものだとすれば、この文明社会で生まれた人々はおそらく幸せなのだ。受精卵から運命を決められ、それに順応するように条件づけが施されているため、自分の階級に疑問を感じない。全員に必然的な社会的役割が与えられている。仕事の後はソーマという薬物でリフレッシュするもよし、フリーな恋愛行為をするもよし、五感に訴える感覚映画を観るもよし。しかも60歳で亡くなるまでは老いない上に、死への恐怖まで条件づけで取り除いてくれているという。これぞ至れり尽くせりだ。そんな社会でも、バーナードのようなはみ出し者が現れると陰口を叩かれて、その孤独は癒されないというのが皮肉だった。

    生まれつきの低身長のために劣等感を抱えるバーナード。
    感情エンジニアとして有能すぎるがゆえに孤独と違和感を抱くヘルムホルツ。
    文明社会から事故で切り離された母が、保護区内で出産したひとりぼっちの青年ジョン。
    ジョンに恋するも、文明社会とは違う恋愛観によって拒絶されるレーニナ。

    物語の外から見れば、これは「幸福のため」という欺瞞で生まれる前から尊厳と選択を奪うディストピアで起きた悲劇だ。ただ、物語の中から見ると、ユートピアから逸脱した人間が直面した自由と幸福の等価交換のドラマでもある。ジョンの行動はあの文明社会では起こりえない自由意志の表明だったというのが切ない。それにしても、バーナードは主人公かなと思いきや、落ちぶれっぷりがもはや喜劇なんだよなあ。

    個人的には『一九八四年』の方が好みだった。どちらも終盤の追い込み方とか、真逆な価値観だけどちゃんと捻じ伏せてくる感じはすごい。


    p.92
    しかし、彼は善意の男だ。ある意味では、だからこそ始末が悪い。よかれと思ってすることが、悪意をもってすることと変わらない結果を招くことは往々にしてある。

    p.125
    「僕は自分自身でいたい。だめな僕のままでいい。いくら楽しくても、他人になるのはいやなんだ」(バーナード)

    p.217
    向こうがこちらを重要人物と見なしてくれるかぎり、社会秩序はいいものだった。しかし、成功によって和解したとはいえ、秩序を批判する権利を手放すことは拒否した。なぜなら、批判することによって自分は特別だという感覚が強くなり、大物になった気分が味わえるからだ。

    p.307
    「もちろんそうだろう。不幸に対する過剰補償と比較すると、現実のしあわせは、つねにずいぶんあさましく見える。それに、安定というのは、不安定にくらべて、人目を引くような派手さがない。満足した状態には、敢然と悲運に抗う華々しさもないし、誘惑との戦いとか、激情や疑惑が引き起こす破滅とかにつきものの、絵になる要素もない。しあわせは、そもそも壮大さとは無縁だからね」(ムスタファ・モンド)

  • ジョージ・オーウェルの「1984年」と並び、ディストピア小説の祖とされる「すばらしい新世界」。ついに読むことができた。

    発刊はなんと1932年。とても古い。とても古いのにそれを感じさせないのは、やはり大森望さんの訳が良いからかな。現代小説のようにさらさらと読めてしまう。文量も300ページほどなので、サクッと読めてしまうと思う。

    内容については、ディストピア小説であることは確かなのだけど、どこか明るい雰囲気がある。人口管理、階級社会、感情抑制…という設定にはおぞましいものを感じるけど、実際の登場人物はどこか現実味がない。ぽけーっとした人々。

    それもそのはず。個性と孤独と感情を排除した社会なので、人々は幸せであることを強制されている。それは条件付けとして、人間が「製造」される過程で深層心理に叩き込まれる。

    それは世界にフィットした人間にとっては恐ろしく完璧な状況。けれどやはり、はみ出してしまう人間がいる…というのがこの世界での良心部分かな。

    作中では2人の男性が、それぞれの苦悩を抱える。水準を上回ってしまった人間と、下回ってしまった人間。彼らは「精神過剰」に苦しむことになる。

    幸せを布教してくる世界にすっかり辟易している二人。そんな彼らにも救いがある。平均を逸脱した人間は、アイスランドのような辺境に左遷される、ということが世界統制官から明かされる。

    1984年のような完全無欠な管理社会ではないことが分かり、ホッと一息ついてしまう。と同時に、同作の異常性がより際立った。

    また、「保護区」が登場するあたりから、より夢中になって読めた。保護区では管理社会の外側として、「野人」が生活している。

    しかし、保護区にもアウトサイダーがいた。かつて保護区に迷い込み、そこで出産をした女性がいた。その息子は、自身のアイデンティティに深く悩むこととなる。

    そんな彼と、先述の、水準を下回った人間が出会う。違う世界のアウトサイダー同士が出会い、世界を揺らがすというのは好きなタイプのストーリー。

    野人の青年を連れ帰った彼は注目の的になる。初めて好意的な扱いを受けた彼は気を大きくする…というのは非常に人間臭い。ディストピアという設定で完結せずに、きちんと「物語」している。

    総評としては、面白く読めた。確実にディストピアの世界観だし、そこにたどり着くまでの社会実験が明かされるのも良い。だけど、暗くなりすぎないので寓話的に読めてしまう。一般読者にオススメしやすい本かな。

    (書評ブログの方も宜しくお願いします)
    https://www.everyday-book-reviews.com/entry/%E6%84%9F%E6%83%85%E3%81%AF%E6%AC%B2%E6%B1%82%E3%81%A8%E5%85%85%E8%B6%B3%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%90%88%E9%96%93%E3%81%AB_%E3%81%99%E3%81%B0%E3%82%89%E3%81%97%E3%81%84%E6%96%B0%E4%B8%96%E7%95%8C_%E3%82%AA

  • 成員がすべて、誕生の時点から階級、価値観をコントロールされている社会で、その価値観になじめない者たちがたどる不幸な運命を描いたディストピア小説。
    1932年の作品にもかかわらず、未来を描く設定に若干の古くささは感じさせるものの、古典として、教養としてではなく純粋に一つのSF娯楽作品として楽しめる。

