自由高さH

  • 文藝春秋 (2010年8月26日発売)
3.21
  • (3)
  • (3)
  • (10)
  • (1)
  • (2)
本棚登録 : 38
感想 : 13
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • 本 ・本 (112ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163296302

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • 第110回文學界新人賞受賞作

  • 面白いかと言われれば微妙で、つまらないかと言われればそうでも無い、としか答えられないような本でした。
    古い工場の跡を舞台に数人の人間が会話をし、考え…と言ったことが淡々と続きます。

    言葉遣いが独特でちょっと硬め。
    やや読み難かったです。

  • ちょっと前から頻繁にテレビで見かける業平橋あたりのお話。
    廃工場を借りて基地のようにして日曜大工に励む主人公、モトカノ、廃工場を貸してくれた3代目、その友人、など様々な人間模様が描かれていて(決してドラマチックな描かれ方ではないですが)、硬くて抑制の効いた文章なのにじんわりと温まるような感覚があった。

    スカイツリーが完成した今読んでみるっていうのもいいかも。
    ちなみに私は高いところが苦手なので絶対行かないけど。

  • この人も頭よさそう。そのうち、古井由吉みたいな小説を書くようになるんだろうか? 楽しみ。

  • 10/10/17 意味不明の小説。

  • 「きっと君にはわかんないと思うよ」と言って紹介された本。悔しいから読んでみた。わかんなかった。紹介してくれた人に免じて干し三つ。

  • 「自由高さH」(穂田川洋山)読了。昨晩ずっと新横浜プリンスホテルのベッドで読んでいた。この作品はひょっとするとこのような無機的なホテルの部屋なんかで読むのがベストかもしれないな。しかしこういう乾いた文章を連ねるスタイルが最近の流行なのか。いずれにせよこの本はかなり好きです。
    (追加)
    穂田川さんの文章って、歯触りとか噛みしめたときに染み出る甘味みたいなもの(わかりにくい喩えで恐縮ですが)なんかが癖になりそうです。

  • 下町の元ネジ工場を借り受けた男の話……なんだけど、話の筋はほとんどなく、それこそ掃いても掃いても降り積もるネジの削り粉のように、細密な描写がえんえんつづく。それが不愉快かといえば不愉快じゃない、というあたらしさ。

    こういう小説を読むと、わたしたちは普段いかに「ストーリー」とか「プロット」に囚われているか、考えさせられる。

  • 好き、この文章。
    文章とテーマの合致。
    ごつごつとした写実。積み重なる色、匂い、光、歴史、人。

    …でも、ごつごつすぎて集中力が途切れて、きちんと味わえずに読み終わった。
    ぬーん。

    業平橋。

  • 『ただ、ひどく落胆した、と岸田秀雄本人が言ったのはあくまでインドネシアから戻ってきたつい先日のことで、現地の料理が口にあったらしく幾分肥り、よく陽焼けをして帰ってきた男の言う"落胆"は、あくまで五か月ほど前の自分の心情を振り返っての言葉であって、それ程の重さをもった"落胆"ではないのではないか、とも岸田真由美は言い添えた』

    緻密な文章である。それは密度の高いという物理的な意味をもっぱら意味する、とことわった方がよいかも知れない。事実を一言も端折らずに全て書き出す結果、言葉に掛かる修飾が一つの文章となり、その複文がさらに別の複文と重なり合い、さっぱり見通しの利かない文章ができあがるのだが、それを良しとするような潔さが存在もしていて、その鋭い切り口がぎりぎりと迫ってくる。確かにそこには事実関係を明らかにする言葉が細大漏らさずに尽くされていて、それ故に、ゆっくりと一文を解きほぐしさえすれば、なるほど、そういう意味であったのか、とほぼ間違いのないように一つの意味を読む者に与える。

    間違いのない、とは、勘違いのない、ということで、言外の意味を汲み取るだとか行間を読むというようなことを読む者ができるだけしないような仕掛けなのだと見ることもできるだろう。その為には、多少あいまいさを伴ってしまうリスクを帯びている代名詞などは徹底的に排除される。繰り返される固有名詞が、例えば個人を特定していながら逆に感情移入を拒む膜のような働きをするように響く。

    小説の始まりにしても、やはり、突き詰めて言えば一組の男女の感情の波を描くことが主たるテーマであるのであれば如何にその舞台となる場所の役割が重要であるとは言えその場所にまつわる事実を描くことがそれ程に必要なのかと訝しくなるほどにその場所の由来をそもそもに遡って描写してあるのだが、それは場所に対するやや抒情的な言葉をもって表現することもあるいは可能なのではないかと思われるところを、敢えて、飽くまで、叙事的に描写しているようにも思える。

    この本には、その詰め込まれた言葉群、しかもどちらかと言えば硬質で馴染みの薄い単語を読み砕く行為を繰り返すうちに、乗り物酔いに似た気分に読者を陥らせる作用がある。この本を読み通すには、三半規管を文章に馴れさせる過程が、どうしても必要となる。しかし徐々にその読み下しにも馴れてくると、硬質と思われた言葉を脳の中に収めた途端、不思議なほどに、そこに存在していただろう「感情」の手触りが、直接その感情を示唆する言葉を介さずに立ち上がることに気付く。陳腐な言い回しになってしまうけれど、それは「悲しい」という気持ちを如何に「悲しい」という言葉を使わずに、かつ、何一つまやかしの効くようなあいまいな言葉を通すことなく伝えるか、という芸当がこの本の中で巧みに展開されているということなのだと思う。

    果たして自分はこの本を気に入ったのか? そのことを知るには、本を読んで起きた自分の身体的変化を、身体の置かれている環境についての描写も併せて、細大漏らさず書き連ねてみる必要があるような気がしてならない。

    『須永英朗には単語の羅列が見えるばかりで一つひとつの単語それぞれには刺戟を見つけこそすれ結びつきを捉えることができなかった。単語同士の結びつきしかり、それらと須永英朗との結びつきしかり。往年のばね職人の語りのなかには"螺旋"という言葉とその身体的解釈が出てくるものとの決め込みが邪魔をした』

全13件中 1 - 10件を表示
  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×