アーサー・ミラー〈2〉るつぼ (ハヤカワ演劇文庫 15)

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784151400155

作品紹介・あらすじ

実直な農夫プロクターは召使いの少女アビゲイルと一夜の関係を持ってしまう。少女はプロクターを我がものにすべく、神の名のもと彼の妻を「魔女」として告発。折しも村人の悪魔憑きへの恐怖や日頃の相互不信と相まって、村には壮絶な魔女狩りの嵐が吹き荒れる…17世紀の実話に基づく本作は、1953年に発表されるやマッカーシズムに揺れる米国に衝撃を与えた。峻厳すぎる正義と暴走と人間の尊厳に鋭く迫る、巨匠不朽の代表作。

感想・レビュー・書評

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  • ホーソーンの短編集を読んで気になった「セイラム魔女裁判」。この戯曲もそれを扱っていると知って興味を持ったのだけど、ウィノナ・ライダーの映画『クルーシブル』の原作がこれだったんですね。アーサー・ミラーの戯曲を読むのは初めてでしたが、ト書きというわけではなく戯曲の途中にかなり長文の解説(ほとんど小説風の)がちょいちょい入るのに驚きました。演者むけの説明だったのでしょうか。

    舞台は1692年、マサチューセッツ州セイラム。牧師パリスは娘ベティの病気を心配している。一緒に暮らす姪のアビゲイル、混血の召使のティテュバらと、ベティを含む村の娘たちは火を囲み踊っているところをパリスに見つかり、悪魔付きを疑われているのだ。そこへ続々やってくる村人たち、強欲なパトナム夫妻、信心深い老女レベッカ・ナース、そしてアビゲイルがかつて女中奉公していた家の主ジョン・プロクターら。彼らの言い分から、村人たちの歪な人間関係や土地をめぐる揉め事が浮き彫りになる。さらにジョン・プロクターは妻がありながらアビゲイルと関係を持ったことがあり(妻エリザベスに勘付かれアビゲイルはクビになる)アビゲイルは今もプロクターを愛している。

    悪魔祓いのため呼ばれたヘイル牧師、自己保身と金にしか興味のないパリス牧師、頭の固い判事たち(ダンフォースとホーソーン。ちなみにこの戯曲ではホーソーンのほうが冷酷な人間として描かれている)らの追及にあった娘たちは、次々に「魔女」として村の女性たちの名前を挙げ始める。プロクターを愛するアビゲイルは当然、彼の妻エリザベスを陥れようと彼女の名前も魔女として密告し・・・。

    もともとは、少女たちの一種無邪気な遊び(恋占い程度の)だったことが、やがて集団ヒステリーを引き起こし、言ったもの勝ちの密告合戦となる。ご近所トラブルの恨みなどから、どんどん相手を陥れ、信仰バカの無能牧師と判事たちはそれを鵜呑みにして次々と名前のあがったものを逮捕、魔女だと認めれば許されるが、認めなければ絞首刑。つまり嘘をつける者が生き残り、本当に正しい者は死ぬしかなかった。ものすごい狂乱。史実として最終的に200名近い村人が魔女として告発され、19名が処刑、1名が拷問中に圧死、2人の乳児を含む5名が獄死することになる。

    正直、読んでいるあいだずっと気分が悪かった。プロクターはじめ、妻を訴えられた男たちが妻の濡れ衣を晴らそう奔走するが判事も牧師も取りあわず、ヒステリックな少女たちの叫びのほうは信じる。アビゲイルの邪悪さこそまさに魔女。途中でヘイル牧師だけがやや正気にかえりこのきちがい沙汰を止めようとするがもはや集団狂気の暴走は止まらない。恐ろしすぎる・・・。どうやったら真実を証明できるのかというジレンマ、そもそも、真実など誰も求めていなくて、ただただ自分ではない誰かが苦しむことで憂さ晴らしをしているだけ。しかも正義の名のもとに。現代の炎上文化と照らし合わせて、いろいろ考えさせられてしまう。叩ける相手をみつけ次第、魔女だと叫べば正義は我にあり、みたいな。

