グロテスク

著者 :
  • 文藝春秋
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  • Amazon.co.jp ・本 (536ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163219509

感想・レビュー・書評

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  • 女性性と、主体と客体。自分が認識する「こう思われているであろう」という自分の像と、他人が見た時に感じる自分の像が致命的にズレている人間。そのズレから生まれる歪みが、その本人を際限なくグロテスクな存在に変化させていってしまう負の螺旋の様子が、学校内ヒエラルキーや、超絶美人の妹を持った姉、娼婦などの生活を通して描かれていく。全編を通してパンチがあり、単純に読んでいて面白かった。特に後半の和恵の章は、どこまでも落ちていく感覚に読んでいて頭がくらくらする。

    桐野夏生の本を読むのはこれが初めてで、読む前はなんとなく「リアルで精緻だけど真面目すぎて読むのが疲れそう」という印象だったが、実際読んでみると荒縄で腕を縛られてぐいぐい引きずられるようなパワフルな推進力があった。ドSの匂いがする。文章も構成もエネルギッシュでこちらも負けじと食らいついてがしがし読んだ。この人の他の本も読んでみたくなった。

  • 「東電OL殺人事件」を下敷きにした作品である。ただし、通俗的な事件読み物など比較にならない深みに達している。

    ドストエフスキーがありふれた強盗殺人のニュースを下敷きに『罪と罰』を紡いだように、三島由紀夫が金閣寺放火事件を下敷きに『金閣寺』を書いたように、桐野夏生は想像力を全開にして、通りいっぺんの犯罪報道の背後にもう一つの現実を構築してみせた。

    3人の女性の物語である。
    「怪物的」なまでに整い過ぎた美貌をもった、「生まれついての娼婦」ユリコ。ユリコの実の姉でありながら、似ても似つかない平凡な容姿に生まれた「私」。そして、「私」とは名門Q女子高で同級であった、秀才ではあるが平凡な女性・和恵。

    ユリコと和恵は30代後半になってから街娼となって渋谷のホテル街に立つようになり、1年の間に相次いで殺される。

    2つの殺人事件を軸にストーリーは進むが、読者を牽引するのは犯人探しの謎解きではない。『罪と罰』と同程度に「ミステリーでもある」小説だが、むしろ、事件に至るまでの3女性の心の軌跡を精緻に描くことにこそ、作者の主眼がある。
     
    東電OL殺人事件の被害女性がモデルになっているのは、和恵だ。和恵は、昼は一流建設会社のエリートOLだが、夜には街娼となる。「誰も自分のことを見てくれない」昼間の暮らしの空虚を埋めるために……。

    和恵1人を主人公にしていたなら、佐野眞一のノンフィクション『東電OL殺人事件』をなぞっただけの凡庸な作品に終わっていただろう。和恵の心を描きつつ、彼女と運命的な関わりをもつユリコと「私」を対置して描くことによって、重層的な傑作になった。三者三様の根深い孤独が重ね塗りされて、油絵のマチエールのような効果をあげている。都市の闇、人の心の闇を描き出す極彩色の地獄絵図。
     
    「40歳になったら死のうと思っている」とは、桐野の近作『ダーク』の衝撃的な書き出しだが、この『グロテスク』もまた、多彩な登場人物のうち、少しずつ壊れ、破滅に向かって歩を進めていくユリコと和恵の姿が最も強い印象を与える。

    ユリコは和恵に言う。

    「体を売る女を、じつは男は憎んでいるのよ。そして、体を売る女も買う男を憎んでいるの。だから、お互いに憎しみが沸騰した時に殺し合いになるのよ。あたしはその日が来るのを待っているから、その時は抵抗せずに殺されるわ」

    奇妙な言い方に響くかもしれないが、この小説の最大の美点は作者の“研ぎ澄まされた悪意”である。3人の女性たちを描く筆致、さらにはその周囲の人たちを描く筆致が、鋭敏な悪意に満ちている。

    女性が女性の容姿や服装、性格などを評する言葉は、時として残酷なまでに鋭いものだ。「男にはとてもそこまで言えないし、そこまで観察できない」というところまで、鋭く観察し、真贋を見分け、辛辣な批評の刃を向ける。この『グロテスク』の描写には、そうした女性ならではの悪意の視線がマックス・レベルでつらぬかれている。