    すべてがコントロールされており、孤独も苦痛も苦悩も寂しさもない世界。
    その世界の外にある「野人保護区域」と呼ばれる文明とは無縁の世界に住む、野人のジョン。

    ジョンがこの「新世界」に足を踏み入れた後にうかびあがる「文明」と「野蛮」のコントラストが小説の核を担う。
    仕事や生活、恋愛で生じる強すぎる感情は、健全な社会には危険因子となることから、それを徹底的に排除された世界。
    価値観がコントロールされているため、与えられたものですべて満たされていると感じ、それによって幸せを享受できる。
    一方その世界には、苦痛や苦悩が存在せず、ゆえに芸術が生まれず、また、必要以上の科学の発達もない。
    真理の追究などは意味のないものとされるが、野人のジョンは芸術を愛する心をもち、そこに幸せを見いだす。
    どちらが幸せなのか。

    その比較に結論は出るのか。それは実際に読んで確認してみて欲しい。
    まあわりとびっくりするから。

    冒頭にも書いたけど、もう90年以上前に書かれた小説にもかかわらず、全然違和感がない。
    これはなんなんだろうと考えるに、この作品が、現在まで脈々と続くディストピア的物語の礎となっているからなんだろうなと。
    いま私たちが持っているディストピア的物語のフレームがこの小説から生まれているから、すんなりと入ってくるのだろう。
    一部のブラックジョーク的な部分は時代を感じさせるけど、私はそれはそれでとても心地が良かった。

    SF者であれば必修科目である本作品。私はようやくこのタイミングで読めた。
    ほんと、古典だからと身構える必要はなく、読みやすいので手に取ってみて欲しい。
    そしてラスト、私と同じく「えっ」って言って欲しい。

  • ディストピア小説の源流と言われている本書。
    昔ジョージ・オーウェルの「1984年」を読みきれないまま手放した事があるのだが、
    何故か今、この手の作品も読めるような気がして。

    そしてマリモさんとのやり取りを思い出し、読み始める前に伊藤計劃の『ハーモニー』を確認する。
    あ!引用してる!
    こんなシーンがあったこと、すっかり忘れていた。
    『ハーモニー』を読んだ時の私は、『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリーの名をスルーしたんだろうか。
    今の私なら調べてると思うのだけど。
    「人間であることをやめたほうがいい」と言ったミァハは、『すばらしい新世界』でのジョン的な役割を担ってたんだね。

    それに"ザ・メイルストロム"!
    螺旋プロジェクトで吉田篤弘さんの『天使も怪物も眠る夜』に"メルシュトロオム"なる言葉が登場したのを、
    "ノルウェー周辺海域の強い潮流"だと、そのようにレビューにも記した。
    でもきっと間違いで、『ハーモニー』の"大災禍(ザ・メイルストロム)"を暗示したものだったのでは!?
    或いは強い潮流は渦を生むので、螺旋プロジェクト的には双方の意味を含んでいたのかな?

    だって『天使も怪物も眠る夜』でも本が燃やされたり、表面だけの穏やかな社会など、『華氏451度』や『すばらしい新世界』を思わせるような設定があったもの。
    ここまでディストピアを匂わせるなら、伊藤計劃『ハーモニー』の"ザ・メイルストロム"を意識したものとした方が正しそうだ。
    わーすっかり間違えてた。
    でも、ここで気付けたのが嬉しいな。

    また前置きが長くなった。
    本文に入りましょ。

    ここは中央ロンドン孵化条件づけセンター。
    フォード紀元632年。
    この新世界は、"暴力を排除し、共生・個性・安定"を偉大なる言葉とする清潔な社会"だ。

    『「いつもながらかわいいね」とつぶやいて、所長がぽんぽん尻を叩くと、レーニナは…』
    なんだこれ。
    早速セクハラ間違いなしの所長の行為。
    他にも、条件反射保育という名の幼児虐待。
    睡眠学習という名の刷り込み行為。
    本書のタイトルもチラチラと頭をかすめ、違和感と不快感が渦巻いた。
    でも、登場人物たちが口にするように、このすばらしい新世界では『みんながみんなのもの』。
    つまりは『人』も。
    だから先ほど所長にお尻を叩かれたレーニナも、みんなの人気者であり、今日はヘンリー、でも近々バーナードとも予定している。
    男たちも「レーニナは最高だよ」なんて会話を共有している。
    いかにも美しい社会が実現したかのように登場人物たちからこれらが語られる為、読んでいて違和感と不快感が。
    でも登場人物たちもまた、こうした保育と教育を受けて育ってきた者なのだから仕方がない。

    第3章の、別々の場で交わされる1つの台詞だけでパッパッと場面が入れ違い、互い違いに描かれるページは、見せ方が上手い!と思った。
    文章でありながら、映画を見ているようだった。
    ほぼト書きナシの登場人物たちの会話だけで、あちらの二人、こちらの二人、一方こちらは…と場面転換してゆくが、
    人間たちが交わす会話の中に、次第に「繕うより捨てよう。繕うより捨てよう」等と刷り込みのスローガンが混じってくる。
    それはまるでサブリミナル効果を狙うもののようで、
    私達読者が洗脳を目的とした音声付きの映像を見せられている(読まされている)かのようだった。
    勿論、その数ページで読み手である私が「繕うより捨てよう」の教えに取り込まれることは一切ない。
    けれど、あちこちの場面で、それらの教えを刷り込まれた登場人物たちが普通(あくまでも彼らにとっての普通)の日常会話として数々のスローガンを口にするものだから、この"すばらしい新世界"の異様さをじわじわ感じることとなる。

    助かった!等という意味合いでThank God !というフレーズがあるが、ここではThank Ford!と言われる。
    "偉大なる"どころではなく、ヘンリー・フォードは神なのだ。
    何がどうしてこうなったんだろう。
    ベルトコンベアで大量生産を可能にしたからということだろうか。
    この新世界では人もライン生産(瓶詰め)で、望み通りの型にはまった人間を生み出せる。
    その手法を作り出したフォード様!ということか?
    フォーディズムという言葉も実在するくらいだし。
    でも続く「うわ!」や「やれやれ」にまで「フォード」とルビがふられているのを目にしていくうち、
    作者が皮肉を込めたコメディタッチに描いているのかなと感じられて面白かった。
    シュールだわ。。。