    終盤、たとえ処刑されても自分を貫こうとするレベッカやプロクターの姿に美学を感じられることがかろうじて救いとなっているけれど、なかなかストレスのたまる読書だった・・・。

  • 2016年に、シアターコクーンで観ました。
    その時は史実に基づく話と知らず、いまひとつわからないままでした。
    戯曲を読んで少しは理解が進みましたが、魔女狩りは、いつの世にも、どこにでも存在している、という寒々とした気もちに…

    アビゲイルはevilなのです。

    プロクターは実際告白どおり悪魔に会い、交わってしまったと言える…
    だからといってこのような形で裁かれて良いわけではないのだけれど。
    罪とは何なのか。自分はほとんど宗教に絡まず生きてきたから、法律的な罪にしか普段は反応できないけれど、こうした物語を知り、そうした側面から赤狩りの罪深さをあらためて思い知ったりする。

    よい1冊でした。

    気になったフレーズはP19
    「組織というものは、二つの物体が同一空間を占めることができないのと同様、すべて排除と禁止の理念に基づいており、また基づかざるを得ない。秩序は危険を防ぐために作られたのであるが、その秩序の抑圧のほうが必要以上に強くなりすぎる時代が、あきらかにニューイングランドにやって来たのである。」

  •  17世紀、アメリカマサチューセッツ州にあるセイラムで起きた魔女狩り、魔女裁判の実話をもとに、戯曲化したもの。著者が取材した内容が戯曲の途中で解説で盛り込まれており、登場人物のリアルな像に迫っている。
     おれの仕事があまりにも忙し過ぎて、最近全然booklogを書けていなかったし、これももう1か月以上前に読んだ本で、記憶が薄れてきているが、集団ヒステリーの様子、騒動の発端となる女の子の演技(として描かれている部分)、それにつられる女の子たち、というシーンは今でも覚えている。あと、拷問で圧死することになる人が、石を胸(だったかな)に乗せられて、「もっと重く」って言って死んだこと、とか。あとは読みながら付箋を貼ったところを整理することにする。まず「アメリカでは、反動的でない考え方をする者はすべて、赤い地獄と結託していると糾弾される。これによって、政治的対立に非常な壁が作られ、文明社会における交流という従来の正常な習慣の廃棄を正当化する。政策は即ちこれ道徳とされ、政策への反対は悪魔の悪意とみなされる。ひとたびこういう等式が成立して効果を発揮すると、社会は互いに相手をおとしいれようとする権謀術数の巣となり、政府の主要な役割は調停者のそれから神罰をあたえる役に変わる。」(p.66)というのは、恐ろしい社会だなと思う。政策が道徳とすり替わる、ってあってはならないことだし。「反動的でない考え方」って何だろう?と思った。反動的なのがいいのか。あとは魔女がいるかいないか詰問されるところとか、本当困るよなあと思う。いないと答えると「(仰天して)信じられない!」(p.125)とか言われても。即それが聖書の否定につながる、と解釈される、というのも生きづらい世の中だなあと思った。あとは「訳者あとがき」のところで、「魔女の概念は、一つにはこういう狂信的な、欲望と本能をたえず抑圧して生きてゆかなければならない、一種のピューリタンの幻覚のなかから作りあげられた、一種のヒステリー症状である。こういう状況のもとで、個人的な、また集団的な宗教的狂気が醸成される。(略)彼らは、信仰のおきてを破るものにきびしい刑罰をくわえた。そうしなければ、きびしい禁欲と規律の生活をおくる自分自身に対してやりきれないわけである。」(p.271)という、もはや何のための欲望や本能の制御なのかよく分からない、本末転倒、という状況のように思える。「一般に、自分が抑圧されて苦しんでいるとき、他人をなんらかのかたちで苦しめると、それが抑圧のはけ口となり、ある種の快感を感じる。(略)神のおきてを守り人間を罪から救う行為であるという大義名分のもとにおこなわれる他人を傷つけることの快感と、神におってつくられたおなじ人間の肉体を傷つけ、あるいはその生命をうばうという矛盾や、良心の呵責を解決するための手段として考えだされたのが、悪魔やその手先である魔女である。だから、悪魔や魔女は、狂信的な宗教的幻想からうまれた恐怖のヒステリー的迷信であると共に、意識の面では、宗教を基盤として権力をもつ者が、自分たちがおこなう残酷な刑罰を正当化するための手段だったのである。(略)このようにして、罰する人間を、犠牲者であると同時に教唆者に仕立て上げた。悪魔や魔女にとりつかれただけなら犠牲者であって、ひどい罰をくわえるわけにはいかないからである。歴史上におけるユダヤ人や異教徒に対する迫害は、すべてこのような論理と説明によって遂行された。」(p.272)というのは分かりやすい。
     ちょっと前に読んだ猿谷要先生の本でこの本を知り、おれもセイラムに行ったことがあって読んだけど、最初は時代や雰囲気に慣れる時間が必要で、入りにくかったかもしれないが、途中からはスラスラ読めた。英語で読んでみたい。でもやっぱり感想がもっと早く書けるくらいの余裕が日常生活に欲しい(本と関係ないことだけど)。(23/10)

