エデュケーション 大学は私の人生を変えた

  • 早川書房 (2020年11月17日発売)
4.13
  • (59)
  • (47)
  • (22)
  • (4)
  • (4)
本棚登録 : 818
感想 : 65
サイトに貼り付ける

本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

本 ・本 (512ページ) / ISBN・EAN: 9784152099464

作品紹介・あらすじ

アイダホの山奥で育ったタラ。狂信的なモルモン教原理主義者の父の方針で、学校へも通わせてもらえず、病院に行くのも禁じられていた。兄からは虐待も受けていた。自らの将来と家族のあり方に疑問を感じたタラは独学で大学に入ろうと決意するが……。衝撃の実話。

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 【感想】
    読んでいて絶句しっぱなしだった。
    こんな生活が21世紀の先進国で、しかも世界一の大国であるアメリカで行われているとは。筆者が経験したエピソードの一つひとつに戦慄し、窒息しそうなぐらいの恐ろしさを身に感じていた。

    筆者のタラは1986年、アイダホ州でモルモン教サバイバリストの両親の元、7人兄弟の末っ子として生まれる。父親は終末論を信じており、広大な家の庭に大量のガソリンと果物の瓶を隠していた。核戦争が起きた後の世界で生き延びるためだ。政府との接触を極端に避けているため、7人の子どものうち4人を自宅出産している。当然出生証明書は持っていない。
    父親は「公立学校は政府による陰謀の一部で、子どもたちを神から遠ざけてしまう」という考えから、上の子ども3人を退学させた。下の子4人は小学校にすら通わせていない。タラも生まれてから一度も学校に行ったことはなく、勉強は全て家庭学習だった。日中は動物の世話をし、父親の仕事である廃材処理を手伝い、果物を瓶詰めし、「世界の終わり」に備える生活を送っていた。

    このサバイバル生活でもっとも不自由で怖いのが、病院に行けないことである。父親が「病院とは身体を治療する場所ではなく、身体の中に悪魔を埋め込む場所だ」と家族を洗脳していたためだ。そのため、命を失ってもおかしくない大事故(実際家族の中では、指を失ったり、高い所から落ちて脳みそが漏れ出たりした人もいる)であっても、ハーブとアルコール、そしてスピリチュアルなオーラを配合したチンキ剤を身体に塗り、自然治癒に任せねばならない。

    こうした暮らしを送っていた筆者が大学に合格するまでのエピソードと、大学教育を受けた後の価値観の変化が本書で語られるわけだが、そもそもそんな環境では大学受験なんて夢のまた夢の話である。まずは小・中学校クラスの勉強が必要であるし、さらにその前に、世間一般の『普通』を身につけなければならない。なにせ足に廃材がぶっ刺さって骨が見えても、手首の骨が砕けようとも、病院に行くという選択肢が「あり得なかった」人生を送ってきたのだ。
    そうした世間一般の常識の欠如が象徴的に語られるエピソードがある。大学に進学した筆者が、芸術史の授業で使われている本を「教科書」だと思っていなかった話だ。
    筆者は芸術の本を「読む」ということがわかっておらず、シラバスで50ページから85ページまでが試験範囲として割り当てられていても、そこを「読まなければならない」とは考えていなかった。彼女はただ教科書を絵として眺め、CDを音楽として聴いただけですませており、端的に言えば、「教科書とはなにか」という意味がわかっていなかったのだ。

    こういう風に、いかに筆者がズレた価値観の中で人生を送ってきたかが盛りだくさんに紹介され、そのたびに一々恐怖を覚えてしまうのだが、本書の一番怖い部分は、親から植えつけられた価値観を前にして、無意識のうちに「自分が悪いのだ」と自己暗示をかけてしまう筆者の無垢さにあると思っている。

    本書は500ページ近くあるのだが、大学入学を決めた、つまり洗脳を解くチャンスを手にいれたのは、ちょうど半分にあたる250ページ近くである。では本の残り半分には何が書かれているかというと、大学教育と親からの洗脳教育の間で葛藤する筆者の様子である。

    大学に入っても、自らの価値観・世界観はそう簡単に覆らない。親元を離れ未知の世界に踏み込んでからも、彼女は自分の新しい居場所と故郷の山に置いてきた家族のことを思い返しては、幾度となく実家に帰っている。読み手からすれば「そんな狂った家族とは今すぐ縁を切れ」と思いたくなるのだが、これができないのが洗脳の怖いところだ。

