山本七平ライブラリー14 日本教徒

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  • / ISBN・EAN: 9784163647401

感想・レビュー・書評

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  • [評価]
    ★★★★★ 星5つ

    [感想]
    この本を読んでいると日本人だったらよくありそうだなと思うことが多い内容だった。
    特に外部からの思想を容易に受けて入れる用に思えて、最初に柱と思想が存在し、その柱にあった内容だけを受け入れるという指摘はハロウィンやクリスマスが元のキリスト教での意味とは全く異なる内容になっていることからも理解できた。
    しかし、この人の本は多くのことを気付かされるが、内容が濃いから一度読んだだけでは余り吸収できているようには思えない。また、読まなくてはいけなさそうだ。

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    当時の日本では、キリスト教より儒教の方が、性格にいえば朱子学の方が、少なくとも一般人にとっては、実は、新思想だったのである。羅山は、この新思想をもって、自信たっぷりとハビヤンに対している。23
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    全般の論述の進め方はまことに現代的であり、"科学的"であって、まるで進歩的文化人の歴史教科書を読むようである。

    だが見方を変えれば、これは、日本人が、十六〇〇年代より一歩も"進歩"していない証拠文書でもあろう。39
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    従って日本人には論争は不可能である。だがそれでいてこの状態を日本人は"科学的"と考える。その意味ではハビヤンは、まことに"科学的"で、現代の日本人、特に進歩的文化人とそっくりだが、実をいえば、この状態ぐらい非科学的な状態はないのである。40
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    「恩」とは「人間相互債務論」であっても「人間相互債権論」ではないことである。53

    これも多分、中国思想に接触した結果生じたグノーシス現象によって、中国思想に仮託して「知識化」された日本の伝統思想であると思われる。54
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    この状態を現代の日本人は、「無神論」もしくは「科学的」と呼び、その状態にある自分を「無心論者」または「無宗教」という。そして日本人が無神論という場合、それは常にこの状態であり、これ以外の状態にある無神論を、彼らは、想像すら出来ない。179
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    彼は、なぜキリシタンがかくも早く流布したかについての、状況分析と一種の自己批判を行っている。

    仏教への半知半解状態が、キリシタンの伝道の絶好の温床となったと彼は見る。この見方は、正しいといわねばならない。特に浄土宗と日蓮宗には、対象の捉え方において、キリスト教と非常によく似た面があることは、否定できないからである。184
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    日本人は今ではすっかり忘れているが、明治の西欧化、第二次大戦後のアメリカ化の前に、徹底した中国化の一時期があったのである。240

    明治の指導者の中国無視、あるいは福沢諭吉の「脱亜論」の背景などを、単純にアジア蔑視などと考えてはならない。

    福沢諭吉が、それに対して一種の生理的嫌悪感すらもっていた対象は、実は、この人々であって、現実の中国とはいえない一面がある。241
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    口ではアジア、アジアと言いながら、現地では、いたずらに彼らを非能率、怠惰、無責任、身勝手等々と非難する。日本人が何の抵抗もなく理解できる社会組織は、おそらくアジアよりむしろ西欧で、中でも、スコットランド人、ユダヤ人、エストニア人の社会、アメリカ人のうちのこれらの系統の社会およびそれに似た形態の社会とは、何の障害もなく接触していけるように思われる。ところが、ひとたびアジアとなると、もう全く理解していない。264
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    明治とは、今様の言葉でいえば、「一億総武士化」の時代であった。

    士農工商・四民平等を口にしたが、これは市民としてこの四つを平等化する四民平等でなく、農工商にも「士」という意識をもたして、この新武士意識を全国民統合の基礎にしたわけである。
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    昔も神々は八百万いたのだから、人口の増加とともに「現人神」が一億になってよいわけである。

    こういう形の広告が最も広告効果があるというのが、私のいう擬似武士道の世界であり、同時にそれは一億総天皇化の前提となりうる世界である。291
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    擬似武家化の勧進帳教育は、確かに明治以来の伝統として、今なお日本で行われている。そこで、大学を出て会社に就職した者は、これと別個の教育を、その第一歩からやりなおさねばならない。298
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    仁兵衛も結局は、自分の子に商人の適正なしと判断したわけである。彼にとって商人とは、絶対に、甚之介のような知恵を働かす職業ではなかった。この知恵は彼の目にはおそらく擬似武士道的な、また勧進帳的な悪知恵としかうつらなかった。そしてそういう行き方をすれば、商人には破滅しかないと彼は信じて疑わなかった。306
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    旅行記などで、西欧における日曜日の完全休日のための旅行者の不便さなどが取り上げられているが、これらの実態は、おそらく徳川時代の日本人が、理解しやすかったのではないかと思う。322

    かまどを使わないのはかまどの神を休ませるため、井戸を使わないのは井戸の神を休息させるためであった。

    これらの考え方は、いわば西欧とは方向が逆で、「物神を休ませるため人が休む」だが、しかし労働と神々とが、直接に、また製品を通じて間接に結びついているのは事実であろう。323

    「今は物質万能の時代」だというが、徳川時代の一面がすでに「すべての物(諸道具・構築物を含めて)には神々が存在している」世界、すなわち物質万能の世界である。324
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    彼らは、現代の日本のある新聞のように、投機的な商品取引で大損をした主婦たちを犠牲者と見なすようなことはしなかった。これは典型的な擬似武士的民衆蔑視の態度である。投機を行う義務などはだれにもないし、他人の判断で投機を行う者がいたら、民衆であろうとなかろうと、それは「気質もの」の作者には、同情の余地ない愚者にすぎない。従ってもしも封建的と呼ばれる考え方があるとすれば、前記の新聞のような考え方・見方である。339
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    ただ日本に特徴があり、日本独特の弱みがあるとすれば、「商人」でなければ生存が維持できないのに、自己を商人と規定することを拒否する点にあるであろう。「外部から見れば日本で国際的水準にあるのは商人だけ」という指摘は、日本人にとって最も不愉快な指摘であろう。213

    日本は、軍事ではなく実は「商事」に関する限り、明治以来、不敗であったといってよい。そしてこの「商事」が敗北した如くに見えた場合も、実は、日本国内の他の要素、たとえば軍事とか農民への理由なき保護とかが商事を妨害した場合に限られるのである。340
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    たとえば今では「初めに言葉あり」というのを「ハジマリニ カシコイモノゴザル」と言う。そしてゴッドは「極楽」と訳している。徳川時代の漁師にとって、ドイツ人宣教師に説明してもらったゴッドは、日本の神様でなく、極楽であった。つまり当時の日本人の最高を示す限界概念みたいなものは極楽であったらしいと山本さんは指摘された。343
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    「目的は手段を正当化する」のではなくて、「手段のみが目的を正当化する」という日本の商業道徳である。

    「もうけること」それ自体を神聖なものにすることはできない。正にそれ故に、誠実に、手堅く、決して人をごまかさないという商いによってのみ、もうけることが許させる、つまり正当化されるということである。

    うまくごまかして儲けた子供は「商才なし」として商家の相続からはずすという話も紹介されている。これは一般の通念とは逆である。347

    文明とは、目的に手段を正当化させず、手段の正当なもののみを正当とすることではないだろうか。スターリンや毛沢東の下のソ連やシナでも立派なことを言っている憲法や法律があった。しかし刑事訴訟法という手続法(手段)だけは機能しなかったと言う。だからどんな立派な法律があっても手段が厳密でなければ無法状態に等しくなる。348
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  • 誰かに対する返信のような感じの中身だった気が。言葉尻ばっかり捉えてる感じで、あまりおもしろくなかった。

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