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本 ・マンガ (224ページ) / ISBN・EAN: 9784152085566
感想・レビュー・書評
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SF少年だった。
でもその頃はライトノベルなんてなかった。出版される本の数だって、そもそも情報源もなかった。
ついでに言うとインターネットもなかった。
今十代のガキだったら、二次創作でもするんだろうか。いやもっとほかのことで忙しいのかも。
まあそんなわけで、何回りも年月が回って、
星新一さんもいなくなり、小松左京賞も消え、栗本薫氏は「グイン・サーガ」を書き残したまま逝ってしまった。
誰しもが自分の(人生の)着地点を知っているわけではない。
あれだけ心酔した平井和正氏にしたって、今熱心なフォロワーであるわけではない。
少年「ウルフガイ」の結末も実は読んではいない。青鹿晶子先生のえろい姿を見るのは、ヤングチャンピオンのマンガの中でだ。
でもそれにしても、現代においてもウルフガイの血が脈々と受け継がれているというわけだ。それはそれですごいことだ。
でも、あの時代、成熟しかけた日本のSFについて、乏しい情報源をもとに語り合った、あの岡山のサイキンシャ(字がわからないがそういう本屋が商店街にあった)や紀伊国屋の光景は今でもありありと思い出せる。
そして、先日ふと本屋で手に取って、ハヤカワSF文庫なんざを購入に至ったのは、
なんか思うところがあったのかもしれないな、と、無意識下の自分に問うてみたりもしたのだが。
ゼロ年代SF傑作選 (ハヤカワ文庫 JA エ 2-1)早川書房
凹村戦争 (ハヤカワ文庫 JA ニ 2-1) 西島大介
“ゼロ年代SF”とは、2000年代になってSFプロパーに姿を見せた作家/作品を総称する名称である
(SFマガジンの塩澤編集長により、“リアル・フィクション”というキャッチフレーズで呼ばれていたこともある)。
・・とのことだ。なるほど。
オーソン・ウエルズ、HG・ウエルズ『宇宙戦争』、キューブリックの『2001年宇宙の旅』
カーペンター『遊星からの物体X』、スペース・インベーダー、ナゴヤ撃ち、カート・ラッセル、
『プリズナーNo6』、『ロッキー』、『ランボー』のスタローン、確かに原題は『たった一人の軍隊』だった。
おー懐かし『爆裂都市』、『未知との遭遇』、岡崎京子『リバーズ・エッジ』、村で唯一文化的なレンタルショップ・タツヤ。
いろんなノスタルジーで作り上げた閉塞感に満ちた別の可能性。
どこにも行けない自分とどこにでも行ける自分が同時に存在している水槽の中。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
●全1巻●携帯の電波も届かない、新聞は半月遅れ、半隔離された凹村。ここで、高校受験を控えた凹沢が主人公。「この平和な村がどうかなっちゃえばいい」それは小さな願望。凹村の上空を飛来する謎の物体「X」。ゆるい感じで、絵柄もおだやか。しかしながら驚くべき話の展開を持つSFマンガ。http://blog.livedoor.jp/yuzuki6/?blog_id=1811041
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いや、まいった。なにから書き出していいか、実際今戸惑っている自分に気づく。結論から言うと、これらの作品は今、現時点において日本という社会の中で形成された文化の最エッジの部分を象徴、表象するものであり、今後の文学、漫画等のユースカルチャー/サブカルチャーはこの土台の上に成立してゆくだろう。そうあるべきだとおもう。
宮台真司のいう、終わなき日常を生きるというタームをそのまま受け取るかどうかは別として・・・、これらの作品はこの荒れ地の中からの再生を希望する。終わりなきと断言されてしまった絶望はあまりにも深く、一度彼らの世代は世界を抹殺されてしまっているのだ。彼らの世代による数多くの事件があり、その度に世界は殺され、試され、確かさへの期待を抱かされ、失望を与え続けたに違いない。かろうじて現実として存在するのは、TVの向こう側にある東京という巨大な虚構だけ、それ以外は退屈に支配され、確かさの実態を失い、ただセックスや快楽の消費という強度にしか信を置けない世界に成り果てている。正しきものは死に果て、欲望と同義の自覚されない悪意だけが怪物のようにはびこる。それすらも実体を持たず、ばかばかしいまでに空虚で真実みのない世界。
そうこの作品はセカイ系だ。だがそんなカテゴライズの必要がどこにあるだろう。「セカイ系」とのかぎ括弧は、自分とセカイとの関係を単なるモードやタームに回収する事で、自分を安全地帯に置こうとする、モラトリアムの格好付けにすぎない。セカイとの関係の中でリアルな交わりを切望する事、これ以外の生きる意味って何だ??
