- Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
- / ISBN・EAN: 9784152097576
作品紹介・あらすじ
水洗トイレや自転車の仕組みを説明できると思いこむ、政治に対して極端な意見を持っている人ほど政策の中身を理解していない……私たちがこうした「知識の錯覚」に陥りがちな理由と解決策を認知科学者コンビが語る。ハラリ、サンスティーン、ピンカーが激賞。
感想・レビュー・書評
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最初から最後まで、共感の嵐でめちゃくちゃ良かったです。
特に結びは抜群でここだけでも読む価値あり。
中では、人がいかに無知であるか、その上で人が知ったつもりになってしまう理由、そしてそのことの価値、について書かれています。
“無知”と聞くと、ソクラテスの無知の知を思い浮かべる方も多いと思いますが、この本はそれを少なからず引用しつつも、知らないことを知ろうみたいな浅い結論では終わりません。
特に印象的だったのは、知らないことを知らないこと、つまり無知の知、作中では知識の錯覚、を否定するのではなく、あくまで必要なことであると肯定し、論を進めていたことです。
とても納得感のある説明があり、確かにそうだよな〜と頷くばかりでした。
みなさんの周りにいる偏った考えを振りかざしてくる全能感を覚えてる無能なあの人に、勧めてあげましょう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
翻訳書には「訳者あとがき」がありますが、訳者である土方奈美さんのあとがきは著者の主張を非常にうまく伝えていると思う。
本書が気になっている人は、まず最初に「訳者あとがき」を読むことをお勧めします。
この「訳者あとがき」によって、読了後に頭の中がすごく整理されました。
レビューで書こうとメモしていたことが全て語られていましたので書くことがなくなってしまいました。
近年、人口知能がブームですが、人口知能の定義って共有されてないですよね?
知識、知能、知性、知恵 … それぞれどういうことか説明できないのに解ったような気になっている自分がいます。 -
無知と知識の錯覚を認知科学や心理学の実証研究から解き明かした本。
様々な実証研究から浮び上がった事実は、誰しもが知識のコミュニティのなかで生きているということだ。そこから著者たちは個を前提とした従来の知能測定や知性と賢さの定義を一新する。
人は他者の頭のなかの知識と自分の頭のなかの知識を区別できない。むしろ他者の知識や集団内の知識に依存して生きている。だから世の中の全てのことを知っているわけではないのに自分は何でも知っていると錯覚を引き起こす。これを知識の錯覚という。だが、安心してほしい。無知でも世の中を生きていける理由と知識の錯覚は表裏一体。つまり知識の錯覚や無知であるということは、自分があるコミュニティのなかで生きている証拠でもある。
ここから著者たちは知性や知能の再定義を試みる。知性は個人ではなくコミュニティに宿っている。ならば賢さはIQといった個人の力を測ることでは明らかにならない。むしろ、その人がどれだけ知のコミュニティに貢献できるかによって「賢さ」は再定義できるのではないか。
つまり知性や賢さとは個を前提とした知識量や博識を誇ることではない。知識のコミュニティにアクセスする方法を知っている。自分が「何を知らないか」を知っている。であるがゆえに、自分が不特定多数のコミュニティの知に依存して生きていることを自覚している。他者の話に耳を傾ける傾聴の姿勢が身についている。知のコミュニティに貢献するために他者と認知的分業ができる。こうしたことができる人たちがこれからの時代「賢人」「聡明」と言われ得ると著者たちはいう。
個を前提とした賢さや知性の議論にうんざりしていた身としては、著者たちの知性の再定義は斬新だった。これは何度も読み返そうと思った良書。今のところ2018年上半期のベスト書だった。 -
とても興味深く読んだ。さまざまな分野の研究成果に立脚しつつ、一般の読者にもわかりやすく書かれているところが良い。個人は(当人が思うよりずっと)無知だが、それにもかかわらず人間が高度な文明社会を築いているのはなぜか。それは、ごく少数のカシコイ人たちががんばってるからではなく、私たちは「知識のコミュニティ」に生きているからだ、という冒頭の論から、なるほどねという説得力たっぷり。
前半は、そうした明快で新鮮な考察が次々述べられていく。
・なぜ思考するか。行動のためである。
・どう思考するか。人間は因果的推論を得意とし、その力で繁栄してきた。因果情報を交換する最も一般的な方法が「物語」である。
・人間は、自らの身体、周囲の世界(もの)、他者を使って考える。テクノロジーも思考の延長である。
・テクノロジーによる超絶知能の脅威が言われているが、人とは違い、テクノロジーは(まだ)志向性を共有しない。 などなど。
