娘は娘 (ハヤカワ文庫)

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  • 早川書房 (2004年8月18日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (432ページ) / ISBN・EAN: 9784151300899

感想・レビュー・書評

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  • 【ノンシリーズ】
    シングルマザーのアンは人生の全てを注いで一人娘を育てきた。しかしアンの再婚問題を機に母と娘の関係が変わってくる…。

    「母親の目線」で読むか、「娘の目線」で読むかによって思う事も変わってくる。
    自分も娘がいる母親だし、かつては娘だった時代もあるので、両方の気持ちがよくわかるので面白い。

    再婚を決めた男性のことをどう思うか?
    娘が好きな男性を親として許せるかどうか?
    この2点は読者それぞれの価値観によって違うと思う。

    古い友達と長年仕えるメイド、この2人の頼れる老女が精神安定剤みたいで安心する。

    クリスティー自身もこの作品と同じように、娘がいて14歳も年下の男性と再婚してるので、ここまで繊細に描けるのではないかと思った。

    読後感は『春にして君を離れ』と同じ。
    読み終わった後に考えさせられる本が好きなので、こういうのも大好き。
    いつものミステリーっぽくない、こういう作品もあるからクリスティーは飽きないんだよなぁ。

  • 母と娘の話。原題は"A Daughter's a Daughter"。
    外国の人の独自な言い回し、考え方、文化、風習などに何とかついて行きながら読んだ。
    登場人物、特に母と娘が好ましい人物と思えなかった。
    主人公アンは、「春にして君を離れ」の主人公ジョーンに似ているような気がした。

  • 母と娘の愛憎の物語。

    夫を亡くし長い間独身でいる母親、アンといかにも現代っ子らしいその娘、セアラ。
    ずっと二人で暮らしてきた母娘は深い愛情で結びついている。
    しかし、セアラが旅行中、アンがある男性と出会い、彼と結婚する事を決意した事から二人の関係は変わっていく。
    母親の結婚を知ったセアラが男性に嫉妬、彼と会う度に諍うようになる。
    二人の間に立ち、いたたまれなくなったアンはとうとう男性と別れる事にする。
    最愛のセアラをとって-。
    ここまでが一部のお話。

    二部は一部から数年後の話で、アンの様子がガラッと変わっている。
    一部ではおとなしく優しい田舎の婦人という風情だったのが一変、髪を染めて派手な服装になり、いつも外に出歩くようになっている。
    そんな折、別れた男性から妻になる女性と共に会いたいという連絡がある。
    アンはセアラに彼と会うという事を告げるが、セアラは彼の名前すら憶えていなかった。
    その事で、アンはセアラを憎悪する。
    誰のために彼と別れたと思っているのか-。
    さらに、再会した彼はアンが愛した男性とは別人のようになっていた事がその思いに拍車をかける。

    やがて、セアラは金持ちだが評判の悪い男に求婚され、その事を母親に相談するも、アンはセアラの判断に任せるという態度をとる。
    それは一見大人な態度のように見えるが、その根底にあるのは娘に対する憎悪。
    そして、セアラは他に気になる男性がいるにも関わらず、金持ちの男と結婚する。

    不幸なまま終わるのかと思いきや、後半で母娘共に自分の心の根本にあるものに気づき、過ちを修正する。
    だからとても読後感のよい話になっています。

    いい歳をした大人なら、暴力にでも訴えて無理やり強制されたりしたものでないなら自分の行動は常に自分が責任をもつもの。
    誰かのために・・・と言いながらも、それを選んだのは自分だという事を自覚するもの。
    こうやって書くと、当たり前で簡単な事のように思えるけど、これが難しい。
    その結果がよくないものだったら-。
    そして、本人がまだ大人になりきれてない感覚の人間だったら-。
    私だって、自分が選んだ事なのだ・・・と思いつつも、「あの時、あの人がいなければ・・・」とか、人のせいにしたくなる。
    結局はその方が楽なんだと思う。
    全ては自分の責任なんだと、自分の過ちを認めるのは苦しい。
    成熟し、自立した大人なら当たり前の事が未熟な人間には難しい。