    例えば、タラは大学進学後に無一文になってしまい、学業どころか日々の生活すらままならなくなるのだが、教会のビショップから給付型の補助金申請を強く進められても、彼女は頑として断っていた。政府の補助金は「やつらに借りを作ること」になるからだ。もはや合理的ですらない本能レベルの拒絶である。しかも、この金の工面をどうしたかと言うと、実家で父親の仕事を手伝うことで穴埋めしようとしたのだ。最初は故郷の市街地にある小売店でアルバイトをして金を稼ごうとしていたのだが、父親からの「戻って家の仕事を手伝えば許してやる」という脅しに屈してしまい、再び廃材の仕事に就くことを決断したのだった。

    幾度となく脱出のチャンスを与えられても、決して洗脳から抜け出すことができない。ずっと自分にふさわしい(と錯覚している)役割と場所の中に己を捉え続け、新しい価値観を否定し続ける。親という存在の残酷さと、自分の世界を支配している常識から抜け出すことの難しさが、彼女を30年間呪いのように縛り続けていたのだ。

    ここまで凄い自伝は、いまだかつて読んだことがない。
    とにかく衝撃的な一冊。興味を持った方は是非読んでみて欲しい。

    ――――――――――――――――――――――――――――――――――
    【本書のまとめ】
    1 生い立ち
    筆者のタラは1986年、アイダホ州でモルモン教サバイバリストの両親の元、7人兄弟の末っ子として生まれた。

    父が戦争状態に突入したのは20代後半になってからだ。
    父が結婚したのは21歳。その後生まれた3人の子どもは病院で出産したが、父が27歳のときに産まれたルークは助産師が家で出産させた。そこから父は4人の子どもの出生証明書を申請しないことに決め、30代になった頃、兄たちを学校から退学させた。その後の四年間で、父は電話を捨て、運転免許の更新をしないと決め、食料の備蓄をはじめたのだ。

    父は医者を憎んでいた。医者が行う治療は人を助けるためではなく人を殺すための悪魔の所業であり、ハーブを使った自然療法しか認めていなかった。
    母は助産婦の仕事をしていたが、助産婦になりたいと思っていたわけではなかった。そもそもその助産婦は無免許であり、病院でなく自宅出産の介助をするヤミ医者のことだ。父の影響である。父は、助産婦の仕事は神の意志であり、わたしたち家族を祝福するものなのだと母に言い聞かせた。「一人前の助産婦になるんだ」というのが、彼の口癖であった。

    私の家族では、学ぶことは完全にそれぞれの自己流だった。自らに割り当てられた仕事が終わり次第、自分でわかる範囲で何でも勉強することができた。だいたいは家にあった薬草学の本、算数の教科書が教材であったが、一度も授業やテストをすることがなかったため、3人目の子どものタイラー以外は、勉強をするという習慣が身につかなかった。

    わたしはタイラーのことが大好きだった。この家において、タイラーだけが他の家族とテンポが違う。本を愛し、整頓と秩序を望み、知識を欲していた。

    タイラーが「大学に行きたい」と口にしたとき、父は呆れ、そして烈火の如く怒った。父にとって学校とは政府が国民を洗脳するための矯正機関だからだ。それでも信念を曲げないタイラーを、父は毎日のように説得し続けた。「山を捨ててイルミナティに加わるなんて絶対に許さない」と。
    結局、タイラーは身辺を整理して家を出た。タイラーは孤独の中に足を踏み入れ、信念に従ったのだ。


    2 仕事
    兄の代わりに廃材置き場の仕事の手伝いをすることになった私たちは、危険な現場で何度も怪我をした。廃材が足に刺さったり、高所から落下したり、ガソリンタンクから引火した炎が皮膚を焦がしたりしても、病院に行くことは許されなかった。いつしか子どもたちの頭の中からも、「ケガをしたら病院に行く」という選択肢が消えていた。


    3 虐待
    兄のショーンはわたしに暴力を振るうようになった。理由は、わたしが街にいる女性と同じように、恋愛に乗じて軽薄な女になる恐れからだ。メイクをする私を見て「まるで売春婦だ」という言葉を投げかけられもした。
    ある日、ショーンが寝ている私の首を締め、廊下に引きずり出し、床に押さえつけた。その窮地を救ってくれたのは、家を出たはずのタイラーであった。たまたまその日実家に戻ってきていたのだ。

