- Amazon.co.jp ・本 (224ページ)
- / ISBN・EAN: 9784153400191
作品紹介・あらすじ
清潔な都市環境、健康と生産性の徹底した管理など、人間の「自己家畜化」を促す文化的な圧力がかつてなく強まる現代。だがそれは疎外をも生み出し、そのひずみはすでに「発達障害」や「社交不安症」といった形で表れている。この先に待つのはいかなる未来か?
感想・レビュー・書評
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YouTubeのPIVOTというチャンネルで、著者の説明を聞いて、無茶苦茶面白い!と思い手にした本。読書により更に理解が深まった。我々は家畜であり、飼い主である。それが悪いことかどうかを動画では少し議論していたが、概ね良いこと、というのが結論だろうか。
自己家畜化が起こったさまざまな動物たち。有名なのは実際に家畜化を試みたベリャーエフのギンギツネ。小型化する。のちに大型の品種がつくられる動物でも、最初は野生種から小型化する。野生種よりも顔が平面的になり、前方への突出が小さくなる(=彫りの深い顔から平たい顔になる)。犬歯をはじめ、歯が小さくなり、顎も小さくなる。野生種に比べて性差が小さくなる。雄が強さをディスプレイする度合いが小さくなり、ウシやヒッジなどは雄の角が小さくなる。体重に対する脳の容量が小さくなる、などの特徴をもつ。
また、たとえば野生のキツネやオオカミでも、子どものうちは人間との接触を嫌がらなくなる。その理由は、ストレスに対して分泌されるホルモンを司っているHPA系が機能低下し、コルチゾールやノルアドレナリンといったホルモンが分泌されなくなるから。これらのホルモンはさまざまな臓器に影響し、血糖値や血圧や心拍数などを上昇させ、ストレスの源と対峙できるよう心身を整える効果があり、たとえば敵と戦ったり逃げたりする際にはこれらのホルモンが分泌されるもの。野生のキツネでは、大人になるとこのHPA系が十分に成熟するため、人間に接すると身体がいわば戦闘モードに切り替わり、恐怖や攻撃性を示す。
こうした特徴がまさに人間的。だから、人間が家畜的、という事である(日本語が変だが)。
人間は古い祖先たちと比較して、テストステロンやコルチゾールが減少し、セロトニンが増加したために、穏やかになっている。しかし、注意しなければならないのは、それで減少したのは「ついカッとなって人を殺した」「通行人の目つきが気に入らないから喧嘩を売った」といった、その場の感情に根差した、まさに反応的な殺人や争いであって、計画的な殺人や争いはこの限りではないという事。理性的な殺人は、やれてしまうと。
飼われた豚になるなら飢えた狼に。しかし、そうもなりきれないのは、既に社会全体が相互に飼い主化していて、人は一人では生きられない事の裏付けでもあるのだろう。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
難しかったので、勉強します。
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SNSで目に入った書評を見てきっとおもしろいと思って、さっそく入手。
人はこれまでにいろいろな動物を家畜化してきたというのはわかっていたが、自らも家畜化しているという視点はなかった。でもたしかに、自然から切り離された、清潔で計画的で道徳的な生き方は"家畜化"なのだなぁ…。「社畜」のような表現もなかなか的を射ているということか。
この本では、自己家畜化を必ずしも悪いこととはきめつけず、ゆるやかな進化の過程としてはある意味当然の変化だととらえつつ、社会や文化の設計・変化がこのゆっくりした変容がおいつかないほど急なことで生じる問題などを検討してほどよい落とし所を探る必要を伝えている。
少し前のドラマ「不適切にもほどがある!」が、いまから振り返った昭和は雑な部分も多かったけれどいいところもなかったか、昭和の人から見たら目を見張る技術やコンプライアンスに囲まれた現在はユートピアなのかディストピアなのか考えさせる作品だったことを思い出した。
薬によるエンハンスメントの問題はアスリートのドーピングの話と同様に、さまざまな問題をはらんでいるし(ナチス・ドイツがエンハンスメント(向精神薬)を奨励していたとは初めて知ったが、その行き着いたところを知っているのだから、エンハンスメントはやはりあやういとしか言えない)、真・家畜人たれない人が治療を要する対象とされていくことのあやうさはディストピア小説さながらの未来予想図からよく理解できた。最近よくきく行動経済学の「ナッジ」なども、いい面もあるけれど、使い方に気をつけないと危うい気がする。