    バーナードの"連帯のおつとめの日"のシーン。
    新世界では合法的なソーマというドラッグを、円陣を組んだ皆で用いて超越体験(というか最早乱交)をする。
    これは集団ヒステリーのようなものだよね。
    その様子は、まるでバリ島のケチャのようだった。

    「暴力を排除し、共生、個性、安定をスローガンとする清潔で文明的な世界」
    「あらゆる問題は消え、幸福が実現されたこの美しい世界」
    ここに描かれているのは、表面や規格ばかり平らにならされた、差別社会だ。
    でも人々はそれらに違和感を抱かない。
    何故なら、乳幼児の段階からあらゆる手段を用いて意識を植え付けられたから。
    決められた階級。
    その階級で良かったと思い、決められた職務をこなし、空いている時間は暇を持て余し、遊び、複数の異性と交わり、辛い時・不快な時はソーマを使って目を背ける。
    「きみと二人きりで歩こうよ」というバーナードの誘いに対し、「夜はずっと二人きりじゃない」とレーニナは答える。
    「二人きりで話がしたいんだよ」「話って?なんの話?」
    物語中、孤独なバーナードだけが違和感に似た疎外感を抱いており、すばらしい新世界からの出口を探そうと踠いているように感じる。
    バーナード本人は、「もっと自分だけの自分」になりたいと感じる自分自身を恐れている。
    だってバーナードも同じように、乳幼児の段階から枠組みされた一人だから。
    それにバーナードが正しき人なわけでもない。
    彼もまた、皮肉的であったり、普段の抑圧された孤独のせいからか、自慢気になったり見栄っ張りになったりもする。
    それでもこの物語の中では一番人間的だ。
    "前半は"そう思って読み進めていた。
    「じゃあ、時間はなんのためにあるの?」とは、間違った正解を信じてやまないレーニナの台詞だ。
    何も知らず、己が正しいと信じている者は、私も含めてこうなんだろうな。。。
    『過去(だった)も未来(つもり)も気鬱のもと。ソーマ1グラムで現在(いま)だけに』無駄に上手いスローガンも恐ろしい。
    考えることの放棄だ。
    (と言うか、一歩引いてながめれば滑稽なのだけど。)

    前半でたっぷりと、それこそ洗脳のようにこの世界を叩き込まれて、
    後半は怒涛の展開となる。
    この世界の様子を説明するのに作者がたっぷりページを費やしたのは、後半の展開が意味することを読者へ強く伝えるためだった。

    メキシコの保護区。
    これってメキシコ先住民に対する差別を描いてるよね。
    バーナードとレーニナは、ニューメキシコ州の保護区で野人のジョンとリンダ親子と出会う。
    けれど彼らは純粋な野人ではなかった。
    そのことで、保護区の中でも差別があった。
    どのコミュニティにおいても生まれてしまう差別感情って、なんなのだろう。。。

    そんなジョン達を条件付けセンターへ連れてきたものだから………。
    あぁ、人ってそういうものだよね…と思いながらも、バーナードの革新的な未来を願っていたんだけどな…ガッカリだ。
    そしてレーニナもまた…というか、レーニナはレーニナ故にレーニナらしい感情を抱く。

    うーん。。。
    人ってどこまでも愚かだな。
    そして本当は皆、孤独だ。

    あ、そうか。
    ジョンが四六時中シェイクスピアの台詞を引用するのは、
    「人は愚かな生き物だ」という事を、作者のオルダス・ハスクリーがジョンを使って投げ掛けているのかもしれない。
    無知なものは、まず自分が無知であるということを知らなくてはならない。
    無知の知だ。

    こうなる未来もあるのでは?というより、ここで描こうとされているものは、いつの時代の人間にも当てはまる事だった。
    つまりは、人はそういう意味では成長していないって事だよね。
    いつの世も、何処であっても、人は結局同じことを繰り返す。
    愚か者なのは私達だ。

    『僕は不幸になる権利を要求する』


    読みやすかった。
    ディストピア小説というと直ぐ思い浮かべるような息苦しい管理と暴力が、ここには無かった。
    表向きは皆、自由であり、笑顔であり、健全な共生関係にある。
    寧ろ奔放でさえある。
    それでいて、強烈なメッセージ性があって読み応えのある作品だった。


    【覚書】

    ●ヘルムホルツ
    感情技術者であって表向きは社交家。
    バーナードの友人の名前だが、もしかして"ヘルムホルツ共鳴"(ボトル等の口に息を吹きかけることで発生する共鳴音)のことだろうか?
    相手に共鳴(共感)することで、社交的にやっていけるだろうし。

    ●ムスタファ・モンド
    哲学的な指導者。
    検索すると、男性名として使われるが、ムスタファには「選ばれし者」という意味があるとの事。
    モンドは、肯定的に強調する時の形容詞らしい。

    ●フォード紀元
    フォードとはフォード・モーターの事。
    少し読み進めれば「われらがフォードさまの初代T型フォードが…」という台詞が現れる事でそうと分かる。
    フォード・モーターがT型フォードを発売したのが1908年。
    物語はフォード紀元632年とあるので、
    1908+632=西暦2540年 という時代設定だ。
    訳者あとがきを読んで知ったが、T型フォードはflivverの愛称で親しまれたけれど、その後すぐに「失敗」「安物」を意味するスラングになったらしい。
    (この小説、良くできてる!)