    タイラー「離れるときが来たんだよ、タラ。長くここにいればいるほど、離れられなくなる」「タラ、世界は目の前に広がっているよ。君のためにね」「君の耳に自分の考えをふきこむ父さんから離れたら、世界は違って見えてくる」

    タイラーから進学を勧められたものの、わたしは大学のことを想像できなかった。大学は私の人生には関係のない場所だからだ。
    自分の人生がどうなるのかはもうわかっていた。18か19で結婚をする。父が農園の一画を私に与えてくれて、夫がそこに家を建てる。母がハーブについて、そして助産婦の仕事について教えてくれる。子供ができたら、母が子供を取り上げてくれ、そしていつの日か、きっと私が助産婦になるのだ。その人生に大学が入る余地はなかった。

    ショーンが交通事故により負傷した際、脳から血を流す彼を、家に戻すか病院に送るかで葛藤することになる。私は病院に送ることを決意したが、それを聞いた父は沈黙を貫いていた。彼なりの抗議だったのだろう。

    ショーンが回復してから3週間後、ある封筒が届いた。それは密かに入学試験を受けていた大学からの合格通知だった。
    最初に感じたのは決意である。父のためには二度と働かないと。
    一週間後、私はブリガム・ヤング大学に出願した。生まれて初めての学校であった。


    4 大学生活
    大学生活は衝撃と戸惑いの連続だった。学校には異教徒(非モルモン教徒)ばかりであり、授業ではわけのわからない言葉がブラックホールのように穴を開けていた。

    ある芸術史の授業で、私は手を挙げた。「この言葉はどういう意味ですか?」とたんに、部屋中を沈黙が襲った。それは完全な、暴力的なまでの静寂だった。わたしは「ホロコースト」という言葉の意味がわからず、無邪気に質問してしまったのだ。
    また私は、芸術史の授業で使われている本を「教科書」だと思っていなかった。それは音楽を聞くためのCDと、絵画を見るための画集であり、芸術の本を「読む」ということがわからなかった。つまり、シラバスで50ページから85ページが割り当てられていても、そこを「読まなければならない」とは考えていなかった。端的に言えば、「教科書がなにか」という意味がわかっていなかったのだ。
    ただ、「教科書を読む」という理解は最高のアドヴァイスになった。明け方まで勉強を続け、学期末までにはAを取れるまで進歩した。

    しかしながら、学期末に実家に戻った際、父と母は私を現実に引き戻した。「廃材置き場の仕事を手伝わないなら、ここから出ていきなさい」。私はその言葉に逆らえなかった。大学という経験を経ても、自分の殻をやぶることができない。スクラップ作業のためのブーツを身に着け、またあの危険な日々に身を投じたのだ。

    作業場で、ショーンと父はある名前で私を読んだ。「おい、ニガー!」と。彼らはこう考えたのだ。「教育を受けて生意気になったアイツに必要なのは、時間を巻き戻すことだ」と。私を古いワタシに閉じ込めようとしたのだ。
    しかし、今の私は昔とは違う。ニガーに込められた意味と、その差別と闘った人の歴史を、大学で学んでいたのだ。
    ものごとを知る道を歩み始め、兄、父、そして自分自身について、根本的ななにかに気づいた瞬間であった。故意でも偶然でもなく、教養に基づく教えを他人から与えられた結果、自分たちの考えが形作られていたことを理解したのだ。

    ショッピングモールの駐車場で、兄から再び虐待を受けた。車から強制的に引きずり出され、地面に叩きつけられ、服をめくり上げられた。腕を背中に回され、手首の骨が砕けた。暴力を振るわれているあいだ、私はずっと激しく笑い続けていた。駐車場で目撃したかもしれない誰かが、それはすべて悪ふざけだったと納得するように努力していたのだ。

