短編集だが、おそらくはほとんどが自分が主人公になった作品だと思う。その内容もかなりの部分が実体験に思える。フィクションも混じるだろうけど、実話だと信じることにして興味深く読ませていただきました。
猫殺し。トロッコ海岸。デカメロン。
初めの3作は連作で、小学生高学年から中学生くらいの海辺の田舎の3人組のご近所でのプチ冒険。なんだかほろ苦い子供の気分が、セピア色の風景と一緒にじんわりと沁みてくる。色々なものが素晴らしく見えていた子供の時代が、とても生き生きと描かれている。大人になって、子供の頃をこんなふうに書けるのは、才能でしょう。
最初の「猫殺し」はシーナ節のオノマトペが絶好調。この作品はフィクション多めだろうと思う。
私の子供の頃は、親の転勤で引っ越しが多かったし、田舎暮らしも短かったので、今ひとつピンと来てないのだが、迷路のような旅館(?)の中や、よく分からない街中をひたすら逃げる、あるいは脱出しようとする夢は、よく見たことを思い出す。
近くの製紙工場の山のように無造作に積まれた廃品の屋外紙置き場に忍び込むと、まれにえっち本を見つけたことがあったことを思い出しました。そして、橋の下の千ちゃん、やるせなく悲しい。
ほこりまみれ。
田舎のサッカー部の中学生3人組。
3人組が共通のマドンナを崇拝して常日頃から話題にしているのだが、3人に争いもないまま平和裡に、3人のうちの一人がラブレターを渡す行動に出る、という部分に、けっこう驚いた。私なら、本気で意中のマドンナが決まっているなら、そのことを、ライバルになりうるような男には、というより誰にも言えないなあ。まあ、3人ともそれほど本気でなかったから、なんだろうな。
私の中学生時代は、作者より10年くらいは後だと思うけど、田舎生活も短く、新興住宅地に引っ越してすぐ入院、療養も長く、あんまり遊んでなかった。「子供が近づいてはいけない怪しい宿」が近所にある状況なんて、想像もできなかったなあ。
ラストシーンのマドンナの行動は意味深で、キュンとくる。夏目漱石の三四郎を思い出す。どちらも、こういう状況って本当にありそうな気がしてしまうんですよね。女ゴゴロを解説して欲しい気分(あ、シーナ節が移った)。
ポウの首。
二つの事件は、なんだか本当にあり得るのかなあ、という感じで、しかも読後の後味が悪い。フィクションだろうなあ。
蛇の夢。
作者の夢と、書きかけたが作品にならなかった未完成品が紹介される。これは興味深い。書きかけてやめたとはいえ、その後を勝手に想像したくなる。
椿の花が咲いていた。
作品名に句点が付いた。流行を追ったのでしょうか。今ではなんだか陳腐な感じがしてしまう。と思って調べたら本作は「モーニング娘。」より前で、タイトルの句点は、1980年代に糸井重里が西武百貨店のポスターのために発明したものだった。そう言えば、当時の西武百貨店のポスターでは、デザイナーの石岡瑛子が活躍していて、キャッチコピーも含めて、私も注目していた。作者たちを調べはしなかったけど。
ストーリーは全体に気怠く諦念気分に支配されていて、煮え切らないまま終わってしまった。これが作者の体験のノンフィクションなら、受け容れるしかないか。
殺人との接近。
「喧嘩に勝ってタクシーに乗って去る時の安堵感と激しい心の高揚というのはなかなかいい。」と書かれていた。ケンカ慣れした暴れん坊の性向って、やっぱりそうなのか、と嫌な気分。疑う気持ちもあったのだが。私は子供の時から腕力に自信がないので、ケンカの暴力をとても憎んでいる。自分なら腕力で勝つことはないが、もし勝っても、絶対に嫌な気分になる。それは非暴力の諍いに勝っても必ず嫌な気分になるのだから分かる。こんな奴とは友達になりたくないと思ってしまう。が、社会人ともなるとそうはいかんのだが。