    ●フォードさま
    「…心理学的な問題を語る場合にかぎり、フォードさまはなぜかフロイトと自称されたので…」



    ●阿魏(アサフエテイダ)
    香辛料としてのアサフェティダは、複数の揮発性硫黄化合物を含みニンニクやドリアンに似た強烈な臭いがあるが、油で加熱すると強烈な臭いは消えて、タマネギのような風味となる


    ●8月25日にEテレのスイッチインタビュー特別編『坂本龍一✕福岡伸一(生物学者)』
    あくまでも自分にとってだが、「すばらしい新世界」を読み解く扉へも続いているような気がして、以下、お二人の会話を思わずメモる。

    ★マウスの遺伝子から1つの部品を取り除いても、何も起こらずマウスは元気に走り回っていた。
    1つ取り除いたとしても、他の遺伝子が補いあって穴を埋めるからだ。

    ★江戸時代の哲学者、三浦梅園
    "枯れ木に花咲くに驚くより、生木に花咲くに驚け"
    (枯れた木に花が咲いたら、誰もが驚くけれど、生きている木に花が咲くことこそ、驚くべきことではないか)

    ★生命現象は作ることよりも常に壊すことを続けている
    壊さなければ、新しく生まれない
    壊すことの重要性と積極的な意味を考える

    ★動的平衡  分解と合成
    「合成より分解を少し多めにしなければ、動きが止まってしまう」。
    しかしそれは、「=円周が少しずつ短くなること」であり、「円周が遂に無くなってしまうこと」がつまり=「人間の寿命」

    ★楽譜が音楽だと思いがちだし、
    遺伝子が生命だと思いがちだ。
    しかし、それを誰かが奏でないと音楽にはならないし、形作られたものを生命だと認識する者が存在しなければ生命にはなり得ない。

    ★空気の振動=音(風が木々を揺らす等)は、人がワザワザ作らなくても奏でられており、
    それを誰かが聞けば音楽と成り得る

    • マリモさん
      傍らに珈琲を。さん
      こんばんは!読了おつかれさまです!

      画一化され、条件化され、コントロールできない感情はよくないものだと統制する社会…。...
      傍らに珈琲を。さん
      こんばんは!読了おつかれさまです!

      画一化され、条件化され、コントロールできない感情はよくないものだと統制する社会…。
      同じ作家さんでも、違う作品間でのつながりがわかると、おぉっと思うものですが、SFの世界では違う作家さんのオマージュが多いですよね!

      村田沙耶香さんの作品で、世界はグラデーションのようにできている、といったニュアンスのことが書かれているものがあり、なるほどなぁと思ったのですよ。隣り合う色は似ているのに、離れたところの色は全然違う。白もいつか黒になってしまう。気づかないうちに、全然思いもよらない社会になってしまっているかもしれない。
      みんな幸せ。誰も不幸じゃない(というか気づかない)。何がいけないの?
      うーん、そう言われてすぐに反論もできない。こういうディストピア小説を読むとなんだかゾッとしてしまうんですよね。
      でもこの本自体は、表現がけっこう面白みがあるところも多かった気がします。フォード元年とか、サンクフォードとか、アメリカぽい皮肉がきいてますよね!
      私はハーモニーを再読したくなりました^_^
      2023/09/17
    • 傍らに珈琲を。さん
      マリモさん、コメント有難う御座います~

      最初から最後まで楽しく読めて、お勧めして頂けたこと感謝しています!

      確かに、SFは違う作家さんへ...
      マリモさん、コメント有難う御座います~

      最初から最後まで楽しく読めて、お勧めして頂けたこと感謝しています!

      確かに、SFは違う作家さんへのオマージュ多いですね。
      今、「華氏451度」「ソラリス」も読んでみたいと思えてきて、
      以前挫折した「1984年」もチャレンジしたいくらい調子乗っちゃってます 笑笑

      "世界はグラデーションのよう"って、私はマリモさんのコメントを読んで"なるほどなぁ"でした。
      "白もいつか黒になってしまう"、ホントなるほどなぁでした。

      フォードについては初め意味がよく分からなかったのですが、調べながら読み進めるうち、分かってきてニヤリとしました。

      ところで、とあるメーカーさんのブックカバーを愛用しているのですが、ハヤカワ文庫ってこれまであまり手をつけてこなかったので、今回、大きさが独特なことを初めて意識しました。(←「ハーモニー」や「虐殺器官」を持ってるのに)
      ハヤカワサイズも買ってしまおうかしらと悩み中です。

      いや~楽しい!
      新しいジャンルを楽しいと思えることが楽しい!
      有難う御座いました♪
      2023/09/18
  • オルダス・ハクスリーによる1932年の著作。ディストピアSFの古典と言われる本書。ハラリの21 Lessonsの中で引用さてれいたため手に取った。

    たった34階しかない、ずんぐりした灰色のビル。正面玄関の上には、「中央ロンドン孵化条件付けセンター」の文字と、盾のかたちのマーク。盾の中には、共生・個性・安定という、世界国家のスローガンが記されている。

    100年以上前にSF小説で書かれた未来はユニークな設定だ。西暦ならぬフォード紀を採用。キリスト教はなくなるが自動車王フォードを崇拝し、十字架は頭を取ってT型に。日常に使用される合成麻薬の名前はソーマ。疲れたときや憂鬱なときはソーマを0.5錠服用すると幸せな気分に。それを沢山飲んで長期休暇することをソーマの休日という(笑)。その他クスリと笑える仕掛けが沢山。ドラッグだけに。

    世界統帥官に支配される「すばらしい新世界」の国民は皆、階級別に遺伝子操作され体外受精により産まれる。

    ボカノフスキー処置と言う架空のバイオ技術は、一卵性双生児ならぬ一卵性多胎児を最大96つ子まで製造可能。同質な人間を大量生産する事でヒエラルキーの底辺を安定的に社会に送り込む。

    産後の条件付けの方法は睡眠学習。それぞれ皆が自分の階級が幸せサイコーと意識付けされる。安定のため。

    最終章では私の読解力不足から転調についていけず、2度読み返した。自由を手にした男の末路がディストピア。最後まで冒頭の国家スローガン「共生、個性、安定」のうち、「個性」だけは否定されていた気がする。

