- Amazon.co.jp ・本 (397ページ)
- / ISBN・EAN: 9784152097286
作品紹介・あらすじ
私立探偵フィリップ・マーロウは、香水会社の社長から行方知れずの妻の安否を確認してほしいと頼まれる。妻が最後に滞在していた湖畔の町を訪れるが、そこでは別の女の死体が見つかるのだった。マーロウが探している女と何か関係が? 旧題『湖中の女』新訳版
感想・レビュー・書評
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事件の様相はぐるぐるまわって、結局このトリックになっちゃたわけか、それにしても登場人物のクリス・レイヴァリーには偶然の要素が多すぎるかもね。気の利いたセリフやじんわりと情景を感じさせてくれる文章で、次々とページを繰っていくことができたので、まあ面白かった。後書きで村上春樹が、この小説では溌溂としていない冷静なフィリップ・マーロウだといっていて、確かにそんな感じだが、いいのか悪いのかは、「ロンググットバイ」を読んでから決めよう。
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「湖中の女」の村上春樹翻訳版。
相変わらず丁寧な翻訳という印象。いかにもハードボイルドな印象の清水版とは違ってマイルドなマーロウという感じ。
「湖中の女」を読んだ時も感じたが、ミステリーとしてはイマイチ。序盤で大体の構図が分かってしまうし、結局はそれを確認しながら読む作業となった。
だがマーロウの容赦ない、絶対に手抜きしない仕事ぶりは相変わらず発揮されていたし、警察との『タフ』な関係も相変わらず描かれていたし、このシリーズらしいオチも良かった。
結構好きだったのは老境にかかろうとする保安官代理。マーロウを『若いの』と表現するのが何とも渋くて良かった。
マーロウシリーズの長編はすべて翻訳完了。できれば短編集も翻訳してほしいのだけど、あとがきで『さいごの一冊』と書いてるからにはないのか。残念。 -
村上春樹のチャンドラー長編新訳、これにて完結。
MONKEYのインタビューだか対談だかで「今年中に出るかも」とのご本人の弁だったので、指折り楽しみにしていた。
予定のない週末、至福の読書時間でした。
村上春樹の解説にもあるように、ストーリーはなんとなく先が読めるのであるが、チャンドラーの小説(村上訳)の楽しみは、文体そのものにあるので、登場人物の把握や関係性にとらわれずに文章そのものを楽しめて、かえって良いくらいであった。
装丁も美しく、クリスマスプレゼントにも良いかもしれない。
再読してチャンドラーらしい比喩などをまた楽しみたい。 -
2.9
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同じ著者の長編ではこれが1番好き。舞台の半分がいつもの荒んだ大都会から離れて郊外の山や湖で、老保安官のキャラクターがとても良い。悪役も鮮やかでよかった。
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戦時下という時代を背景に、悪女に振り回される馬鹿な男共のお話。銃とウイスキーと麻薬とカネと愛憎と死体がこれでもかと絡んで救いようもない。
それでも読後に絶望感に浸らず居られるのはチャンドラーの筆致か、翻訳者の村上春樹の腕か。 -
読んでいて楽しいミステリー。こういう本はゆっくり読みたい。訳者の村上春樹氏によるとスピード感の不足やロジックの弱さが指摘されているが、それでもチャンドラーらしい。情景描写が細やかで、殺人事件なのにジメジメ感がない。展開にはらはらさせられる。▼表紙の裏に的確な案内がある。:私立探偵フィリップ・マーロウは、香水会社の経営者ドレイス・キリングのオフィスを訪ねた。男と駆け落ちしたらしい妻の安否を確認してほしいとの依頼だった。妻の足取りを追って、湖の町に赴いたマーロウはそこで別の女の死体を見つける。行方知れずの社長の妻となにか関係があるのか……。マーロウの調査はベイ・シティーの闇をえぐる──。チャンドラー長編最後の作品。
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僕の世代だと。例えば。
「スラムダンク」の最終話を、とうとう読んでしまう気分というか。
それは「タッチ」でも「めぞん一刻」でも「いつもポケットにショパン」「カムイ伝」「BANANA FISH」「あさきゆめみし」「動物のお医者さん」「はいからさんが通る」まあ何でも良いんですが、
そういうそれなりに長く楽しんだものを、「ああこれで最終話なのかあ」としみじみ、読みたいような読みたくないような。
そんな嬉しく辛い、一冊でした。村上春樹さん翻訳の、「私立探偵フィリップ・マーロウ・シリーズ」の最後の一冊。
(ふっと思ったのですが)
「ガラスの仮面」とか「有閑倶楽部」は、完結しているのでしょうか?
「ガラスの仮面」は、多分15年以上前に、マンガ喫茶でほとんと徹夜でイッキ読みをしたんですが、僕が不勉強でてっきり「とっくに完結している過去の名作」だと思い込んで読んでいて。
(その時点での)最後まで読んで「終わってないのかよっ!紅天女ってどんな話なんだよっ!」となんだか激烈に腹が立ったことを思い出します。
あれから15年、紅天女ってどんな話なのかくらいはもう描かれているのでしょうか?