    主人公のアンも一時は自分の選択を後悔し、自分がとった行動を娘のせいにしつつ、それに気づかない。
    同じように、娘のセアラも母親のためと言いながら、自分勝手な嫉妬で母親の幸せを妨害し、そんな事をした事さえ忘れる。
    やがてかなりな代償を払いつつも、夫や父親がいなくて寄り添うようにお互いを大事にしあった仲なのに、実はその愛情が歪んでいたものだと気づく。
    お互い愛という名の棘でお互いを傷つけていた事、縛りつけていた事に気づく。
    後半に二人が自分自身の心に気づき、お互いを認め合うようになったのを見て、二人の大人な関係がここから始まるのだと思いました。

    この物語には二人に大事な事を気づかせる存在がいます。
    それはアンの親友で、彼女は正に心身ともに自立した真の大人の女性。
    二人はずっと彼女の言葉に耳をかそうとしない。
    でも、自分たちが間違っていたのでは・・・?と気づいた時、初めて、自分たちから彼女に救いを求める。
    彼女の言葉はひとつひとつがとても深く、「うん。うん」と肯きながら、この人、素敵な女性やな~と登場の度に思いました。

    深いテーマですが、それを誰にでもわかるように読みやすい文章で書かれています。
    文中の「依存」という言葉が個人的に印象的でした。

  • これはまた、『春にして君を離れ』とは違う意味で痛い本でした。
    何事もなければ胸を張って言えるのですよ、「自分のことより子どもが大事」。
    でも、つかず離れずを装っていながら、実は互いに相手の存在に頼っていた母と娘のどちらかが、違う世界に踏み出そうとしたとき、自分のもとに引き留めようとしたくなるのは自然な流れ。
    だけどお互いに自覚がないから、自分のためではなく娘(母)のために、何かをしてあげている気になっている。
    寂しさや絶望をその瞳に浮かべている相手のことなんて、見もしない。

    ”家の整頓、使い走り、(中略)そうしたこまごまとした用事をアンは当然のことのように忠実に果たした。娘は両親に仕えるために生きているので、その逆ではなかった……(中略)子どもが親に仕えようが、親が子どもに仕えようが――人間対人間の根本的関係にはいささかの変わりもない。”

    だが、アンが娘のために再婚を諦めた途端、娘のことがかわいいけれども憎い存在になったっていうのはわかる。
    何といってもセアラはまだ19歳。
    大人ぶったって大人ではない、とアンは突っぱねるべきだったけど、現代っ子の娘とおとなしい母親は往々にして親が意見を引っ込めがちだ。
    だけど、再婚したいほど好きな男性を娘のためにあきらめた…娘のせいであきらめざるを得なかった…というのは、本人が思うよりも傷が深い。

    セアラはセアラで、なぜ母が自分を憎んでいるかのように接するのかが理解できない。
    自分が結婚をぶち壊したこと、当初こそいいことをしたと得意になっていたが、すぐにそんな事すら忘れてしまう。
    母に見捨てられたかわいそうな私は、誰かと結婚でもしてこの家を出て行かなければならない。

    拗れるにいだけ拗れた母と娘の仲だけど、一度腹を割ってぶつかったらあら不思議。
    憎しみはどこへやら。
    だって何があっても、娘は娘だもの。
    めっちゃ刺さるわ、この話。
    でも、今どきは親子の間とはいえ、一方的に仕えるのは無理筋だと思う。

  • 母と娘の確執を描く、メアリ・ウェストマコット名義の普通小説。
    地味な存在ですが、読まないなんてもったいない!面白いので、ぜひ読んで下さい。

    第一部では、母の再婚相手と娘が衝突。双方の気持ちを丹念に、しかし簡潔に描いているので、二人が対立する理由が手にとるように分る。第二部からは意表をつく展開ですが、ここで狂言回しローラの役割がきいてくる。じっさい脇役の使い方が見事で、頑固で忠実な女中イーディスがうまいのは当然ですが(そのおかげで彼女の外国人差別まで許してしまう)、本来苦手なはずのぼんやりした青年ジュリーまでいきいきしている。描き方はそうでもないけど、扱い方がうまいんですね。
    いい小説だなあ………。私は感激しました。

    旧版は中村妙子さん。中村さんの訳者あとがきは、田村隆一さんとはまた違った味がある。『火曜クラブ』の「女は女同士」という台詞を引いて、クリスティーには「自己中心的で哀れな女」の系譜があると指摘する。しかも、同じような性格の男は登場しない、それを思うと「女は女同士」という言葉が重く響いてくる、とまで言う。これには唸りましたね。
    「しみじみ思いますのは、女は女同士ってことですわ――まさかのときは同姓の側に立たなくてはということですのよ」

