マイケル・フレイン (I) (ハヤカワ演劇文庫)

  • 早川書房 (2010年11月25日発売)
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本 ・本 (240ページ) / ISBN・EAN: 9784151400285

感想・レビュー・書評

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  • BBC Radio 3 "Copenhagen" 予習として。
    ベネディクト・カンバーバッチと量子力学、どちらも好きなので前々から楽しみにしていたラジオドラマである。BBC Radio は日本からもiPlayerで聴くことができるため、英語学習にもうってつけ。何より番組の質が素晴らしく、昨年から気に入って聴き続けている。

    まず、不確定性原理を扱った戯曲があるということにびっくり。作者のマイケル・フレインは物理学が専門というわけでもないようだし(大学の専攻はmoral sciencesらしい)どうしたらこのような作品を書こうと思い立つのだろう。「文」「理」の区別が日本ほどはっきりしていないということなのか。

    私にとってはボーアもハイゼンベルクも量子力学の教科書の中の人物なので、彼らが生きて動く人間として描かれているのは新鮮だった。ボーアの「法王」っぷり、ハイゼンベルクの才気走った感じ、ともに興味深く読んだ。(このハイゼンベルクをベネディクト・カンバーバッチが演じるのかと思うとにやにやする。)
    ボーアの妻マルグレーテも出てくるのだが、彼女のキャラクターがあまり好きじゃなかった。なんというか、天才二人の関係性に入り込んだノイズのように感じてしまったのかなぁ。もちろん劇の進行上重要な人物なのは重々承知している。

    原子爆弾開発については、まだまだ整理できていない。あの状況で原爆をつくらないという選択が人類に可能だったとは、現時点ではちょっと思えない。理論的に実現可能なものを実現しない、という選択はできるのか。
    もちろん、原爆開発に関わったことをあとになって後悔する人々の言葉をたくさん読んだことがあるし、その反省は無論あって然るべきだ。でもまさに「当時」開発を放棄できたかというのはまた別の問題ではないだろうか。
    慎重に扱われるべき事柄。もっと勉強する。

    物理学との関係についてメモ。
    そもそもハイゼンベルクの不確定性原理とは「交換可能でない物理量の組(運動量と位置、エネルギーと時刻など)は同時に測定誤差を0とすることは出来ない」というものであり、それ以上でもそれ以下でもない。「説明すればするほど曖昧に――不確定性が深まっていった」という一文に代表されるように、純粋な物理法則を人間心理のメタファーとして用いるという試みは、もはや物理学を完全に離れている。
    こうした科学理論の「拡大解釈」については、賛否両論がある。とりわけ量子力学はその象徴性ゆえに人文系のフィールドでもしばしば言及されることがあるようで、議論の的になることも多いようだ。(なお、数学でもゲーデルの不完全性定理が同じような立ち位置にある様子。)実際、理学系の大学教授がこの点で文系批判をするのも何度か目にしたことがある。
    本書のような文学作品に限って言えば、読む側が区別をわきまえている限りそう目くじらを立てるほどのものでもなかろうと個人的には思うが・・・・・・。

  • 戯曲

  • (後で書きます。作者あとがきが極めて充実かつ参考文献リストあり)

  • 初読

    舞台「コペンハーゲン」を観るために
    ウンウン唸りながらも大いに楽しみながら量子革命を読み
    当日の舞台を堪能し2ヶ月くらい置いて、この戯曲を読んでみたら
    もう理解に手こずる事態!
    ウムー

    舞台上の様々な情報に助けられたのだなぁ
    と改めて感じると共に、
    いつか絶対、相補性もコペンハーゲン解釈も理解してやるからな!
    という無謀な野望。

  • 裏表紙のあらすじで使われてる言葉を借りると「スリリング」。ただ、それだけじゃなくて…うまく説明できないけど、きっと長く残る作品。作者あとがきもきちんと訳してくれてるのが非常によい。

  • 10年ちょっと前に芝居好き(私を含む)の間で話題をさらった作品で、そのときに邦訳を探したのですが、見つけられず…そのままになっていた本。少し前にハヤカワ演劇文庫に入っていたのを知り、すかさず購入。紳士服地を使ったこの装丁が素敵。

    物理学の大家・ボーアとその弟子ハイゼンベルク、ボーアの妻・マルグレーテの対話劇。第2次世界大戦中のある日、ドイツに職を得ていたハイゼンベルクが、師の住まうデンマークのコペンハーゲンに彼を訪ね、何時間か過ごしたという事実があり、ゴシップ的にいえば、「その『空白の○時間』はどうであったのか?」と、3人がセリフを積み重ねていく。

