アフロ・ディズニー2 MJ没後の世界

  • 文藝春秋
3.94
  • (10)
  • (15)
  • (10)
  • (1)
  • (0)
本棚登録 : 251
感想 : 12
本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています
  • Amazon.co.jp ・本 (363ページ)
  • / ISBN・EAN: 9784163720609

感想・レビュー・書評

並び替え
表示形式
表示件数
絞り込み
  • アフロディズニー1での暴論を、ゲスト講師陣を招いて検証している。「オタク=黒人」。この仮説を検証する(というか毎回時間が足りなくてそこまで至らないのだが)講師陣たちとの議論を読みながら、これこそパースのいうアブダクションだな、と実感。

  • 黒人=オタクといった暴論(結局、オタクは黒人ほどは虐げられていない)、表現の幼児退行のような仮説をゲストを招いて紐解いていくことを試みるものの、時間が足りずそこまでたどりつかない。しかし、それでも十分に、むしろ前作よりも面白い。

    特に興味深かったのは村上隆がゲストの回。マークジェイコブス、ファレル、カニエとのコラボレーションの中で彼らがどのように働き、何を求めているのか等、当事者しか知り得ない話が語られ、その中で村上自身は自らの役割を便利屋と定義するというあたりは示唆に富んでいる。


    「ぼく一番ルイ・ヴィトンで学んだのはカルチェもそうですけど、ヒストリー学んで一番の肝、つまり最初の起源は何かというと、ラグジュアリーとかじゃなくて、便利屋さんなんですね。要するにお金持ち出入りの便利屋さんがああいうブランドを作ったというところにあるならば、俺も便利屋でやるしかないと(笑)」


    また、斎藤環回も良かった。精神分析の観点から視覚表現と聴覚表現の違いにアプローチ。統合失調症では幻視はまず起こらず、徹夜明けとか酩酊状態とか何かを幻視したとしても大して怖くないが、幻聴はリアル。「全ての芸術は音楽の状態に憧れる」とも言われるように、あらゆる表現形式の中で最も純粋、最も意味に還元できず、表現しようとしている何かそのものになってしまっているという意味で、イデア論でいえばイデアに近いとされる。その意味において音楽は表現をレイヤーに分離しにくい形で統合が起きてしまっており、これが音楽が独自に孕んでしまう統合指向だが、それゆえに常に成熟を強いられる。そしてそれが故にある種退行を常に強いられてしまった表現者によるアウトサイダーアートでは絵画はありえても、それが音楽となると通常我々には受け入れがたく、ダニエルジョンストンのようにキャラ込みで受容されるしかないと。このあたり論考も興味深かった。

  • オタク=黒人説!

  • ★ペンネーム:WMさんからのおすすめコメント★ジャズミュージシャンの2人が慶應義塾大学文学部でゲストを招いて行った対談形式の講義を収録。特に斎藤環の視覚刺激と聴覚刺激のリアリズムについての解説は、おもしろい観点です!!OPACへ ⇒ https://opac.musashino-u.ac.jp/detail?bbid=9000954188

  • すごくわかりづらい。残念

  • 『1』で披露した「オタク=黒人」という仮説について、実際に専門家たちとの意見交換しながら検討していくという目論見であったが、(著者が述べているように)「寸止め」のところで講義がタイムアップするという焦らしプレイが続く珍しい本。ただ、寸止めという言葉が出てくるだけあって、問題の核心にじりじりと近づいていくという意味で示唆的な内容がポンポンと飛び出してくるので楽しい。
    ファッション、アニメ・ゲーム、アート、ポップ・カルチャー、精神分析、オタク化・幼児化する社会などに興味のある人、「自分の精神状態がすぐに楽になる、みたいなドラッギーな教養や知」ではない論考を気楽に読みたい人におすすめ。

  • ブラックカルチャーは本人がエリートになってくると服装がぴたっとしてくるって話と、
    吉田戦車の伝染るんですは作者はいたって健常やのに精神疾患を持つ人の絵そのもので当時精神科医に人気やった話と、
    ラカン的には生物の進化は生存の為の適応ではなくなりたいものになった結果であり、例えばナナフシは他の虫に比べて食べられにくいという調査結果はないので、ナナフシは木の枝になりたかったのでは?って話と、
    統合失調症とかでは幻聴はあるけど幻視はない。幻聴はリアルやけど幻視はリアルじゃないっていう視聴覚の違いがおもしろかった。

  • 一番引っかかったテーマは1に引き続き幼児化だった。これは主にサブカルチャーにおいての話なのだろうが、社会全体に置き換えても成り立つような気がする、なんとなくだけど。確かに自分を省みても「子供のように無邪気でいたい」的な願望はある(念のため補足すると、松尾潔パートにもある通り、結論としては、総体として大人か子供かと断じる事は困難で、この部分は大人、この部分は子供と捉えるのが適切だと思う)。またそういう人(主に有名人)を礼賛するような風潮もある気がする。
    で、「子供じゃだめなんですか?」という思いが頭をよぎる。そしてそもそも大人って、子供ってなんなの?とも思う。この本でもそこまでは深くつっこんでいない(菊地氏はそれについての考えを持っていることが示唆されているが)し、僕自身よくわからない。なんというか遠投した球がどこに飛んで行ったかわからないという状態である。「示唆に富んでいる」というフレーズがとにかく相応しい本であった。

