- Amazon.co.jp ・本 (321ページ)
- / ISBN・EAN: 9784152089854
感想・レビュー・書評
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懐かしい作家だ。
30年前は新刊が出るたびに買っていた。元々チャンドラー信者な訳だが益々、会話が鼻につく様になって来た。硬派なハードボイルドを読みたいのに哲学者を気取るオヤジの独り言に付き合う事になる。
「約束の地」までが楽しめた作家だな。 -
鉄板の・・・
裏切らない
「きみが調べてくれ。
私は珈琲の問題に取り組む」
いいですねえ~~ -
敵弱すぎ。スペンサーとスーザンが結婚について語り合う話。
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スペンサー・シリーズ第35作。妻の浮気調査を依頼されたスペンサー。ところが妻は何者かに殺害され、さらには依頼人も姿を消してしまう。過去の自分とスーザンを重ね合わせつつ、真相を追及するのだが。レギュラー、準レギュラーの登場ににんまり。それにしても、「結婚」についてここまで語り合った二人の姿ってあっただろうか?
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スペンサー,自分の過去に向き合う。
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私立探偵スペンサーシリーズの、35作目(!!)の作品。スペンサーはボストンに住んでいて、かつ、これまでの作品を読んだ記憶によれば、MLBが好きだったような気がするし、レッドソックスに関する記述も小説中に何度か出てきたような気もする(あれ?そうだったかな?ローレンス・ブロックが書く、マシュー・スタガーがNYヤンキースのファンだったということだったかな?)。という訳で、いつかこのシリーズに、松坂や岡島の名前が出てきたら面白いのにな、って思ったりしている。
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前作でエイプリルの久々の登場を見たと思ったら、今度はスーザンを失った一時期(『拡がる環』『告別』『キャッツキルの鷲』の三作の頃)の痛手を思い出させられるスペンサーの章となった。
エイプリルはあの三部作の前後編で登場したのだ。一度目は、『拡がる環』の前の『儀式』で、二度目は『キャッツキルの鷲』の次作『海馬を馴らす』で。だから、今回も符号のようなものを感じさせられる。歳をとったスペンサーとスーザンは何十年も前の辛かった時期を回想させられる。
強引な持ってゆき方だとは感じる。これまでそう言えばスペンサーは浮気調査というものを受けなかったような気がする。浮気調査を依頼する男を見ただけで何十年も前のスーザンの浮気を思い出し、心が病むような思いに駆られているスペンサーは、ちょっとばかり不自然だと感じてしまう。でも作者の意図がそこにあるのだから、甘んじて、大して出来のよくないサブストーリーも飲み込むことにしよう。出された料理は余さず食べよう。
パーカーの意図に反するかもしれないが、本筋の方が、もちろんずっと興味深い。依頼人の夫婦が浮気というだけでなく、さらに深い闇の組織に関わっていたことがわかってくる段階で、組織は動き出す。暗殺テロ集団が、動き出す。
スペンサーは、FBI支局長エプスタインとの連携を開始するが、主な部分は明かさない。自分で組織を潰そうと考える。その動機はサブストーリーの方にある、というように作者が導きたがっており、まさにそのようにプロットは展開しているのだが、どうもそうではないというようにぼくは解釈する。読み手にも自由はある。
すると、物語は先だって読んだばかりの『レゾリューションの対決』と同じように集団活劇の様相を帯びてくる。そう。こちらの方がずっといい。プロ軍団であるテロリストたち。証拠を一切残さない死体がヴィニイ・モリスの掌に握られた拳銃の硝煙の後に残される。テロリスト対殺し屋助っ人集団という単純な構図。
ウエスタンのようなわけにはゆかない。ボストンという大都会だ。スーザンの診察室が砦となる。挑戦状を叩きつけたスペンサー。エプスタインは愚か、スーザンやホークからもいつもの彼ではないと指摘される。スペンサーは、過去に狂っているという設定なのだ。仕方がない。ぼくはいつものスペンサーの対決せずに入られない直情型性格に原因があるとしか読んでいない。読者の側の自由。
9・11以来のテロリスト集団を相手取る、ホーク、ヴィニイ、チョヨ。スーザンを護衛する役を引き受けるクワーク、ベルソン、ファレルといった刑事たち。ほぼオールスターキャストに近い。非合法的解決を望む合法的組織のあまりに都合の良い協力体制にいつもどおり疑問を覚えるが(神経質な書評家を寄せ付けぬ猪突型プロットだ)、ウエスタンだと思えば気にならない。
活劇を活劇として楽しむ。男たちをこれ以上強いことが考えられないほどの最強の戦士として理解する。これ以上早くは撃てないというほどの凄腕のガンマンたちを揃える。これ以上美しい女性は存在しないといわんばかりの才女スーザンを守るためだと理解する。条件は、甚だ厳しいかもしれないけれど、そうしたもろもろの都合に対してしっかりと眼を瞑ることのできる読者のみが楽しむことのできるシリーズなのだ。決して皮肉ではなくエンタメとしてこういうものなのだ、と。
かくしてパーカーという作家は、ハードボイルドの直系の系譜からはスポイルアウトされてゆく。かつてのミッキー・スピレーンがそうであったように。二人ともぼくは掛け値なしに好きである。憎めないアメリカのオヤジたち。新作をその都度祭りかなにかだと思えば楽しめる。刺々しく指弾しない。そういう作品も、自分の読書生活には必要なのは間違いないからである。