ファウスト後の世代に共通とされる「セカイ」に対する認識、これらの「わたし対
セカイ=世界」の対立図式が生み出したものは、果たして空虚でバーチャルな若者の戯れ言なのだろうか?????。否である。全くそうではない。彼らの世界認識は「わたし対世界」の最深部へ、すなわち世界の成立の秘密の領域のと場口に立った。それは生と死の永遠性、自己存在の永遠性、魂の永遠性、フラットな現実の否定による多層現実への参入、世界認識のオカルト化を指向する。彼らはこの事に対して自覚的なのか?判らない。舞城王太郎、西島大介は自覚的なのへはないか。彼らの作品の生死、あらゆる常識的な意味での必然性の意図的な無視・破壊、因果律が心的現実によって規定されているという認識などはこれらを特徴づけるものだ。
磯辺涼の「ヒーローはいつも君をがっかりさせる」に書かれているフューチャーテラーを生んだ千葉の景色と、凹村戦争で書かれる景色は同じ景色だ。そして「ヒーローは〜」に書かれるミュージシャン達の奏でる音と世界と、西島の世界は完全にリンクしてる。人脈的にも、世代的にも共通しているのではないか。しかし、俺の住むこの世界も同じ景色として見る事ができる。そしてこの作品を読む、静かに狂える20代前半の若者達も同じ景色をみていることだろう。
これらの意味合いに置いて、この作品は現代を明らかに素晴らしくシャープに切り取った作品である。そして西島はさらにその先の、既に失われていると思われた物語へ向かう。こんなに荒れ果て、無造作に打ち捨てられた世界へ、ただひたすら行為せよ、歩き続けろと誘う。そう、この向こうにまだ誰にも書き得ていない物語、書かれていない世界が作られてゆく事を示唆して。そしてこの意味に置いて俺も共感できるのだ。ほんとうに何もない、まだ生まれ得ていない世界があるという事を俺も忘れてはいなかったのだから -
なんとなく自分がいたような
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気楽に構えろ。自分の思うがままに生きればよい。勇気をもらえる。ちょっぴり甘酸っぱい。
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まさかの展開にまさかの展開。
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西島大介の本は今まで2,3冊読んだが、たいして面白くなかった
だから期待せずに読んだが
面白いじゃない
閉塞感たっぷりで始まり
どうしようもなくテキトーでデタラメでフツーな世の中を
青春を生きる若人たちと、青春を生きた大人たちが
どうしようもなくテキトーでデタラメでフツーに生きていき
途方も無い開放感で終わる
そんな物語
ところで誰か知りませんか?
俺の受験会場? -
中二病全開なのが素晴らしい。
現実逃避といえばそうなのかもしれないけれど、楽しい妄想とつまらない現実ならばどちらを選択するかはもう決まりきったようなものじゃないだろうか? -
よーわからんが それが日常でOK 考えて進むのもOK
適当に 時に建設的に ほとんど妄想的に それぞれの人生は進む
またいつかどこかで会えればイイですね
あの小説の中に集まろう〜♫
小説じゃなくてマンガだった
著者プロフィール
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