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本 ・本 (376ページ) / ISBN・EAN: 9784152092922
作品紹介・あらすじ
あなたは自分の脳が企むイリュージョンに誰よりも無知な傍観者だ。そして最新脳科学が明かす「自分」の正体にあなたは驚倒する……人体最大の未踏領域を奇想天外な実験で探る、英米ベストセラー
感想・レビュー・書評
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本書のテーマは、書名で端的に表されている。つまり、「ヒトの意識は普段私たちがナイーブに信じているほど確かなものではなく、むしろ無力なものである」。本書で紹介されているのは唯物論的な脳の見方ではあるが、還元主義ではなくシステム論を採用している(簡単に言えば、「全体は部分の和よりも大きい」)。
はじめの5章は、多くの具体例を用いて「意識の不確実性」について解説している。例が面白かったので、いくつか箇条書きで紹介。(1)アントン症候群 「これは脳卒中で失明する障害だが、患者本人は失明を否認する。医師団がベッドサイドを取り囲んで言う。「ジョンソンさん、ベッドの周りに何人いますか?」。すると彼女は自信満々で「四人」と答える。たとえ実際には七人いても。医師が「ジョンソンさん、私は指を何本立てていますか?」と訊くと、「三本」と答えるが、実際には一本も立てていない。(略)アントン症候群の患者は失明していないふりをしているわけではなく、本当に失明していないと信じているのだ。言葉で報告することはまちがっているが、うそではない。ただし、本人が見ていると思っているものは、すべて内部で生成されている。」(p.73)(2)私たちが普段行っている動作のうち、意識が関わっているのは実はごくごく一部である。私たちが一歩踏み出そうとするとき、わざわざ複雑な物理の方程式を解いたりなんかせずとも、勝手に足が動いてくれる。(3)平凡な生活を送っていた人が銃を乱射するとき、その原因は彼の脳に生じた小さな腫瘍だったなんてことも多い。
意識とは、なんて不確かで、無力なものなのだろう。そこで疑問が湧く。そもそも意識はなぜ存在しているのだろうか?そして、あるヒトがした行為の責任は誰がとるべきなのか(果たして自由意志や、それに基づく有責性は成立するだろうか)?
まず前者については、「意識は会社のCEOのようなものだろう」と筆者は述べている。つまり、私たちは確かに自動化されたルーチンの集合体ではあるが、意識があることでそれらを制御・あるいは高いレベルの方向性を定めることができる。ルーチンだけで対処できるに越したことはないが、ひとたび予想外の事態に遭遇したとき、意識があれば柔軟に行動を変え適切に対処することができるというわけだ。
後者については、脳は単なる化学反応の場でしかなく、自由意志などは入り込む余地などないという立場を筆者はとっている。現在の法制度では、障害を持ったヒトが罪を犯した場合、責任能力なしとして無罪となる。しかし、そもそもどんな犯罪であれその原因が(それがたとえ現在の技術で検出できないほど微小なものであっても)脳の何等かの損傷によるものではないと言い切れないのであれば、そのヒトに責任を問うことに妥当性はどれほどあるのだろう。罪に対する罰は、報復のためではなく、あくまで脳を正常な状態(あるいは以前の状態)に修正するための「治療」として行わなければならないことになる。
分野としては脳科学に該当するのだろうが、ここまでくるとかなり哲学的になってくる。本のテーマ自体はまぁ正直よくある感じだが、後半の有責性と更生に関する議論はなかなか類書では見ない興味深いものに思った。
1 僕の頭のなかに誰かがいる、でもそれは僕じゃない
2 五感の証言-経験とは本当はどんなふうなのか
3 脳と心の隙間に注意
4 考えられる考えの種類
5 脳はライバルからなるチーム
6 非難に値するかどうかを問うことが、なぜ的外れなのか
7 君主制後の世界詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
人間の意識は、自らの脳を完全には理解も制御も出来ていない。著者は主張する、「意識は『脳に対して』傍観者である」と。
意識が認識する前に、既に脳が判断を下し、行動がなされ、その後から意識が動作を命じることが、実験から明らかとなったという。だとすると、その行動の責任は誰にあるのか。法的にどう裁かれるべきなのか。著者は神経法学という新たな分野を提唱する。
自分自身、あまり法学的な問題には興味はないが、その実験結果は太古より、人類には意識を介さずに突発的に行動しなければ、命に関わる状況が日常的に存在したことを意味する。決して因果律の矛盾を生じるものでは無いと考える。
意識が脳を完全に理解しえず、制御しきれていないとすると、自分の肉体の所有者は誰なのか。また、そのような意識の役割とは何なのか。ユングの言う、共通無意識が意識をコントロールしているのか。 -
人間が意識している世界は、自分自身のほんの一部のみだという。意識していないほとんどの部分で人間は生活している。
脳は、理性と感情のように、相反するライバルで構成されるチームである。
人間に自由意思があるか否かは、科学にとって依然、未解決の問題だ。
前野隆司教授の提唱する、受動意識仮説で、私が疑問に思った、人間に自由意思が無いのなら、犯罪者を裁けるのか、の疑問に答える内容になっている。 -
自己とは何かという問いを、何年かふんわり持ち続けていた。哲学の方面からのアプローチは思考の枠組みとして面白いものが多かったものの納得はできずじまいだったのだが、この本の内容は僕の頭にするりと入ってきてくれた。
以下、僕の理解。
感覚器は脳が構築した予測モデルを受け取り、そのモデルと感覚との差異を脳に送る。差異が小さい場合は情報量も少なくなり無意識の処理に収まるが、予測から大きく外れた感覚は、統合情報量が極大となり意識へとのぼる。夢のなかでは感覚がないため脳内のモデルが奔放に動くが、覚醒状態では予測モデルと感覚のずれが自動的に調整される。私たちがアクセスできない無意識のサブルーチンは、複雑に連携を取り合ってこの身体を動かしている。意識は自動的に起こった無意識の行動を振り返り、辻褄が合う解釈を与え、矛盾にも柔軟に説明を付ける。私たち(意識)は無意識にアクセスすることはできないが、動作を繰り返したり方針を明確に決めたりすることで、手続き記憶をしたり行動に方向性を与えたりすることができる。しかし、意識にアクセスできる範囲は非常に少なく、思考や行動は様々な要因に支配されるため、自由意志は存在しないか、するとしてもかなり影が薄そうだ。犯罪の責任の所在を決めることは難しく、再発防止のための修正可能性を探る方が有意義である。 -
「我思う故に我あり」は、ある一面でのみ正しいと言えるということがよくわかりました。
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脳科学の視点から無意識について書かれている本です。意識しているようで意識が難しいこと、意思決定しているようでできていないこと、たくさんあるんだなと改めて思いました。
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「無意識にアプローチしよう」的な自己啓発本に疑問を抱いたら是非ご一読を。
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思索
サイエンス