あれだけ引っ張って、大したことない演劇だったら、それはそれで腹が立ちそうですね。
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「水底の女」 レイモンド・チャンドラー 村上春樹訳 早川書房
戦時中。多分1943年とかの、ロサンゼルスあたりが舞台です。
独身中年の私立探偵フィリップ・マーロウさんは、とある大富豪から依頼を受けます。
(大抵、彼は大富豪から依頼を受けることが多い)
依頼内容は、しばらく行方不明の奥さんを探してくれ、というもの。
奥さんは派手で遊んでいて、もう夫婦仲は覚めていて、浮気とかそういうのはどうでも良い感じ。
ただ、世間体の悪いトラブルに巻き込まれていないか、という。
という発端で捜査活動を開始したマーロウさんですが、
大富豪の奥さんは見つからず、その代わりに、とある湖底で別の女の死体を発見。
更に、大富豪の奥さんの浮気相手の男も何者かに殺される。
更に、マーロウさんも不良警察官にリンチの憂き目に。
そんなこんなは、まるで二つの短編をくっつけて長編にしたかのように、
「二つの、基本的に関係の無い事件」が絡まった結果だった…。
大まか、そういう話です。
著者のレイモンド・チャンドラーさんが、過去に発表したふたつの探偵小説をもとに作った長編だそうです。
ふたつの犯罪事件が錯綜するのですが、それはそれで実はちゃんと一つの謎、「大富豪の妻はどこへ行った」という初期設定から大幅に逸脱はしません。
そういう意味では、翻訳者もあとがきで書いていましたが、マーロウものの中ではむしろ、「1本の筋でシンプルに語り抜かれている」ことのほうが異色な一作ですね。
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まあつまり、マーロウものっていうのは、筋立てが混乱したり脱線したり、脱線したまま戻ってこなくってむしろ離陸してしまったりするのが持ち味です。
だから、いわゆる2時間サスペンスのような娯楽性とはちょっと違う。ずいぶん違う。
それが長く言葉の壁も越えて世界中から愛されている理由だと思います。
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マーロウものの魅力は、なんとなくですが、
「高度資本主義の大都会で、勝ち組と負け組の格差と、勝ち組にせよ負け組にせよ変わりないヒトの愚かさというか、わかっちゃいるけど止められない煩悩や欲望や邪悪さや悪意についての、突き放した、皮肉な、観察。
そして一方で、突き放せない情にもろい感傷。そんな愚かしい人間でも、ちょっぴり愛おしかったりするんだよなあみたいな未練心。
そんなものが皮肉さと錯綜して。べらべらしゃべっているうちに、どうして良いんだか分からなくなって、
いちばん自分の手を汚さない勝ち組の一部の人たちに向かって怒りの拳を振り上げて一発殴ってはみたものの、
この人ひとりを殴ったって何にもならないというか、むしろ何かが悪化するだけなんだよな、とため息をついて、
仕方が無いからおうちに帰って寝る前にひとりでペヤングでも食べるしか無い、そんなやるせなさ」
みたいなものだと思います。あくまでイメージ。
ペヤングは、忘れた頃に食べると美味しいですよね。
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(本文より)
新しい家々はシャープな芝生の庭と金網のフェンスを具え、正面の緑地帯には支柱付きの若木を植えている。私は二十五番通りに住む娘をかつて知っていた。そこは感じの良い通りだった。彼女も感じの良い娘で、ベイ・シティーのことが好きだった。
彼女は、昔の都市間列車線路の南側にある惨めな低地のことなど、考えたりもしないだろう。そこにはメキシコ人と黒人のスラムが広がっている。あるいはまた、崖の南側の平坦な浜に添って並んだ、海辺の曖昧宿のことも、尾根にある汗臭い小さなダンスホールのことも、マリファナの密売所もことも、あまりにも静まりかえったホテルのロビーで広げた新聞の上端から目を光らせているキツネ顔の男のことも、海岸のボードウォークにたむろするスリやペテン師や、詐欺師や酔っ払い専門のひったくりや、ぽん引きやおかまたちのことも考えたりはするまい。
こんな一節が、前後の物語の筋立てと何の関係もなく、ふっと入ったりするんですね。
だからどうしたんだよ、と言われると、どうもしない。
誰が悪い訳でもない。悪くないワケでも無い。
そんな、「沸々とした、煮え切らなさ」みたいな魅力。
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そういうワケで、フィリップ・マーロウさんは汚れた街を行く騎士であり、ヒーローと言えばヒーローなんですが、そこはなかなか、大人な味わいというか。
左手は添えるだけで逆転シュートを決めてくれたり、南ちゃんを甲子園に連れて行ってついでに全国優勝してしまったり、管理人さんと目出度く結婚したり、そういうことは全くありません。
必殺技があったりもしませんし、射撃もそれほど上手くない。「水底の女」では一回も発砲していません。
殴り合いでも、微妙に強そうなんですが、実はそれほどでもありません。
しかも、大抵、謎を解く頃には大抵の関係者は死んでしまっていることが多い。
(そういう意味では、横溝正史さんの金田一耕助っていうのは、確実にフィリップ・マーロウの影響下にありますね)
