- Amazon.co.jp ・本 (288ページ)
- / ISBN・EAN: 9784152101822
感想・レビュー・書評
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人類はなるべくエネルギーを使わないように進化してきたが、運動は人間の健康に良い影響をもたらす。ことを説明するために、パートⅢではウォーキングやランニングがもたらす効能が書かれている。
そしてパートⅣでは運動嫌いな人に対して、どうやって運動させるか、どんな種類の運動をどのくらいの量させるか説明し、肥満や2型糖尿病、がん、アルツハイマー病、うつ病なども、運動することで改善するという。
最後に
・運動は必要かつ楽しめるように
・有酸素運動を中心に多少のウェートトレーニング
も行う
・運動はしないよりしたほうがいい
・年齢を重ねても続ける
と結論づけられていた。
諸説ある中の一つに過ぎないのかもしれないが、運動を続けるモチベーションになった。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
下巻は上巻をふまえた実践編という位置付け。
ウォーキングもランニングもしている私にとってはとてもありがたい内容だった。
「アクティブな祖父母仮説」と「コストのかかる修復仮説」は石器時代から現代まで通用するのかも、と思うだけで知的な刺激になる。
運動量や病気との関わりは科学的に記述できる範囲で書いてある。かといって運動したくない人に強制はしてこない。「人間は運動するように進化してきたのではなく、必要に応じて体を動かすように進化してきた」のだから。
最後に気に入ったことば。
P223
体の使い方に関する哲学は、人生の生き方に関する哲学と同じくらい有用だと確信するようになった。 -
運動そのものが、根拠なく礼賛されており、それはまるで「神話」のように、理由なく正しいものとして扱われている。
「運動は、体に悪い」と言われれば、その前提があるがゆえに、「なぜ?」と悪いことに対してのみ根拠が求められる。
この本では、そんな運動に関する、数々の神話を紐解いていく。この本の面白いところは、運動が嫌いな人の視点から書かれていること。通常であれば、運動をすれば、こうしたメリットが得られる、という結論へと繋がる本が多いのだが、冒頭でいきなり、運動することの矛盾性を解く。
『つまり、運動とは逆説的なものなのだ。健康的でありながら異常であり、本来無料でありながら高度に商品化され、喜びと健康の源でありながら、不快感、罪悪感、反感を抱かせる。(P14)』
今着ている服で家の周りを走るだけでも、ランニングになるのに、私たちはどうしてわざわざ形から入るのか。そこには、「商品化された運動」があるからであり、確かに、お金を払う価値のあるものへと変化してきているのも事実である。
では、運動そのものが良い悪いのどちらであるかというと、この本では、「したほうがよいもの」として扱われている。この本の上下巻にわたる内容を読めば、なぜ「すべきもの」ではないのかが、明らかになるだろう。そして、そうした運動の特性こそが、先ほどのP14で引用した内容にも繋がってくる。
私は、どちらかといえば走ることはあまり好きでないが、歩くことを含めた運動自体は好きであり、歩きながら考えることも多い。
お金を払えば手軽に通えるジムが増える一方で、お金を払わなければ質の高い運動ができないのではないか、という悩みも生まれる。そんな方に相応しい一冊。 -
人間は基本的に無駄なエネルギーを消費するのを避ける生き物である。
だから運動はしなくても良い…のではなくだからこそ運動をしなければならないのです。
では、どうやって…。
上下巻でボリューム感たっぷりで読み応えもあり面白かったです。 -
多くの人々が運動に対して抱いている信念や態度といった「神話」がどれだけ正しいのかを、人類学者の視点から紐解いた一冊。もちろん運動は健康に繋がるが、どんな運動をどの程度行うべきかを学者ならではの調査から解説しているので、知的好奇心も満たしてくれる。
私自身、週1、2のペースでジムに通っているが、やる気が出ない日もよくある。本書は「運動したくないと思って当然」というスタンスで書かれており、なんだか気持ちが軽くなる思いで読めた。 -
ヒトは運動するように進化したわけでは無いが、必要性から動かざるをえなかった。
そのため運動しなくても生活できる今の状態が不自然で、じっとしていると様々な不適応がでてくる。
しかし動かないのが楽に決まっているので、動かないのはむしろデフォルト。
それでもなんとか自分で工夫し、折り合いをつけながら運動する習慣を付けた方がよい。
著者の主張は、巷間言われている運動の大切さ説いている点は新味がないと言えるが、膨大な研究とデータに基づくものだけに説得力がある。また科学者らしく確かなこと、確からしいことがキチンと書き分けられていることも信頼感を増す。
日頃から仕事で座っている時間が長いため、次の点は覚えておきたいな。
・長く座り続けるのは良くない
・20分〜30分に一度は立ち上がって動く
・座っている間もモゾモゾ動いたりするのが有効
・平日に座る時間の長さはもちろん、週末、朝晩にどのくらい動くのかも大切 -
(上巻より続く)
パートⅢは3章を割いて持久力が取り上げられる。ランニングを趣味とする自分としては最も興味深く読めた部分。
