ソクラテスからSNS 「言論の自由」全史

  • 早川書房 (2024年3月21日発売)
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本 ・本 (576ページ) / ISBN・EAN: 9784152103154

作品紹介・あらすじ

ヘイトスピーチ、分断と対立、新たな全体主義……。誰もが表現者になれる一方で「言論の自由」の価値が大きく揺らぐ現代。古代ギリシアから啓蒙主義、反ファシズム、インターネットの時代まで、言論の自由が果たしてきた役割を丹念に追い、その意義を問い直す。

感想・レビュー・書評

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  • 言論の自由は、保護されるべきだと思う。私は、どちらかというと中身の是非よりも、言論や表現に自らの意思でアクセスする場合はある程度は(年齢に応じて)何でもありで、受動的だったり遮断できない状況ならば、制限が必要という立場だ。つまり、ヘイトスピーチなんかは、通行人にも聞こえてくるからダメ。性的内容も個人で読むなら良いが、お茶の間のテレビではNGみたいな境界線。ここで微妙になるのは、インターネットのリコメンドみたいな仕組みだろうか。リコメンドでプロパガンダを垂れ流すのは、やはり無しだろう。週刊誌のゴシップや迷惑系にも制限が必要。つまり、言論は自由でありたいが、その表現手法には制限が必要だ。

    と、個人でモゴモゴ上述のような事を考えるが、本書では、こうした言論の自由を巡る討論や歴史を明らかにしていく。

    ー 不寛容もある程度は許容すべきと主張する人がよく論拠にするのが、オーストリアの哲学者、カール・ポパーの言う「ヴァイマルの誤認」である。そして、その理屈は受け入れやすく、直感的には正しいようにも思える。ヴァイマル共和政がもし、全体主義プロパガンダをもっと懸命に取り締まっていれば、ナチス・ドイツは生まれなかったし、ホロコーストも起きなかったのではないか、という理屈である。現代の民主主義国は同じ失敗を繰り返してはならないというわけだ。しかし、いくつかの理由から、この理屈の正しさは疑わしいと言える。まず何より重要なのは、ヒトラー本人とナチ党を沈黙させるための努力は絶えず行われたということだ。だが、その努力は、ヒトラーやナチ党への関心を高めるだけの結果になることが多かった。

    ー 第二次世界大戦後、ナチのプロパガンダは絶対に禁止すべき、という強い義務感は、皮肉なことにもう一つの全体主義体制に利用されるようになる。スターリンのソビエト連邦は、ヴァイマルの誤謬を利用することで、国際的な人権法にヘイトスピーチの禁止条項を盛り込ませることに成功したのである。これは、ソ連とその支配下にあった東欧諸国で、反体制派の弾圧が合法化される助けとなった。また共産主義体制が崩壊したあとは、イスラム教徒が多数派を占める国々に、世界中の神の冒演者を罰する根拠として利用されるようになった。

    言論の自由を制限するべきだった。いや、言論の制限が逆に政府からの弾圧に繋がった。どちらが正しいのか。上記箇所だけで見えるのは、工夫は必要だが、司法と行政の独立のように、言論の自由を制限すべき機能は、政治に持たせない事だ。

    ー 言論の自由の歴史は極めて古い。ただ、有史以来、ほとんどの時代において、権力者に真実を語るのは賢明とは言えず、危険なことも多かった。残っている法律規範や文書から見る限り、偉大な古代文明はほぼ一貫して、支配者の権力と権威を臣民の言論から守ってきたのであり、その逆ではなかった。現在のトルコあたりに紀元前一六五〇年から前一五〇〇年頃に存在したヒッタイト帝国の法律には「もし王の裁きを拒む者がいれば、その者の家は廃墟と化すであろう」と定められている。ヘブライ語聖書には「神や王を呪った者は罰として石打ちにされる」とある。こうした法は、いわば、巨大な古代文明を秩序づけていた厳格な階級構造の反映だった。

    為政者に都合の良い史書を編むならば、結局、言論には自由がなく、言論そのものが権力者のものだ。識字率も低く、印刷技術もない時代は、物理的にも言論は権力者のものだったのだ。

