イエスの幼子時代

  • 早川書房
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  • Amazon.co.jp ・本 (374ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152096203

作品紹介・あらすじ

母と生き別れた少年の面倒を見ることになった老人は、流れ着いた奇妙な島で少年の母を探し始める。しかし少年には母の記憶すらなく……。『恥辱』『遅い男』に続く、ノーベル賞作家の最新長篇!

感想・レビュー・書評

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  • タイトルから想像出来るように、登場人物達が、新訳聖書を意識しているように思う。
    幼い子を取り巻く大人たち、それぞれが個性的だ。幼子の姿は、とてもリアリティがあり楽しい。
    続編も、ぜひ読みたい。

  • レビューはこちらに書きました。
    https://www.yoiyoru.org/entry/2018/07/17/000000

  • クッツェーである。クッツェーといえば私にとっては『恥辱』だ。いえ、読んだわけではなく(すみません…)、書評を書いていた、とある書籍販売の小冊子で、料理本やダイエット本ばかりが売れるなか、小説としては驚異的に売れたので記憶に残ったのである。
    その『恥辱』をすっとばして『イエスの幼子時代』に挑む。人間としてのイエスを描くといえば、国家を巻き込む大論争を起こした、同じくノーベル賞作家サラマーゴの『イエスによる福音書』が思い出されるではないか、と、思いきや。
    苦もなくすらすらと読める。
    読める、だがしかし。
    タイトルからして、出てくる5歳の身元不明の男児がおそらくイエスであろう。ここではダビードという名前だけれど。この子がまた、小賢しいことを言ったかと思えば、わがままだし、「なんでなんで」くんだし、でもやっぱり可愛いし、要するに普通の子なのである。途中で「おお、ここで水をワインに変えるのか」「よもやこの死人を生き還らせるのでは」みたいな期待することも最初はあったが、それもない。たまに、ふと「光」を感じることは、もちろんあるのだが。
    身寄りのなさげなこのダビードの面倒を成り行きから見ることになったのは、初老の男、シモンである。二人は、どこぞからみんなで乗って来た船で乗り合わせたのだ。
    たどり着いたのはなぜかスペイン語が公用語の地で、みんながそこそこ幸せで、だれも皮肉も意地悪も言わない、福祉で生活の面倒を全部見てもらえる(とはいえひどい水準だが)、いわば「楽園」なのである。
    そして登場人物は、だれもその過去はさっぱりわからない。というか、自分たちでも覚えていない、気にしない。シモン以外は。
    過去にいた世界は消滅したのだろうか?ということは、乗って来た船はいわばノアの箱舟なの?
    …よくわからない。
    「なんでなんで」くんの質問にいらっと来つつも、ちゃあんと答えてあげるシモンに感心し、すいすいと軽妙な文章を読み進めながら…髪の毛を一本、だれかに引っ張られているような気持ちの悪さ、痛さが抜けないのだ。
    そういえば、例の『恥辱』、評の冒頭が「不愉快な小説です」という衝撃的な文章だった。
    『イエスの幼子時代』もまた、愉快でありながらたいへん不愉快な小説であり、そこが魅力の摩訶不思議な小説なのであった。

  • タイトルだけ読めば、聖書に材を得た子ども向けの物語か、と勘ちがいしてしまいそうだが、いやいやとんでもない。イエスなんかこれっぽっちも出てこない。近未来の世界を舞台にしたディストピア小説の型を借りたこれは、人間と、人間が生きる社会について真正面から真剣に考えるための手がかりを与えてくれる、一種の思弁小説である。

    と書くと、いかにも真面目そうで、とっつきにくいと受けとられてしまいそうだが、この小説は、とても面白い。興味深い、という意味でも面白いのだけれど、読んでいる途中で、くすっと笑えたり、にんまりしたり、という意味でフツーに面白いのだ。それでいて、語られていることは、けっこう哲学的。人はどう生きるべきか、歴史には学ぶ意味があるのかないのか、と大上段に振りかぶる。

    「人はパンのみにて生くる者にあらず」という言葉も出てくる。食べ物のような物質的なことばかりに執着するのでなく、精神的なことにも心を傾ける必要がある、というような意味だ。ところが、過去を捨て、新しい言葉を覚える訓練をして、やっと新世界に来てみれば、食べることができるのは、毎日食パンと水ばかりじゃないか、と主人公が文句をたれる、その文脈でさっきの言葉が引用されるのだ。つまり、人はパンばかり食べていては生きている気がしない。たまには血の滴るようなステーキが食べたい、それでこそ人間というものだと言っているわけだ。この皮肉。

    主人公の名はシモン。この名前はノビージャに来る前にいたキャンプ地でつけられた。おそらく前に住んでいたところに住んでいられなくなって、申請してノビージャに迎えられた。ここに来るために乗った船で、ダビードという少年と連れになる。ダビードはノビージャで母と会うはずだったが、首から下げていた書類の入った袋を海に落としてしまう。シモンは、少年の母親探しを手伝うことにした。

