- 早川書房 (1995年8月30日発売)
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Amazon.co.jp ・本 (256ページ) / ISBN・EAN: 9784152079077
感想・レビュー・書評
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街を歩く女を見ながら、こういう女が魅力的だ、こういうファッションは美しくない、というような話をするのはとってもいいものだろう。
友達と会ったとき、そのファッションについて、いいと思ったら褒めるけれど、ダサいよと思った時はダサいとは言わずに、そういう服好きなの?とかその服の特徴をただ言葉にしてみる。
私と友達とは好みが違うから、その友達の好みに口出しするのは良くないのかなと思うからだろうし、まず友達を非難することがない。
これは“相手の個性を認める”ことなのか?
相手に踏み込まないだけではないか?
踏み込まないのが尊重なのか?
私の感覚(そのファッションはダサい)を伝えないことが尊重?
相手を尊重するというよりも、私の素直な思いを控えることだ。
関係は悪くはならないけれど、深まることもない。
一緒にいてもつまらない会話を続けることになる。
2/4くらいのところで出てくるブリジットという友達は、待ち合わせて会うときに、何その服、とか言うらしい。
魅力的な女になりたいということが互いに分かっていて、そう言うことを平気で言えるのだろう。
いいなそういうの。ファッション好き。軀好き。姿勢好き。
drift 浮遊 エゴイスティック 昼食を抜く 1人の孤独な時間 スーパーで食材をまとめて買う家庭を持つ女 パンや牛乳や出来合いのスープを少量買う女 自由
私は、若いうちは美しく植物ように形態でありたいと思う。意味を持つ形態。
しかし、時と共に美しくなくなっていくだろう。
その時、毎朝洋服を選ぶ楽しみが残っているだろうか、街で人の視線に飢えるだろうか、ベッドで何を思い眠りにつくだろう。
そうなったときに、子や家庭があれば、何かの代わりになるのだろうか?
私はそういう、自分に関心がなく自分でどうにかしようとせず、誰かに依存するようなことは嫌いだ。
性的なものから離れたとき、それ以外に興味深いことを見つけられるのだろうか?
先のことは分からない。
私は結婚し子育てしたことはないから、そのことについては分からないが、私の両親の関係を思い浮かべてみた。
高卒で就職した母親と大学を出た父親。
母親は、勉強をし知識を得ることで職につくことを望んでいるようには見えなかった。
特に専門性のないパートで9-15時くらいの時間帯で働いていた。
料理、掃除、洗濯、子供の世話をしていた。
休日は、父親に洗濯や掃除をやってよと漏らしていた。
母親は、出張でいろんなところに行く父親を良いねと妬み、父親には「仕事だから」と言われていた。
母親は旅行に行きたがった。
1人では行かずに、高速に乗るのは怖いと言い、電車はよく分からないと言った。
私の母親は、子供と共にいてくれる存在であったが、社会について人との関わり合いについて見本を見せてくれるような感じではなかった。
旅行に行きたければ、自分で行き先を決め予約を取り交通手段を決めて、家族に提案したり、1人で行ったりすればいいじゃないかと思っていた。
そしてファッションにも強い興味はなかった。
仕事が全てというような人ではなかった。
私は、学生としてただ学校へ行き勉強をする間、何か職につかなければならない未来について具体的に何も思い描けなかった。
父親からも母親からも仕事の話はあまり聞かなかった。
工芸家や木工職人になりたいと思ったが、資格を取って確実に職が存在するだろう道に進んだ。
文学部経済学部理学部工学部それらから直接何になるのかよく分からなかったしなりたいものもなかった。
今は、造園庭園、樹木学、植物形態学、ファッション、文学、肉体、に興味がある。
今でも仕事について興味がなく、しかし失敗をするたび自分は役割を果たさねばならないのにそれができていないなと反省して最低限知ろうとすることでなんとかやっている。
役割を担う上で知っていなければいけないことを興味がないからと知り尽くさず、失敗をしてここを知らなかったということに気づき、私が役割を果たせないことは他の共に働く人の役割をも果たせないことになり迷惑をかけることになる。
迷惑をかけて肝が冷え役割を知るようになる。
役割分担の一部を担い、その一部が全体に迷惑をかけることになる。
私は形態のみでお金を得て生きる者ではない。
興味のあることでお金を得ようとしないのか?
