洪思翊中将の処刑

  • 文藝春秋 (1985年1月1日発売)
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本 ・本 (552ページ) / ISBN・EAN: 9784163402109

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  • 子息に対しては「自分の姓名を名乗る時は必ず『私は朝鮮人の洪です』と、朝鮮人であることをはっきり言う」よう求めた。創氏改名には応じなかった。
     戦争が終わった時、周囲が「これで朝鮮は独立する。閣下はお国に戻って活躍されることでしょう」と言うと、洪中将は「自分はまだ日本軍の制服を着ている。私は制服を着ているかぎり制服に忠誠でありたい。したがって、そのようなことは一切考えていない」と答えた。

  • 戦中フィリピンでのいくつかの捕虜収容所で起こったとされた捕虜虐待(戦争法規に反した、捕虜の残忍な取り扱い)などの責任で米軍軍事法廷で有罪となり処刑された韓国系日本軍人洪思翊中将の裁判の理不尽な部分を主要な裁判資料を通して探り、洪思翊中将の生涯についても彼を知る人などからの話を総合して描いている。洪思翊中将は併合前から大韓帝国皇帝の命令で日本の士官学校に派遣され、派遣中に韓国併合となりそのまま日本軍人になった。光復軍司令官と旧知の仲で、光復軍に来るよう誘われたりもしたが断り、負け戦が分かっていた日本軍に敢えて残った。洪思翊裁判の論点は、1、指揮権という面で彼が責任を負うべき位置に居たか否か、2、たとえ責任を負う位置にいたことが証明され、同時に彼がその責任を十分に果たさなかったことが論証できても、それが犯罪といえるかどうか、という2点で、1については洪思翊が赴任したのは南方軍総司令部兵站監部総監で、兵站監部の下に各方面軍の兵站監部があり、その下にまた数個の兵站司令部、陸軍・兵站病院、兵器廠、捕虜収容所などがあり、全体の総括責任者が洪思翊中将だった。従って彼は捕虜問題の直接責任者ではなかった。また証言のなかでも責任が完全に洪思翊中将に遡及していくことを証言した者はいず、むしろ権限に関しては日本軍のいわゆる無責任体制のもとで曖昧。2については、捕虜問題の中心は食料問題で(食べ物の恨みは怖い)、洪思翊中将着任以後悪化はしたがそれは「現地自活すべし」と補給の責任を放棄した本国の無理な通達のせいであり、そのような中でも日本軍人の待遇と捕虜の待遇に特段問題視されるような差別はなかった。また各捕虜収容所での突発的な事件などについてはあるにはあったが、洪思翊中将が指示して計画的に虐待したというような事実は全く無い。というような点から洪思翊中将有罪は変だということが分かる。「日本の方針はジュネーブ条約の遵守である(批准はしていないが一応ジュネーブ精神で捕虜を取り扱うようにという漠然とした方針はあった)。ジュネーブ条約では捕虜は一括して捕虜司令官の指揮下に置かれる。従って全ての捕虜の指揮は洪思翊中将が行っている」という当時の日本軍については虚構としか言えない論法を検察側が単純に押し通して洪思翊中将を戦犯にしたということが明らかになる。洪思翊中将自身は一切の証言を拒否して処刑をされたが、関係者の話によると高潔な人柄だったということが分かる。著者が証言や証拠のみにへばりつくのではなく、当時の状況や歴史の文脈などから加える鋭い洞察と人間理解が卓越している。

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著者プロフィール

1921年、東京都に生まれる。1942年、青山学院高等商業学部を卒業。野砲少尉としてマニラで戦い、捕虜となる。戦後、山本書店を創設し、聖書学関係の出版に携わる。1970年、イザヤ・ベンダサン名で出版した『日本人とユダヤ人』が300万部のベストセラーに。
著書には『「空気」の研究』(文藝春秋)、『帝王学』(日本経済新聞社)、『論語の読み方』(祥伝社)、『なぜ日本は変われないのか』『日本人には何が欠けているのか』『日本はなぜ外交で負けるのか』『戦争責任と靖国問題』(以上、さくら舎)などがある。

「2020年 『日本型組織 存続の条件』 で使われていた紹介文から引用しています。」

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