    私が思うに、一流の小説家というのは「一般人には見えないものが見える人たち」である。

    一般人なら気づかず見過ごしてしまう人の心の裏側(たとえば、嫉妬や見栄や憎悪などの「負の感情」、あるいは逆に、ふつうの庶民の心の奥に時として輝く崇高な人間性などという「正の感情」)が、くっきりと見えてしまうのが「一流作家の眼」なのである。

    桐野夏生もまた、まぎれもない「一流作家の眼」をもっている。そうした眼にも2種類あるが、桐野や車谷長吉は、とくに人間の「負の側面」を鋭敏に感じとる眼――研ぎ澄まされた悪意の視線をもっているのだ。

    その悪意の視線がひときわ輝きわたるのは、物語の前半、主人公の3女性が揃って通うお嬢様学校・Q女子高で過ごした少女時代を描いた数章だ。

    初等部から上がってくる本物のお嬢様たち――「オーナー企業のオーナーの娘。就職なんか絶対しない人たち。したら、恥だと思っている」――だけが「主流」を成し、勤め人の娘たちはどんなに勉強ができても「主流」にはなれない「階級社会」。

    そこで行なわれる、暴力を用いない隠微ないじめと差別を描きだす手際の鮮やかさが、桐野の真骨頂だ。
    その「階級社会」で根こそぎ誇りを奪われる「私」と和恵。並外れた美貌ゆえに「主流」のお嬢様たちからさえ一目置かれるユリコ。その差が、後年の悲劇の源となる。

    男の作家が娼婦を描く場合、多少なりとも“聖なる娼婦幻想”に呪縛されてしまい、娼婦に同情的な視線を向けがちだ。
    しかし、桐野夏生が2人の娼婦を描き出す筆致に、そんな甘さは微塵もない。若いころには一晩300万の高級娼婦だったこともあるユリコやエリートOLである和恵が、最下層の街娼に落ちるまでの過程を、微に入り細を穿って容赦なく描き尽くすのである。

    冷ややかな悪意に満ちた桐野の視線。その代弁者となるのは、物語の語り手である「私」だ。

    「私」は、ユリコと和恵の転落の過程の目撃者となる。平凡な秀才にすぎなかった和恵は、高校でユリコに出会ったことで、その毒に感染して少しずつ道を踏み外していく。
    「私」は実の妹であるユリコを憎み、和恵を軽蔑するが、じつは「私」の心の底にも、ユリコと和恵のように生きたいという願望が渦巻いている。だからこそ、物語の最後、「私」もまた渋谷のホテル街に立つのだ。

    欠点も、ないではない。
    たとえば、主要登場人物の1人・ミツル(女性)が、オウム真理教をモデルとしたカルト教団の一員となって「私」の前に現れるあたり、ご都合主義でリアリティがない。東電OL事件にオウム事件を継ぎ足せば現代が描けるわけではあるまいにと、小言を言いたくなる。

    また、殺されたユリコの忘れ形見が盲目の美少年で、しかも彼もまた女性相手の街娼として渋谷の街に立つ、という終章のエピソードも、話が出来すぎているし、いびつな少女趣味にすぎる(ちなみに、桐野はかつて少女向けのジュニア小説を書いていた)。

    それに、作品全体がいささか長すぎる。あと100枚分くらい、余分なエピソードを削ぎ落とすべきだったと思う。
    ただし、そうした瑕疵を補って余りある多くの美点をもった作品である。

    『グロテスク』というタイトルはそっけないが、読み終えると、このまがまがしい物語にこれ以上ないほどふさわしく思える。

    「グロテスク」は、たんなる醜悪さとは似て非なるものだ。それは美が前提になっている。美しさがある一線を越えておぞましさに変わったとき、美が腐り果てて醜悪さに転化したとき、初めてそこに匂い立つのが「グロテスク」なのである。

    「美という奴は恐ろしいもんだよ」とは『カラマーゾフの兄弟』の名高いセリフだが、この小説に描かれたのはまさに、グロテスクに成り果てた恐ろしい美、かつては美であったおぞましい醜悪さだ。

    ディケードごとの「セックス・シンボル」があるように、一つの世代、ディケードを象徴する犯罪がある。たとえば、私の世代(1964年生まれ)にとっては宮崎勤の犯罪がそうだ。いまの20代にとっては酒鬼薔薇聖斗の犯罪がそうだろう。

