現実とは? 脳と意識とテクノロジーの未来 (ハヤカワ新書 004)
- 早川書房 (2023年6月20日発売)


- Amazon.co.jp ・本 (272ページ)
- / ISBN・EAN: 9784153400047
作品紹介・あらすじ
「現実」って何? この当たり前すぎる問いに、解剖学者、言語学者、メタバース専門家、能楽師など各界の俊英が出した八者八様の答えとは。あなたの脳をあらゆる角度から刺激し、つらくて苦しいことも多い「現実」をゆたかにするヒントを提供する知の冒険の書
感想・レビュー・書評
-
現実の本質を問う対談集。私たちは独自の現実を感じ、その一部を共有するのみ。特にAR技術の発展で「現実」の定義に疑問が。この著作は多角的な視点で考察を深める手引き。続編に期待し、10年後の「現実」の意味が変わるのではと予感。
詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
若い頃に「唯脳論」を読んでいたせいか、自分の現実感も養老先生の影響を受けていることを再認識しました。
また、本書から発想が飛躍して、SF小説の「都市と都市」を思い出しもしました。あれは異なる都市がモザイク状に重なっているという設定だったと記憶していますが、そのような設定を可能にする「現実感の操作」も、いつかテクノロジィによって実現するのかもしれません。
そして、「すべてがFになる」からの引用を見て、そういえば森博嗣さんも「現実とは何か」について一家言ある人であったことも思い出しました。 -
2023-06-26
なかなか刺激的な対談集。講演再録、対談、振り返りでワンセット。最後に振り返ることで、みんなが著者の主張を裏付けているような印象が残るのは、たぶん計算通り。それをしないとあまりにとっちらかっちゃう。それくらい難しいテーマなんだなあ -
現実の捉え方について考えを深められた
自分の身体を通して感じたことをどのように解釈するか、そのプロセス含めて現実となる
身体状況や知覚能力などの能力面、物事の捉え方といった文化的側面は個々人それぞれであるため各人の現実派異なったものとなる
その現実を表現する際の言語も知覚したものの内、解釈し分類した結果の言語化が行えたもののみ表現可能なため、言語で共有できるものは全体のごくわずかとなる
脳内の言語化前のイメージが共有できるようになると世界は広がる可能性もあるがハレーションが起こる可能性もあるのではないか -
現実について著者に多様な専門家との対談をまとめた一冊。日常生活であまりにも当たり前に受け入れらているが故に改めて考えると全く掴めない「現実」という概念。私たちはそれぞれに自分の認知の上に自分だけの現実を立ち上げ、そのわずかな重なりの部分を言語などを通して通じ合う。このような人間の変わらない本質的な性質は古代の神話から、最新の情報技術まで語り継がれている。
-
複数の方が語る「現実とは何か」に対する答え。
現実って客観的なものではなく主観的にしか存在しないものなのかもしれないと感じました。 -
「現実科学は、ヒトの主観、すなわち脳によって構築される個々人の現実を科学するための手法を構築し、社会実装のための応用を目指す。そして、現実を科学することでゆたかさをつくり出していく。」本書には著者が毎月実施されているレクチャーシリーズのうち8回分が収録されている。ゲストスピーカーによるレクチャーと著者との対談、その後の振り返りからなる。いったい、自分にとっての現実とはなんだろうか。最近、夢をずっと記録している。自分の脳が作ったものという意味では現実だが、内容的には非現実的なものが多い。というか現実的な夢ではおもしろくないので記録しない。1つ例を挙げると、夜中に尿意を催し(これは自分にとっての現実)トイレに入る夢を見る。だいたいまともなトイレであったためしがない。大きな容器にあふれるくらい尿がたまっていたり、畳の部屋の壁に向かって放尿したり、外から丸見えだったり、まあまあトイレシリーズだけでもおもしろいものが書けるかもしれないが、基本的には記録していない。その後、すぐに目覚めるから夢をよく覚えているというのが現実なのだろう。人工内耳をつけると最初は雑音だったものが次第に音として認識できるようになるという(この話は毛内さんのYouTubeだったか)。結局は脳がどう受けとめるかで現実というのは書き換えられていくのか。知人が亡くなっていたとしても、それを知らされていなければ,それは自分の中で現実ではない。両親が亡くなったとしても(焼いた後の骨も見ているわけで、それが現実だが)、夢の中で何度も登場すれば、それが自分にとっての現実となる。自分が死んでしまえば、自分にとっての現実はなくなってしまう。でも、世の中全部が消えてなくなってしまうわけではない。現実をどうとらえるのか。現実を科学することでどんなゆたかさが得られるのか。ゆたかさと言っても人によって感じ方は違う。つまりそれは脳によって主観的に受けとめるものだろう。脳と言っても、そこには腸や皮膚など神経系をすべて含めて脳と読んだ方がいいのかもしれない。身体全体で感じるゆたかさ、あるいは幸せ、というものがどうつくられていくのか。社会実装への応用も研究されているようだから、楽しみではある。しかし、僕の中ではVRとかChatGPTとかなんか新しいものにはあまり興味がわかない、というのも現実である。まあとにかく時間は有限であるわけで、自分にとっての幸せ、ゆたかさを探っていきたい。僕にとっての現実とは「日々の家事全般」かもしれない。休みの日にもすることはいっぱいある。アイロンかけをためてしまった。洗濯をし過ぎたけれど、天気が悪くて乾かない・・・
-
私たちは現実を感じられたとしても、自らの脳がどのように現実をつくっているかをを認知することはできない。