ウォーキングを扱う章では、「代償性代謝」即ち運動を多くすると安静時代謝が抑えられる現象のせいで、活動的な人と非活性な人で結果的に1日あたりのカロリー総予算がさほど変わらないという「制約された総エネルギー消費量理論」が面白い。歩行などの低負荷の運動ではカロリー予算に大きな影響はないのだ。著者はpedestrian(歩行者、歩行の) という言葉が「平凡な、ありふれた」という意味でも使われることを引き合いに、人間にとってありふれた行為である歩行がカロリーを消費しないよう効率的に進化してきたことは当然で本質的なことだ、というようなことを述べているが、なかなかうまい説明だと思う。
ではマラソンなどの高負荷の運動はどうか。著者らの主張によれば、ホモ・エレクトスは腐肉漁りや狩猟のために暑さの中で長距離走行が可能なように体の構造を進化させたのであり、つまりその子孫である人間は元来長距離ランナータイプなのだという。他の動物より長く弾性に富む脚と、大量発汗が可能な汗腺を多く持つおかげで、ランニングする人間はトロット(速足)する馬や犬に比べ長い距離を走ることができる(著者も出走したという馬vs人間のマラソン大会の描写が面白い)。人間は生まれながらにしてラノファイル(ランニング好き)なのだというこの主張以降、本書では長距離走ひいては有酸素運動が典型的な「運動」として扱われることになる。
しかし人間は年老いると結局は非活動的になるではないか。この反論に対し著者は進化生物学的見地から、生殖適齢期が過ぎても活動を維持し、子や孫の世代の繁栄に貢献する人間が自然選択により優遇されるという「アクティブな祖父母仮説」を提唱している。これによりメダワー「自然選択の影(生殖可能年齢を過ぎると自然選択が働かなくなる)」を逃れている可能性があるというのだ。もちろんそのような選択の対象となる遺伝子自体が発見されているわけではないし、結局は年齢を経るごとに自然選択の影響は弱まっていくのだが、それでも運動には身体を長期にわたり維持する効果があるという。
それを説明するのが、運動に起因する各種損傷(ストレス関連ホルモン上昇、活性酸素発生、筋細胞破壊など)がその後の組織修復を惹起し、結果として基礎代謝が上昇する(アフターバーン)という「コストのかかる修復仮説」だ。つまり激しい運動がホメオスタシスのレベルを一段ギアアップし、身体組織により多くの恩恵をもたらすということらしい。そしてここが若干ややこしいところだが、我々が生殖以外の活動(運動)に必要以上のエネルギーを消費しないよう進化したのだとすれば、運動とその後の修復によりエネルギー効率を高める能力を備えたよく運動する活動的な個体こそが自然選択を受けるはずだ、というのだ。
しかし非活発的な人間が長寿を享受することも稀ではないことはどう説明するのか(「運動は体に悪い」と嘯くドナルド・トランプが例に挙げられている)。著者は寿命と健康寿命を分離して考えるべきだと主張する。人間の主な死因は長きにわたり急性期感染症や事故死であり、生活習慣病などの慢性疾患がそれにとって代わったのは比較的最近のことだ。著者は、人間の身体に対する自然選択の作用が、未だこの慢性疾患メインの新しい環境条件に追いついていないという「ミスマッチ」が、健康寿命の伸びが寿命に追いつかない現代の状況の原因であるとし、修復仮説に基づき健康寿命を伸ばす可能性のあるランニングを称揚している(ランナーとしては喜ばしい限りだが、健康寿命は短かろうと著者に決めつけられたトランプその他の運動嫌いにはやや気の毒な感じもする)。ともあれ、年をとってもアクティブでいることに意義があることは確かなようだ。
パートⅣではいよいよ本書のテーマであるパラドックス「人間はなるべく運動しないよう進化してきたのに、運動が健康に良いのはなぜなのか」に焦点が当たる。
これまで見てきたように人間の「体」は運動で最適化されるのだが、い人間の「心」は基本的に運動を快いものだとは思わない。これを克服するための動機づけのため、「運動を大学のように扱う(費用などの社会的コミットメントを用いて人々を運動するようナッジする)」ことが提唱されている。また、運動量と死亡率の間には強力な用量反応関係があり、よく言われる「開かれた窓(高強度の運動による免疫力の一時的低下)」もさらなる研究による検証が必要だという。
そして、いよいよ最終章ではさまざまな病気に対する運動の効能が具体的メカニズムとともに説明されるが、ようやく前述のパラドックスに対する著者の解答が提示される。
我々の祖先が生きた工業化以前の社会においては、人間は生殖によりエネルギーを割くよう淘汰圧を受けてきたため、運動による調節でカロリーを合理的に節約できるよう進化した(コストのかかる修復仮説)。当時の生活はそもそも活発な身体活動を前提としていたため、そのような運動嫌いの性質が優遇されたはずだ。しかしその後人間はほぼ一瞬の間に座りっぱなしの脱工業化社会を作り上げてしまったため、一変して不活性となった新環境に身体が適応できず運動不足となり、カロリー消費合理化のための修復機構が発動する機会が減った。これが先祖から見たら不合理とも言えるほど我々が運動に血道を上げなければならなくなった理由だ。我々は、さまざまな口実を設けて運動するよう、自らをナッジしなくてはならなくなったのである。
「体の使い方に関する哲学は、人生の生き方に関する哲学と同じくらい有用だ」。終章での著者の言葉である。これまで運動も哲学もともに苦手だったが、人生も半ばを過ぎてようやく両者の面白さに気付いた僕にとって、これほど勇気づけられる言葉はない。