後半は、科学や政治についての理解や、「知能」のとらえ方に話が進み、教育のあり方について具体的な提言もされている。確かに、著者たちの言うとおり、知識が個人の脳に蓄えられるものではなく、コミュニティで共有されるものであるならば、旧来の教育方法は大転換の必要があるだろう。自分は旧人類なので、ここで述べられているような教育の姿はどうもピンとこないのだが、インターネットの爆発的な普及で大きく様変わりしていく世界で生きて行くには、そうした転換が必要なのかもしれない。
一番おもしろいと思ったのは、著者が終わりの方で書いているそのとおり、読後、ここに書かれているのは自明のことで、前からわかっていたような気になることだ。そんなはずはないのに。こんなふうにして人は、いや私は、いろいろな知見をまるで自力で考えたように思い込んでいるのだろう。 -
人は、自分が理解していないことを理解できないらしい。
こういうと、非常に愚かなように聞こえるが、実はこの特質が人類の進歩に非常に役立っている。私たちは、自分の頭の中にある知識と外部の知識、すなわち本やネットの知識から友人の頭の中の知識までも、本能的に区別せずに生きている。確かに実践的には、自分の頭の中だろうが外だろうが、アクセス可能であれば十分である。
また、世の中はますます複雑になってきて、全てを理解することは不可能だし、理解できるものだけを使って生きていくこともできない。理解できないところは信頼して生きていくしかない。
しかしながら、自分が理解できていると錯覚していると問題になることがある。例えば、原発やロケットなど複雑な仕組みについて、理解できていないことを知らずに判断すると大変な事故につながる。政治家の選挙でも、政策の影響を理解しないで投票すると、予期しない結果になるかもしれない。
本書は、人が無知の錯覚に陥りやすいことを、人の社会性という観点から説明する。そして人の知能は個人の中にはなく、社会との関わり方にあるとして、教育や評価のあり方についても考えていく。
自分の知能について謙虚になれるとともに、生きていくうえで何が大切なのかを考える機会になった。 -
なんとなく知ってるつもりで実は知らないこと、知識の錯覚に陥っている。トイレの水、ファスナー、自転車、それぞれの構造を知っているか。
知らなくてもいいものももちろんあるが、必要とすべきこともこの錯覚で曖昧ななまま判断してしまっている。
知能には生まれつきの差はあるが、後学で知性を磨き続けることができる。
生まれてからの毎日をすべて記憶している希少な人々の話があったが、鬱になる傾向が高く、自身を記憶のゴミ捨て場だという。衝撃を受けたものの忘れる行為も必要なんだな。
168冊目読了。
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なぜ私達はこれほどまでに物事を知らず間違うのか。
人間は知ってるつもりになってるだけで、大半のことを知らない(説明できない)。
ハイテクノロジーの問題、集団の問題。様々な理由は見られるが、大事なことは私達は知ってるかのようで多くを知らないことが都合いいようにできていることだ。
その一方で、フェイクニュースに騙されるなど無知には現在起きている多くの問題もあり、最近になってそれは顕著になっている印象を受ける。私達は自分達が無知であることをしっかりと意識すべきだと感じた。
現代社会の問題の原因を窺える認知心理学の良書。 -
あまり頭に入ってこなかったのでまた時間をおいて読み直したい。
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第6章以降ぐっと面白くなる。無知、知識の錯覚、知識のコミュニティについて丁寧に説明されている。類似テーマについていくつかの書籍を読んでいるが、少しずつ違う視点から語られることにより、自分の理解が深まるように感じ楽しい。特に「反知性主義」(森本あんり著)の内容を思い返し、たいへん複雑な気持ちになった。(次に読む本としておすすめします)
知識の錯覚と知識の呪縛については常に自戒が必要。社会におけるさまざまな対立をやわらげ、超えていくために、本書の知見をふまえ実践してみたい。 -
一見知っていると思っていることでも、実は知らないことの方が多く、自分の知識を過大評価しており、自分で思っているよりも無知なことをわからせてくれ、どうすれば無知を乗り越えていけるのかをテーマにしています。
例えば自転車のフレームにチェーンやペダルを描き込むテストをした結果、被験者の半数が正しく描けなかった。
例えばトイレの仕組みを完全に理解している人はほとんどいない。
つまり、人間は自分が思っているより無知で、知識の錯覚の中に生きている。
だから、各人が得意分野を持ち寄って、集団としての『貢献』を重要視している。
身の回りの環境、特に周囲の人々から真摯に学び、知識のコミュニティの恩恵を受け、そこに貢献する姿勢が大切だと説明している。