そんな実に渋い、冷めて不味いだけのブラックコーヒーというか、人口調味料の味が強すぎる粉わさびというか、苦い哀愁が常に漂っている。
「負け犬系のヒーロー」とでもカテゴライズできます。
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一時期から、流行ことばを超えて定着した感のある言葉に、
「俺はまだ本気出してないだけ」というのがありますが、
これはつまり、「本気を出した俺は、なにかしら世間にスゴイと言われるべき存在である」という無根拠なプライドがあるわけですね。
そして、実はこの「俺はまだ本気出してないだけ的な、煩悩」というのは、それが1%であれ70%であれ、誰でもいくらかは、常に自分の中に持っているものなんだと思います。
「消費と情報と幸福が(ヴァーチャルには)氾濫してる世界で、なぜ俺は、あのヒトたちほど、世界に注目されないのだろう。幸福ではないんだろう」というルサンチマン、不平不満です。
そしてそれは、江戸時代の村社会とかにはあり得なくて。商品や広告やショウビジネスが、(僕たちのような)労働者の欲求不満解消の道具になっているような、「資本主義社会」だけに発生する症状なんです。つまり、娯楽にしている「川のあちら側」があるから、「なんで俺はあちら側に行けないんだ?」という気づきが生まれます。
それをものすごい強度で突き刺して、神話的なまでに断言して予言して解剖してしまったのがフローベールの恐ろしき傑作小説、「ボヴァリー夫人」だと思います。
私立探偵フィリップ・マーロウは、「俺はまだ本気出してないだけシンドローム」の本質にきっと自覚的で、そこに決して陥らない賢人なんですね。
一方で、そういう賢人であることが、なんてツマラナイことなんだろう、ということも痛感してしまっている。
でもだからといって、「だったらやっぱり、同じ阿呆なら踊らにゃ損」という方向に行かない。行けない。
まあ言ってみれば、そういうヒーローです(笑)。
ああ実にツマラナイなあ、と思いながらも、まだしも踊らない方が自分のエゴというか気持ちには忠実というか、まだしもそのほうがストレス少ないなあ、という佇まいですね。
「正直、早く帰りたい」と思っていた飲み会が終わって帰るときに、二次会に向けて本当に盛り上がっている人たちを見ると、なんだかちょっと自分もそっちに行きたいような気分がするけれど、
行けば行ったで、「ああ、やっぱり帰れば良かった」って思うんだろうなあ…と、やっぱり帰ることにして、帰る途中の、ほっとしたような、でもやるせないような、とでも言いましょうか。
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話はとっちらかってきましたが。
そういう味わいで言うと、実に時代を超えたクラシックな小説です。
あとがきで翻訳者が、「面白いミステリー小説」としてではなく、「普遍的な古典文学だ」というような視点で翻訳した、というのは、きっとそういうことなんでしょう。わかりませんが。
確かに、フローベールやバルザックといったところから、フィリップ・マーロウには、同じ線路を辿っていくと行き着く感じがします。(個人的には、メグレ警視も)
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「ロング・グッドバイ」2007刊を、新刊本で狂喜して買って読んで以来、もう11年経つんですね。
とうとう、「村上春樹さん翻訳のマーロウを、初めて読む」という体験は終わりを告げました。
(まあでも、読んだそばからどんどん忘れていくので、またその内、再読すれば良いんですけれど)
このかなりどうでもいいけれども、けっこう切ないセンチメントを、いかにせむ、と思っていたら。
翻訳者自身が何よりもあとがきでその喪失感について切々と語っていて、「そうだよねえ」とすごく癒やされました。
実は、その「訳者あとがき」がいちばん感動?したかも知れません、この本で。それはそれで、得がたい楽しい読書でした。ありがとうございました。
今後も村上さんが何かしらかクラシックなアメリカ文学を翻訳してくれることを期待します!
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最後に、小説の備忘として、
田舎町の保安官代理であるジム・パットンさんという、実にぱっとしない初老の男性が、実にいい。
なにしろ、あのマーロウが「ひと目で好きになった」と言うんだから。
このパットンさんの「スーパー・地味・ヒーロー」としての物語である、と言っても過言では無いですね。
こういうキャラクターを動かしちゃうあたりが、なんだかんだ破綻してても(破綻してるがゆえに?)チャンドラーさんの小説家としての凄みですね。
ちなみに、悪役というか、ラスボス的加害者の役回りが、警部補のデガルモさん。「犯人は警察のヒト」というジャンルに入るミステリーなんです。
そのデガルモさんの上司のウェバー警部さんも、なかなか素敵なセリフを言います。ぐっときたので、最後に引用します。
(本文より)
「警察の仕事には山ほど問題がある」と彼は優しげなと言ってもいいくらいの声で言った。
「政治と似ている。それは最良の人間を要請しているのだが、そこには最良の人間を惹きつけるものは皆無だ。だから我々は手に入る人材でやっていくしかないんだ」 -
村上春樹の翻訳は何度読んでも落ち着かない。日本語を紡ぐときはあれほどスムースな人が、翻訳になると逐語訳のような似て非なる文体になるのは何故なんだろう?