    ー 言論の自由への最大の貢献は、偉大なジョン・スチュアート・ミルをこの世に生み出したことだろう。…一八歳の時、若きミルは「宗教的迫害について」という論文を書いた。その中では、カーライルの件を例に、神の冒涜を理由にした起訴が擁護できず、逆効果でもあることを説明している。一八二四年に複数の有罪判決が続いたあとは、扇動、神の冒資を理由とした起訴の件数は、一八二五年から一八三四年の間にわずか一六件と急減している。言論の自由の制限が厳しすぎることへの非難の声が高まったのもその一因だが、同時に、起訴が逆効果であると認識され始めたことも大きい。ライトやカーライルは裁判の場で問題の文書を読み上げ、それが宣伝にもなったし、民衆の中に彼らに同情する人たちも増えた。法務長官も後に「誹謗中傷をした者は、何よりも法廷での公判を求めている。それが貴重な宣伝の場になるからだ」と記している。

    放っておくほうが目立たないし、分別のある人間しか文献は読まないし、彼らは正しく理解するはずだ、というミルの態度は、今日にも通用するやり方だと思う。

    ー ドイツ首相アンゲラ・メルケルはドイツ連邦議会において、それまでにあまり例がないほどの情熱的な演説をした。「この国には表現の自由があります」。メルケルはそう断言した。「しかし、その表現の自由には限度があるのです。表現が扇動になってしまったら、表現によって憎悪が拡散されてしまったら、また表現によって他の人々の尊厳が侵されてしまったら、そこが限度ということになるでしょう」。そして彼女はこう言った。「私たちはそれに反対しなくてはなりません。さもなければ、この社会はもはやそれまでとは違った場所になってしまう」

    そしてメルケル。この自由の限度も非常にわかりやすいと思った。

  • 言論の自由の起源は古い。どこか一ヵ所で急に生まれたわけではなく、例えば古代アテナイの政治家ペリクレスは、紀元前431年に開かれた議論をするため、反対意見の許容という価値観を称揚したし、9世紀のアッバース朝においても預言者や聖典に対して疑義を呈する思想家がいた。16世紀に禁書をすることの危険性を説いた人物がいれば、出版・報道の自由を守る法制度を17世紀ころに整備した国々もある。

    だが、この本で著者が特に問題視しているのは、言論の自由を擁護している側が、いざ権力を持つと自分を批判する言論を抑圧しようとする側にまわってしまうことが多々あり、そんな人間が歴史上後を絶たないということだ。著者はこのような現象のことを「ミルトンの呪い」と呼んでいる。どうやら指導者にまわった人々の多くは、時間の経過とともに「今の言論の自由はさすがに行き過ぎだ」と考え始めるようだ。その都度、民主政の信奉者や体制の反対者は排除され、書物の時代においては検閲・禁書の措置が取られ、宗教・思想の面でも弾圧される傾向にあった。そしてこのことは、21世紀においても過去と似たように、何かと理由をつけて言論を制限しようとする動きとしてあり続けている。

    人間は他人に気に入られたい気持ちがあり、集団からの疎外を恐れる性質がある。争いごとをさけることも、人を不快にしないようにしようとする道徳的規範も社会生活を営む中で育まれているものだ。そのことは「不快な言動をする人間を黙らせたい」という気持ちにも繋がっている。ネット上であれ、学校であれ、職場であれ、その性質は変わらず、むしろ自然なことだとすら言える。だからこそ、今ある自由を守りたいと望むのなら、言論の自由のより良いかたちを考えるために努力しなければならない。そう著者は説く。

    本書には、言論の自由よりも他の価値を優先させた上でなおかつ自由で公正な社会を維持しようとし、失敗した国家、指導者、文化の例が多数書かれている。過去から現在にいたる言論をめぐる歴史を示すことで、どのように自由が拡大してきたのか、どのように利益をもたらしてきたのか、そのことを知ることで、言論の自由という「大きな価値」を見直し、デジタル時代における重要性を示すこと、それが本書の目的だ。