    新版は児玉数夫さん。戦前にクリスティーを読んだ経験と、映画の紹介を少し。こたつで蜜柑を食べながら「スタア」に載っていた短編「悪魔」を読んだという。こういう細部が文章に力を宿すんですね。いきなり盧溝橋事件からはじまるので何事かと思いましたが。
    これはこれで素敵な思い出話です。しかし中村さんの武骨な情熱の前ではちょっと分が悪い。
    旧版の勝ちです。

  • クリスティーがメアリ・ウェストマコット名義で書いた一冊。この作品群はとにかく登場人物の内面が他作品以上に深く描かれているのが特徴。
    夫に先立たれたアンは、娘のセアラに無償の愛を注いでいた。あるとき、セアラが三週間のスイス旅行に出掛けている間にアンは自分と同じく配偶者に先立たれた悲しみを背負って生きるリチャードと出会い、たちまち恋に落ちる。しかしスイスから帰ってきたセアラはリチャードを毛嫌いし、二人の結婚を認めようとしない。リチャードはリチャードで、そんな態度を取る近い将来継娘になるはずのセアラを拒絶する。
    母親には女性としての幸せを求めることは許されないのかと苦悩するアン、突然現れた継父に「お母さんの幸せを考えてあげないといけない」と説教され反発するセアラ、継娘に拒絶され、アンが間を取り持ってくれるわけでもなく苛立ちを募らせるリチャード。
    それぞれの苦しい胸の内がこれでもかと深掘りされている。
    リチャードとセアラの板挟みになったアンはリチャードとの結婚を諦め、ついに壊れてしまう。何もかもがどうでもよくなり、ただ目の前の快楽に溺れるアンがあまりにも哀しい。
    アンが結婚を諦めざるを得ないほどセアラはリチャードを嫌っていたのに、当のセアラはあっという間にリチャードのことなど忘れてしまう。また、アンがリチャードとの結婚を考えていた時は頑なに家を出ることを拒んだのに、騒動が過ぎれば家を出たいと言い出す始末。セアラへの不満が募るのに、「娘だから」「愛しているから」と自分の本心に蓋をし続けたアンの気持ちを考えると苦しくなる。もちろんセアラも含め登場人物の誰もがそれぞれに葛藤を抱えながら生きているが、それでもやはりアンがあまりにも不憫。そのため、アンがセアラにぶつけた憎しみの言葉はそこまで残酷とは思えない。
    ただその部分を深く考えてみると、セアラがリチャードに厳しく当たったのは、「自分の娘にはまともな人を結婚相手に選んで欲しい」と考える世の母親に対する強烈なカウンターにも思える。
    最終的に母娘は和解し、今まで何もかも母や他人のせいにばかりして生きてきたセアラが地に足をつけしっかり生きていこうと決意するので、その点は救いかもしれない。家族とは言えそれぞれが自我を持った一人の人間。甘えから、家族であればどんなきつい言葉をぶつけても大丈夫というわけでは決してない。
    何をやらせても駄目なジェリーが母娘の関係の在り方も含め意外に常識人なのと、クリスティー作品の中に出てくるある種の秩序を形成する役割を担うローラとイーディスのキャラクターがとても魅力的。

  • ★3.5 初読

    春にして君を離れがあまりも強烈なので
    ドキドキしながら読んだ愛のシリーズ。

    相変わらずのアガサクリスティの冷静な人間を見る目。
    ラスト近くローラが語る
    「わたしの我慢ならないことが二つあるの。
    1つは自分がどんなに高潔な人間か、自分の行為にはどんなこう
    道徳的理由があるかを得意満面と述べたてること。
    もう1つは、自分は何と悪いことをしたのだろうかと際限なく泣き言を並べたてること。どっちの感情も正しいんでしうがね」にあるように、
    彼女は人間の欺瞞とか自己陶酔、自己正当化に厳しいんだよね。
    それが爽快でもあるし、同時に自分に向けられるものだと思うと
    ヒュッとなります。

    「そりゃあ、あなたの行為について真相を認めることはもちろん必要よ。
    でも、いったん認めたらさっさと次に進むべきだわ。
    時計の針を元に戻す事は出来ないし、やってしまった事を
    やらなかった状態に返すことは、たいていの場合、できない相談よ。
    生き続けること、それが肝心なのだから」
    は、ハイ。LIFE GOES ON ……

