夜中に犬に起こった奇妙な事件 新装版

  • 早川書房
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感想 : 85
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  • Amazon.co.jp ・本 (382ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152087959

感想・レビュー・書評

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  • 主人公のクリストファーは、人の表情が読めず、コミュニケーションやふれ合いはとても苦手ですが、科学や数学が得意。

    ある日の夜中、隣の家のプードル・ウエリントンがフォークで刺されて死んでいるを発見します。
    自分に犯行の疑いがかかってしまったため、シャーロック・ホームズ好きの彼は捜査を始めます。

    町中にあふれる情報の波をかき分け、電車に乗ることも決死の大冒険。直面する様々な出来事に戸惑いながらも、それらを乗り越え少しずつ成長していくクリストファー少年。

    捜査を進めるうちに意外な真実が明らかになります。後半は家族の物語になります。

    彼の目を通して語られる、何気ない街の風景は、新鮮で美しく感じられます。
    そんな彼がつづるこの物語は独特の雰囲気が漂っています。合間に語る数学や物理学の話がとても面白いです。素数の話だったり、銀河系の話だったり。

    いきなり2章から始まることに面食らうかもしれませんが、その理由はぜひ読んで確かめてください。

    図書館スタッフ(学園前):てば

  • 僕に情がないのか?読み方が悪かったのか?
    帯で大げさに書き連ねてあるほど、感動はなかった。

    まるで主人公のクリストファーのように、淡々と読み進めていったよ。

    アスペルガー、もしくは高次自閉症の思考を追体験しているみたいで、それはそれで興味深かったけどね。
    ここに感動がうまれる理屈は、主人公と読者との間にある感情のズレがキーポイントなんだろう。

    状況を詳細に記述するクリストファーの小説と、それを覗き見ている読者との間にある様々な事件に関する感情のズレだ。

    本来なら、泣くかもしれない、ショックを受けるかもしれない、悲劇のヒーローに自分を落とすかも知れない。
    そんな、『正常な感情』の反応を起こさない彼の代わりに、我々が泣くっていう道理だ。

    ただ、僕はそうはならなかった。
    どちらかといえば、もっとクリストファー側にいて読んだ気がする。
    だから、彼がまた日常を過ごすように、僕も淡々と日常に戻れたのかもしれない。

  • タイトルの事件は犬がフォークで刺されて死ぬという主人公が考えた小説のストーリーによる。犬の事件がメインではない。章の進みがやけに早いと思って途中で素数と気づく。

  • ぼくはこの本が気にいった。
    なぜなら、この本を読んでいる間ぼくは"ぼく"になれる、今日怒った嫌なことやお金がなくて困った、などということを考えなくてすむからです。
    悲しいとか嬉しい、という感情表現がないので、"ぼく"の視点で世界をみれる。


    これはクリストファーの物語だけど、その両親の物語でもある。
    自閉症の子を持つ事の大変さがリアルに伝わってくる。
    それでも、クリストファーに対する二人の愛情は素晴らしいよ。たしかに間違いもおかしたかもしれないけど、こんなに子を想っている親、素晴らしいじゃないか。

  • 高機能自閉症または、アスペルガー症候群の特性を持つ15歳の男の子クリストファーが、自分の体験や内面を、ミステリーを書くという目的で現した形となっている。その為、感覚が鋭すぎるので初めのうちは読んでいて混乱しました。が、次第にわかってきてどんどん面白くなりました。
    起こる出来事は、かなりショッキングではあるが、主人公が、頭を整理し、自分なりにトラブルを避け、安心出来るよう努力しているのが良くわかる。
    2018追記 最近、小学校の先生に紹介したら、面白い!と、次の先生へ、また別の校長先生へと広がっているそう。特別支援学校でなくても、教育関係の方は読むと概念が揺さぶられる感覚で刺激になると思います。

  • 舞台を先に見ました。原作もとてもおもしろかった。児童書作家の作者が初めて大人向けに書いたものだけれど、出版社が子供・大人どちらにも向けて出版しようと提案したそう。たしかに幅広い年齢層が楽しめる本。ヴァージニア・ウルフ「波」からの引用があるけれどとても深くて何度も考えてしまう。

  • 面白い!!ものごとはこんな風に捉えることもできるのか、と自分の見ている世界が広がる気がした。
    アスペルガーの少年クリストファーが書いたミステリ小説、という設定で、視点や感情の動きはあくまで書き手であるクリストファーの感性で物語が進んでいきます。しかし本編には主人公が自閉症だとはひとこともかかれていません。けれどもこういう性質の子はどこにでもいて、彼らと共に生きていくというのはこういうことなんだなと思う。
    舞台がイギリスだからなのか、この書き手だからなのか分かりませんが、クリストファーの言動に対する周りの人たちの反応が優しいというかなんというか。干渉はしないけど見守る。それは、自分とは関わりのないこととして遠目に(あるいは冷ややかに)見るのとは全然違う。日本にはどうしても後者が多いような気がする。わざわざ“彼は自閉である”なんてことは知らなくても、こうやってそっと見守ってあげればいいだけなのに。こういう彼らの特質を知ることが本当に大切。そして家族や周りの人よりもだれよりも、本人が本当に大変な思いをしているんだということがよく分かる。
    それにしても、多くの「定型発達」の人々の見ている世界が、いかに不条理で非効率的であることか!(私自身が限りなくグレーに近い性質だから共感出来るのかもしれませんが…)

