知ってるつもり――無知の科学

  • 早川書房
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本棚登録 : 831
レビュー : 57
  • Amazon.co.jp ・本 (320ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784152097576

作品紹介・あらすじ

水洗トイレや自転車の仕組みを説明できると思いこむ、政治に対して極端な意見を持っている人ほど政策の中身を理解していない……私たちがこうした「知識の錯覚」に陥りがちな理由と解決策を認知科学者コンビが語る。ハラリ、サンスティーン、ピンカーが激賞。

感想・レビュー・書評

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  • 無知と知識の錯覚を認知科学や心理学の実証研究から解き明かした本。
    様々な実証研究から浮び上がった事実は、誰しもが知識のコミュニティのなかで生きているということだ。そこから著者たちは個を前提とした従来の知能測定や知性と賢さの定義を一新する。

    人は他者の頭のなかの知識と自分の頭のなかの知識を区別できない。むしろ他者の知識や集団内の知識に依存して生きている。だから世の中の全てのことを知っているわけではないのに自分は何でも知っていると錯覚を引き起こす。これを知識の錯覚という。だが、安心してほしい。無知でも世の中を生きていける理由と知識の錯覚は表裏一体。つまり知識の錯覚や無知であるということは、自分があるコミュニティのなかで生きている証拠でもある。

    ここから著者たちは知性や知能の再定義を試みる。知性は個人ではなくコミュニティに宿っている。ならば賢さはIQといった個人の力を測ることでは明らかにならない。むしろ、その人がどれだけ知のコミュニティに貢献できるかによって「賢さ」は再定義できるのではないか。
    つまり知性や賢さとは個を前提とした知識量や博識を誇ることではない。知識のコミュニティにアクセスする方法を知っている。自分が「何を知らないか」を知っている。であるがゆえに、自分が不特定多数のコミュニティの知に依存して生きていることを自覚している。他者の話に耳を傾ける傾聴の姿勢が身についている。知のコミュニティに貢献するために他者と認知的分業ができる。こうしたことができる人たちがこれからの時代「賢人」「聡明」と言われ得ると著者たちはいう。

    個を前提とした賢さや知性の議論にうんざりしていた身としては、著者たちの知性の再定義は斬新だった。これは何度も読み返そうと思った良書。今のところ2018年上半期のベスト書だった。

  • 人は、自分が理解していないことを理解できないらしい。

    こういうと、非常に愚かなように聞こえるが、実はこの特質が人類の進歩に非常に役立っている。私たちは、自分の頭の中にある知識と外部の知識、すなわち本やネットの知識から友人の頭の中の知識までも、本能的に区別せずに生きている。確かに実践的には、自分の頭の中だろうが外だろうが、アクセス可能であれば十分である。

    また、世の中はますます複雑になってきて、全てを理解することは不可能だし、理解できるものだけを使って生きていくこともできない。理解できないところは信頼して生きていくしかない。

    しかしながら、自分が理解できていると錯覚していると問題になることがある。例えば、原発やロケットなど複雑な仕組みについて、理解できていないことを知らずに判断すると大変な事故につながる。政治家の選挙でも、政策の影響を理解しないで投票すると、予期しない結果になるかもしれない。

    本書は、人が無知の錯覚に陥りやすいことを、人の社会性という観点から説明する。そして人の知能は個人の中にはなく、社会との関わり方にあるとして、教育や評価のあり方についても考えていく。

    自分の知能について謙虚になれるとともに、生きていくうえで何が大切なのかを考える機会になった。

  • 認知科学は、人間の知性の働きを研究する学問分野。しかしながらこの本を読むと、これまでの〝知性の研究〟が明らかにしてきたのは、むしろその限界だというのです。

    思考する時、人は利用する知識の在りかが自分の中にあるのか、外にあるのか、実は区別を上手につけられていないのだとか。

    なので人間は〝自分は物事を分かっている〟と、自身の理解度を過大評価しがちになるらしい。うーん困ったものです。

    「理解している」と錯覚した対象が、身の回りの比較的単純な物事なら笑い話にもなりそうですが、社会問題や経済政策だとすると事態は些か深刻になってきます。

    いかに自らの無知を自覚できるかが鍵になりそうですが、本書に登場する事例は、それを乗り越えることの困難さを示唆してもいます。

    なるほど、このように知性は頼りないらしいのです。それでもしばしば偉大な業績を上げたりもする。ならば人間の賢さとは何なのかーー本書が出色であるなあと感じるのは、常識を覆すような視点から、知性の再定義を試みようとしているところです。

    現代社会は複雑で、どんな成果も一人では達成できません。言い換えれば、全ての業績は〝集団〟=チームから生まれることを示しているわけです。

    つまり、真の知性とは、いわゆる〝頭の良さ〟以上に多様な個性を生かし、他人の意見を傾聴し、そこから学びあう姿勢を指すとも言えなくもないということ。これはなかなかにインパクトのある主張でした。

    最終章に登場する、2人の子どもの将来を思う著者の親心は、そのまま人間の知性への強い期待と希望の言葉でした。

    人が持つ可能性への信頼。それこそ著者が明示こそしなかったものの知性の本質に関わる要素なのかもしれません。

  • とても興味深く読んだ。さまざまな分野の研究成果に立脚しつつ、一般の読者にもわかりやすく書かれているところが良い。個人は(当人が思うよりずっと)無知だが、それにもかかわらず人間が高度な文明社会を築いているのはなぜか。それは、ごく少数のカシコイ人たちががんばってるからではなく、私たちは「知識のコミュニティ」に生きているからだ、という冒頭の論から、なるほどねという説得力たっぷり。

