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本 ・本 (336ページ) / ISBN・EAN: 9784152097422
作品紹介・あらすじ
在日20年の英国人記者は被災地で何を見たのか? 震災直後から東北に通い続けた著者は、大川小学校事件の遺族たちと運命的な邂逅を果たす。取材はいつしか相次ぐ「幽霊」の目撃情報と重なり合い――。『黒い迷宮』の著者が悲しくも不思議な津波の余波に迫る。
感想・レビュー・書評
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東日本大震災で起きた大川小学校の遭難についてのルポルタージュと、震災後に被災された方などが、体験された心霊現象とそれに向き合った僧侶の経験。タイトルから心霊のイメージが感じられるが、内容的には、大川小学校の話が中心である。
「九月、東京の路上にて」に続き、重い内容の本だった。震災時の状況、遺族の想い、変容するコミュニティーの様子など、実際の取材による生の言葉や状況描写から、改めて被災時の惨状や現地の方への影響が響いた。
74人の児童と10人の先生が亡くなったことについて、亡くなった児童の家族に丹念に取材していくことで、報告書や議事録には残されなかった会議や行政、学校側の様子もわかる。遺族内も何あったか知るために訴訟を起こす人たち、行方不明の子供を探すことに注力する人たちとそれぞれの想いで分かれる。根本に行方不明のままかどうかという点があったりするのもつらい。
著者は、丹念な取材の中、日本人の受容の精神に耐えきれないとの苛立ちを見せる。地域コミュニティーで、声を上げることへの圧力も触れている。東北という地域性にも触れているが、日本の持つ問題を認識させられる。
霊については、起きている現象や僧侶の活動を通して触れられる。オカルティックな面ではなく、その現象と向き合うことで、精神的な落ち着きにつながっていく様子が見える。
中で震災経験を伝える人が、各地で行った際に、自分に起こるものと認識できてくれていないことにショックを受けている話がある。震災から10年、いろんな情報が入ってきたが、自分のことに置き換えられてはいなかった。置き換えられるものか?という点はあるが、この本を読んだことで、自分にも起きることと、改めて考え直していきたい。
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今年で東北大震災から10年が経つ。
その前に読んでおかなくては、と思っていた本。
著者は日本在住20年の英国人ジャーナリスト。
取材者が外国人だからこそ成しえたのではないかと思える。
同邦人には話しにくいことも、外国人には話せることもあるのではないかと、そんな風に思うのだ。
そして読み手も、同じように彼を通すことにより、深い傷を抱えながら、今も日々を送らねばならない人々の声に向き合えるのではないかと思う。
一人でも多くの人に読んでもらいたい。
2020.11.30 -
3.11津波のお話。
主には大川小学校の被害者、加害者、遺族、関係者のお話。
丁寧な取材だったのだろうな、と想像できる内容です。時には涙なしでは読めないような辛いお話もありました。
津波の話からではあるものの、
そこからは、日本人の人間力、本質、倫理観、宗教観、地域コミュニティの問題や良さ、地域観、などなど、日本人とは違う感覚で感じるコメントに、深く考えさせられた。 -
大川小学校のことはもちろん知ってはいたが、きちんと知るのが怖くて避けていた。
どの家族の話も読むのが辛い。涙が出る。
震災の夜、子供たちが小学校の屋上にいると聞いてなんとか心を落ち着かせた母親たち。
でも翌日になっても子供が帰ってこない。
ぽつりぽつりと子供が発見され...
この悲劇を学校側がきちんと説明しないこと、
生還した唯一の先生も本当のことを話しているとは思えないのに姿が見えくなってしまうことに憤りを感じた。
日本人の気質や考え方や宗教観、家長制度のなごりなど、日本人ではない筆者の分析がすばらしい。
日本人だったらここまで明瞭に書けないと思う。
失ったものの大きさによる隔たり。
生還した子供の家族と、そうでない家族の隔たり。
子供の遺体が見つかった家族と、そうでない家族の隔たり。
学校と市に説明を求める家族と、それよりも子供を探すことを優先する家族の隔たり。
今までは被災者とそうでない私たちの隔たりしか考えてなかったが、被災者の中でのすれ違いや居心地の悪さがあるなんて思いもしなかった。
津波は命を奪っただけでなく、地域や友情や夢や生活も、全て奪ってしまった。
読んだだけの私ですら辛いのに、被災者はどんなに傷ついて心が張り裂けているのだろう。
心が震災前に戻ることはないのかもしれない。
何もできなくて辛い。 -
東日本大震災では3月11日に学校の教師の管理下にあった子供達のうち75名が死亡しました。そのうちの74人は石巻市の大川小学校の児童達でした。すなわち大川小学校以外の学校ではあの巨大な津波に対して的確な避難がなされ、人的被害がほとんど出ていないということなのです。
大川小学校で何があったのか、生き残った児童やその保護者、子供を亡くされた保護者への丹念な取材から”あの時”に何があったのかを追い求めていきます。
取材を進めるうち、あの震災で様々な意味で人間関係の断絶が生じていることが浮き彫りになります。「わが子が生き残った保護者」と「わが子が亡くなった保護者」、そしてわが子が亡くなった保護者のなかでも「その遺体が発見された保護者」と「未だ遺体が発見されていない保護者」というふうに。