    ユニークな設定プラス自我をもつ数人の登場人物の心の揺れ動きがこの作品の醍醐味で人々に読み続けられる理由なのだろう。バーナード・マルクスに自分を重ね見る感覚は「アルジャーノンに花束を」のチャーリー・ゴードンに自分を重ね見たあの感覚に近い。

    最後にハリルが21lessonsで語った現実世界に目を向ける。b×c×d=ahh!

    b生物学的知識(バイオロジカルナレッジ)
    c演算能力(コンピューティングパワー)
    dデータ
    ahh人間をハッキングする能力(アビリティトゥハックヒューマン)

    権力者が効率的に"すばらしい新世界"を作れてしまう時代が直ぐそこに。

    【後日追記】
    自動車王フォードの反ユダヤ主義
    ヘンリーフォード(1863-1947)
    フォードは著書「国際ユダヤ人」でユダヤ人は国際的な陰謀を巡らせている連中だと示唆。

    その引用もとは「シオンの長老たちの議定書」。
    選民のユダヤ人が非ユダヤ人を世界支配するための道筋を書いた出版物で陰謀論なのだが、"秘密権力の世界征服計画書"という触れ込みで広まったらしい。

    フォードの著書はヒトラーからも賞賛されたとのこと、恐し。

    先日読了オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」でフォードを神と崇め信仰する設定はフォードの思想を、選民思想の時代背景に疑問をなげかけ強烈に揶揄、風刺したものだったことがわかった!!

    フォードのユダヤ嫌いの理由はフォード社の労働組合をユダヤ人が主導、牛耳っていたからだとか。

    時代背景を知ると奥まで見えてくる良い経験となった。

  • 第四間氷期を読んだ後
    またもや人間の製造の話だった
    繁殖を人工化

    私的にはあまり心にこない感じで
    中盤まで読み進めた

    遺伝子の研究やクローンなど
    これからありえない話ではない
    けれどもし、こんな世の中が来るとしたら
    本当にこんな感じなんだろうか?と。

    少し単調な感じがする

    いい意味でシンプル。

    中盤になり、野人の登場から
    考えさせられる

    みんなが生まれつき安全で満足するようにつくられ
    はげしい感情も、老いもない
    感情をうむ家族や恋人もいない
    科学や、研究を制限することで
    誰も気高しさや英雄らしさも必要としない
    政治も社会も安定する
    戦争もない世界

    ちょっとユートピアな気もしてくる
    もし、時代が知らないうちにその方向にいくなら
    誰も反対もせず、
    うまく移行していってしまうかもしれない

    ただ、それには必ず代償がある
    これを読む私たちにあって
    この本の中の世界になくなってしまったもの

    遺伝子操作で人間を創造するまではなくとも
    教育、ある種の植え付けは
    同じようなことを生み出してしまうのではないかと思う
    だからこそ、人間のまま
    感情をもち、喜怒哀楽しながらも
    世界が
    戦争のない世界にしていく方法を
    人間として実行していかないといけないと思う

    ちなみに、野人のジョンは
    ちょっと私的には、もう少し普通の人で
    書いて欲しかったなー
    ハムレット、リア王、マクベス等々
    精通してない私にはすこし
    理解しかねるところがあった。

    一九八四年や、ハーモニーの方が
    私は評価高いです。

  • 2025/09/15 読み終わった

    ユヴァル・ノア・ハラリの「21の教え」に登場したため読む。ジョージ・オーウェルの「1984年」と対をなすディストピア小説の元祖にして傑作だそうで、1984年は昔読んだけどこちらは全然知らなかったな。

    ガチガチの言語統制を描いた「1984年」とは対照的に、こちらは人類に幸せだけを与えて、全ての都合の悪いことは生まれながらに(または生まれる前から)条件付けをして、不満を抱くことをそもそも排除した世界を描いている。言語統制は嫌だが、こちらはどうか?不平不満を微塵も抱きもしないのなら、それはいいことなのか?21世紀の未だ混沌とした世の中、であってその中で比較的(かなり)恵まれて育ち暮らしている自分は、このすばらしい新世界は歪なものに当然見えるが、その中にいる人間たちは全く異なる考えを抱くだろうし、現実世界の中でも少しだけ立場が違えばこの世界を選ぶ人もたくさんいるだろうなと思う。

    自分がそれを選びたくない理由はなぜか?それは今までの人生を否定したくないから、というだけなのかもしれない。

    あと、イプシロンの数に対して仕事が少なすぎるなら、イプシロンの数を減らせばいいと思う…。この世界にあって、人類という種がそれでもライフサイクルを繰り返す理由は何なのだろう?

  • オーウェル「1984年」に先立つ古典SFとして、いずれ読まねば、でも重そうだなと思っていた。
    が、むしろ軽くて、何よりも面白かった!

    つらつらと連想したものを書いてみると。
    まずは伊藤計劃「ハーモニー」。
    大森望の解説でも言及されていたが、御冷ミァハが読んでいたんだったか。
    すっかり忘れていた。
    本作ハヤカワ文庫のカバーデザインを担当したのは、「ハーモニー」と同じ人らしい。シンプルの極致。
    (アニメ映画版では松村達雄訳の、講談社文庫版だった。)
    思い返すに、初めて知ったのは、SF畑に一歩も踏み込んだことのなかった中学生のころに、中島らもの「今夜、すべてのバーで」だったか「アマニタ・パンセリナ」だったかで、二日酔いしない至上の神酒ソーマに言及していたんだったか、ヒッピー文脈で「知覚の扉」に言及していたんだったか。
    また高校生の頃に読もうとしたり、読み切れなかったりした、沼正三「家畜人ヤプー」を思い出したりもした。
    本作でいうガンマ、デルタ、エプシロンにあたる、労働者階級。
    「ヤプー」では生体変形を経て「家具」ないし「器具」扱いだったが、ボカノフスキー法が源流にあるのかしらん。
    というか本作の受容史は面白そうだし、裾野が広そう。
    そして現代作家で連想したのが、村田沙耶香。たとえば「消滅世界」とか。
    というのも、本作のキモのひとつに、遺伝子選別に伴う、生殖に対する価値観の変化、そして家族という概念の廃棄があり、これって村田沙耶香が様々な角度から書いていることでもあるのだ。
    本作、価値の反転の反転の反転の先にあるもの、疎外感の疎外感の疎外感の先にあるもの、を描いているという点で、藤子・F・不二雄「ミノタウロスの皿」などSF短編を思い出すが、
    ハクスリー → F先生 → 村田沙耶香という線を(勝手に)つなげられたのも、よかった。