    前半は、そうした明快で新鮮な考察が次々述べられていく。
    ・なぜ思考するか。行動のためである。
    ・どう思考するか。人間は因果的推論を得意とし、その力で繁栄してきた。因果情報を交換する最も一般的な方法が「物語」である。
    ・人間は、自らの身体、周囲の世界(もの)、他者を使って考える。テクノロジーも思考の延長である。
    ・テクノロジーによる超絶知能の脅威が言われているが、人とは違い、テクノロジーは(まだ)志向性を共有しない。   などなど。

    後半は、科学や政治についての理解や、「知能」のとらえ方に話が進み、教育のあり方について具体的な提言もされている。確かに、著者たちの言うとおり、知識が個人の脳に蓄えられるものではなく、コミュニティで共有されるものであるならば、旧来の教育方法は大転換の必要があるだろう。自分は旧人類なので、ここで述べられているような教育の姿はどうもピンとこないのだが、インターネットの爆発的な普及で大きく様変わりしていく世界で生きて行くには、そうした転換が必要なのかもしれない。

    一番おもしろいと思ったのは、著者が終わりの方で書いているそのとおり、読後、ここに書かれているのは自明のことで、前からわかっていたような気になることだ。そんなはずはないのに。こんなふうにして人は、いや私は、いろいろな知見をまるで自力で考えたように思い込んでいるのだろう。

  •  なぜ私達はこれほどまでに物事を知らず間違うのか。

     人間は知ってるつもりになってるだけで、大半のことを知らない(説明できない)。
     ハイテクノロジーの問題、集団の問題。様々な理由は見られるが、大事なことは私達は知ってるかのようで多くを知らないことが都合いいようにできていることだ。
     その一方で、フェイクニュースに騙されるなど無知には現在起きている多くの問題もあり、最近になってそれは顕著になっている印象を受ける。私達は自分達が無知であることをしっかりと意識すべきだと感じた。

     現代社会の問題の原因を窺える認知心理学の良書。

  • 「水洗トイレや自転車の仕組みを説明できると思いこむ、政治に対して極端な意見を持っている人ほど政策の中身を理解していない…」
    確かに、いつも使っているものについて、自分はその仕組みもすべて分かっていると思っている。
    でも「ジッパーの仕組みってどうなっているのか?説明してみろ」って言われてもうまく説明できないだろう。

    人間は個人の知力だけでなく集団の知力や過去の偉人達の知力を利用して進化してきた。ここが人間と動物のすごいところだ。それは言葉を使って他人に伝えるということで成しえてきたものなのだ。
    文字のない時代は口述で、文字ができた後は書物によって人間は蓄えてきた知識を後世の人々に伝えいき、人間は進化していった。

    現在は、自分が記憶していなくてもスマートフォンなどでですぐにありとあらゆることが検索でき、保存できる時代になった。

    人間の進化はどこまで行くのだろうと考えさせられる一冊だった。

  • 現代(に限った話ではないが)社会問題について我々が克服すべきことが「9章 政治について考える」で記されている。

    グループシンク(集団浅慮) byアービング・ジャンス
    同じような考えを持った人々が議論すると一段と極論化する
    異なる意見を持った人々とはお互いに交流するつもりはない
    相手を単純化して細部深部に理解を示さない

    説明深度の錯覚
    政策について賛否を聞いたあと、その政策の内容について説明させるとその後意見を中道よりに改める

    このあたりの話は『ファクトフルネス』にも記述があるらしい。近く読みたいと思う。


    「11章 賢い人を育てる」にあるジグソーメソッドという教育プログラムは、小中学校であったけど結局なにやったのかわからない総合的な学習で取り入れたらいいと思う。

    p.247 ジグソーメソッド
    例:動物の暮らしについて調べるという課題
    →いくつかの調査グループ(動物の防御システム、捕食者と非捕食者の関係、生息環境による防御の仕組み、生存戦略etc.)に分ける
    →各グループから一人ずつ集めた教育グループを作る
    *教育グループはそれぞれの分野の専門家の集まりとなる
    →新しい課題「未来の動物をデザインする」をそれぞれのグループで考える

  • 「見たこと」あるいは「知っていること」を「理解している」と混同しているということ、知識の錯覚はこの一言に尽きるような気がする。
    あと、有能な集団には有能な人が大勢いる必要はなく、異なる能力を持った人がバランスよくいること、という件を読んで一番最初に頭に浮かんだのはONE PIECEのルフィとクルーだった。

  • 自分がいろいろと知っているというのは大間違い。ほとんど何も知らない。
    チームに必要なのはエースではなく、それぞれの異なる能力を持った人がバランスよくいること。
    因果関係は深く入り込むと嫌われる。わかった気にさせるようなぐらいが一番良い。
    まず大抵の人は説明嫌いであるという事実、意思決定に必要な詳細な情報を理解する気も能力もないことが多いという事実を認める必要がある。

  • 人間は、無知なのに物知りだと勘違い(知識の錯覚)したり、非合理的な思考に左右されたりする愚かな生物であることを痛感させられる本だ。東浩紀著の『ゆるく考える』の「ソクラテスとポピュリズム」の中で、ソクラテスは「(人々の)噂による感情の暴走」が原因で死刑判決を受けたと書かれている。つまり、合理的ではない判決でソクラテスは死に追いやられてしまったのだ。だから、人間は今も昔も全く進歩していないとも言える。何とも暗澹たる気持ちになるが、本書では知識の錯覚のメリットも挙げている。それがせめてもの救いである…

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