脳内では五感を通じ、絶え間なく情報が統合され更新され続けている。
身体のレベルでも同様のことが行なわれ、それによって現実世界は刻一刻と形作られる。
所詮、五感を通じてでしか知ることのできない現実世界は、はなから本当の現実世界ではないし、ごく一部のアクセス可能なものしか反映していない。
にもかかわらず私たちは、目で見て耳で聞くこの現実を心底信じきっている。
それがたとえ、脳が作った小さな物語に過ぎないにしても。
長いこと脳味噌が浸っていると、それが現実に変わってしまう経験は、都市生活者の日常においても、あるいは日々触れるお金や数についても起こっていること。
現実というのは確固とした絶対的なものでなく、我々がひいては脳が勝手に決めている恣意的なものに過ぎない。
また現実は言葉とも密接な関係を持っていて、言葉というフィルターを通して体験される非常に主観的な経験でもある。
関係者全員に共有された現実を改変するものとしては、戦争や死という体験があげられる。
とりわけ死は、それによって物理的存在から主観的に存在への転換が脳内で行なわれるため、ある種の制御不能な断絶も生めば、社会で共有される物語の改変を伴うものにもなる。
私たちは普段、現実に対して無自覚すぎるので、現実を疑うこともしなければ、その本質が何であるか探ろうともしない。
現在のXR技術を使えば、新たな人工現実を作り上げることなど雑作もないことで、疑わない限り現実にやられっぱなしになる時代がそこまで来ている。
著者が手がけるBMI技術はまたまだ未成熟なものではあるが、自身の内的な情報を可視化したり、テレパシー的に念じるだけで物を操作できたりするなど、従来の境界の殻を破る可能性を秘めている。
面白いのは対談相手である養老先生が現下に「気持悪いね」と否定していること。
テクノロジーによって、自己と他者との境界だけでなく、自己の基盤そのものを破壊してしまう危うさを感じているからだ。
わかってもらえず、そこから深みのある議論もできず残念な対話となってしまったが、そこから養老先生の謎を分析してみせ、興味深い。
なぜ養老先生は解剖学者で脳科学の分野にもあれほど造形が深いのに、あんなにも虫取りに夢中なのか。
飽きずに一日中でもゾウムシやアリを眺めていられるのに、分類というものをなぜあれほど嫌うのか。
「養老先生が面白いなと思うのは、意識に興味がありながら、実際に惹かれるのは形態であり、形態が作り出す分類が本当は嫌なのに、形態があまりに面白くて、その観察を突き詰めると、差異を系統立てて分類する必要があって、その延長には大嫌いな一神教の神が待ち構えているという構造だ。
議論の中でも、ただアリを見ていることが面白いというのと、同じようにゾウムシの形態を延々と見ていること自体が面白いのであって、本当は見るだけで十分なのに、それを理解して整理しようとすればする程、途端に脳の中に分類学が現れて、嫌なところへ連れて行かれてしまう。そのモヤモヤが養老先生の魅力なのだなぁと今回も思った」
日本人は脳内ARの国民だというところも面白い。
能楽師によれば日本人は昔から見立ての力がめちゃくちゃ強い。
能もそうだし、寺にある枯山水もそう。
これは様々なものに目に見えないものを観る力が日本人にあるためだ。
それと名付け(ワーディング)の重要性についても興味深い。
VRも「バーチャル・リアリティ」という言葉で名付けられることで、その後の発展が約束された。
白血病もそう。
もともと「血液化膿症」という仰々しい名前がついていたのを「白い血の病気」へと改名することで、その後の病気の理解にどれほど貢献することになったか。
痛みや感覚によってはじめて、人は現実の本質を知ることができるという指摘は、先日読んだ北九州監禁連続殺人事件の本をフラッシュバックさせた。
松永が被害者らに繰り返す通電の拷問。
最初は、ピリッとする遊び感覚で行なっていたものが、回数を重ねるごとにエスカレートしていき、苦痛も恐怖心も倍増していく。次第に被害者の頭を占めるのは、そのことだけ、いつ通電されるか、通電をどうすれば避けられるかだけが日々の関心事になる。
衝撃や痛みによる恐怖で容易くその人の現実を一変させ、支配することができることを知ったとき、別にVRだのSRだの使わずとも、アナログなテクノロジーで十分に操作可能ではないか。
「痛みは無視することも順応することも難しく、痛みの原因が取り除かれない限り常に脳内の認知の中心にどっしりと構えて動かない。つまり、痛みは現実と直結しているのである」
著者は現実を没入型と侵襲型に区別するが、後者の現実が問題なのは、痛みがその他のあらゆるものを排除してしまうこと。
そのような状態に置かれた人間がどうなるかは事件が物語っている。 -
科学者や能楽師などに現実とはというテーマで対談したもの 外と中の世界
-
VR、ARなどXRが盛んな昨今、現実とは何か、という新たな問いに対して広い分野で「現実」という捉えどころのないものについて語る、という内容であった。
技術が進歩し、人間が制御可能な分野が広がるにつれて、いままで自然から与えられたものに対しての思想、倫理が問いただされる、ということは過去多く存在する。
錯視、錯覚が示すように人間が感覚機関を通じて得られる情報が全てこの世界を投影しているわけではない。
人間が進化の産物で生存のために獲得した、最適化されたフィルターを通して情報を歪ませ、取捨選択を行っている
それは人の話す言語、育った環境、などさまざまに由来する。10人いれば10通りの現実が存在する
画一された現実というものはもはや人間が語り得るものではなく、誰の意識にも存在して、どこにも存在しないものなのではないだろうか
著者プロフィール
藤井直敬の作品





