水滴

  • 文藝春秋 (1997年1月1日発売)
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本 ・本 (200ページ) / ISBN・EAN: 9784163172804

感想・レビュー・書評

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  • 沖縄事前読書週間の一環で、「沖縄を知るための10冊」で紹介されていた、97年の芥川賞受賞作品を小説部門として読む。この作品を選んだのはあらすじの「ある日、右足が腫れて水が噴き出した。夜ごとにそれを飲みにくる男達の正体は?」というのが普通に面白そうと思ったからであるが、読み出して、この男たちって沖縄戦で亡くなった兵士たち、水を求めて死んでいった主人公の旧友含めた兵士たちというのがわかった瞬間、あの「面白そう〜」という軽いノリは一体どこからきたのかと自分の意味不明なテンションを反省する。

    3作品収録。どれも面白かったのが、最後の作品が特に私は刺さってしまった。。

    「水滴」表題作
    選者の一人であった日野啓三によると(このお方も芥川賞や泉鏡花賞受賞者、、読みたい)、…主人公の罪意識は戦時中のエゴイズムだけでなく、戦後「戦場の哀れ事語てぃ銭儲けしよっ」ったことにある。つまり問題は一九四五年だけでなく戦後五十余年に及ぶこと、被害者としてだけ戦争と自分を装ってきたこと(沖縄だけであるまい)――戦後の自己欺瞞を作者は問い直している。第二は、その無意識の長い罪を意識化し悔い改め救われるメデタイ話ではない。主人公の不安は奇病が全快しても治らず、再び泥酔とバクチで門の前に転がっている。そしてそんな主人公のすべてを、そのエゴイズム、弱さ愚かさを、作者は〝大肯定〟している。…倫理的、宗教的にではなく、沖縄という不思議な場の力で。…すぐれて沖縄的で現代的な小説である。
    という評選評に書かれていること、以上という感じではある。
    頭を下げて水を飲んでいく、首が切れていたり、腹から臓物が出ている兵士たちの幽霊たち、、沖縄戦・その戦後を見つめるのに良い一作品と思ったのも束の間、後続の二作品もそうなのである。

    「風音」
    純粋な小説(?)という意味で水滴と風音のどちらが好きかと言われたら、本作に軍配が上がるかも知れない。長さもこちらの方が長い。
    戦時中に特攻隊員の遺体を村の風葬場に運んだ父と子。子は欲しかった万年筆を持ち帰ったことを戦後ずっと誰にも話せず自責の念に囚われている。その子が父となり、その子は村の子供達と近づいてはならないと言われている風葬場で肝試しをしてしまい、自分のせいで泣くと言われていた頭蓋骨から音がしなくなったと後悔する。一方東京から取材に来た藤井は、村人や同行している後輩からは戦争を食い物にするメディアの一人としか思われていないが、特攻隊員であり、加納という同輩の行動により出撃を免れた過去をもち、その加納の痕跡を探し続けている…という幾重にも重なった話が一つずつ紐解かれていく。が、その答え合わせは読者にだけなされ、物語上で邂逅することはない。村の風葬場に葬られた特攻隊員が持っていた万年筆にはKというイニシャルが彫られていたが、加納の遺体だったのか、それはついぞわからないのだ。そこがまたいい。その加減含めて本作が好きだった。

    …戦後、収容所の中で再会した時に、清吉はもうこの幼馴染も何も話すことがないのを感じた。それは何も徳一に限ったことではなかった。父や母に対してさえ、あの強烈な事実だけがるいるいと重ねられた日々を過ごしてからは、いくら言葉を費やしても本当のことは伝わらないと感じられた。(p.70)

