- 本 ・本 (472ページ)
- / ISBN・EAN: 9784163469409
感想・レビュー・書評
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本書は、八木秀次の秘書兼愛人の菊代さんとの生活の一場面の描写から始まる。いつも菊代さんは、早朝に隣りの床の気配をうかがい、八木の寝息を確認していた。「文化勲章の科学者八木秀次博士、秘書のマンションで急死」「老科学者が15年も別居を続けた理由」などと雑誌に書かれることを恐れたから。やはり立派な業績を上げる人は「その方面」もお盛んなことの一例であろう。
このように本書は、八木秀次の生臭い面の描写で始まるので、肩の力を抜いて気楽に読める。
多くの人が「八木秀次」を知らなくても、「八木アンテナ」を耳にしたことがあるだろう。ご存知のように、八木アンテナは、1926年に電気通信学者の八木秀次が宇田新太郎と共に開発し、地上波テレビの受信用アンテナとして多く使われていると説明されている。日本ではなく、世界が八木アンテナの価値を認め、第二次世界大戦で連合軍がレーダー用に八木アンテナを使用して日本軍に甚大な被害を与えた、というから笑えない。
たまたま私は本書をブックオフで見つけた。八木アンテナを中心とした電子工学関係のことだけでなく、日本の物理学史上の「おもしろいエピソード」も多く紹介されているので大へん興味深い。八木秀次が阪大物理学科の創設と湯川秀樹の中間子論完成にも大きく寄与したことがわかる。
著者は「あとがき」で、八木を中心にして書いた理由をに次のように説明している(概要):
<私は連載(「日米半導体産業30年」という記事)が終ってから、量子力学の日本における開拓者であり、素粒子物理学の創始者である湯川秀樹と朝永振一郎の生涯にわたる交錯を書きたいと思った。まず湯川サイドの取材が相当に進んだところで、思わぬ方向転換をすることになった。八木秀次という科学者が急に浮上してきた。
八木と湯川の関係は、八木が阪大物理学科を創設した時に、湯川が八木を頼って京大から阪大講師に転じたことから始まる。八木は湯川を庇護し、湯川は八木の鞭撻のもとに中間子論を完成する。だが、そんな八木と湯川の関係は伝えられることがなく、湯川のノーベル賞受賞の陰に八木の尽力があったことは、今ではまったく忘れられている。>
また本文でも、次のように書いている(概要):
<八木が湯川を叱責したことが、核力の暗闇をさ迷う湯川を解決に向けて踏み出させた。朝永振一郎まで引き合いに出して、なぜ論文が出ないのか、もっとしっかり勉強しろ、という八木の痛烈な面責が、湯川の中に宿意を生んだが、その一方で、湯川をして大胆な仮説の構築へと踏み切らせる後押しになった。>
そういうわけで本書には、湯川秀樹、朝永振一郎の他にも、長岡半太郎、本田光太郎、寺沢寛一、菊池正士、坂田晶一、武谷三男、伏見康治等々の名立たる物理学者が多く登場し、彼らのいろいろな興味深いエピソードが書いてある。
このレビューでは、寺沢寛一と菊池正士のおもしろいエピソードを紹介したい。つまり、寺沢寛一が阪大物理学科に自分の派閥を作るために苦慮したこと、それから菊池正士が阪大の「戦時科学報国会」で大暴れしたことである。
先ず著者は、寺沢寛一について「第6章 異才集まる”街中の帝大”」の「3 理学部人事と箕作・菊池閥」で次のように書いている:
<長岡半太郎が欧米出張から帰国した翌月の昭和6年12月初旬、阪大理学部創立準備委員会の委員が文部省より任命された。委員長が長岡で、委員は高木貞治(東大教授・数学)、寺沢寛一(東大教授・物理学)、八木秀次(東北大教授・電子工学)、柴田雄次(東大教授・化学)、真島利行(東北大教授・化学)、大河内正敏(理研所長・造兵工学)、楠本長三郎(阪大医学部長)ほか、阪大事務官と、文部次官以下の同省担当官4人で、合計13名だった。>
<阪大理学部の各学科の教官の選考は、理学部創立準備委員会によって徐々に進められていた。物理学科は委員長の長岡と、寺沢寛一、八木の3人が選考した。といっても、実際に人名を挙げ、また名を挙げられた者と阪大行きの交渉をするのも、ほとんど長岡と寺沢だった。・・・長岡と寺沢による選考の結果は、東大閥であり、長岡が属する箕作(みつくり)・菊池閥であり、また寺沢閥でもあった。>