    家に戻った私は日記を書いた。「あのときわたしは、自分の意思をはっきりと伝えたのだろうか。なにをささやいて、何を叫んだのだろう。違う方法で伝えていたら、もっと落ち着いて話をしていたら、彼はやめてくれたはずだ」。悪かったのは自分だと考えると、頭がスッキリとし、感情が落ち着く。自分がそう信じられるまで日記を書き続けた。
    しかし私は、そのあと人生で初めてのことをした。起きたことをそのまま日記に書いたのだ。あいまいで遠回しな言葉は使わないようにし、ほのめかしや示唆の影に自分を隠さないように努めた。自分の心の中で生きるという強い信念を、このときはじめて持ったのである。


    5 夜明け
    大学の心理学の授業で、「双極性障害」という言葉を習う。双極性障害に現れる症状は、鬱、操、パラノイアケージ、多幸症、誇大妄想、被害妄想…。つまり普段の父にそっくりであった。
    私は大学の神経科学者と認知科学の専門家に片っ端から電話をし、双極性障害を患った患者と、「その家族――特に子ども」にふりかかる影響を耳にした。

    そして、すべてを悟った。
    わたしは19年間、父の思うがままに生きてきた。そんな私にとって、世の中の「普通」とはいったいなんなのか?父の教えを絶対的な真理として育ってきた子どもたちには、いったいどちらの世界が正しく、どちらの世界が狂っているのか?

    そしていま、新しいことに挑戦するときが来たのだ。

    わたしはケンブリッジ大学への留学プログラムに参加する。
    学びたいものはなにか?と訊いたケンブリッジ大学の教授に対し、「史学史」だと答えた。
    人間が過去について知ることには限界がある。歴史は常に、他人が語ったものにすぎない。思い違いを正されることがどういうことなのかを、わたしはよく理解していた。彼らが綴ったことは絶対ではなく、対話と修正の末の偏った結果にすぎないのだということであれば、世の中のほとんどの人が歴史と認識しているものが、私が教えられたものとは違っていたという事実について、自分自身と折り合いがつけられるのではないかと考えた。

    論文のための読書によってわたしは素晴らしい仮説を得ることができた。それは、書物は詭弁などではないし、私自身も無力ではないという仮説だ。 

    私のケンブリッジでの生活は変化した。変化したというよりは、自らがケンブリッジにふさわしいと信じる誰かに変身していったと言ったほうがいいかもしれない。
    私は初めて、自分が育った環境を公の場で語った。


    6 教育
    父が私の人生に存在し、そして私の人生を支配しようと全力を尽くしていたあのとき、私は兵隊のようなまなざしで彼を見ていた。彼の優しさを理解できなかった。父が目の前に立ちはだかり憤慨していると、思い出の中の安らかな父の姿を蘇らせることなどできなかった。父のそういった姿を思い出せるようになったのは、私たちが距離と時間によって隔てられた最近になってからだ。
    しかし、私と父をより遠ざけるのは、時間や距離ではない。それは自己の変化だ。私はもう父が育てたあの子ではない。でも、彼は彼女を育てた父のままだ。

    これをなんと呼んでくれてもかまわない。変身。変形。偽り。裏切り者と呼ぶ人もいるだろう。
    私はこれを教育と呼ぶ。

  • 本を読む本当の意味が書いてある。
    ビル・ゲイツ、オバマ夫妻に絶賛され、全米400万部超えの記録的ベストセラー。著者は2019年世界で最も影響力のある100人に選出される。
    あまりに恵まれすぎている国で生まれた日本人にとってこんなに心を動かされる本はないと思う。
    正直、心をズタボロにされた気分で全く消化できていないけれど、思ったことを書いてみる。訳者もあまりに壮絶な肉体的、精神的な虐待と環境に訳す手が何度も止まったと書いている。
    敬虔なモルモン教徒の家庭に生まれ、病院にも学校にも行かせてもらえず、兄からひどい暴行を受けながら、父からは何度も殺されそうになる少女が、自らの手で人生を切り拓いていく話。敬虔なモルモン教徒と説明されえあるけれど個人的には敬虔なんて言葉を使ってはいけない気がするが、どんな宗教にもいろんな信者がいるのだからモルモン教をひとくくりに軽蔑するのはやめておく。
    読みながら、この家族はタラをひどく危険に晒し、命が危ない状況でも薬草やオイルを塗っておけば治ると信じ、このままでは殺されてしまう、殺される前に殺したほうがいいのではないかと何度も考えていた。しかし、彼女にとっては頭の悪い父親も暴力的な兄も家族だった。前半部分で精神障害という言葉はあまり使われてないけれど、やはり宗教は人の精神に大きな障害を与えることもあるのかもしれない。私は無信教ではないけれどそう思う。