    同様に、いまの30代半ば~40代半ばの女性、とくに独身女性にとって、東電OL事件は、自分たちの世代を象徴するように思える「特別な犯罪」だったのではないか。

    桐野夏生が東電OL事件に材をとった『グロテスク』を描いたのは、必然だった。この事件は桐野の作風にこそふさわしい。「女性ならでは」という言い方は性差別につながりかねないが、それでもあえて言うなら、男の作家には、どんなに優れた作家でも、東電OL事件をこんな小説には出来なかったと思う。

  • 怪物のように美しい妹のユリコ。その妹への劣等感を隠すために敢えて露悪的に生きる主人公。トップクラスのお嬢様高校のクラスメイトたち。その中でも劣等感を隠しながら学校生活を送る友人たち。人間のグロテクスな部分がさらけ出して書いてあり、こんなひねくれた人間にはなりたくないと思いながらも、自分も色々な劣等感を隠しながら、自分を騙しながら生きている事を認めざるを得ない。
    90年代に実際に起こった事件を題材に書かれているんだけど、その時の実際の被害者の人も、この物語の和恵と同じような心境だったのかな。などと思いながら、当時のバブルの中、女性の社会進出がもてはやされた陰でこのような女性もいたのかもしれない。和恵の章「肉体地蔵」での和恵の転落ぶり、壊れぶりはカオス。怖すぎた。

  • 怪物的な美貌を持った妹ユリコを持った姉である私。そしてその高校時代の同級生・佐藤、そしてユリコ。ユリコは中年売春婦として殺され、佐藤もエリートOLの傍ら渋谷で売春婦となり、また殺される。この2人の人生が強烈でグロテスクそのものであるものの現実に東電OL殺人事件をモデルにしており、その通りだと思うとリアリティーがあります。恐ろしい世界が日本の近くにあるんですね。また私と佐藤の高校時代の才色兼備の同級生が狂信宗教教団のテロ容疑者として夫妻で被告人になっているというのもオウムのモデルとなっているだけに興味深いです。しかしながら、実は嫉妬と嫌悪と周囲への冷たい目線を持ちつづけている「私」が一番怖い人ではないか、ということがずっと伏線として流れています。それが私たちの罪の本質ではないか、と恐ろしい本です。一気に読んだものの、かなり陰鬱な気持ちになる本です。

  • 人間という一塊の生物がその束の間の時間と空間にとどまる間、自分勝手に各々が想像力を駆使して織りなす幻想の中でもがき苦しむ姿を俯瞰で見せられた気がする。誰もが主観の中で訳知り顔に物語を紡ぎながら必死に生存争いを繰り広げているだけ。世界の深淵に触れたと思った、そしてその傍から見失ってしまう。この作品にはそんな絶妙な世界のつかみどころのなさと生き物でしかない人間の哀れを感じさせどうしようもなくさせる。あらゆる幻想から解放された先には自由と勝利による征服感が待っているのかも、あるいはもっとグロテスクな世界が広がっているだけなのか。娼婦としての人格描写の精緻な分析のされ方は見事、最も弱者の極みから世の中を眺めることから世界の矛盾やシステムの綻びを見つけるというのが常套であり分かり易い結び付け方だと思ってきた。真面目であるということが、弱く惨めでありもしない幻想に漂うことで生きる素っ裸のみっともない人間が獰猛な欲望という大河で泳ぎ息切れしていく姿を最もわかりやすい象徴として「東電OL殺人事件」を背景に人物描写されていく和恵の主観世界から汲み取るものはどこかの水脈でつながっている人間の本質的な惨めさであり、どんなにもがいても所詮半神動物として前頭葉を持つ理性的合理的人間との間に流れる大いなる矛盾をわかりやすく表現されている気がする。
    奇形的な美しさで生まれたユリコは完全に自己を疎外し、モノ化することでぎりぎりの自我を保っている。どこまでも厭世的で、怪物的な自らの美の前で一切の努力は水泡に帰すことを誰よりも自分で認識しているようで、それをうらやむ姉も幼いころから比較されることで実際にはただの僻みであるが悪意を育てたと称し、他人が作った競争の場には敢えて参加しないという立場を敢えて選んでいる自分という立ち位置を維持し別の時空で他人の競技する姿を嘲笑するという悪趣味な遊びで世の中の人間のありようを傍観者として一切の感情を捨てたように語っている。少しでもゆすぶられると本当は壊れそうな自分の世界を立場を、優位性を感じさせる悪意を進化させ嫉妬の膿を放出させて生きる様は、実際には何度も作中で他人に見透かされてばかりいるという哀れな生い立ちだ。誰もが競争の中で擦り切れて傷つき傷つけあってボロボロになって喘ぎながら世界を手に入れる手段を模索する。男は微量の白い液体という結果を求めて四苦八苦し、この世界を作り、男の作ったその世界という幻想の中での競争は所詮女の生きる世界ではないという現実を思い知らされるまでをある二人の娼婦、美人コンテストでの負け組女の遠吠えから語る見事なストーリー構成。

