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本 ・本 (320ページ) / ISBN・EAN: 9784152097576
作品紹介・あらすじ
水洗トイレや自転車の仕組みを説明できると思いこむ、政治に対して極端な意見を持っている人ほど政策の中身を理解していない……私たちがこうした「知識の錯覚」に陥りがちな理由と解決策を認知科学者コンビが語る。ハラリ、サンスティーン、ピンカーが激賞。
感想・レビュー・書評
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最初から最後まで、共感の嵐でめちゃくちゃ良かったです。
特に結びは抜群でここだけでも読む価値あり。
中では、人がいかに無知であるか、その上で人が知ったつもりになってしまう理由、そしてそのことの価値、について書かれています。
“無知”と聞くと、ソクラテスの無知の知を思い浮かべる方も多いと思いますが、この本はそれを少なからず引用しつつも、知らないことを知ろうみたいな浅い結論では終わりません。
特に印象的だったのは、知らないことを知らないこと、つまり無知の知、作中では知識の錯覚、を否定するのではなく、あくまで必要なことであると肯定し、論を進めていたことです。
とても納得感のある説明があり、確かにそうだよな〜と頷くばかりでした。
みなさんの周りにいる偏った考えを振りかざしてくる全能感を覚えてる無能なあの人に、勧めてあげましょう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
いかに私たちは、当たり前と言われることを知っているようで、実は知らないと言うことを再認識させられた。
語り口(書き方)は軽快で、分かりやすく、読んでいて楽しくなる。
例えばジッパー(ファスナー)は、誰だってほぼ毎日使っているだろうし、知らない人はいないだろう。では、その構造や開閉する仕組みを知っているのか?水洗トイレはどうだろう。どうして水が自動で流れ止まるのか?
では、こんなのはどうだろう。正しいか、誤りか。
1.地球の中心はとても熱い。
2.各大陸は何百万年もかけて現在の位置まで移動し、今後も移動を続ける。
3.地球が太陽の周りを回るのか、太陽が地球の周りを回るのか。
4.放射能はすべて人為的につくられた。
5.電子は原子より小さい。
6.レーザーは音波を集中させてつくる。
7.宇宙は巨大な爆発とともに始まった。
8.生物のクローン技術は、遺伝子的に同一のコビーをつくる。
9.赤ん坊の性別を決めるのは父親の遺伝子である。
10.一般のトマトには遺伝子はなく、遺伝子組み換えトマトにはある。
11.抗生物質は細菌とウィルスの両方に効果がある。
12.今日私たちが知っている人間は、祖先である動物から発達した。
正答率が50%以下の問題は5つもあるようだ。
ノーベル賞受賞者であっても、全てを知っている万能の人はいない。必要なのはチームワークで、これこそ人間の人間たる特徴だ。
チームにどれだけ貢献できるかを知ることが、本当の賢さであり、他者の立場や感情的反応を理解する能力、効果的に役割を分担する能力、周囲の意見に耳を傾ける能力なども知能の重要な構成要素とみなすべきだと著者は言う。
また、自分の身の回りの環境、とりわけ周囲の人々から真摯に学び、知識のコミュニティの恩恵を享受しつつ、そこに貢献しようとする姿勢を示すことによって知性を磨き続けることが出来るとも。
知ったかぶりはいけない。
もっと謙虚に学んでいこう。 -
人それぞれは専門分野以外のことは何も知らない、自分が知っていると思うのは錯覚である--指摘されれば確かにそうだと気づかされる。そして、知識というのはコミュニティで持っているものであるという事実にも納得。人は知識を持っているのではなく、誰が知っているか(ポインタ)を知っているだけで、知っているつもりになっている。「無知の知」という哲学で習った言葉を思い出した。太古から人間の本質を理解していた哲学者に驚く。本書は、知っているとはどういうことか、人間がいかに物事を知ったつもりの錯覚に陥っているのかを、事例を挙げながら説明しており、とても納得する内容だった。