<寺沢寛一、通称”寺寛”は、かつては寺田寅彦らとともに長岡門下の四天王といわれた。・・・寺田は若いころには東北大物理学科の講師をしていたから、八木とは旧知だった。・・・寺沢は流体力学が専門で、それを応用する航空物理の日本における開拓者だった。・・・その寺沢も、長老長岡の目の前ではおとなしかった。長岡が、阪大物理学科の教授内定者と予定者5人の枠へ、娘婿の岡谷辰治と、又従兄の菊池正士、そして弟子の浅田常三郎の3人を送りこんだのに対して、自分は弟子1人を入れることで我慢した。それは東大航空研究所の友近晋だった。八木は、友近晋には異論はなかった。友近は流体力学研究で業績を挙げている俊英だった。・・・菊池正士は浅田常三郎よりもさらに若く、まだ29歳だった。・・・八木が自分でもぜひ阪大へ呼びたいと考えていたのが、菊池正士だった。菊池はすでに、世界に知られる業績を持っていただけでなく、的を決めたら一直線という彼の研究姿勢が、きわめて頼もしく思われたからだった。・・・阪大物理学科の創設人事では、結局八木は、主要なメンバーを東北大から連れてくることはなかった。教授予定者以外の助教授や講師も、すべて長岡半太郎と寺沢寛一の弟子、あるいは彼らの弟子の個人的な縁故者で固められた。>
次に著者は、菊池正士について「第13章 技術院総裁」の「1 踏み絵を踏んだ科学者たち」で次のように書いている:
<阪大では前年の昭和18年の1月に、理学部と工学部の教官によって「戦時科学報国会」なる組織が結成されていた。それは物理学科の菊池正士や化学科の赤堀四郎が音頭を取り、物理学科の浅田常三郎や化学科の小竹無二雄、仁田勇、工学部電気工学科の望月重雄、精密工学科の田中晋輔などの教授たちが共鳴して動いた結果だった。・・・この運動の中心となったのが、菊池正士だった。菊池はこれと思いこむと、一直線に進む男だった。彼は他人の業績も素直に認めるが自分のミスも率直に認め、研究室のコロキウムでも幼稚な質問を平気で発するという、竹を割ったような気性だった。それだけに「聖戦」の時流に対しても、正しいと思いこむと歯止めがなかった。例えば太平洋戦争開戦4日後の昭和16年12月12日、その年の理研の講演会の最終日に、・・・菊池正士が、スピーチの順番を無視して突然立ち上がった。・・・実に激烈な演説だった。座はいっぺんに白けわたった。そんな菊池だっただけに、戦局が不利に傾いていくというのに科学者たちがろくな役に立っていないように見える状況には、我慢ができなくなったのだった。彼の提唱に、赤堀四郎が同調し、理工両学部への根まわしが行なわれた。理学部では「非常時に向って我ら何をなすべきか」をテーマとする討論会が開かれた。そこでは「赤誠」あふれる提言が飛びかい、愛国的熱気が渦巻いて、昭和18年1月の戦時科学報国会結成へとなだれこんでいったのである。理学部での討論会で、醒めた意見を吐いた者は、戦時科学報国会に入れてもらえなかった。例えば物理学科教授の伏見康治は言った。
「日露戦争は日本の死活をかけた大戦争だったが、最激戦地の旅順203高地でも戦死した兵士の数は5万人くらいにすぎなかった。ところが今の日本では、毎年毎年5万人以上もの青年が結核で死んでいる。日本人にとっての敵は、よその国の人間よりも、結核菌ではないか」
・・・伏見は秀才で通っていたのに、戦時科学報国会から外された。>
菊池正士が、太平洋戦争の時、「聖戦」の時流に乗って暴走して右翼過激派学生のように暴れたとは驚いた。信じられない話である。私の団塊世代に属する叔父(昨年75歳で亡くなった)の話によると、60年代後期の全共闘運動が盛んな頃、東京理科大学の学長だった菊池正士は、コソコソ逃げるようにして、なかなか学生の前に姿を現さなかったからである。学生を相手に激論を交わさなかったとは、残念である。
本書には、電子工学や物理学の学者たちの興味深いエピソードがたくさん書いてある。本書の出会ってほんとうに良かったと思う。詳細をみるコメント0件をすべて表示 -
電子工学・電子産業という言葉を日本で初めて使ったTVアンテナ発明者。湯川秀樹、江崎玲於奈、西沢潤一らを表舞台に登場させた名伯楽。説得力、交渉力に富んだ名組織者。八木秀次の波瀾の生涯を軸に草創期日本エレクトロニクスの歩みを辿る書き下ろし力作。(出版社HPより)
◆◇工学分館の所蔵はこちら→
https://opac.library.tohoku.ac.jp/opac/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=TT20237386
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