    …「つまらなくはないか」崖の縁に腰かけていた加納が、いきなり体をよじって言った。藤井は返事を返すことができずに加納の言葉を自分の中で反芻した。それは最も恐れていた問いだった。
    この一週間、自分の死にあらゆる意味づけを行おうとして、結局はその空虚さに気づくだけだった。誰もがその空虚さを見つめるのを恐れるように、一心に遺書や手紙を書いていた。藤井は「大君のために」と口にする奴の喉笛を引き裂いてやりたい衝動を何度もこらえた。ぶつける対象のないまま癌細胞のように増殖し続ける憎しみ。それが藤井の内部を喰い荒らした。
    つまらなくないか、か。何をいまさら。…
    加納は煙草を咥えて顔を近づけた。火の中に浮かんだ顔は驚くほど幼かった。藤井は痛々しい思いに駆られておもわず目をそらした。火照った耳にやわらかな息がかかり、かすれた低い声が何かをささやいた。「えっ、何?」振り向いた唇にやわらかいものが触れた。と思った瞬間、襟首をわしづかみにされた藤井は、闇の底へ放り出された。…(p.103-4)
    か、かのーーーー!!!!おまえーーー!!!という感じでした。まさかのそういう展開に、そういうこともあったろうと思った。好きだったから生きていて欲しかったんだろうか、好きとかお前は生きろとかそういう言葉を最後に残したのだろうか。

    「オキナワン・ブック・レビュー」
    最初は普通にブックレビューかと思いましたが、レムの『完全な真空』と同じ発想の、架空の書評集です。
    皇太子に沖縄から妃を出すという沖縄婿派の書いた本と、新星のユタとなった男が天王星と交流しながら自らの宗教を広げていく新興宗教本のレビューが交互な形で現れるのだけれど、途中で天王星人が沖縄の基地にアメリカから移送されたという話になり、その天王星人を取り戻そうと基地突入が起こり、逮捕・解散させられる一方、皇太子は結婚してしまい沖縄婿派も消沈という話で、書評は書評で超面白かった。超面白かったんですけど、天王星って天皇制とかけてるんじゃん…とわかった時の戦慄よ…そういうことか…っていう。結局これは沖縄の時流や様相という体を取りながら、一番のメッセージは天皇制と沖縄、なのかもしれない。

    書評で面白かったのは大山鳴動こと沖縄婿派の急進派にしてその愛弟子である小橋川氏の文章かな笑。毎回お決まりの定型な流れがあって、師匠のことを「アッパラパーと唱える其奴らこそアッパラパーで有ることが一目瞭然紺碧の空を渡る一羽のサシバの如くご理解頂けるかと思います」と師匠の陰口のバリエーションと、それが違うことがわかる例えの動物のバリエーションが毎回笑えるのである。それから末尾に絶対枚数超過のお詫びがあるのもなんかウケるのだ。絶対やらないって言いながら次からは許してくれてありがとうになったのも面白かったw

  • 表現が近代稀に見る達筆

  •  
    ── 目取 真俊《水滴 1997‥‥ 19970901 文藝春秋》
    http://booklog.jp/users/awalibrary/archives/1/4163172807
     
    (20231128)

  • 2023.06.21 図書館

  • 表題作のみ読了。

    沖縄言葉(と呼ぶのが正確かよくわからない)がふんだんに用いられていて、
    でも読みづらさはなく、物語の雰囲気に呑まれた。

    朝ドラの『ちむどんどん』でよく使われていた、
    「アッキサミヨウ」が「呆気さみよう」と書かれていて、
    漢字を当てるとこうなのか、と驚いた。
    他にも今まで漢字を当てられているのを見たことがない言葉がいくつもあって、
    新鮮だった。

  • 五十年も昔、仲間を裏切ったことへの罪悪感がこの奇妙な病として表れたのか。
    急に原因不明の冬瓜のように腫れた足をかかえ意志疎通できない寝たきりになった男。
    そして夜な夜な沖縄戦で犠牲になった仲間の日本兵たちが足から染み出てくる水を飲みにやってくる。その中に、同郷で友だった石嶺が現れるようになる。石嶺に足を吸われ男はエクスタシーを感じてしまう。生死の境は、子孫を残そうと生殖本能が起きると聞きかじったことがある。必ずしも性愛があったわけではないと思うけど、石嶺は美しいもののような形容のされかたをしている。そこには赦しを求める者として神聖視しているのかもしれない。
    羅生門の醜女のようなキャラの従兄弟も含めて、芥川賞っぽいなぁと感じた。