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あなたはトイレやファスナーの仕組みをどこまで理解していますか?7段階で答えてください、と言われたら悩むだろう。自分は思っているほど知らない、説明できないという「説明深度の錯覚」から話しは始まり、それあるよなぁ、と引き込まれていった。
人間は行動という目的のために思考する。因果的推論で原因と結果を考える。コンピュータほど論理的でないのが人間的なのだろう。現代の認知科学でも両者の違いを重視しているという。
知識の錯覚が起こるのは、知識のコミュニティーで起きてるからというのは納得。自分の頭に入っている知識と、その外側にある知識を区別できないといわれると、Wikipediaで読んだことを混同してしまうことがある。それは先端科学に向き合う態度、昨今SNSで荒れ気味の政治の世界でもいえる。
ただし認知的分業なしでは現代は生きていくのが難しいのも事実。ファクトに向かい合い、自分がどこまで無知であり、他者の影響を受けて錯覚しているのかを知ることは肝要なのだろう。
アメリカ元国防長官のラムズフェルド氏の言葉は印象的
世の中には、わかっていると、わかっていることがある。これは、自分たちにわかっていると言う事実が、わかっていることだ。一方、わかっていないことがわかっていることもある。つまり、自分たちにはわかっていないと言う事実が、わかっていることだ。しかし、わかっていないことがわかっていないこともある。自分たちにわかっていないということすら、わかっていないことだ。
ソクラテスの「不知の自覚」、インドのチャクラとも結びついてくるので、刺激にもなる。
最後には東洋には無知も包含した考えがあることに触れつつ、無知と錯覚も悪くないという話しになる。人間の欠陥と思われる部分こそが人間らしさ。やや楽天的ではあるが、人間讃歌の本と受け止めた。 -
翻訳書には「訳者あとがき」がありますが、訳者である土方奈美さんのあとがきは著者の主張を非常にうまく伝えていると思う。
本書が気になっている人は、まず最初に「訳者あとがき」を読むことをお勧めします。
この「訳者あとがき」によって、読了後に頭の中がすごく整理されました。
レビューで書こうとメモしていたことが全て語られていましたので書くことがなくなってしまいました。
近年、人口知能がブームですが、人口知能の定義って共有されてないですよね?
知識、知能、知性、知恵 … それぞれどういうことか説明できないのに解ったような気になっている自分がいます。 -
無知と知識の錯覚を認知科学や心理学の実証研究から解き明かした本。
様々な実証研究から浮び上がった事実は、誰しもが知識のコミュニティのなかで生きているということだ。そこから著者たちは個を前提とした従来の知能測定や知性と賢さの定義を一新する。
人は他者の頭のなかの知識と自分の頭のなかの知識を区別できない。むしろ他者の知識や集団内の知識に依存して生きている。だから世の中の全てのことを知っているわけではないのに自分は何でも知っていると錯覚を引き起こす。これを知識の錯覚という。だが、安心してほしい。無知でも世の中を生きていける理由と知識の錯覚は表裏一体。つまり知識の錯覚や無知であるということは、自分があるコミュニティのなかで生きている証拠でもある。
ここから著者たちは知性や知能の再定義を試みる。知性は個人ではなくコミュニティに宿っている。ならば賢さはIQといった個人の力を測ることでは明らかにならない。むしろ、その人がどれだけ知のコミュニティに貢献できるかによって「賢さ」は再定義できるのではないか。
つまり知性や賢さとは個を前提とした知識量や博識を誇ることではない。知識のコミュニティにアクセスする方法を知っている。自分が「何を知らないか」を知っている。であるがゆえに、自分が不特定多数のコミュニティの知に依存して生きていることを自覚している。他者の話に耳を傾ける傾聴の姿勢が身についている。知のコミュニティに貢献するために他者と認知的分業ができる。こうしたことができる人たちがこれからの時代「賢人」「聡明」と言われ得ると著者たちはいう。
個を前提とした賢さや知性の議論にうんざりしていた身としては、著者たちの知性の再定義は斬新だった。これは何度も読み返そうと思った良書。今のところ2018年上半期のベスト書だった。 -