    ノビージャに到着した二人は、住む所と職を探す。アナという係の女性によって当座の部屋を得るが、そこにいたるまでの官僚主義的なやりとりに対するシモンの苛立ちがビンビン伝わってくる。悪意があるのではない。少しずつ分かってくるが、ノビージャの住人たちは善意の人々であり、当座の金に困っているシモンに、港の荷役の主任アルバロはすぐに金を貸してくれる。人夫たちも何かと声をかけてくる。

    それでいて、話をしているとどこか噛み合わない。まず毎日が食パンと水でもいっこうに気にしていない。性欲に対しても、その気になれば処理できる場所はあるらしいが、シモンのように親しくなった女性とそうなりたいと思う気はないようだ。女性の方も同じで、アナははっきりその行為やそれに使用する器官は美しくない、と口にするし、エレナはシモンの欲求をはねつけないが、自分はちっとも良くないようだ。

    小説は、ダビードの母探しとシモンの感じるノビージャに対する違和感を軸として進んでいく。「幼子時代」とあるように、このあと「学校時代」が続くようで、これ一冊でストーリーは完結しない。シモンとダビードの母(となった)イネスは、学習不適応を理由に矯正施設送りにされそうなダビードを連れて町を離れることにする。「幼子時代」は車に乗って旅に出た一行が、ヒッチハイクの若者ファンを仲間に入れたところで幕を下ろしている。

    過去の暮らしと断絶し、まったくの新世界での珍奇な見聞を語る、という設定はスウィフトの『ガリバー旅行記』を思わせる。そういう意味でこれは寓意小説の趣を持つ。シモンにとってはノビージャの人々の考え方は普通ではない。ノビージャの人々にとってはシモンの価値観が理解できない。これは、ロシア・フォルマリズムでいうところの「異化体験」である。互いに理解しがたいシモンとノビージャ人が出会うことで、どちらもが、今まで当たり前と思っていたことを括弧にくくってもう一度考え直すという作業をし始めるのだ。それは、きっと世界を更新することにつながるにちがいない。

    シモンは、男と女がいて、どちらかが、あるいは双方が好感を持ったらセックスに至るのは当然のことだ、と考える人物である。また、食事に関しても腹を満たすだけでなく別の欲求をも満たしたいと考える。毎日何度も梯子を上り下りして荷下ろしをするより、クレーンを使って仕事をすれば、その空いた時間をもっと価値あることに使える、と考える。どこにでもいるごくごく普通の男性のように見える。

    しかし、シモンがそれを力説しても、ノビージャの人々は、それに合意することはない。食べ物だってないわけではない。あるところにはあるようだが、アルバロはたいして欲しいとも思わない。クレーンの導入についてもその効果については懐疑的である。そもそも力仕事を蔑視するようなシモンに対して批判的である。力仕事をした後はよく眠れるではないか、という批判はある意味正しい。

    ノビージャの社会は、ソフトでクリーンな管理社会である。住む所や衣服は貸与されるし、やる気があれば就業後、哲学を学ぶことも、美術コースで人物クロッキーを習うこともできる。そこでは、食べ物も無料で食べられる。セックスに対する欲望の処理のためには慰安所めいた施設まである。ただ、ダビードが担任教師に反抗的態度をとり続けると、施設行きを進められることからわかるように、管理に対する不服従は許さないという規律はある。

    今ある秩序に対して必要以上に変化を求めたり、不服を言い募ったりしない限り、最低限の生活は保証するというのが、ノビージャの不文律らしい。エレナもアナも賢く優しく親切で男性から見れば魅力的な女性である。しかし、性に関しては非常に反応温度が低い。シモンでなくとも、洗脳教育にも似た教育を受けた人たちを前にしたときに感じる独特の不可侵領域の存在を感じるのだ。因みに「ノビージャ」というのはスペイン語で「若い雌牛」の意味を持つ。さらに言えば「未経産牛」。何やら意味深ではないか。

    人間の数が増えればまず食糧が必要になる。何らかの理由で食糧自給が難しくなった国にあっては、性に対しての欲求が肉食系から草食系に変化することで人口調整はたやすくなり、必要な人口は難民の移住でまかなうことができる。形而下的な欲求は最低限満たし、形而上的欲求はかなりの程度満足感を与えておく。ノビージャという社会の管理者はそう考えているのではないか。

    他人の子の代父となり、母親を見つけてやって共に旅に出る。処女のまま母になるイネス、母となる女性との情交なしに父となるシモン。他人には理解できない言葉を自分の言葉として語るダビード。しかもダビードは、近づく人々を自分の同行者にしたがる性向がある。この小説が聖家族をモチーフにしたものであることが分かってくる。