読んでいますぐどうこうできることもないのがつらいが、こういう流れの中で生きているのだと知ることは無駄にはならないと思う。
そこらに置いといたら、教育実習のため帰ってきている大学四年生の娘が興味を持ち、ざっと最後まで読み終えた、おもしろかったとのこと。 -
進化生物学や近年の精神医療の現場の状況がまとまっていて、興味深い内容だった。
西暦2060年近未来Aのシナリオが妙に具体的で面白い。逆に2160年の近未来Bはオルダス・ハクスリーのすばらしい新世界を彷彿とさせる感じで、遠くのことを語ろうとすると何かに似てしまい、かえって凡庸になると感じてしまった。 -
人間は文化によって進歩し、豊かな暮らしを実現させたが、その“文化的な自己家畜化”の過程は、ゆっくり進化してきた生物学的な自己家畜化をはるかに上回るスピードで変化しているため、それに適応できない人々が増え続けている。文化的な自己家畜化は、常々身体性から逃れる方向に未来を夢見てきたが、「人に優しい未来」を考えた時に、身体性を顧慮しないのは果たして優しいと言えるのか。
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『人間はどこまで家畜か』もうタイトルにぎょっとする
ここでいう人間の家畜化というのは、現代の人間はより穏やかで安全な文化に適応して生活しているのだけれど、
この文化がより高度なもの、より礼儀正しく感情を荒げることなく他者と協力的なコミュニケーションを取れることを人間に求めるようになってくると
不適応を起こし、文明からこぼれ落ちていく人間が増えていくばかりではないかという懸念ともっと動物としての人間にやさしい未来を考えるべきではないかという警鐘を鳴らす本であった。
たしかに現時点で精神疾患が学生だと不登校、発達障害なんかも増えており、そういった判断や治療が行き届くこと自体は喜ばしいことだけれど、
結果的にふるい落とされた人を排除していることにならないかという指摘には頷いたし、こういった生産性を希求する姿勢そのものがもう限界にきていると思った
熊代氏の言うように高度な文明に生きる人間というよりも、もっと動物的な部分にフォーカスする未来のほうが大人も子どもものびのびと過ごせるのではないかなと思う -
これかなり面白かった!
自分は社会不適合だからダメだ…と思ってる人にぜひ読んでほしい。あなたはきっと悪くない。
内容としては、生物学的な自己家畜化が、文化や環境の変化スピードに追いついてない人が医療や支援の対象となっているのではないのか、このままで良いのか、という話だったように思う。
前半は、そもそも自己家畜化ってなんぞ?という話で、ここがめっぽう面白い。動物の自己家畜化の事例や、人間が進化のうえで穏やかにより社会的な人間になってきたことが明かされている。ここが面白すぎて、読みたい本がめちゃくちゃ増えた。笑
そして後半は現代の話にうつる。他人を不快にさせない、長寿で、健康で、効率的であるべき…など、文化や環境が人間に求める能力や行動は変わっていき、生物学的な自己家畜化が追いついていない、そこに適合しない人間は精神疾患と看做される。昔より安全に暮らせるが、本当にこれでいいのだろうか?と著者は警鐘を鳴らす。
これは大きい問題で、かつ解決が非常に難しい問題だと思う。文化が変化するスピードは変えられない。著者は人間にやさしい文化や環境へと舵を切り直すための知恵と勇気が必要と記しているが、人間にやさしい文化ってなんだろう?とも思える。でも多くの人間が自己家畜化という言葉を認識し、現状を理解していったならば、少しずつ何かが変わるのかもしれない。 -
人間は生物学的な進化の過程で家畜化してきたが、文化・文明的な意味でも自らを家畜化してきた。しかし今に至って、現代社会が人間を家畜化しようとする圧力は、動物としての人間の首を絞め始めたのではないか?という考察をした一冊。
一章では、人間の生物学的な家畜化がどのようなものかを説明し、二章では近代までの文化による家畜化を、三章では現代文化による家畜化を、四章では現代社会の家畜化圧力による弊害を説明している。最終章である五章では、現代社会の家畜化圧力から導き出される未来像を描いて、その未来を憂慮している。