    【以下ネタバレになります。】
    22章までずっと読むのが苦しかった。人生を進め始めるタラを見ていて大きな感動をもらった。
    23章でタラがアイダホ出身と言えるようになったときようやく少し救われた。
    24章
    父が双極性障害や統合失調症だったと理解しても同情ではなく、犠牲を強いられた家族のことを思い、タラは怒りしか感じなかった。安全よりも信仰を優先し、どんなに家族が痛み苦しんでいても神様が助けてくれると物事を悪い方向へ持っていく父親に。
    26章
    父親が事故に遭いのどが焼けただれたせいで、説教者から観察者に変わったことで、タラとオードリーおしゃべりを聞くことしかできなくなった。父が授業のことををもっと聞きたい、すごく面白そうだと言ったとき何かがはじまるとタラは思った。
    27章
    ブリガム・ヤング大学のユダヤ人の歴史の授業を担当しているケリー博士にケンブリッジの話を勧めてもらう場面は本当に光が差すように感じた。
    28章
    ケンブリッジのスタンバーグ教授が、「ケンブリッジでは30年以上教えてきた、君の小論文はいままで読んだ中でも最高レベルのものです」と言った。
    そんな中でも友人のローラが「両親とフランスに行き、父にドレスをプレゼントしてもらった」と言っているが、その服が売春婦のようだと思いタラはこの不協和音に悩まされる。
    「スタンバーグ教授を信じなさい。彼は君を本物の金だと褒めていたよ。君がどんな人間を演じようと、何になろうと、本当の君はずっと変わっていない。それは君のなかにずっといたんだ。君が生まれた山に戻ろうとも、君が変わることはない。」
    29章
    空港に見送りに来た両親。私が角を曲がるときも私への愛情と怖れと喪失の表情で立つ父はいつまでも残り続ける。「おまえがアメリカにいてくれればこの世の終わりが来たときにおまえを迎えにいける。草原に1000ガロンほと燃料を隠してるんだ。」
    31章
    タラが母親とメールではじめて本音で話したとき、はじめてこの本の中で共感した。日本でも家庭内では男性の方が女性より圧倒的に権力があるし、虐げられるのは基本的には女性であることが多いけれど、父親に虐げられる母親が娘にそれを自覚していることを話すとき母はどんな気持ちなのか私には想像できない。
    35章
    ショーンを見ていて、学力レベルの低さ、教養の無さはいつも人にナイフや銃を持たせると感じた。タラを殺そうとする兄をほったらかし、ショーンへの恐怖からなのか兄の肩を持つ両親にもがっかりする。弱い者は、正しくないと分かっていても武力を持つ者に従うしかない。
    タラが悪いと宣言する頭の悪い弱い両親をみながら、教育を受けることでタラは家族を失ったのだと思った。
    36章
    ナイアガラの滝に両親を連れていき、父親がとても喜ぶ。「私とお父さんが幸せそうに一緒に並んでいる写真がある。それはそういう関係でいることが可能だという証拠だ。」
    39章
    「27歳の誕生日、私が自分で選んだ誕生日のまさにその日、私は博士論文を提出した。ブリガム・ヤング大学の教室にはじめて足を踏み入れて10年の歳月が経ったその月、私はケンブリッジ大学から通知を受け取った。私はウェストーバー博士になったのだ。
    山を去っていった3人と、山に残った4人で別れることになった。3人は博士号を持ち、4人は高校の卒業資格を持っていない。私たちのあいだにできた溝は、広がっていた。」
    40章
    「祖母の葬儀以来、私は何年も両親に会っていない。」
    タラは父を人生から排除するという決断が正しいものだったと証明したかった。「でも罪悪感は消えることはない。罪悪感とは自分自身のみじめな様子を恐れることだ。私は罪悪感を手放した。自分の決断をありのままに受け入れたのだ。私は自分の決断を受け入れることを学んだのだ。父のためではなく、私のために。私がその決断を必要としていただけで、父を罰するためではない。
    所詮壊れた心を抱えた2人の人間だった。彼女は私のなかにいて、父の家の敷居をまたげば必ず現れた。 
    あの夜、私が彼女を呼び出したとき、彼女は応えなかった。彼女は私から去ってった。これを何と呼んでくれてもかまわない。私はこれを教育と呼ぶ。」