    ナチスにくみしたかそうでなかったかという1点のみで、歴史的にはボーアは「いいもん」で、ハイゼンベルクは圧倒的「わるもん」である。でも、どちらもそこに至る理論を構築し、「論理的に可能」という段階を認識していたのは明白だし、そこから実験・開発技術が進み、「物理的に可能」という光が見えると、人間には「やれるもんなら」という欲が出る。自分が直接手がけなくても、助言を与えたり、印象をほのめかすこともできるだろう。彼らの研究の行きつくところに原子爆弾の開発があり、それにはアインシュタインも積極的に関わっているわけだから、誰かが引き金を引き、「やってもうたー」となるのは時間の問題であり、当然の帰結なのだろう。「やってもうたー」だけではいけないと思うし、かといって少なくともそう思ってくれないと困るとは、個人的には思うけれど。

    もともと穏やかな性格とはいえ、当時の物理学の頂点にいて「法王」とも呼ばれたボーアに対し、頭はおそろしく切れるけれども、どことなく危うさのあるハイゼンベルクは圧倒的に不利である。不利すぎてちょっと判官びいきになるかもしれない(笑)。しかもボーアには聡明な妻・マルグレーテがついている。ただでさえ「いいもん」であるボーア側につく人物であり、観客の代弁者の役もになっているので、見る側としては、男ふたりのやりとりよりも、彼女の言葉に共感することが多いだろう。感情的に演じれば簡単そうだけど、彼女はハイゼンベルクの人となりを本質的にとらえる冷静な目も持ち合わせているわけだから、難しい役どころだとは思う。

    会話が進む前提とされた設定がちょっと好みじゃないんだけれど、芥川龍之介『藪の中』を思い浮かべる構成と展開で、それぞれの置かれた立場と信条、信頼と嫌悪が半ばする師弟関係と辛辣な言葉がびしばし飛び交う、触れれば切れるような、緊張感あふれる劇だと思う。訳のうえで、「ハイゼンベルクがこんな言いかたするかなあ」と感じた言葉がひとつだけあって、そこが微妙な気もするんだけど、トータルで見れば許容範囲かと。

    巻末の、フレイン自身の解説がノンフィクション的で、登場人物がたどった道と、フレインの意図もみっちり読める。西洋古典からの引用もほとんどなく(と思う)、台詞のまま読める劇なんですけど、あの地名だけは比喩的に使われている(と思う)ので、準備しておいたほうがいいかもしれません…それにしても物理学、よくわかんないんですけど(涙)!

  • 不確実性とか原爆に関するボーアとハイゼンベルグのお話。 いくつかひっかかる言葉はあるんだけど、現代科学の背景を知っている人にとってはマイケルフレインはいつも期待を超えてくれないと思う。予想の範囲内で閉じている気がする。「相補性」という言葉を繰り返し使っているところは結構すき。でもなんか物足りない。

  • 観劇はしたものの、ちゃんと読んでいない作品。
    ハイゼンベルクとボーアの難解な量子力学・物理学談義が琴線に触れた。

  • 2010年12月29日読み始め、同日読了。
    先日読んだ「そして世界に不確定性がもたらされた」は、この「コペンハーゲン」を読むための前振りでした。「コペンハーゲン」は、ボーアとハイゼンベルク、そしてボーアの妻の3人しか出てこない戯曲で、ボーアとハイゼンベルク2人のドラマチックな人間関係を描いてますが、量子力学や不確定性原理のことは詳しく書いてません。なので、そのへんを知っておきたいならば「そして世界に〜」を読んでおいた方がいいと思います。
    ボーアとハイゼンベルクは師弟関係であったのに袂を分かち、さらに再会した時は、ボーアはナチスドイツに侵略された国民、ハイゼンベルクはナチスドイツのために原爆を作っていた…というのは悲劇的としかいいようがありません。この時代の物理学者は、科学の歴史にこれまでなかった人間の罪を背負わされてしまいました。
    しかし、こんなテーマの戯曲を書ける人材がいる欧米ってすごい、と思いました。しかし、この戯曲が受け入れられる理由として、ユダヤ人迫害、そして原爆開発、投下が欧米では日本よりも重い過去になっているのもあると思います。

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