・ファッションと肉体と植物形態学→路上を私が気に入ったファッションと肉体で歩く。
・樹木学と造園→樹木医、造園会社、庭管理、植物園の人
・文学→作家
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アニー・エルノー『嫉妬/事件』の次にこれを読んでみる。
ひとりの女性の幼少から大人まで。
独り言をまくしたててるような、短い分の連なり。
特に少女から大人に移行していく十代後半の脳内は、特有の悩みが充満する。比較、否定、肯定…繰り返し。
この十代の気持ちが必死に一つに、自分のアイデンティティにしようともがいている様子から引き込まれるように読んだ。自分にも覚えがあるからだろう。
結婚してからの現実。よくある不満だ。女はこうであらなければならない、男はこうあるべきだからね。
夫婦がどちらもバランスよく過ごすとしたら、話し合いしかない。
話し合いができないなら、どちらかが我慢を強いられることになる。
私だったら、主人公のように追い込まれるなら、怒り爆発で喧嘩するけどね。
小さな子の子育てと仕事だと、仕事してる方がラクと感じる場合はある。そっちの方が多いかも。
ブラックで働いてる人はどうしようもないけど、仕事にやりがいとか面白さがあれば、子育てより面白いからね。
仕事して、家に帰ってご飯があり、ちょこっと子供相手してくつろげるなら、そりゃ精神的にもラクだわ。
やっぱり、子育てと家事は当たり前になるぐらい分担する、助け合う関係じゃないと、どっちか壊れるね。 -
幼少期から二児の母で高校教師として勤務しているところまで、長い時間を、ひとりの女性の心の中にずっと住まう感覚で読むことになりました。女性を通して、成長の過程で関わる親族や友人、夫、子どもに対する言葉を受け止めることになるので、もうひとつ人生を生きた感じがします。
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日本は海外と比べて開けていないと思い込んでいたけど、どこの国でも立場や性別で差別されていた時代があったし、今もあるのだろうと思った。
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「場所」や「ある女」、「シンプルな情熱」より、前半部分は少し読みにくかった。
日本と同じく、フランスの男尊女卑が当たり前のことだったということがわかったが、アニーエルノーが、自分の両親よりも大分前に生まれている世代なのだということに驚く。今でこそ日本でも認められつつある男尊女卑だが、その世代の人が、結婚当初には既におかしいと感じていて、1981年に本にしているという現実が、日本の遅れを感じさせられた。
現代のフランスは、どうなのか?日本と同じように、性による役割分担が、未だに染み付いているのだろうか。知りたくなった。
『女の場合、やる気はどれもこれもひとりでに、必然的に失せていく。』とは、まさに昨日私自身が夫に喋っていたことと同じ内容だった。女の場合=子育てではあるが。子育てをしていると、自分自身の興味関心好奇心なんて、それどころではなくなり、その内、それらはなくなっていく。もちろん、アニーエルノーと同じように、私は子供が可愛くて可愛くてたまらない。けれど、それとは別次元の戸惑い、空虚なのだ。 -
フランス女性作家として邦訳、これが4冊目というが・・全く 知らなかった。刊行は1981、当作の邦訳は30年弱前。
ありきたりの言い方ながら、さすがフランス女性としか・・言いようもない。
フランス女性と一括りにするのは大嫌い・・日本女性だって、同年代でもピンキリ、多種多様。ただ言えるのはフランス女性のお手本と言われるのがボーボワール、日本女性のそれは円地文子、有吉佐和子。
読み始めて一驚するのは饒舌体。心に秘めた思いを吐き出すかのようにすごい勢いで語り続けて行くのが伝わってくる。改行はない、さすがに句読点はあるが、それだけで作家が内面に秘めたパッションを受けとめる。
巻末に有る訳者の解説中~
「筆者がこの作品を 『小説』と銘打ったのは 自らの軟弱性にある・・と。なぜなら、自分の歩んできた途をありのままに語り、想いを綴っているのに。それってノンフィクションであろう と。
題名の由来は「最初は同じスタートラインに立った男女 男と女が≪夫はエリート社員、妻は凍りついた女≫となっているニュアンスからだろう。
薄いとは言え一気に2時間もかからず読める。行間の空気が跳ねるのが分かり、ざわめき、におい、騒音、感情のうねりまで伝わってくるよう。
誰にでもあったであろう心身の疼き、自我の目覚め、そして性衝動~自らの性を語りはしても 徹底して生きる事が出来るとは思ってもみなかった・・と述べる。
男の子たちは「難しい事を考えない素っ裸の女に乾杯」し 「オスの自由に対して人びとはとても甘い」と綴る。
結婚して、家庭をすべからく動かすことは 女の仕事・・そんなシュールレアリスティックな生活を嘆く彼女に夫は「お前、トイレに立って小便しろ」という。
毅然として譲らない父親と一言も言わない母親・・子供の情緒安定に申し分ない環境・・なんだろう。奥さんが誇らしげに呼ぶ『男の人たち 食事よ」の空気感。
筆者の冴えたひりつく感性が溢れた絶妙な作品・・いや自叙伝だった。
アニー・エルノーの作品