  • 「これは100年前の話じゃないのか?」「現在34歳の女性の、まだ終わっていない話って本当か?」と思った段階で自分の中にあるいろんな問題が複雑に湧き上がってきた。この本を読むことは、それが自分の無知に基づくものであることを認め、その一つ一つと向き合う作業でもあった。
    狂気と妄信によって家族を支配し見えない敵と戦い続ける父親や、その愚かさを自覚しながらも流されていく母親や、暴力と依存を妹にぶつける兄に対して怒りと批判を向けるのは簡単である。けれど、それはこの本が「フィクション」であったなら、である。いや、でもあるいはこれがフィクションであったら「さすがにそんなバカな親はいないでしょう」とか「そんなにうまく最高の学府までたどりつけないでしょう」とか、ストーリーを作り物として嘘くさく感じてしまうかもしれない。そう、これは嘘くさく感じるほどの衝撃の連続なのだ。
    様々な時代の、様々な国の、様々な文化の、様々な家庭にそれぞれの文化や常識や教義があるのはわかる。わかるけれど、タラの父親ほど極端で狂気に満ちた信念を貫き通す存在もなかなかないだろう。それを可能にした経済力と、ある程度の教養が逆にこの家族を不幸にしてきたのだけど。そして母親の作り出す非医学的「薬」によって瀕死の家族たちが救われてしまったのも不幸を増長してきたのだ。
    公立の学校に通わず病院にもかかったことのないまま、ほぼゼロの状態でこの家族の呪縛からの一歩を踏み出せたタラの幸運を思う。いや、幸運なんて他力本願なものじゃない、それはタラ自身が引き寄せてきたチカラなのだ。彼女の才能を見出してくれた教授たちとの出会い、狂気の家族へと戻ってしまいそうになる彼女の手をつなぎ続けた友人たちの支え、そして、学ぶことによって過去を故郷を家族を捨てるのではなく飲み込み消化させていったタラ自身の生命力。
    あぁ、どんな言葉をどれだけ費やしてもこの一冊を語ることはできない。
    知性は自分を守る盾であり知識は闘う剣である。蒙が啓かれる瞬間の痛みと輝きを体感せよ。

  • 全て同じとは言いませんが、自分と重なる部分があり、まるで過去を追体験しているかのような錯覚に陥りました。家族の中の絶対的なルールや、暗黙の了解。他人に援助を求めてはならない。自分には何の力もないという無力感や諦念の刷り込み。大丈夫ではないのに大丈夫と言ってしまう癖。自然に生まれてくる罪悪感。本当は、少しでも良いから普通の家庭に生まれ育ちたかったと思います。ガラス細工の様に簡単に平穏が破壊される家庭に育つと、世界が信用できなくなります。
    ただ、周りの支えを得ながら少しずつ自分の世界を広げていった著者の様に、自分も同じく小さな一歩を踏み出してみると、景色が違って見えてきました。今までが今までなので簡単にはいかないと思いますが、著者の様に自分で自分を救済できる人間になりたいと思います。家族について揺れ動く心境は痛い程(時に苛つく程)分かりました。いつになるのか分かりませんが、過去も全て受け入れて、自分の人生を生きられる様な人間になりたいと思わせてくれる本に出会えて幸せでした。
    世界は自分が思うよりもずっとずっと広い。 

  • 日本語のタイトル、『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』を見たときは、大学教育について書かれた本だと思いましたが、全く違いました。

    裏表紙の『Educated A Memoir』が、本当の内容だと思います。

    また、モルモン教についての本、というのも違う気がします。
    もちろん筆者のご家族は敬虔なモルモン教徒であるようですが、「双極性障害」「統合失調症」の父親という問題の方が大きいように思います。

    本当に、読むのが辛く、飛ばしたり想像を止めたりする場面が多く、また背景知識のない日本人にとって読みやすいものでもないのに読み続けられたのは、筆者が「救われる」ことを願ってのことだったように思います。
    私は単純に、そんな家族(両親)なら、さっさと縁を切ってしまえばいい、と思ってしまうのですが、「タラは現在でも、両親、そして家族への愛情を捨ててはいない。」とあとがきで訳者の村井さんが書かれています。