    非才のため、多くの隠された手がかりを見逃している。なんでもそうだが、よく知っていなければ値打ちを見定めることは難しい。これはそういう書物である。ただ、それでも面白さは分かる。続篇を読めばもっとわかってくることもあるだろう。ノビージャについての視界も開かれてくるにちがいない。是非とも続きが読みたくなる。

  • 面白いけれど、この話がどこに向かっていくのかがわからない。つまりは続編を読まないといけないと思うけれど、完結するのかどうかも定かではない。聖書に書かれているような寓話はまったく登場しないが、随所にあれ?これは?と思わせるようなアネクドートが散りばめられているような気がするのはワタシだけか。

  • イエスやヨハネになぞらえてるそうなんですが、そっち方面の知識があまりなくて、訳者後書きで、へーそうなんだと思うくらい。ちゃんと知ってたら面白いんだろうな…

    ユートピアに染まれない主人公のシモンの性欲へのこだわりと正当化がちょいちょい出て来て気持ちが悪い(でも実はこっちの方が現実的なんだろうな)けど、ダビードとの会話はどれも面白い。

    街の人の善意と、自分の役割だけを果たすだけの態度がなんとも言えず不気味で、そこにシモン以外が疑問を持たないところがディストピアなのかなと思った。

    結果、一日で読み終わりました。

  • 基本的に面白いしほかの本にはないような魅力もある。
    ただあまり魅力的でなく面白くない章もある。あまり魅力的でない章は前の章とほぼ同じであるという場合や、展開が急過ぎてついていけない部分がある。例えば、主人公の男が仕事に機械を用いるか同僚と議論する場面がある。この話全体を流れているテーマは、執着や愛情という感情が人生に必要であるかというものであり、機械を用いるか否かもその文脈の延長線上であることが読者は期待するだろう。しかし、その場面で急に主人公は歴史や人類の進化について話をし始める。歴史とは何かというものは哲学的なテーマとしては面白いが、人間の愛情や情熱といった違う次元の話であり、読者は面食らうか主人公が自分の心の中にはない理論を使って、自分の筋を無理やり強化しているように見える。
    また、どういった形で物語が展開されているか楽しみだったのに、ほとんど物語が進まずに終わったので、残念な気持ちになった。

    続きの物語があるため、それを読んだら評価が変わるかもしれない。

  • キャンプを後にし、小さな子供と壮年がたどり着いたのは、一種ユートピア的だが、なんとも言えない不気味さが漂うスペイン語圏の町。

    少しずつ町に溶け込みながら少年の母と、この町の物足りなさを求めていく主人公。

    三部作なようで果たしてどこにたどりつくんだろうか。

  • 評価の難しい小説である.
    主人公(ダビード)は,どうやらイエス・キリストらしい.
    かなり手のかかる面倒臭い子供なのだが,もう1人の主人公のシモン(どうやらヨゼフらしい)は根気よく彼に対応する.
    当初はダビードの振る舞いにかなりイライラさせられるのだが,徐々に「いや,彼の方が正しいのかも」と思わせるようになってくる.
    全体は短いエピソードの積み重ねで,聖書的でもあり,物語はこの2人とイネス(=マリア)の3名の逃避行に,ヒッチハイカーのフアン(=ヨハネ)が加わるところで,唐突に終わる.
    内容を忘れないうちに,続編の「イエスの学校時代」を読まねば・・・・

  • 訳者曰く、ディストピア小説。それは、この街がというよりも「家族」がだろうか。

    街は確かに生気はない。けれど、「煉獄」と評される場所から逃げてきた人々の街であることを考えると、相手を思いやり、あるべきルールに従い生きることは理想かもしれないと思う。福祉も充実しているし、学ぶことも自由。

    だけど、何かが足りない。

    その足りないものを、漠然と追い求めるシモンは、枠の外で自由に踊っているように見えるものに惹かれるのか、、、

    3人は曖昧で、言葉にも態度にも一貫性はなくて、ずるずると狭間の道に自分たちからはまり込んで行くように見えた。自由を求めて世界が狭まっていくような。

    まだ続きがあるようなので、感想はその都度変わるそうな、そんな本。

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著者プロフィール

1940年、南アフリカ・ケープタウン生まれの作家。74年『ダスクランズ』でデビュー。『マイケル・K』(83年)、『恥辱』(99年)で英ブッカー賞を史上初の二度受賞し、2003年にノーベル文学賞を受賞、現代の最重要作家の1人と評される。著書に、自伝的三部作『サマータイム、青年時代、少年時代』、『鉄の時代』、『モラルの話』、『夷狄を待ちながら』、『イエスの幼子時代』、『イエスの学校時代』などがある。

「2021年 『J・M・クッツェー 少年時代の写真』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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