    母親のアンと娘のセアラ。
    セアラに結婚を反対されたアンのその後の振る舞いを
    あまりに他人行儀に感じるのは
    母親というものは娘である私が何をしても本質的には
    嫌ったり憎んだり心底哀しんだりする事はないだろう
    と信じて生きてきた、甘ったれて守られた「娘」であるから、
    なのだろうな。

    でもさやっぱりラストは、じゃない。
    その途中のあれこれを乗り越えられるのは幸運、
    なのだけどね。これはそのパターン。

    アンの中年期の恋に関して
    「つまり小春日和ってわけ?」は上手いな〜w使おっと!

    「今でも古典的な彫刻が好きなんですの。小さい頃にしみこんだ好みが抜けませんのね。
    だからってわたくしの趣味ばかりが正しいわけじゃありませんわ。
    新しい芸術の様式を理解するには教育が必要でしょうね。
    音楽についても同じことでしょうけど」

    「レジャーを楽しむより仕事に打ち込む方にはるかに魅力を感ずるたちだったが、多くの婦人たちとは違って、彼女はこの事を自慢にしてはいなかった。〜仕事は自分自身から逃避する有効な手立てだ。」

    「人生の悩み事の半分は、自分を本当の自分よりも善良な、立派な人間だと思いこもうとする事からくるのよ」

  • 若くして夫を亡くし育てた一人娘も19歳になった。そこに再婚してもいいかと思う男性が現れた。ところが娘と男性はそりが合わない。娘は全力で男性を排除しようとする。男性には娘と自分とどちらを択るのか?と選択を迫られ、娘を選ぶ。まるで一人息子を争う嫁姑のような会話が展開される。

    また女性が間にはさまり対立が異性という点では婿取り娘対実母と婿。これも間にはさまる娘は大変。自分がこの立場なので、対立相手は娘ではなく実母だが、この小説の未亡人アンが娘と愛する男との間にはさまり神経が摩耗する会話が実にリアルに響いてきて、読むのがつらくなるほどだ。

    娘は母親が相手の男性を好きな事に気づかないし気づいてやる余裕も無い、という描き方だが19歳ならそうなのかなあ。あるいはクリスティ自身の再婚あたりの実情はどうだったのか。

    娘は娘、A Daughter's a Daughter's  娘のために自分のしたいことを犠牲にした と思い娘のあやうげな結婚にも親身にならない。娘は相談した時否定して欲しかった、と最後に言っているが、修羅場とはこういうことか。

    1952発表
    2004.8.31発行 1018.7.25第3刷

  • ノン・ミステリーシリーズ。
    母と娘という、一種異様な独特の関係を描いた作品。
    憎むのも、煩わしく思うのも、心配するのも、反発するのも、愛しているからなんだと強く思いました。
    読んでいる間、苦しめられ、振り回され、のたうちまわり、ラストは涙が止まりませんでした。

  • 私も娘がおりますが、一人娘でなくてよかった。
    母と娘一対一だと密着ぶりが半端ないだろうと予測できます。
    憎みあうときは際限なく、かといって娘は娘、やはり可愛いのです。

  • メアリ・ウェストマコット名義のクリスティの作品は、読み返すほどに味が出てきます。読むたびに新たな発見があり、そこから自分の考え方が分かってくるというか。最初に読んだころから随分違う印象を持つようになりました。母と娘、愛しているからこそどんな犠牲も払う。それを決めたのは自分なのに、相手を恨めしく思ってしまう瞬間があるのです。その気持ちが段々胸に溜まっていって、自分でも訳のわからないモヤモヤになって・・・。ミステリの女王は人間観察の女王でもありますね。イーディスやデーム・ローラの台詞を読んでいると、目の前にクリスティがいたら心の奥底まで見抜かれそうな気がしてきます。

  • 久々のクリスティ作品。
    これは当時別名義で書かれた非ミステリ作品だけど、本当にクリスティは人間を描くのが上手いなと。
    母と娘、女同士であること。その関係の深さ、難しさをシビアに描きつつも、救いのあるラストでよかった。

  • とてもイライラさせる親子の話。

  • 依存と書いてあったが、共依存というものなのだろうか。
    麻薬依存を断つことができたところで、母親への依存も断ち切れた。
    母娘の依存を断ち切る過程がさらっと書かれているのが、物足りなく感じた。