    同録『風音』の方が引き込まれた。こちらも沖縄、戦時中の回想と戦後が入り交じる構成。各々が一人の風葬された若い兵士と関係する人物だったという、真実が少しずつ明らかになっていくお話で、一気に読めた。鳥葬ではなく蟹…そうだ蟹の眼って飛び出てるんだったと想像してゾッとした…。
    死んだ若い兵士は美しく、表題よりこちらのほうが匂い系だった。ノンフィクションとも幻想的ともいえるので、戦争ものと気負わず、その描写力を堪能して欲しい。
    (リトルモア版「風音」とは内容違うらしい)

    私の祖父も戦争体験者で、防空壕で敵からガス攻撃されたとき、たまたま側に隙間があったから生き延びられたと。いまの子供たちは、身近にそういう方たちがいないんだなぁ。平和な未来を願っていた祖先と、かなり解離した日本の平和ボケというのは、今この世界の中でみると少し恐ろしいような居心地の悪さを感じる。もちろん世界中が争いのない平和ボケになれば良いのだけど。

  • 水を使うと神秘的なイメージになる。でも、それだけじゃなかった。戦争は生き残ったものの気持ちもまえに進めなくする。滞っていた心の思いとか、叫びみたいなのをうまく使ってるのかなと思った。それに、沖縄の言葉は本気で何をいっているのかわかりません。

  • 表題作の「水滴」、続く「風音」は、戦時中の沖縄を思い返し、現代に生き残った者が何かをする、という話しの構造になっている。構造は同じだが、展開は全く異なる。
    「水滴」はまず全体的に短く、寓話っぽく、悲しいのにどこか可笑しく思えてしまう。最後には勧善懲悪な要素もある。しかしこれが賞を受賞したというのは、不思議というか、珍しいこともあるのだな、という印象が拭えない。
    「風音」の方が、現代と、戦時中との差別化が出来ているのに、その距離というものが近くに描かれ、人物の内面が各々、スポットライトの当たり方によって強弱はあるが、描かれていたし、政治的(正しくは金絡みの問題)でもあった。二篇とも、重く、生き残った者たちの悲しみと息苦しさが、沖縄の言葉でもって、濃く描かれていた。

    三篇目の「オキナワン・ブック・レビュー」は、実験作で、戦争とも関わりはあるが、少々悪趣味なものだった。レビューを通して人物を描き、最後には点と点が線を結ぶ構造になっているが、中身が文化的な書かれ方をしているにも関わらず、薄っぺらく、冗長が過ぎる気がした。

  • H27/11/7

  • 沖縄人の夫婦。原因不明の足の浮腫を煩う夫のもとに、夜な夜なやってくる兵隊達。戦争体験との付き合い方とは。

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著者プロフィール

1960年、沖縄県今帰仁村生まれ。琉球大学法文学部卒。
1983年「魚群記」で第11回琉球新報短編小説賞受賞。1986年「平和通りと名付けられた街を歩いて」で第12回新沖縄文学賞受賞。1997年「水滴」で第117回芥川賞受賞。2000年「魂込め(まぶいぐみ)」で第4回木山捷平文学賞、第26回川端康成文学賞受賞。
著書:(小説)『目取真俊短篇小説選集』全3巻〔第1巻『魚群記』、第2巻『赤い椰子の葉』、第3巻『面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ)』〕、『眼の奥の森』、『虹の鳥』、『平和通りと名付けられた街を歩いて』(以上、影書房)、『風音』(リトルモア)、『群蝶の木』、『魂込め』(以上、朝日新聞社)、『水滴』(文藝春秋)ほか。
(評論集)『ヤンバルの深き森と海より』(影書房)、『沖縄「戦後」ゼロ年』(日本放送出版協会)、『沖縄/地を読む 時を見る』、『沖縄/草の声・根の意志』(以上、世織書房)ほか。
(共著)『沖縄と国家』(角川新書、辺見庸との共著)ほか。
ブログ「海鳴りの島から」:http://blog.goo.ne.jp/awamori777

「2023年 『魂魄の道』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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