初めに椎名誠を読んだ作品「さらば国分寺書店のオババ」では、小市民的で、ある意味セコいような心の動きの描写と、キーワードを敢えてカタカナで書いたりするユーモラスな文体が、自分の感性にピッタリとハマってしまった。でも、作者に対するこのころの私の勝手な印象と、他の作品を読み出してからは、本作以外においても作品中に登場する、マッチョでやんちゃな作者の姿が、かけ離れて感じたものです。...でも椎名作品、結局、好きなんです。
謎の解明。
「ハイッ」とお茶を配ってくれた、他人だが「なかなか愛らしい美人」の女性。
思い出した。まだ若い会社員の私が深夜のファミリーレストランで食事を終えた時、アルバイトの学生らしい女性が、笑顔と共に頼んでいないドリンクバーのホットコーヒーを持ってきたことがあった。喜ぶより先に、勝手にこんなことしていいの?と思ってしまった。後で、私に気があるというサインかも、と気づいて(自惚れすぎか)、何だかもやもやしたな。
後になって(しかも何十年も経ってたりする)あの時のあれは、私に気があったんじゃないか?っていうもっと確率の高そうな事件が、思い出すと色々ある。どれもこれもが実らなかったし、切なく後悔も感じる。
加えて、昔々のあのとき、友人が告白が実らなかったことを神妙に私に告げたとき、告白の相手は、その友達ではなく私に気があるからと言って、あるいは、私に気があると匂わせて、断ったのかもしれない、などというモヤモヤする妄想もある。
道の記憶。
色々の問題が立て続けに起き鬱屈した気分の主人公(というより作者でしょう)。そして、この時期たびたび衝突する妻と自分のキャラクターの冷静な比較分析。ついに妻に対する理不尽な暴力。正直、これは怖い。何かのはずみで自分にも起こりうるような気がした。
本作の妻は、急進的な民主活動を基盤とする母親の思考を受け継ぐ活動的で仕事に全力を投入する女性。妻は強く言い返す。...その後どうやって信頼を回復したのか(あるいはしなかったのか)気になる。
「なんて嫌な夜なのだ...」
映写会。
たまにはありそうな事件が、淡々と展開していく。現実的視点を持った奥さんの協力も得られて、最後には、ささやかに、ほっこりと読み終えられます。黙って会社を去った旧友梅本には、苦言を言いたいけど。
この作品集だけでなく、作者の傾向だと思うけど、初めての人を見て一瞬で何かに喩えてあだ名をつけるようだ。そういう才能持った人、いるよな。何かに喩えなくても、特徴をあだ名にしてしまう。作品を読む上で、とても読みやすくなっている。名前をつける必要のない人だからあだ名で済ませる、ということではあるのだけれど。
実際にこれをやってしまう人は、うっかり口に出してしまわないのだろうか。
赤目男。髭男。てろん禿。だんだら。タマネギ。兎。ニワトリ。「にんじん」。キツツキ。ぶわぶわ男。
カマンチョロ、イタチも出てきますが、作者本人の作では無さそう。
そういえば、私自身、たしか昔社会人になってほどない頃、1年下の、まあ、友達に、ニワトリに喩えられたことがあることを思い出した。結構失礼だけど、本人は失礼とは思わなかったのか、怒ったりしない奴と思われたのかな。まあ、会社内でのあだ名になったりはしなかったと思うけど(表面上は)。本書「道の記憶」の中の「ニワトリ」は最高に嫌な奴なのだが。
あ、そういえば、小学生の時には、かなりひどいあだ名を考え出した奴がいた。気弱な私につけ込んで、からかいながら言い放たれたが、当時の自分も感心するほど上手いあだ名だった。定着はしなかったが、よく遊んでた友達にも、「悪いけど感心した」と言ってたな。うーむ。