とても興味深く読んだ。さまざまな分野の研究成果に立脚しつつ、一般の読者にもわかりやすく書かれているところが良い。個人は(当人が思うよりずっと)無知だが、それにもかかわらず人間が高度な文明社会を築いているのはなぜか。それは、ごく少数のカシコイ人たちががんばってるからではなく、私たちは「知識のコミュニティ」に生きているからだ、という冒頭の論から、なるほどねという説得力たっぷり。
前半は、そうした明快で新鮮な考察が次々述べられていく。
・なぜ思考するか。行動のためである。
・どう思考するか。人間は因果的推論を得意とし、その力で繁栄してきた。因果情報を交換する最も一般的な方法が「物語」である。
・人間は、自らの身体、周囲の世界(もの)、他者を使って考える。テクノロジーも思考の延長である。
・テクノロジーによる超絶知能の脅威が言われているが、人とは違い、テクノロジーは(まだ)志向性を共有しない。 などなど。
後半は、科学や政治についての理解や、「知能」のとらえ方に話が進み、教育のあり方について具体的な提言もされている。確かに、著者たちの言うとおり、知識が個人の脳に蓄えられるものではなく、コミュニティで共有されるものであるならば、旧来の教育方法は大転換の必要があるだろう。自分は旧人類なので、ここで述べられているような教育の姿はどうもピンとこないのだが、インターネットの爆発的な普及で大きく様変わりしていく世界で生きて行くには、そうした転換が必要なのかもしれない。
一番おもしろいと思ったのは、著者が終わりの方で書いているそのとおり、読後、ここに書かれているのは自明のことで、前からわかっていたような気になることだ。そんなはずはないのに。こんなふうにして人は、いや私は、いろいろな知見をまるで自力で考えたように思い込んでいるのだろう。 -
人は、自分が理解していないことを理解できないらしい。
こういうと、非常に愚かなように聞こえるが、実はこの特質が人類の進歩に非常に役立っている。私たちは、自分の頭の中にある知識と外部の知識、すなわち本やネットの知識から友人の頭の中の知識までも、本能的に区別せずに生きている。確かに実践的には、自分の頭の中だろうが外だろうが、アクセス可能であれば十分である。
また、世の中はますます複雑になってきて、全てを理解することは不可能だし、理解できるものだけを使って生きていくこともできない。理解できないところは信頼して生きていくしかない。
しかしながら、自分が理解できていると錯覚していると問題になることがある。例えば、原発やロケットなど複雑な仕組みについて、理解できていないことを知らずに判断すると大変な事故につながる。政治家の選挙でも、政策の影響を理解しないで投票すると、予期しない結果になるかもしれない。
本書は、人が無知の錯覚に陥りやすいことを、人の社会性という観点から説明する。そして人の知能は個人の中にはなく、社会との関わり方にあるとして、教育や評価のあり方についても考えていく。
自分の知能について謙虚になれるとともに、生きていくうえで何が大切なのかを考える機会になった。 -
なんとなく知ってるつもりで実は知らないこと、知識の錯覚に陥っている。トイレの水、ファスナー、自転車、それぞれの構造を知っているか。
知らなくてもいいものももちろんあるが、必要とすべきこともこの錯覚で曖昧ななまま判断してしまっている。
知能には生まれつきの差はあるが、後学で知性を磨き続けることができる。
生まれてからの毎日をすべて記憶している希少な人々の話があったが、鬱になる傾向が高く、自身を記憶のゴミ捨て場だという。衝撃を受けたものの忘れる行為も必要なんだな。
168冊目読了。
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なぜ私達はこれほどまでに物事を知らず間違うのか。
人間は知ってるつもりになってるだけで、大半のことを知らない(説明できない)。
ハイテクノロジーの問題、集団の問題。様々な理由は見られるが、大事なことは私達は知ってるかのようで多くを知らないことが都合いいようにできていることだ。
その一方で、フェイクニュースに騙されるなど無知には現在起きている多くの問題もあり、最近になってそれは顕著になっている印象を受ける。私達は自分達が無知であることをしっかりと意識すべきだと感じた。
現代社会の問題の原因を窺える認知心理学の良書。