脳科学者や心理学者、精神科医のおもしろい話には気を付けなければならない。胡散臭い人の顔も思い浮かぶ。この本にしても、引用している文献を恣意的に解釈しているのではないか?という疑いを持つ必要はある。
という警戒は必要だが、著者の見方には概ね同意する。日頃、著者のツイッターやブログは見ているし、「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」も既読なので、このような内容になることの予想はついていた。著者も言及している通り「健康的で清潔で・・・」を踏まえた上で、自己家畜化というキーワードによって考察を深めた一冊だろう。
些末なことだが、猫が家畜化された動物だという話に違和感がある。あいつらは本当に家畜なのだろうか?犬は家畜だと思うが、猫は簡単に野生に戻れるイメージがある。野生のヤマネコと見た目も大して違わない。その点、犬はチワワからブルドックまでめちゃくちゃだ。
平たい顔族の一員としては、家畜化された種は野生種より小型化して顔が平面的になる、という話には思うところがあった。東アジアの人間は動物的特性が弱いのだろうか。
この本では触れられていないが、文化や社会が人間の家畜化を進めた要因として、死刑は大きいと思う。死刑は、野生の狂暴な遺伝子を持った個体が遺伝子を子孫に残すことを難しくしたに違いない。
ところで、私が本書を読む前に密かに期待していたことがある。それはリベラル・ポリコレ批判のための外堀を埋めることだ。リベラル・ポリコレはそろそろ生物学的な人間の対応できる一線を越えようとしている気がする。リベラル原理主義者は人間が動物であることを認めないのではないか。自分自身は15年前だったら、リベラルですよ、と言えた。しかし今は口ごもってしまう。そろそろついて行けなくなっている。なんならマイルドな保守かもしれない。自分はおそらく昭和のリベラルなのだ。真・家畜人失格だ。
だが、リベラルは基本的に、理性的で論理的で倫理的に正しい。そこに異議を唱えるのは難しい。なぜか。その異議は、非理性的で非倫理的で非論理的な動物的な正しさに基づいているからだろう。動物的な正しさは、理性や倫理や論理とは関係がない。論理的な「言語」を舞台に両者が相対した場合、リベラルが勝利するのは当然だ。ただ著者はバランス感覚に優れているらしく、リベラル批判という言質を取られそうなことは書いていない。
急進的なリベラル・ポリコレの動きにブレーキをかけるという意味では、ネトウヨや陰謀論者にも果たす役割があるのかもしれない。彼らはリベラルである真・家畜人より動物的特性が強いのだと思う。ただやはり言論という場に立つと、理性的で倫理的で論理的なリベラルには勝てない。
五章に書かれた未来予測はSFで描かれるディストピアのように感じた。ある程度リアリティもある。しかし本当にそのようになるのだろうか?生物学的にも内面的にも家畜的特性を備えた真・家畜人は、あまり子供を産まないだろう。その一方で、生物学的にも内面的にも家畜的でない特性を持った人々、動物的特性の強い人々、雑にいうとヤンキー素養のある人々は子供を産むだろう。その結果、家畜的特性の強い真・家畜人は絶滅するのではなかろうか?
経済的な側面からも似たようなことを考えてしまう。これから日本は更に没落していくことが予想される。その世界でお行儀の良い真・家畜人は生き残れるだろうか?戦後間もない頃、ヤミ米に手を付けずに死んだ裁判官がいたことを思い出す。健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会は社会的経済的に安定していることが前提だ。それが崩れた時、真・家畜人は葛藤に引き裂かれるだろう。法や倫理の隙を突くチートだのハックだのが一部で支持されているのはその萌芽ではないのか?それでも真・家畜人でいられるだろうか?その時生き残るのは、すぐ怒鳴る、殴る、約束を守らない、略奪する動物的な特性を備えたヤンキーではないか?それはそれで嫌なディストピアだが。 -
人類は自己家畜化を図ることで社会の豊かさや清潔さを求めてきたが、それに伴い動物的な側面は切り捨てられている。
例えるなら、ドラえもんでいうのび太(授業に集中できない子供)やジャイアン(暴力をはたらく子供)は治療や排他の対象になった。
過剰な自己家畜化とそれに取り残される人々という現状把握。
更にそこからの未来予測。