    以上脱線的記述だが、もっと単純に、本作で描かれたことで、いま見て面白いことや、わかるわかるということがいっぱい。
    たとえば、バーナードは、リア充カーストの中で、いまひとつ交わりきれないキョロ充。
    というか、ヘルムホルツもレーニナも、陽キャに交わり切れない存在っぽい。
    そしてやはり、外部に疎外された旧価値観(それがインディアンというのが、まあ……)の中で生まれ育ったのに、なまじ本が好きになって新価値観に憧れを抱いたがために、新世界に連れていかれた挙句、好奇の的でしかなかった、「野人」(!)ジョンの悲哀よ。
    本(シェイクスピアの引用)を通じてしか、自分の感情を表現できない、という逆転現象って、中流家庭で中途半端な脳味噌しか持ち合わせないくせにインテリに憧れたはいいが、生まれが違うと言われたり、たまに地元に帰ったらむしろ小学生で同級生だったマイルドヤンキーのほうが儲けも大きく幸せそうだ、と気づいて虚脱した、という経験に、似ている……いやさすがに我流の読みすぎるか。
    しかし本作は面白い上に切実だと感じられた。

    1932年の作品なので、2025年現在の、7年後には100周年。
    または、約四半世紀後の2049年は、作中でいう九年戦争の年。
    これはアニバーサリーと寿げるのかどうか。
    7年後ですら世界がどうなっているのやら。
    自分の生活が頓挫する可能性も十分にある。
    オー・マイ・フォード!

  • アニメ『PSYCHO-PASS』や本作のような「真実を知らない幸福な市民たち」という世界観が、自分にはそれほどディストピアと思えない。真実よりも誰かに管理される幸福の方が良いと感じるのは、イプシロンに向いてるかもしれない。

  • ディストピア小説はわりと好きで、古典作品の合間にときどき眺めたりするのですが、先日レビューした、ザミャーチン『われら』から、ちょっとしたマイブームになっているこの頃。またオルダス・ハクスリー(1894年~1963年)の本作は、ジョージ・オーウェル『1984年』ともよく比較される作品なので、わくわくしながら読んでみました。

    ***
    ときは2540年。人間はすべて工場で計画生産され、瓶詰にされて出荷されます。受精卵の段階で5つの階級に分けられ、薬物等の様々な条件付けと睡眠学習によって、階級に即した完璧な人間が製造されます。創造性や個性といった多様性を排し、画一的・安定的世界が構築され、戦争、暴力、自殺、貧困といった悩ましい問題は解消され、人々は平和に暮らしています。

    いや~らくえん、楽園♪ 笑いや明るさが充満して陰惨さはまるでありません、楽天気分であっというまに読み終えました。
    監視社会、フリーセックス、壁の外の野人的世界の存在といった設定は、ザミャーチンの『われら』の影響をもろにうけている感じがしますが、その発想の転換にはいささかびっくりしました。というのも、ディストピア小説は、人間の魂や生命の内奥から漏れ出す(いくばくかの自由)意志が存在していることを前提に、それが何らかのシステムで抑圧され、あるいは瓦解、喪失していく世界を描いているものだと(勝手に)思っていて、そこでは本が読者に問いかけます……いったい人間とはなんなのだ?
    ところが、遺伝子操作や薬物による人造人間もどきの楽園では、家畜化された人間という生物にそもそも意志や個性などがあるのかな? こりゃまるで場外乱闘のようで、いささかずるい気がしないでもない(笑)。

    もっとも善意(逆説)解釈すれば、ハクスリーは作品中で科学・芸術vs幸福・安定という図式のもと、あらゆる変化は安定を脅かすもので、最大限の注意を払って鎖に繋ぎ、口輪をはめておく必要がある、ということを前提にしたのだろう。なるほど欧州中を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、資本が台頭し、野放図な機械化、兵器開発を含めた(科学)技術の礼賛に、ほとほとうんざりしたのかもしれません。

    また現代の先進科学ではすでにクローン生命の誕生を可能にしていて、生命倫理の観点から人間への適用は押しとどめられているのですが、それも500年後はどうなっているかわかりません。そういう意味ではタイトルどおり、あぁ~素晴らしい新世界。1930年代にそのような発想をみたというのはすごい、破れかぶれ、翻ってみればそれくらい人間性や多様性が失われつつあった度し難い世界だったのかしらん!?

    本作では芸術の代表としてシェイクスピア作品が山のように引用されていて、けっこう笑えます。ちなみにタイトルは『テンペスト』より。呪術師プロスペローの娘ミランダのセリフから、

    “O brave new world!”
    ――人間って、なんて美しいのかしら。ああ、素晴らしい新世界――

  • この本で描かれている文明社会は、私達がこころから望んだ世界が実現したものではないかと思った。
    徹底された公衆衛生、階級により自身の役割が幸福であると条件付けされた世界。
    しかしおそらく大半の読者(私含め)はこの世界に多少なりとも嫌悪を覚えると思う。そのことが非常に興味深く感じた。
    自由とはなんなのか、自分は周りの環境や人間から条件付けされた観念に基づいて思考を構成するのであって、はたして本当に自分の意思や自由というのは存在するのだろうかとも思った。

    ラストシーンは自分にとって衝撃だった。社会で生きる以上自ら孤独を選び生きていくことはできない。たとえ社会を嫌悪し、社会とは異なる思想を持っていても。

    2023.08.11

  • ディストピア小説と言えば?でまず出てくる、オーウェルの『1984年』と並ぶ名著。やっとこさ読みました。
    500年ほど先のロンドンで、物語は始まります。人間は5つの社会階級に分けられ、受精卵の段階から区別され、現状に疑問を抱かないよう条件付けされ…、一義的には幸せなはずの世界を舞台にストーリーが展開していきます。