    第一章は、紀元前に存在したヒッタイト帝国や、エジプト、中国という有史以来の非常に古いところから始まる。古代都市国家アテナイでは民主主義や言論の自由の価値が公式に認められていた時代も確かにあった。アテナイの民主政治は、直接民主制で、市民たちが自ら提案をし、議論を盛んに行い、自らが法を定める際に票を投じていたという。ただし、女性、移民、奴隷は人口比で見れば多数を占めていたにもかかわらず、政治からは排除されており、「平等」な社会だったとはいいがたい。

    その後、中世においてイスラム世界の合理主義的な哲学や科学の発展について触れられ、同時に宗教的弾圧、異端審問によって言論の自由が狭められていた状況も語られていく。中世の学者たちは新たな知、新たな発想に飢えており、それにより神学者と自然哲学者の間で対立が起こることとが度々あった。権力側にとって”誤った”思想・言論を持った者、およびその信奉者たちは火あぶりの刑に処されることもあり、この時代、言論の自由は狭く、身動きの取りづらい状況にあったことがわかってくる。常習化した迫害は、個人が暴力にさらされることに留まらず、ある特定の人種、宗教、生活様式を持つ集団に対して向けられるようになり、政府や司法機関などを通じることで、攻撃が正当化されたと”みなされる”ようになっていく。このことはSNS上でいま現在も似たような状況として表れているので、昔も今も根本的には変わってないんだな、と思う。

    興味深い記述として、異端審問の末に異端者を火あぶりにするのは、審問官の失敗とみなされていたというものがあった。審問官の使命は異端者を罰することではなく、その魂を救済し、正当な道へ連れ戻すことであるから、死刑にするのは、よほど態度がかたくなな者、どうしても異端の思想を捨てない者に限られていたという。『トゥールーズ判決集』によると、14世紀はじめに異端者とみなされた900人のうち、判決者であるギーが火あぶりにすると決め、権力者に引き渡したのは5パーセント未満の42人(それでもとんでもないことだが)だったらしい。

    中世の言論の自由を概観すると、ふたつの教訓が見えてくる。まず、中央集権的な権力は、支配階級とその正当性を守り、維持するための情報や意見を統制しようとすること。反対に、権力が分散すると、新奇で大胆な発想が生まれやすくなるということ。本書ではその後も時代と場所を移しながら国家と指導者と市民がどのように言論の自由の在り方を考え、時代とともに変化させてきたのかを、通史として語っていく。

    時代はやがて現代の私たちが暮らす世界へと近づき、インターネットが登場することとなる。ソーシャル・メディアにおいては「虚偽、衝撃的、ネガティブ、誇張表現、感情を刺激するコンテンツ」は速く、広く拡散される傾向にあり、対して、事実に即した話、長々と続く話、理路整然とした話はあまり拡散されないという特徴がある。2018年のMITの調査でも、虚偽のニュースは、正しいニュースよりも70パーセントもリツイートされやすく、速く広く、深く拡散されていく、という結果が得られたという。しかし同時に、著者はSNSによる恩恵は大きいとも語る。

    「インターネットには当然、良い面と悪い面とがあるが、現状では、良い面の方が悪い面よりもはるかに多いと私は思う。ソーシャル・メディアによって得られる利益は非常に大きいし、一般の人が他人の手を借りずに多くの情報に即座に触れられるのも素晴らしい。無視できない害が実際に存在することも明らかになっており、近年、害が大きくなっているのも確かだが、それでも良い面の方がまだ圧倒的に多いのだ。」
    『ソクラテスからSNS「言論の自由」全史』P.453

    が、併せて著者は「大規模で中央集権的で、自動化が進んでいる私企業」が運営するソーシャル・メディアが「平等な言論の自由」とは相性の良くないものになっているのも事実だと語る。

    言論の自由の未来にとって最も重要なのは、「ミルトンの呪い」(権力を持った者が権力を維持するために自分を批判する言論を抑圧しようとすること)に抵抗するべく努力をすることだ。異端の思想に寛容な文化を守れるか、虚偽情報の拡散範囲を制限できるか、ヘイトに走ることなく自分と相容れない人を許容できるか、言論の自由を普遍的で擁護すべき原理として扱うことができるか。それらを達成するためには一人一人が言論の自由に対して関心を持つ必要がある。著者が警鐘を鳴らす「ミルトンの呪い」は現在もやはり在り、SNS空間においても無関係な事柄ではないのだろう。