  •  2008年度後期に慶応大学で行われた講義を収録。鈴木謙介、黒瀬陽平、村上隆、斎藤環、伊藤俊治らをゲスト講師に迎えている。

     ニコニコ動画、アニメ、美術、映画、ダンス、ファッション、ジャズ、ブラックミュージックなど話題は多岐にわたるが、この本を読んでいると、ファッションの業界でガンダム好きをカミングアウトする人が増えてきたという話などが語られており、意外と多くの人が、例えば、アニメやファッションとか、ブラックミュージックといったように、一見まったく交わらないと思われていたトライブを行き来していることがよくわかるし、しかしやはり今まではそうしたトライブ間ではそうした両立は隠されていて、最近ようやく表に出せるようになったことがわかる。

     本書におけるこうした多様なジャンルを横断していく思考の軌跡は刺激的で、「型とずらし」と「型と壊すこと」の対比など、形式的操作の側面に抽象化して捉えることによって、それぞれのジャンルや文化の違い、あるいは一見まったく異なるジャンルと思われているものが共通した時代性を刻印されていることを次々と指摘していく。村上隆がアニメの中では「マクロスF」だけを評価するのはなぜか、それにはそれなりの必然的な理由がやはりあるのだ。

     また、繰り返し出てくる「視覚=幻想的/聴覚=現実的」という対比も面白く、射程が広い視点だと思うし、この本には文化を考える上でのヒントが惜しげもなく詰め込まれている。

     それから、ファッションの話題が意外に面白くて、ファッションの話と村上隆のアートの話は、文化間の「翻訳」が話題になっていて、いかに日本のオタクカルチャーをアートやファッションが「翻訳」して受容できるかが注目なのだという。ファッションもアートもぼくはまったく不案内なのだが、文化を見ていくには面白い分野なのだと思ったし、今後注目したいと思った。

     このように、文化を考える上での視野や考え方の幅を広げてくれるような本は、久々に読んだ気がする。ジャンルを越境する姿勢と、そのために必要な思考の方法の具体的なレッスンとを示し、柔軟な思考をうながす、きわめてスリリングな対話集である。

  • 『アフロディズニー2』は、菊地成孔と大谷能生が慶應大学で行った「現代芸術」枠講義録の後編。鈴木謙介、村上隆、斉藤環、松尾潔などが毎回ゲスト講師として呼ばれている。以下印象的な箇所のまとめ。

    現在、オタク・カルチャーが、文化のメインストリームに来ている。消費でも、批評でも、オタクカルチャーがメジャーになっている。日本だけでなく世界も、日本のオタク・カルチャーに注目している。アニメ、マンガ、ゲームと並んで、東京の女の子のかわいいファッションも、世界から受容されている。子どもっぽさ、幼児性を日本だけでなく、世界のカルチャーが歓迎していると言える。

    90年代後半エヴァンゲリオンブームの後、オタクは市民権を獲得したが、それ以前はオタクであってもオタクとカミングアウトできないオタク差別の歴史があった。今でもオタクは、被差別感を引きずっている。「差別の対象からメジャーへ」かつ「被差別意識の記憶の継続」というオタク・カルチャーの歴史は、ブラック・カルチャーの歴史と酷似している。この講義では、「オタク=黒人」という仮説の検証を行う。

    (村上隆の回から)
    ハイ・カルチャーのパリ・モード・ファッションは、長らく黒人文化を差別し、排除してきた。2008年当時、カニエ・ウエストが、パリのモード界に入ろうとしていた。カニエ・ウエストは、自身のアルバムジャケットデザインに、ルイ・ヴィトンとコラボした村上隆を起用している。村上隆というオタク・カルチャーの世界的シンボルと共闘して、ブラック・ミュージックのアーティストが、ハイ・カルチャーの壁を破ろうとしている姿は、21世紀の文化の流れとして象徴的である。2010年現在、以前はタブーだったブラック・ミュージックが、パリコレの会場に流れるのは一般的になっているし、モード・ファッションがアニメを引用するのも一般的になっている。

    (高村是州の回から)
    ファッションの主流は、少量生産のオートクチュールから、大量生産のブレタポルテに移り、現在では、飾らない普段着であるリアル・クローズがメインになっている。以前は、欧米のファッションが世界の最先端だったが、今では、東京の10代の女の子のファッションが、世界で一番ファッショナブルという評価を受けてもいる(当然反論もあるけど)。

    (鈴木謙介の回から)
    幼児から大人の過渡期として、青年、若者という概念が日本で登場したのは、戦後のことである。会社勤めの父親は、長時間残業で不在の為、日本の若者が反抗する権威は、母親だった。母親の権威に甘えることをやめるために、全共闘世代の若者は、自分の意見をはっきり主張する自立の態度を求めた。それと同時に全共闘世代は、学生運動の中で一体感、高揚感を求めた。

