- Amazon.co.jp ・本 (222ページ)
- / ISBN・EAN: 9784152077493
作品紹介・あらすじ
ベルリンの壁の崩壊後、初めて二人は再会した…。絶賛をあびた前二作の感動さめやらぬなか、時は流れ、三たび爆弾が仕掛けられた。日本翻訳大賞新人賞に輝く『悪童日記』三部作、ついに完結。
感想・レビュー・書評
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「悪童日記」三部作完結篇。前二作の背後にあった真実が明らかになる。
一応、双子がそれぞれどういうふうに生きてきたのか、前二作品の背景が明らかになっていくんだけれども、何が真実で、何が嘘なのかわからない。国境を越えるか否かの分岐点で分かれたひとりの人物とも読めるけれど、全て虚構であってもおかしくないと思った。
アゴタ・クリストフへのインタビュー記事もあり興味深い。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
『ふたりの証拠』よりも、これはいつの誰?という戸惑いが長かった。
本作が種明かしになるどころか、真実と嘘がより一層混じり合ってしまった。
アゴタ・クリストフの自伝的要素が入っているがゆえに、嘘は真実であり、真実は虚構。
とても完結篇にふさわしい内容だったとは思えないが、読後はこの物語から抜け出すのにふさわしい虚脱感があった。 -
二人が辛い人生を送らないといけなかったのは、戦争よりも親に恵まれなかったからでは。
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15年ぶりの再読。
なんて哀しい、哀しい物語なんだろう。
「ふたりの証拠」のラストで、悪童日記の「ぼくら」は
双子では、二人の人物では無かったかもしれない、
という事で急いで読み進めた第三の嘘。
なんでこれが名作なんだろう??と首を捻った15年前、
ここまでこの物語の印象がない、ということは当時全然わかっていなかったのだろうか。
いやいや、15年前とはいってももう成人してるぜ!
読書量だって当時の方が多かったくらいだし、そんなアホでもなかった筈!
しかし……という謎も残した(笑)
まだ嘘があるのかもしれない、という見方も多いようだが、
私はアゴタクリストフが逝去してるのを知ってるからの印象なのかもしれないが、
これは三部作で見事に完結である、と思っている。
リュカの外国での暮らしを読んではみたかったし、
それが書かれたらまたあらたなる事実?が判明したのかもしれないが。
リュカの母親によって起こってしまった事故によっての悲しみや、
クラウスの、母親がリュカを求めるあまり受ける仕打ちも悲しいが
、
「悪童日記」だけで良かった、という人も多い程の
人を魅了する「僕ら」が、創作であるーというか、
自分たち、として書いた彼らは実に普通にもがき翻弄される、
ただ一人の平凡な人間である、という事だった。
書く事は寂しさを紛らわせたり、孤独を癒す行為だったのだろう。
それを離ればなれになってしまった双子、僕らの物語。
皆が魅了される僕らの物語であった(悪童日記はけして光り輝くヒーローの物語ではなかったが)
というのが、なんとも哀しい気がしたのだった。
勿論、この構成にも見事にやられました。
またしばらく時間を置いて読み返してみたいと思います。 -
「ところが、ピューマは私を追い越し、そのまま悠然と歩いていくと、その前方、通りの端にいる一人の子供の足元に寝そべる。子供は、さきほどまでそんな所にいなかったのに、今は、足元に寝そべったピューマを撫でている。子供が言う。『おとなしいよ。ぼくのなんだ。怖がることないよ。人を食べたりしないから。肉は食べない。食べるのは魂だけ』」
第一の嘘は、双子が書いたという日記がLucas一人によって書かれたものだということ。
第二の嘘は、Lucasが書いたという小さな町の物語の中で、国境を越えたはずのC(K)lausが実際には国内に残り、国内のこととして書かれた物語は隣の国でLucasに起こったことだったといこと。
そして、第三の嘘は、戻ってきたLucas(Claus)に対してKlausが語る話。
もしも第三の書のLucasとKlausの話を根拠として整理すれば、すべての辻褄が一応合わされ、双子の謎は明かされる。何が嘘で何が真実であったかが解明され完結する、ということになる。しかし真偽の判断を、このどんでん返しの繰り返される三部作の最後の書の言葉に判断の根拠を委ねて下してしまってよいのか。いつの間にか引き込まれてしまったアゴタ・クリストフの虚構の奥深さに、眩暈がしそうになる。
第二の書では、第一の書の一人称の語りが一転して三人称の語りとなりメタな視点が与えられるが、それを双子の物語の中でLucasが書いた物語というような構造的な入れ子を示す変更である、と見ることもできるだろう。しかし、何かが引っかかる。この物語の主人公であるLucasの回りに登場する人物が、実際に国境のこちら側にとどまった筈のKlausの身の回りに表れる人物の面影を持つような気がする。するとこれはLucasが書いた物語ではなく、KlausがLucasを騙って書いた彼自身の物語なのか。であるとすれば、この第二の書は厳密には嘘ではない。すると嘘の数の辻褄が合わなくなる。たった一つの物語の裏表が入れ替えるだけで、全ては一転不確かとなり、何一つ解決できない。恐ろしい小説。
例えば、第三の書はLucasとKlausが各々一人称で語る物語である。一般的に、物語が一人称で語られる時、読者は主人公が物語の終わりでも存在しているだろうと思いこむ。そうでない場合は、その語りは手記として残されたりするような心理上の辻褄合わせが必要だ。一見したところ、第二部でKlausに残された手記があるという説明があり、その一部として第三の書の第一部が残っているようにも錯覚するが、残された手記は新しい紙に書き直された物語、素直に読めばLucasが書き直したはずの第一の書がそれに当たるはず。するとやはり第三の書の第一部を書いた人物Lucasは、心理作用としては死んでいない状態を想定しなければならなくなる。そして第二の書はLucasではなくKlausがLucasの残した手記の続きを自分の人生の出来事をLucasになぞらえて書いたと見るのが自然であるような気がする。しかし第三の書の語り手は残された手記の著者は死んだとする。そこに微妙な隙間が生じ、やはり双子は一つの肉体を持つのではないかという疑問が再び湧き上がる。存在していない人間は死ぬこともない。この驚くべき三部作は、ゆるぎなく解決することを拒む。
第一の書から第二の書への手触りの変化に増して、第三の書で再び大きな手触りの変化がある本書は、驚き、という言葉で表現するのが最も適していると思う。ここには既に誰かを鋭く刺すような警句は見当たらず、あるのは現実に打ちひしがれた人々の夢想のアイロニーばかり。そしてその印象が再び新たな錯覚を生みだす。この三部作がKlausが作り出した想像の物語であって、彼は幼いころに亡くした双子の兄弟にばかり愛情を注ぐ母親にうんざりしながら、現実ではない物語を夢想したのではないか、という錯覚である。その錯覚は物語として本の中から完全に抜け出し切りはしないけれど、一つメタな世界へ跳躍するエネルギーがある。すると、書かれてはいない物語、この本を書き上げたKlausが彼の「大きな帳面」を閉じる姿が記した物語が想像される。そして、本を閉じるシーンが連続して二度繰り返されるようなイメージが沸いてきてしまうのを止められなくなる。 -
再読。
ラストの見事さよ…。
読み終えてすぐ、また第一部から読み直すループに入りたくなる。 -
三部作ですが、『悪童日記』のまま終わっても良かったのでは、と思わないではない。でもそれは単に美貌の双子(と若さ)に勝るものはない、ということなのかも知れない。