    再読したい。

    春にして君を離れが気に入ったので、こちらも読んでみた。
    今回は意外にハッピーエンド。
    という事は、春にしてもハッピーエンドなのかもしれない。
    NHKBS番組の作家達の感想を見てからだったので、人は簡単に変われないと勝手に私がラストを決めつけてしまっていたのかも。

    殺人はおきなくても、普通にその辺にいる人達だけで充分怖い。

  • 娘は娘
    アガサ・クリスティ

    メアリ・ウェストマコット名義のクリスティ小説⑤

    *☼*―――――*☼*―――――

    この母娘、「娘は娘」というか「母が母なら娘も娘だな」っていう、どっちもどっちというのが最終的な感想だけど、2人が良ければそれで良しなのかは疑問。

    第1部
    娘が居ない3週間で恋に落ちて結婚を決めるって、帰ってきた娘にすると反対もしたくなる気持ちは分かるけど、結局はセアラが何と言おうとアンが決めることで、セアラとコールドフィールドの喧嘩の中で彼はアンが逃げていると言ったけど、結婚相手である当事者のアンが話の中に入らないのはやっぱりおかしいと思った。

    第2部
    アンが喋ってるだけで終わってった。なんか読んでるだけでちょっと疲れたし、セアラを放ったらかしで毎晩遊んでるアンが心配だと思う反面嫌いだった。第1部から好感のあったローラやイーディス、芯があってとても良い助言をしてるんだけど、この2人を蔑ろにしてるのは、読んでて気分が悪くなった。

    第3部
    セアラのせいでコールドフィールドと別れたのだという、子を持つ母が再婚に踏み切れない理由としてはありがちなようだけど、ただ気に食わないだけで反対してたのならセアラも悪い。ただアンは人のせいにしすぎだし、人が全部やってくれて決めてくれて楽をしようと言うのがローラやイーディスとの会話で分かってる。第2部からアンがセアラについて無関心かと思える程だったので、例え喧嘩になっても話し合えて良かったと思う。

    第1部でアンが結婚を決め、セアラが戻ってくる時に「先に結婚式をあげておくべきだった」というイーディスの言葉が私の中ではすごく残ってる。娘が居ない間に勝手に?という思いもしたけど、その後の2人の関係を思うとイーディスはこれを予期してて、長年仕えてきて当事者以上に分かってた。この話の中でイーディスが1番好き。

    2022/07/19 読了(図書館)

  • アガサ・クリスティーがメアリ・ウェストマコットの名で書いた母と娘の物語。

    娘の名付け親であり、母の友人でもあるローラの言葉が良い。淡々と語るその内容は、アガサ・クリスティーの考えそのものなんじゃないかしら。

    人間は結局のところ、自分自身しか道連れはいない、女は中年から開花する、仕事は自分自身から逃避する有効な手立てだということ、一つ一つが身に染みる。

  • 2004年発行、早川書房のクリスティー文庫。訳者あとがきあり。解説は児玉数夫(映画評論家)。第2章までが前振りで第3章で大きく物語が動く。第3章のきっかけは『愛の重さ』ほどは唐突でない。最後は主人公たちへの思いやりで終わり、うまくまとまったか、という感じである。

    訳者あとがきあり。解説のタイトルは『クリスティー映画が日本の銀幕に初登場したころ』

  • ミステリーじゃなかったけど、読み進むにつれ引き込まれた。
    クリスティーの他の小説も読んでみたい。

  • 親は子供にうるさく思われるくらいがいいのかもと思った。
    放っておいても取り返しのつかないことは
    実はそんなには無くって大体上手くいくものなのかもしれないが、
    行動することで回避できるならそれに越したことはない。

  • 150306-10

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著者プロフィール

1890年、英国、デボン州生まれ。本名アガサ・メアリ・クラリッサ・ミラー。別名メアリ・ウェストマコット、アガサ・クリスティ・マローワン。1920年、アガサ・クリスティ名義で書いたエルキュール・ポアロ物の第一作「スタイルズ荘の怪事件」で作家デビュー。以後、長編ミステリ66冊、短編ミステリ156本、戯曲15本、ノンフィクションなど4冊、メアリ・ウェストマコット名義の普通小説6冊を上梓し、幅広い分野で長きに亘って活躍した。76年死去。

「2018年 『十人の小さなインディアン』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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