わが子が犠牲になった保護者の方々は教師の避難指示に過失があったではないかと訴訟を起こします。ところがわが子が生き残った保護者の人からすれば、日々わが子が世話になっている教師や学校を訴えることになり、訴訟には消極的になってしまいます。またわが子の遺体が発見されていない保護者の方はまずはわが子の遺体の捜索が第一で「訴訟で勝ったら気が晴れるのだろうか」と訴訟にまで意識が回らないのが現実です。
「震災の被害」と一言で片づけることができない複雑な人間関係を正確に描き出したノンフィクションで、読んでいて苦しくなる部分もありますが、マスコミが報道していない真実を丹念な取材で拾い上げている印象を受けました。 -
映画「生きる - 大川小学校 津波裁判を闘った人たち-」を観たあとの監督のお話に、遺族の間にも色んな立場の人がいる、彼らは大川小学校遺族の代表のように写るけど実際は立場は様々である、と伺い、もっと知りたいと思い手に取った一冊。
読めば読むほど、遺族の間の立場にも様々であることをより深く知れた。さらに、金田住職の話はとても興味深く、霊的現象を信じない私でもそういうこともあるのか、と感じざるを得なかった。
そして、こういう感想を書いてる時点で、私もやはり非当事者の域を出ることはないのだなと、考えさせられた。 -
オカルティックなことは子供の時から興味があったので、不思議な体験の話も素直に受け止める方ですが、より興味のある「人の気持ち」の部分について丁寧に表現しているこのが1番印象に残った部分です。
同じく家族や自宅を失っても、亡くなった人数、構成。
自宅の損害の有無、職業など少しずつ条件が違う。
その違いが人の気持ちを違え、人間関係を壊していく過程がなんとも言えない気持ちになりました。
実名での書籍化は本人との信頼関係があってのことだと思いますが、ここまで複雑で繊細な人の気持ちを受け止めることができる筆者ならではの偉業なのかもしれません。
子供を持つ母として、社会的な自分の立場などを考え、気持ちだけで行動を決めるのは危険だなと思ったり、筆者の言う通りそのまで自らを律しなくてもいいのかな?と思ったり。
大川小学校の訴訟のくだりでは、私が仕事でお世話になった弁護士の吉岡先生が何度か登場します。インタビューも何度もされたんだなと思われますし、先生も丁寧に対応してるなと思いました。
この頃も何度か、一緒にお仕事させてもらっていましたが、こちらの依頼のお仕事もしっかりされてました。
個人的には遺族の方はいい弁護士さんに相談なさったなと思います。
ちょっと自分のコンデションがイマイチな時に読み始めてしまい、しんどいところもありましたが、結局止められず短期間に読了 -
いつまでも胸に残るすごい本に出あうとはまさにこのこと
2018年刊行ではわたしのベストテン入り
著者のリチャード・ロイド・パリーには敬意を表する以外ない -
津波に襲われた小学校の記録であり、多くの被災者が体験した「霊的現象」の記録であり、「世界の活火山の10分の1が集中し・・・世界的にも珍しいトリプル・ジャンクション(三つのプレートの境界がぶつかって交わる点)がひとつどころか、ふたつも存在する・・・激しい自然の暴力にさらされる国」(P223)における国民性、宗教観についての洞察であり、そして何より鎮魂と再生の「物語」(訳者あとがき)である。
個人的には数年に一度出会えるか、という本だと感じている。
あれだけ甚大な被害を出した東北震災においても、登校していた児童の犠牲者はたった一か所、大川小学校以外ではほぼゼロだった。大川では校庭に避難した児童のほぼ全員、74名が亡くなった。教育委員会は当時「地震直後の津波で逃げる暇がなかった」と説明した。のちの調査で、実際には地震から津波到達まで1時間近くあったことが判明した。
「現場の人はがんばったのだから今後の教訓として」と、総括する日本(の役所)の体質、それを受け入れようとする姿勢に著者は不信感をあらわにする。日本人が美徳とさえ思っている「我慢」について(その英訳の難しさも指摘しながら)、それは「しばしば、自尊心の集団的な欠如とも思える状態を意味することさえある」と指摘する。
震災のあと、霊にまつまる話は枚挙にいとまがなかった。「その人がのぞんでいたのは・・・息子さんにもう一度会うことだけでした。幽霊かどうかなど関係ない。いや、幽霊に会うことを望んでいるんです。・・・私たちが目指すのは、超自然の現象を目撃しているという事実を自らが受け容れられる環境を作ることです」
「人が幽霊を見るとき、人は物語を語っている。途中で終わってしまった物語を語っているんです」(P278-280)
物理現象としての霊を信じるか信じないか(私は信じていないし、著者もおそらく同じ)、とは違う次元の話だとわかる。
The Economist誌のBooks of the Year受賞作とのこと。 -
311から13年経とうとしており、あの大津波災害が朧げになっていないかと、『思い出せ』という気持ちで年明け旅行の本に選んだ。
まさかの、元旦の能登半島地震。津波。
最近の地震は津波を伴わないものが続いてたけど、起こるとまた甚大な被害を引き起こした。
本では、まずは大川小学校。ニュースでよく聞いていた名称であるが、個々人の思いや、何故裁判にまで及んだのか、わからないままの事、隠蔽されたままの事は何なのかがよくわかる。教育委員会をはじめとする行政の闇。組織を守る第一主義。
イギリス人が書いてるから、我々にとって当然の事に名前をつけられて、所々ではっとする。宗教や信仰は希薄なようで、先祖崇拝が強い。これが自然体すぎて宗教や信仰と繋がっていないけれど、これも信仰か。
我々は苛烈な自然現象が多発する国土に住っているから、『受け入れる』ことや『我慢する』『耐える』世界に入りすぎているのかもしれない。受け入れたら、この先も良い社会にはならない事だってたくさんある。この生きる姿勢に気付き、行動する。とんがっててもいいじゃないか。
そんな事を考えた。
著者プロフィール
リチャード・ロイド・パリーの作品