  • 「嘘じゃない?」と思っていることが、次第に本当かのようになっていく戯曲。
    人間の持っている弱さや脆さを感じながら、声に出して読むのがおすすめ。

  • 九州産業大学図書館 蔵書検索(OPAC)へ↓
    https://leaf.kyusan-u.ac.jp/opac/volume/1381058

  • 原題THE CRUIBLE by Arthur Miller

    1692年にマサチューセッツ州セイラムで起こった魔女狩りの歴史的事件を元に書かれた

    映画化タイトル 橋からながめても

    イギリス国王ヘンリー8世が王妃キャサリンとの離婚をめぐり、ローマ教皇と対立
    1534年に英国国教会をたてた

    1570年までは祈祷、教義はプロテスタント的
    儀式慣習はローマカトリック的

    1560年頃から、全てをプロテスタントのかたちに近くしようとする活動が見られた
    これがピューリタン(改革派)
    急進的改革派を、セパラティスト分離派
    彼らがメイフラワー号でアメリカへ

    ピューリタリズムには2つの特徴がある
    1禁欲的、娯楽排除、華美贅沢禁止
    2神以外の権威に屈しない


  • 2017年2月12日紹介されました!

  • 1692年マサチューセッツ州セイラムで起こった魔女裁判を描く。ここでミラーは人物の整理などを行っているが、ほとんどは史実そのものを劇化する方法をとった。「わたし達はそういう迷信に頼ることはできません。悪魔は綿密です」―迷信の横行する前近代の話ではないのだ。人々は、魔女の告発を受けてしまえば、告白するかさもなければ嘘をついているとして処刑されるしかない。現実の事件では19名の処刑者と、6名の獄死者がいた。告発された村人は200名にものぼったという。そして、これらはすべて法の正義と神の名においてなされたのだ。

  • これを単に「無知だった過去にあった出来事」として終えることはできない。今現在も、これと似たようなことはそこかしこで行われてしまっている。自分がその時代の、その場所での少数派になってしまうことに対する恐怖をどう克服すべきか、たとえ虐げられる側に経つことになってしまっても誠実さを失わずにいられるか。一人一人がもっと真摯に考えなければならない普遍的な問題が書き出されていると思った。

  • 18世紀末、だっけ?アメリカのセーラムであった魔女狩り事件をもとに戯曲化された作品。
    小娘のいたずらから、村を巻き込んだ魔女裁判に発展。
    いまでも記憶してるのはこんなセリフ(うろおぼえ・・・)。
    「だれもが恐れて真実を話したがらない!だから、神はこの村を選んで罰をくだされたのだ!」
    マッカーシーによる赤狩り批判の書として解説されることがあったみたいだけど…。
    現代の「魔女狩り」を考えるうえでも役立つかも・・・。

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