    まず何よりも驚くのは、解説でも他のレビューでも言い尽くされていますが、本著が1930年代の刊行で、にもかかわらず全く色褪せない未来描写になっていること。
    強いて言うなら、既にこの2020年代において、この世界よりもっと機械化が進んでいるし、労働者の交通手段がモノレールってのは「あぁ、昔の未来だなぁ」と思いますが、労働者の存在は舞台装置としての必要性に基づくものなので、そう思うとあまりツッコミどころはありません。

    ストーリー展開については、イギリスっぽいなぁというのがまず思ったことです(笑)
    皮肉っぽいと言うか、人間のダメな側面が出ていると言うか。(ときに悪趣味な)ブラックユーモアに溢れた細かな設定、演出は「こう来たか!」と苦笑させられるものばかり(刊行後100年近く経っている作品だと思うと、苦笑できることすら凄いですが)
    著者としては、1930年頃の工業化や大量生産という世の中の流れに対して、このまま進んでいくとこうなるぞ、という警鐘を鳴らしたかったのでしょうか。

    さて、それから90年ほど立った今。
    自分は自分として考えていられているだろうか、安易な結論や見せかけの幸せに飛び付いていないだろうか、手間を惜しまず親密で丁寧な人間関係を築けているだろうか。
    自らディストピアに飛び込むことがないよう、本を読み続けて、考え続けたいものです。

  • 「たしかにこの現実はぞっとするほどひどい──でも崇高で、でも意義深く、でもたとえようもなく重要だ。」

    1936年に書かれた作品。ときどき、ぞっとするほど未来をみすえている描写に鳥肌がたつ。けれどこんなにコメディだとおもわなかった(たのしい)。大森さんの翻訳だからかもしれない。読みながらふつふつと湧きあがる矛盾や疑問も、ほんとうに最後のほうにまんまといいくるめられてしまう。
    わたしもじぶんじしんの感情(心)をなるべくはげしく動かされないようにしているのだけれど、俯瞰すると、なんだかとても息苦しかった。これからの未来においてはなにが正解かなんてわからないけれど(わたしたちは延々ともがきつづける)、とりあえずいまは、こころの襞は、ふるわせていないといけない。愉しげなエンターテイメントで幸福へと導かれるひともいれば、静謐に燃ゆるアートによって日々すくわれているひともいる。そして芸術は、きっとこころの成長をたすけてくれる。レーニナとジョンのかみあわない会話が哀しかった。かなり細部までだれかといろいろと語り合いたくなっちゃう物語だった。はりぼての幸福について。





    「神は、機械や医学や万人の幸福とは両立しない。どちらかを選ぶ必要がある。」

    「だから、哲学とは、人間がろくでもない根拠で信じていることに、それとは別のろくでもない根拠を見つける学問だよ。人間が神を信じるのは、神を信じるように条件づけられているからだ」

    「僕は自分自身でいたい。だめな僕のままでいい。いくら楽しくても、他人になるのはいやなんだ」 

  • ・読み終わって感じたこと
     精神衛生も公衆衛生も完璧な滅菌された社会が舞台となっている本作ですが、自分はこれは遠くない未来なのかもしれないと感じました。
     この社会は孤独や人間関係のストレスになるような親子や夫婦といったものがフリーセックスの常識化や人を生み出す機械などで無縁であり、それ以外のストレスも合法薬物によって解決されてしまっている。これらは性の自由化、デザインベイビーなどの科学技術の進歩、誰とでも繋がれると思えるネット、ドーパミン経済…といった現代に存在する要素と関わっているように思えます。
     本作での社会を生きる人々は無垢で悪意のない子どものようであり、そして何よりも安定した幸せを享受しています。不安定で暴走列車のような社会に生きる自分にとってはとても魅力的でした。その一方で、悲しみなどの情動が抑制され心をかき乱すような激しい衝撃がないのを味気なく感じました。ゲームやスマホなどの安易にドーパミンが出やすいものに逃げずに、人間関係の只中に飛び込むほうが良いのか…そんなことを考えずにはいられませんでした。
    ・面白いと思ったシーン
     P298の暴動鎮圧スピーチの内容がまるで子どもに優しく怒るような声かけで少しおかしかったです。バーナードが言うような感情が子どもな文明人の様相がわかりやすくて良かったです。

  • 人間の幸せとはいったい何なのか?

    科学が進歩したことで、人を出生から発育や思考・感情を計画的にコントロールし、役割に適した計画社会である「階級格差」社会を作り上げた。そこでは死の概念も宗教も排除して完全に調和された集団での共同体が、「新世界」を形成していた。

    最上階層のバーナードはコントロールされた社会に疑問を持ったことで「人と違う」といわれることに。
    一方「蛮人居留地」に住むジョンは、新世界の住人であった母の影響から「仲間ではない」と言われ、孤独を感じる。
    そんな中、「蛮人居留地」へ旅行したバーナードはジョンとその母を新世界へ連れて帰ることに……。

    作者はオルダス・ハクスリー。
    実に80年前(第二次大戦前)に書かれた、デストピア小説。
    (ジョージ・オーウェル『1984』は戦後の作品)
    大量生産、大量消費、モラルハザードの社会を痛烈に批判した小説。

    前半は「すばらしい新世界」の在り様、中盤はシェークスピアをこよなく愛する「野人」の新世界での生活。
    そして圧巻は、終盤の世界統制官ムスタファ・モンドと野人ジョンの討論。

    「幸福か真理かどちらかを選択しなければならなかった」
    「哲学とは、無理やり理屈をつけた世の中の仕組みを、さらに理屈で解明しようとしている。実に不要だ」
    統制官が自由と幸福の矛盾を突く。