    自立を追求する学生運動は、70年代に衰退する。「オールナイトニッポン」などラジオ深夜放送が流行すると、若者の間で、仲間うちでのウケ狙いの投稿、ノリ重視のコミュニケーションが流行する。規範的な大人になる必要がない、ウケ狙いのコミュニケーションは、2ちゃんねる、ニコニコ動画の投稿にも続いている。

    メディアに対する態度として、Aボーイ、Bボーイという類型化ができる。Aボーイ、オタク文化は、メディアに自分をシンクロさせる。メディアの輪郭線に自分をピチピチにあわせる。一方、Bボーイ、ストリート文化およびヤンキー文化は、メディアの輪郭線から自分をずらせていく。Aボーイは、メディアを家の中で真正面から受容するのに対して、Bボーイは、屋外でメディアを模倣するパフォーマンスを行う。

    Aボーイ、Bボーイという分類は、現代では難しくなっている。両者が混合しているためである。Aボーイのオタクも、秋葉原殺傷事件前は、秋葉原の路上で踊っていた。コミケの同人誌制作、ニコニコ動画でのMAD動画制作は、メディアが提供する作品の輪郭線をずらしていく行為だと言える。一方、Bボーイが行うストリート・ダンスは、だんだんパターン化していき、自由な発明がでなくなった。

    輪郭線からずらすことが、ブラック・ミュージックの核心としてある。コード進行からジャンプして、また戻る。モードからアウトして、また戻る。一旦ずらした後、戻ってくることが重要。戻ってくる力は、「悪い子の力」だと言える。缶蹴りの途中に、家にジュースを飲みに行って、また缶蹴りに戻ってくる能力。マラソン大会の途中に、草むらでタバコを吸って、それでも最後にはゴールする能力。この「悪い子の力」、ずらして戻る力が、ブラック・ミュージックの推進力だった。

    クラシック・バレエは、規律訓練であり、型の反復、コントロールが求められるが、訓練の果てに体が壊れる。クラシック・バレエが「入力」だとしたら、ブラック・カルチャーのダンスは「脱力」だと言える。体に不自然な動きをしていないから、妊婦でも子どもでも老人でもダンスを踊れる。

    ロック・ミュージックは、「過入力」だと言える。ロックは崩すし、輪郭線を破壊する。過剰な入力により、アンコントロール状態になる。対して、ヒップホップの動きは、輪郭線からずれるが、また必ず戻ってくる「崩れているようで崩れてない、ぎりぎりのところをボディ・コントロールする」パフォーマンスである。ルールから外れて、また戻る「悪い子の力」が、現代文化では失調していると思える。(個人的には情報技術のリアルタイム化、高速化が進んだ結果、線から外れる時間的余裕がなくなっていると思われます)

    (その他もろもろトリビア)
    ・村上隆はいばっていて、自己主張が強いイメージだったが、カニエ・ウエストやマーク・ジェイコブスと仕事する時は、超低姿勢でおもてなしの態度だったそう。

    ・村上隆は『マクロスF』の武道館ライブに観に行っていた!。軍備を去勢された日本文化の妄想表現の極致!?『マクロスF』的なものを、パリのモード界に入れていくのを手助けしたいとのこと。

    ・「Living well is the best revenge」(優雅な生活が最高の復讐である。)という言葉が、松雄潔の回に出てきた。悪くない格言。

    ・松尾潔はブラック・ミュージック好きだが、吉田健一みたいな日本近代文学も好きだし、映画ではヴィスコンティも好きだった。ブラック・ミュージックを聴くんだったら、スパイク・リーの挑発にキャッチアップしなきゃいけないんじゃないか、と思って、スパイク・リーと話した時、スパイク・リーがベルイマン監督のすばらしさを語り出したという。そこで松尾は、回り道感に驚愕。

    (この心の叫びには共感。自分もハイ・カルチャーとオタク・カルチャーに片足ずつ突っ込んでいて、心の分裂感があるけれど、押井監督がワイダを評価する言葉を聞いたり、富野監督がゴダールのファンだと知ったり、河森監督が環境問題について語るのを聞くと、まわりまわってつながるのかという想いに襲われる。まあ今のカルチャーは、ハイもサブもオタクもスーパーフラットの並列状態だから、全てのジャンル分けされた異物が、リンクするわけだが。)

全12件中 1 - 10件を表示

著者プロフィール

ジャズ・ミュージシャン/文筆業。

「2016年 『ロバート・グラスパーをきっかけに考える、“今ジャズ”の構造分析と批評(への批評)とディスクガイド(仮』 で使われていた紹介文から引用しています。」

菊地成孔の作品

  • 話題の本に出会えて、蔵書管理を手軽にできる!ブクログのアプリ AppStoreからダウンロード GooglePlayで手に入れよう
ツイートする
×