    7人の子どもたちのうち、博士号をとった3人は独立し、高校卒業資格も持たない4人は経済的に両親に依存しているという事実。

    誰かを服従させたいなら教育を受けさせないこと、とも言えるでしょう。

    それでも人はそれぞれ自分で考え、行動するべきだと思います。

    アイザイア・バーリンの自由の二つの概念、「消極的自由」と「積極的自由」が興味深い。

    いろいろなことを考えさせられた一冊でした。

    時間をかけてでも、原語で読みたい。

  • キツかった。私よりずっと若い女性、現代の話なのだ。連鎖を断ち切る公の役割、教育とは何か、あらゆる問題を投げつけられる一冊。必読。

  • 読んでいてとても苦しくなった。
    家族からの暴力と親による精神的虐待、洗脳、支配、親の偏った思想。
    公教育も受けさせず、大怪我をしても病院には連れて行かないなど、考えられないことばかり。
    それでも家族でいたいのか。
    家族とは何かを考えさせられる。

  • アメリカでずいぶん話題になって、あちこちでやたらタイトルを目にしたので、読みたいなぁとずっと思っていた。

    親がキリスト教原理主義で、子どもは全員自宅学習で育ち、17歳まで山の中で世間から隔絶されて育った後に大学へ行った女性の自伝。
    最終的にはハーバードで博士号を取得した、と聞いたので、知的好奇心でいっぱいの聡明な子供が、学ぶ喜びに目覚め、様々なことを吸収してハッピーな人生を送るサクセスストーリーなのだろうとぼんやり想像していた。

    全然違った。驚愕した。
    「神の御心」という名のもとに行われる想像を絶するような虐待の世界から血だらけで這い上がる女性の壮絶な物語だった。

    モルモン教の教義と陰謀論にとりつかれた父親は一家を完全に支配しており、子どもたちを学校には行かせないで廃材置き場の危険な解体作業に従事させる。
    ガソリンを浴びて体が火だるまになろうが、高所から落ちて脳髄が見えていようが、自動車事故で脳震盪を起こし、記憶が混濁しようが、病院には行かせようとしない。痛みにもがき苦しんでいても、与えられるのは自家製ハーブで作った薬のみ。骨折、炎症、流血など日常茶飯事である。

    この手の本を読んで、いつも思う。
    私は、「洗脳」の恐ろしさをまったく分かっていない、と。

    シエラレオネで少年兵士として戦場に駆り出されていた少年の自伝(イシメール・ベア『戦場から生きのびて』)を読んだ時もそうだったが、とりあえず地獄だった場所から抜け出して安全に住む場所が見つかった時点で、読んでいる私は「ああよかった、やっと助かった」と安堵する。「ここから先は落ち着いた幸せな暮らしが待っている」と思う。
    だけど、すぐにそれは大きな間違いだと気づく。
    完全に洗脳された心は新しい世界を拒絶し続け、信じられないような力で彼らを元いた場所へと連れ戻そうとする。(つまり、自ら戻ろうとする)

    タラ(主人公、=著者)は、ケンブリッジで教授が一目置くような論文を書くほどになってもなお、元いた世界から完全に決別することができず苦しみ自傷し続ける。助けようとする人が周囲にたくさんいるのに、誰の声もうまく届かない。
    タラの家族を外の世界から隔てている境界線は、私の目には簡単に踏み越えていけそうに見えるだけに、その線の上で何年も苦しむ姿には驚きしかなかった。
    洗脳というのはこんなにも解けないものなのかと。

    タイトルの「educated」は、それをそのままカタカナにしても日本人にピンとこないだろうから訳者は「エデュケーション」にしたのだろうな、と思う。
    確かにそれしかないと私も思うけれど、でも、この壮絶な戦いを読んだ後では、日本語として聞く「エデュケーション」はどうしても意味が狭く感じてしまう。
    読者の感想にも「教育の大切さを感じた」等あるけれど、ちょっと違和感。

    彼女がタイトルにこめた思いは本文で明確に説明されていて、明らかに学校教育や大学の学位などのことを指しているのではない。
    支配被支配、罪の意識、恥の意識、そういうものへ対処するためのゆるぎない自分を作るもの、自分を自分で解放できる力、そうしたものをeducatedという言葉に象徴させている。
    もちろんそうしたアイデンティティを作るものの一つが教育なんだけれど・・・