    歴史記述に多くを割いている本ではあるが、言論の自由に対する著者の見解や、本書を書いた動機については「はじめに」と「おわりに」を読めばわかるようになっている。著者のスタンスとしては、無責任なデマや誹謗中傷といった危険が常に付きまとうが、それでも自由の抑圧には利益よりも弊害の方が大きいため、言論の自由は守られなければならない、ということだ。それはこれまで語られてきた「ミルトンの呪い」によって、”権力者が権限を悪用”する可能性が高まるためだという。言論の自由を守ることで、政治にも社会にも恩恵があるのならば、高い理想であっても目指し続けていくべきだ、というのは簡単な話じゃないよな、とは思うものの、その重要性に説得力を持たすための膨大な歴史記述でもあったのだと感じ、そもそもこの本を読める時代、国、環境にいることを恵まれている状況なのだと感じた。そして今のこの状況を守りたいのならば、言論の自由について考え続ける必要があり、しかし維持するには相応の努力も必要になるのではないか、とも。

  • ヘイトスピーチや誹謗中傷は禁止するべきものだという先入観が見事に覆された。直感的に間違っていると感じる言論まで開かれた自由が、破滅的な弾圧や粛清を防止することにつながるという歴史的実証を知れただけでも読んだ価値がある。

    現代はネットにより個人があらゆる情報にアクセスでき、逆に個人の意見を全世界に発信できる歴史的にみて特異的な状態である。一部の独占的な企業による恣意的な規制は許されるのか、または正当性を真摯に受け入れられるものなのか。
    今後さらに発展する情報社会での身の振り方や考え方をアップデートしながら、当事者として暮らしていこうと思わせられたのだ。

  • https://cool.obirin.ac.jp/opac/volume/941480

    ひなたやまにもあります

  • ソクラテスなど哲学が盛んだったの古代の時代、活版印刷が発明され、宗教改革が起きた中世、ファシズムの横行した世界大戦期、SNSが普及した現代など、さまざまな大きいイベントごとに言論の自由に対する認識や規制がどのように変化してきたのかが詳しく記されている。

    こうして本書を通して歴史を振り返ると、新しい技術の登場、宗教などによる価値観の変化など要因はさまざまあるが、言論の自由の規制と緩和が繰り返されてきたことがわかる。
    そして、規制が強化された先にあるのは中央集権化や独裁など社会や世界にとって悪い影響を与えてきたこともわかる。

    現代はSNSで個人の発信が容易になり、真偽とわず数えきれないほどの情報があふれている。
    別の書籍でも問題として挙げられていたが、SNSにおいてフェイクニュースは正しい情報より70%ほど早く拡散されることや、陰謀論の吹聴やヘイトスピーチが際限なく発信され続けてしまう。

    これらの弊害によって発信を規制すべきと考える人が増えているように思うが、確実によくない方向に向かっているのだろう。
    実際、世界で見て殺害されるジャーナリストの数は近年増えており、言論の自由は縮小している傾向にあるとのこと。

    また、SNSを運用する企業が非常に大きく中央集権化していて言論の規制と相性がよい(容易に規制ができてしまう)状況であることもあわせて言論の自由の縮小を促進している。

    本書とは別の話だが、あるyoutubeで、マリファナと言っていいのかな、言ったらBANされるのかな、といった旨の発言をしていたのが気になった。

    当初はそんなことでアカウントに制限がかかるわけないと思った程度だったが、本書を読み終えて考え直すと、SNSなどのサービスでは発言した内容次第では制限されるということになんの違和感ももっていない、むしろ当然とも思っている人が多いのではないかということ。
    つまり言論の自由が規制されることを無意識に賛同している人はかなり多いのではないかと思う。

    本書によればより透明性がい場での自由な議論は誤情報の拡散に一定の効果があるとのことなので、もちろん言論の自由のデメリットはあるかもしれないが、個々人が意識を変えていける社会を望む。

  • 【本学OPACへのリンク☟】
    https://opac123.tsuda.ac.jp/opac/volume/715798

  • 思想史というよりは歴史だが、みんな読んでおきなさい。

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