    ※翻訳小説ですが、ここにカテゴライズしときます。

  •  高校のとき、英語の授業でこの本の原著("THE CURIOUS INCIDENT OF THE DOG IN THE NIGHT-TIME")を読んで、その補助としてこの日本語版を読みました。数年経った今、ふと読みたくなり、本棚から引っ張り出しました。
     改めて、自閉症への理解の深さとその表現力に驚きました。また、翻訳も、日本語の表現力を駆使し、その世界観をさらに深いものにしていると感じました。
     物語については、「無理だと思っていたことを乗り越える勇気をもつこと、その勇気があれば乗り越えていけること、それは今後の自分の人生を豊かにしていくために必要な『自信』になるということ」というシンプルなメッセージが、今の私にはすごく響きました。

     英語の教材としては、その世界観と内容を理解する(そもそも自閉症のある程度の知識がないと難しいのでは?)にはかなりハイレベルではあるとは思いますが、日常的な慣用句や言い回しを勉強するには最適だと思います。なぜなら、主人公も同じように一般的な人の言動に疑問をもち質問してくれるからです。また、彼は作中で自身のことを詳細に説明してくれるので、それもまた勉強になります。

     またいつか読み返したいです。

  • 自分の知らなかった世界、「彼に見えている世界」を主観的な視点かつ客観的な分析で活写。クリストファーの母親もこの本読めばよかったんじゃないの(矛盾)。父親にも問題はあるけど、それでも彼らの愛がこの先少し報われるといいな。

  • 『それぞれのアルファベットに1から26までの数値をあてはめてみる(a=1、b=2というように)。そして頭の中でその数字を足していくと、それは素数になるのがわかる。JESUS CHRIST(151)とか、SCOOBY DO(113)とか、SHERLOCK HOLMES(163)とか、DOCTOR WATSON(167)とか』-『47』

    「博士の愛した数式」か、「アルジャーノンに花束を」か。それは外からは通常伺い知ることのできない、複雑で、知的な世界の描写。小川洋子は、表情や一般的な行動としては表われてこないその内面の心情を、数式を通して世界に伝えようとしている様を、第三者の気付きという視点から描いた。一方ダニエル・キイスが描いたのは、特殊な事情によってその内側に閉ざされた世界が外側に広がってくる物語。

    マーク・ハッドンは、「アルジャーノン」の設定と同じように内側からの視点で描く。外の世界から自分に係わってくる人を(そしてそこで起こる困難を)描くことで、その狭間の大きさを描いている、とも言えるかも知れない。しかしどちらの側から描くにしても、その間にも確かな繋がりが存在し得るということを描く点は、この本でも共鳴していること。よしんば、その繋がりが同時進行の矢印が向き合ったようなの繋がりではなくて、一見互いに一方通行のように見えてその実お互いを支え合うような矢印の循環のような繋がりであったとしても。

    考えてみると、そんな風に閉ざされた知的活動の世界を、全く別のものと思ってしまうことがそもそも間違った問いの立て方であるかも知れない。普通に会話を交わすことができていると思っている人々の間にも、そのような理解の断絶はあるだろう。むしろ一見存在していると思える断絶を越えようとする努力があるからこそ、理解の補完が起こるのだとも思える。言葉の無力さを思う。

    ペットのネズミ。その描写を読む限り、それはハムスターであるように思えるけれど(果たして原文では何という言葉になっているのだろう)、その言葉の響きからは、マウスやラットというイメージが喚起され、実験用、という修辞がたちまち結びつく。そこまで連想が繋がれば、アルジャーノン、のことを思い出すのは、ほぼ必然となる。もちろん、読後感は全く異なるのだけれども、そんな風にダニエル・キイスとの比較は案外そこかしこで喚起される。

    但しダニエル・キイスが描いたのは、振り返って考えれば、二つの世界のギャップを科学の力によって、ある意味物質的に無理やり繋げてみせようとする物語。一方マーク・ハッドンはそのギャップを精神的な働きかけによって繋いでみせる。その物語のあり方は小川洋子の描いた世界とほぼ同じものであると思う。

    しかし二つの作品がほぼ同じ世界観で成り立っているといっても、イギリスを舞台としたこの物語は、石畳や人工物に囲まれた世界の中で起こる物語で、自然との繋がりがほとんどないという印象が残る。唯一人間が制御できないもの自然のモチーフがペットである動物なのだ。しかし小川洋子の物語には土のにおい、草のにおい、植物のにおいがする。そればかりか、野球という確率でしか捉えることのできない人間の営みも人間の制御できないものとして登場する。その違いが実は、同じような物語でありながら、「夜中に犬に起こった奇妙な事件」に対して、どこか「作り物」というような印象を生む原因となっているような気がする。但し、それは日本人的視点に絡みつく印象であるとも思ってはいるのだけれども。

    『しかし煙は煙突から大気のなかに出ていくはずだ。だからときどきぼくは空を見あげて、あそこにはお母さんの分子があるのだと思う。アフリカや南極の雲のなかにあるのだと、あるいはブラジルの熱帯雨林の雨や、どこかの雲になって降っているかも知れないと思う』-『61』

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