    「それでも、真理を手に入れるためには、不幸を被ることも厭わない」
    そういって反論して、出て行った野人ジョンの末路は……。

    人生とは、信仰とは、幸福とは……SFというよりも社会心理学を説いた本。

  • 生まれる前からの睡眠学習による刷り込みと条件付けで、人間が5つの階級に分けられ、自分の階級に満足して幸福に暮らす世界。不愉快なことは合法ドラッグソーマで逃避できる。神は全てフォードに置き換えられているけど、フォードって車のフォードで、車の部品を工場で作るように、均質な人間を工場で生産する世界、ということなのか。この世界から切り離された野人保護区からやってきたジョンは、誰もが幸福なこの世界を「すばらしき新世界」と信じてやってくるが、安易で薄っぺらなこの新世界に抵抗し、苦悩しながら労働して生きていくことを望む。
    青い鳥的な展開。

  • 世界文学史の多くに載っているこの『すばらしい新世界』、ずっと昔から書名は知っていたものの、高校生当時本書はどこでも手に入らず、図書館でも見つけられなかった。
    とうとう文庫化され、たくさんの日本人に接しやすい状況になったわけだが、読んでみて愕然とするほど、面白かった。1932年の小説で、当然古臭いのだろうと予想していたのに、古びた感じはまったくなく、つい最近書かれたと言われたら騙されてしまいそうなほど清新である。現在の日本の読者がこれを読んでも「ふつうに面白い」ことは間違いない。
    全ての出産は体外受精に制限され、初めから人間は5つの階級に分類されており、生まれてすぐに人為的に成長を抑制されるなどし、睡眠学習によって特定の倫理を洗脳的に植えつけられる。
    いわゆる管理社会の極限で、SF的でもあるのだが、細部が非常によく書けている。
    このディストピアはきっと全体主義の思想に基づいて組み立てられているのだろうが、あからさまにソ連をモデルに書いたジョージ・オーウェルとは違って、こちらはかなり諧謔に満ちている。人間を条件反射的にしつけようとするスタイルは、当時台頭してきていたのだろう、パブロフや生理学的心理学の姿勢を参考にして書かれているようだ。
    面白いことにこの管理社会による人間の「しつけ」は相当うまく行っていて、みんなが「幸せ」であるようなのだ。
    ちょっと前衛的な書き方もあったりして、このオルダス・ハクスリー、生半可な小説かじゃないぞと思われるのだが、ほかの著書は全く知らない。
    とてもよくできた小説だが、最後の方の顛末は、個人的にはあまり好きになれなかった。ジョンがあまりにもシェイクスピアばかり引用するのがうざいし、ラスト部分のプロットも、こうでない方がいいような気がした。
    しかしそこはたまたま個人的にそう感じただけかもしれない。全体としては、実によく書けた、すばらしい小説です。

  • (『1984年』の内容を含みます)


    『1984年』を読んでから、それと対になるディストピア小説と何かで知って購入。1984年、かなり衝撃でした。私あのテレスクリーン絶対嫌だなあ。
    確かに閉鎖的で暗い感じのした1984年とは違って、開放的で明るい雰囲気を感じる。舞台となる社会に疑問を持つ人々も、1984年ではその社会に生きるウィンストンらだったけれど、本作では「野人保護区」に生きる「野人」ジョン。ウィンストンにはパートナーがいたけれどジョンは始終ほぼひとりぼっちだったっていうのも対になるのかな。
    でも、そうはいってもどちらの世界も完全にその社会の内部で生まれて生きる人にとってはユートピア(1984年では子どもたちがビックブラザー大好きだったから理想的な統治なんじゃないかと思います)だから、ディストピア小説って呼び方はちょっと変な気がする…あ、私たちから見てディストピアだからいいのか。
    若干毛色が違うのが『新世界より』とか『ハーモニー』。彼らは体制が確立された後に生まれた子どもなので。あとがきに、『すばらしい新世界』がこれらの作品に影響を与えたとあってびっくりしました。自分の友人2人も実は親しかったみたいな嬉しい驚き(ハーモニーは現在読み中)。
    本作みたいな世界、これから科学的にはほぼ確実に実現できそうですよね。正直この争いが全くなくて傷つかないくて安定しているという点はすごく魅力的なんだけど、うーん。全ての苦痛から逃げてなんの苦労もなく欲のままに過ごすっていうのは、人間としていかがなものかという気もする。頑張るからこそ、特別な感情を持つからこその人間なのでは。
    また、生まれてから、意図的にそのスペックを操作して、条件付けで思考を縛ることは同じ人間としてやってはいけないことだけど、彼らはそもそもそれを悪いと思う思考の基盤がないから難しい…。システムの存続のために人間を退化させて発展も止め、経済を回すためだけの無駄な消費にいそしむ、という人工的な気持ち悪さも絶対彼らとは共有できないだろうし。この条件付けのところは「ニュースピーク」とも通じますね。どの作品も本当にこの社会を形作る背景設定が緻密。作者さんたち本当にすごい。
    先日新聞で、ネットか何かに関する記事で民主主義と表現の自由、優先するならどちらか(すみません違うかも)に言及されていましたが、表現の自由を削っていくと後々こういうディストピアに繋がっていきそうで恐ろしい…。
    あとがきで、本作の作者であるハクスリーさんが述べたジョンの第3の選択肢について記述があります。文明か野蛮か、ではなくその中間。これがあればみんな幸せとまではいかずともジョンは死ななくて済んだし、バーナードたちはもっと生きやすかったのでは。これはバーナードたちが島に飛ばされたのと同じな気がしたのですがどうだろう。同じ人間なのに価値観の違う文明人の見せ物にされてしまったジョンが不憫でならない…。

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著者プロフィール

1894年−1963年。イギリスの著作家。1937年、眼の治療のためアメリカ合衆国に移住。ベイツメソッドとアレクサンダー・テクニークが視力回復に効を成した。小説・エッセイ・詩・旅行記など多数発表したが、小説『すばらしい新世界』『島』によってその名を広く知られている。また、神秘主義の研究も深め『知覚の扉』は高評価を得た。

「2023年 『ものの見方 リラックスからはじめる視力改善』 で使われていた紹介文から引用しています。」

オルダス・ハクスリーの作品

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