    いろいろと過酷過ぎて、読んでいて非常に辛い本だったけれど、ブリガム・ヤング大学でも、ケンブリッジでもハーバードでも、著者は素晴らしい指導者に恵まれていて、その部分にはとても救われた。
    彼女のためだけじゃなく、「高等教育はまだまだイケてる」と知ることができたという意味でも。
    著者の父親とは正反対の考えですけどね。

    父親や兄が彼女の心に刻みつけた罪の意識に苛まれ続けるタラに、教授が「君は本物の金、ピュア・ゴールドだ」と言うシーン。
    教授の言葉を読みながら、激しく泣いてしまった。
    「君は特別な明かりの下でだけ光る見せかけの金(フールズ・ゴールド)ではない。君がどんな人間を演じようと、 何になろうと、本当の君はずっと変わっていない。それは君のなかにずっといたんだ」

    高い塔の上で、みんな腰がひけて柱などにしがみついてよろよろしている中、さっそうと風を受けて立つタラの姿を思い浮かべて、読んでいる私は胸がすくような思いがした。


    ところで、この本、オバマとビル・ゲイツが絶賛しているということで評判になっていたが、この二人は陰謀論者たちの標的ナンバー1と2なので、ちょっと笑える・・・

  • 街の生活から切り離された山奥で、厳格なモルモン教原理主義を、信仰するだけでなく厳しく実践している家族で育ったタラ。粗野で乱暴で頑固で自分勝手な父親、少しずつ異なるが似たような感性と価値観の男兄弟たちに当たり前のように粗雑に扱われる少女時代のタラ。医者や役人を拒絶し、学校にも医者にもかかれない。その描写が惨すぎて読んでいて辛い。

    著者の成し遂げたことは凄いことです。

    ただ『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』のタイトルから、『後半になれば大学教育を受けて華々しく拘束から解き離れるのかもしれない』と期待して読み続けましたが、その脱皮はタイトル程ではなく、苦しい読書でした。

    訳も直訳すぎて、原文の英語はこうだったんだろうな、と浮かんでしまう感じで、それがとても読みにくくしている感じを受けました。

  • 髙橋源一郎さんのラジオで知って読んだ。

    両親の極端な考え方のせいで、公教育を受けず、病院にもいかず、けがや病気はハーブ等の力で治し、そもそも自宅出産で生まれ誕生日もあやふやで途中まで戸籍もなくといった主人公の少女が、日本でいう大検のようなものを何とか受験し、大学へ進み、ケンブリッジやハーバードの大学院まで進むというセルフドキュメンタリ。

    アメリカのキリスト教原理主義の人は子どもをホームスクール(家庭内教育)で育て、外の教えに染まらないようにしていると聞いたことはあったけど、まさにそれの実践版といった感じ。両親が信じていたのはモルモン教だけれど、かなり厳格な教えを守っており、それに加えて、地球が1999年に終わるとか、イルミナティが支配しようとしている、など、妄想のような考えも加わっている。

    読んでいてつらかったのは、お兄さんからの暴力描写や、自分が悪いんだ、私の考え方や記憶が違うのではないかと何度も思い込もうとする少女の幼さ。兄弟や両親、作者が頭を打ったり、骨を折ったり、皮膚がただけるほどの火傷をしても病院にいかないのも怖すぎる。頭を打ったせいでおかしくなった人もいるような気がする。ワクチンを打ったり、抗生物質を飲んだりすると、子どもが奇形になる、悪魔に取り込まれるといった考えもヤバイ。

    作者は教育を受けることで、それまで慣れ親しんできた考え方を徐々に手放していく。両親とは決別することになるが、自分自身の人生を取り戻していく。

    作者がアメリカからイギリスに渡るときに、陸続きだったらどれだけ離れていても、敵が攻撃してきたとき、終末が来たときに、家の備蓄を使ってお前を助けに行けるのに、といった感じのことを父親が言っていたのが切なかった。

    どんなに歪んでいようと両親は娘を愛しており、そのことを作者は理解しているのだけれど、両親に愛され続ける娘ではいられない自我というものを教育によって得たのだ。と思った。

全65件中 1 - 10件を表示

タラ・ウェストーバーの作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×