  • 中学、高校から始まる階級社会。いじめ。徹底的な差別化。女は若くて、痩せているほうがいい、という、なんとなくみんな思っている通念。できるオンナは嫌われ、高学歴のオンナほど、身の処し方が難しいという現実。

    そんな中、純粋すぎて、落としどころを知らず、盲目的に突っ走って堕ちていく和恵。
    若い頃は絶世の美女と言われちやほやされたのに、中年太りで見る影もなくなったユリコ。
    常に一番でないと、と強迫観念にかられ、カルト宗教に身を投じて犯罪をおかすミツル。
    悪いのは全て人、と信じて疑わず、悪意でしか物事を見ることができない「わたし」。

    出てくる人みんなが自分のことしか考えておらず、他人を憎み、その憎しみから生み出されるねたみや嫉妬、悪意がこれでもかと描かれていて、読んでいてうすら寒くなってしまった。でもページを繰る手が止まらない。

    こわいこわいこわい。

  • 東電OL殺人事件がマスコミに語られる際に、「なぜ一流企業のエリートOLがそこまで堕ちたのか」というくくりで語られることがほとんどだが、売春=堕ちるという単純な決め付けが腑に落ちず、本書を手にとってみた。が、作者が描いて見せたのは、予想を上回る深さ、精密さで語られる、「おんな」だった。

    容貌、出自、頭脳において、自分より劣るものを見て安堵する、男に優しく抱かれたりキスされたいと願う、自己否定により壊れゆく・・・これらのことは多かれ少なかれ実は誰もが経験することではないだろうか、ユリコのような超越した存在で無い限り。少なくともユリコのようではない私は、そのどれもを自分の体験として認めることができ、読んでいて心臓がえぐられるようだった。ユリコの姉や和恵などは、まさに自分より劣る女たちとして優越感に浸れる存在でもあった。

    おんなの性が商品になることは、おんなの特権である。と同時に商品であるが故の屈辱ともなりうる。ただその屈辱の面だけを取り上げて「堕ちる」と決め付ける世の中の風潮にもの申している側面もあって爽快だ、と感じたのは、ラストでおんなが男を買うシーンがでてくることだ。

    ちなみに自分はこの小説のモデルになっている高校を出ているが、多少大げさな表現もあるとはいえ、作者の鋭い描写にはただただ驚くばかりだった。

  • 遺伝子に取りつかれている、と言う設定に

  • 東電OL殺人事件を元ネタに、娼婦になった女たちの学生時代からのドロドロした内面を描く。ドロドロしたイヤな人物ばかり出てくるが、人間そういうグロテスクな欲を騙し騙し生きているのかなという気もする。しかし後味良くないなー。

  • 登場人物がみんな病んでいるような·····。
    いちばん派手でいちばん怪しそうに見えるユリコがまともに見えてきました。
    ところで、主人公?の名前はなんなんだろう?ユリコの姉で、地味な人みたいなことしか書いてなかったような。

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著者プロフィール

1951年金沢市生まれ。1993年『顔に降りかかる雨』で「江戸川乱歩賞」、98年『OUT』で「日本推理作家協会賞」、99年『柔らかな頬』で「直木賞」、03年『グロテスク』で「泉鏡花文学賞」、04年『残虐記』で「柴田錬三郎賞」、05年『魂萌え!』で「婦人公論文芸賞」、08年『東京島』で「谷崎潤一郎賞」、09年『女神記』で「紫式部文学賞」、10年・11年『ナニカアル』で、「島清恋愛文学賞」「読売文学賞」をW受賞する。15年「紫綬褒章」を受章、21年「早稲田大学坪内逍遥大賞」を受賞。23年『燕は戻ってこない』で、「毎日芸術賞」「吉川英治文学賞」の2賞を受賞する。日本ペンクラブ会長を務める。

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